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ライフステージに合わせて、住む場所も、仕事にかける時間の割合も、自分で選ぶ。今、地方でライターとして生きる私の現在地。

あなたが人生で一番心を動かされた文章は何ですか?

これまで生きてきた中で、私たちはたくさんの文章に触れてきたはずです。

子どもの頃に読んでもらった絵本、
ページをめくる手が止まらないほどワクワクしながら読んだ児童文学、
眠気と戦いながら読んだ教科書、
思春期に進路を指し示してくれた一冊、
大人になってから一層味わい深くなった古典的名著……。

また、世の中には本以外にも文章があふれています。本を読むのは嫌いだという人でも、日々さまざまな書き手による多種多様な文章に触れているはずです。

その中で、あなたが一番心を動かされた文章はどれでしょう。

つい先日のことです。
8月の終わりの眩しい昼下がりに、祖母が静かに息を引き取りました。95歳でした。

まずは、そのときのことを少しお話させてください。

祖母は飄々とした女性でした。
私がまだ幼かったころから、

あたしゃ心臓が悪いから、長くは生きられないよ。

と口癖のように言っていました(結果的にそう言いながら30年以上も元気に暮してたんですけどね)。

そんな祖母の「長生きできない宣言」のおかげか、残された私たちも十分過ぎるほど覚悟ができていて、お葬式の前には、しんみりしながらも和やかに祖母の思い出話に花を咲かせていました。

そこに、ひょっこりと姿を現したのが一通の封筒でした。「遺言書」と書かれたその封筒は、祖母が使っていた黒いハンドバックに、ひっそりとしまわれていたそうです。

おばあちゃん、いつの間にこんなもの用意していたんだろう……。

私たちは少し戸惑いながらも、その場に身内が揃っていたこともあって、おそるおそる開封してみることにしました。

父が不器用な手つきで封を切ると、丁寧に折り畳まれた便箋が2枚出てきました。

開いてみると、それは確かに「遺言書」でした。形式ばったことが嫌いで面倒くさがりの祖母にしては意外なほど、遺言書の書式にきちんと則った文書だったのです。

そこには、遺産をすべて私の母に残すという内容が書かれていました。

さっきまで、あんなに賑やかだった控室が、今ではまるで時間が止まってしまったかのようです。

おしゃべりな母さえも言葉を失って、その「遺言書」に目を落としていました。

母と祖母は嫁と姑の関係です。その場にいた祖母の3人の子どもたちが、どんな思いで遺言を読んだのか、私にはわかりません。

しばしの静寂のあと、父が、はっと思い出したかのように便箋をめくると、今度は2枚目に書かれた簡素な一文が私たちの目に飛び込んできました。

そこには、私の母に宛てて、ただ、こう書かれていたのです。

「いままで長い間 どうもありがとう」

父が母にその便箋を手渡しました。受け取る母の指先が細かく震えています。私はとっさに天を仰ぎました。無駄な努力でした。涙でマスクがじわじわと濡れていきます。

従姉妹は顔を覆って肩を震わせ、周りの目をはばかることなく声を上げて泣き始めました。その陰で父が必死に涙をこらえているのがわかりました。みんな思い思いのやり方で、その一文をかみしめていたのだと思います。

祖母と母のこれまでの日々を、39年間という嫁と姑の年月を、私は孫として一番近くで見てきました。赤の他人同士が折り合いをつけながら歩んできた道のりは、決して平坦ではなかったはずです。

その場にいた親類のひとりひとりは、折に触れて見ていたでしょう。その道のりの終盤で、母がどんなふうに祖母を労り、祖母がどれほど母を頼っていたか。

今、嫁という立場にある人、かつては嫁だったけれど今は姑という立場になった人、そんな女性たちの間に挟まれている人……。それぞれが自分の立場に引きつけて、あの一文を読んだのだと思います。

人の”想い”が乗った言葉は強い。
そして、その言葉の奥に”ストーリー”が見えると、より多くの人の心の深いところを揺さぶる力を持ちます。

こうして、文章を綴ることなどほとんどなかった祖母が最期に残した遺言書が、私にとってこれまでの人生で一番心を揺さぶられた文章となったのでした。

ライターは、インタビュイーの口で語られたことや、自分の五感すべてで集めた情報を、文章という形に凝縮します。それは”想い”を伝えるための下ごしらえ。”ストーリー”を読み手と共有するための重要な工程です。

凝縮したストーリーに、インタビュイーの”想い”をのせます。それは、目の前で語られた話の中で、書き手が読み手に伝えたいと思った、とびっきり大切なことです。

その想いに”自分の心”が共鳴する仕事は、この上なく幸せなものになります。

私の10年にも満たないライター人生のなかで、greenz.jpで記事を書くということは、そんな仕事でした。

申し遅れましたが、わたくし、greenz.jpでライターをしている松山史恵と申します。

6年前にFacebookで流れてきたgreenz.jpのライター募集の投稿を見たことがきっかけで、greenz.jpとのお付き合いがはじまりました。

ライターになった頃は横浜に住んでいたので、最初は東京・横浜近郊の案件が中心でした

「B&B」という書店の記事を皮切りに(緊張してめちゃくちゃ汗かきながらインタビューしたのも今となっては懐かしい……)、「スターバックス」にも行ったし(コーヒースペシャリストの田原さんにコーヒーを淹れていただきながら、コーヒー豆の向こう側に思いを馳せました)、「福島屋」というスーパーマーケットにも行きました(同行してくれたスタッフと、取材後に1時間かけて福島屋の魅力を満喫したことは記事にも書きました)。

ときには取材で神戸や福岡へも行きました(取材前に福岡在住のグリーンズライター前田亜礼さんとお茶したときに、地方でライターをすることの可能性を感じたことが、今の私につながっています)。

子連れ弾丸取材ツアーとなった石見銀山では、「只今加藤家」という素敵なお宿で、家族ごともてなしていただきました(群言堂の松場さん三浦さん、お世話になりました。あと、ドイツパンのマイスターである日高さんのパンは絶品でした!)。

「只今加藤家」は武家屋敷を再生した一棟貸しのお宿。キッチンもついていて、暮らすように泊まれる。石見銀山のある大森町は五感が研ぎ澄まされるような独特の空気感のある土地でした

ほかにも記事ごとに語り尽くせないほどの思い出があります。greenz.jpで記事を書くたびに、取材先はもちろん、伴走してくれるエディターさんやカメラマンさんとの出会いが積み重なっていきました。

出不精で内気で人見知りな私は、今、こうして「ライター」の仕事をフックにして、世の中の片隅にこそっとつながっているのです。

それは、フリーランスのライターになる前、「会社」という組織に所属していたときよりもずっと、私にフィットしたつながり方です。

そして、フリーランスのライターであることは、「子育てをしながら、自分の得意なことを活かして働き続ける」ための、私の現在の最適解です。

ライフステージに合わせて、住む場所も、仕事にかける時間の割合も、自分で選ぶ。

私は出産を機に、自然豊かな富士山の麓に引越しました。

実家近居というスタイルで、たくさんの人の手を借りながらの子育て。田舎でのんびりというペースが私には合っているようです

今はgreenz.jpのほかに、書籍・雑誌・新聞などで書く仕事をしています。

それと、ヨガインストラクターの仕事も少々。

地元の自治体から依頼を受けてヨガ講座を担当しています

ヨガレッスンの取材に来てくれた新聞記者さんとの会話がきっかけで始まった連載「季節に合わせて体を整える こよみヨガ」。以前から自分のヨガを文章にしてみたいと思っていたものの、締切がないと書けない私にとって、よいアウトプットの機会になっています

とは言いながらも、今の私の中で一番比率が高いのは、4歳の女の子の母という役割、のはずだったのですが……。

すっかり口が達者になってきた娘が、先日、私の背中にぴったりとくっついたかと思ったら

まま、いくつになっても すきなことしてね。

ですって。
子どもって、たまに大人がハッとするようなことを言うものですね。

というわけで、娘に足並みをぴったり揃えていた時期をそろそろ卒業して、仕事の比重を増やす時期にきているのかもしれません。

こうやって、娘の成長にしたがって、あるいは親の老いによりそって、働き方は変わっていくのでしょう。でも、私はきっとこの先も、書いて生きていくのだと思います。

もし、ライターという生き方に少しでも興味が湧いたのなら、ぜひ「グリーンズ 作文の教室」でお会いしましょう。この想いが、まだ見ぬライターのあなたに届きますように。