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ありのままの自分で本当に幸せになれるの? マガジンハウスからホームレス編集者へ。アメリカ先住民ナバホ族の集落で死にかけて学べた私の幸福学。

「そんなのできっこない」「稼がなきゃダメ」
「なんかスペックないの?」「もう若くないでしょ」
「いつも笑顔で感じよくないと嫌われるぞ」

やりたいことをしようとしたり、言いたいことを言おうとしたら、立ちはだかる心の壁。「もう一人の私」が、恐れや諦め、評価の声で「私」を追い詰めます。

一番の味方でいたいのに、どうして自分に一番厳しくなるんだろう?
求められる人物像じゃないと、存在しちゃいけないの?

これは、私が抱く切実な疑問です。
そこで浮かぶのは日本の自殺率の高さ。2020年10月は前年同月比で39.9%増、女性に至っては82.6%増(※)。私だけでなく、この問いを抱える人が少なくないのかもしれません。

(※)警察庁/令和2年の月別の自殺者数

東日本大震災後に離婚して、幸せが何かがわからなくなった私。その数年後には勤めていたマガジンハウスという出版社を辞めて、アメリカで幸福心理学(※)を学びます。そして、ついには家を引き払って、スピリチュアルセンターを渡り歩くことに。

その間は山籠りして100人分のご飯をつくったり、ボランティアしたりしながら、与えられた部屋や食事でその日暮らし。または貯金を切り崩して民泊やモーテルで生活していました。現在は帰国し、物を書いたりしながら東京で暮らしています。

(※)幸せを科学的に研究する心理学のひとつ。感謝や思いやり、瞑想の効果なども研究対象。

パートナーやキャリア、持っていたものを失い続けることでしか「こんな何もない自分でもアリ?」を実感できなかった私。そんな極端なことをしなくても足元を見つめ直すことで、腑に落とせる人もいるでしょう。とても素敵なことだと思います。

一方、私は、泣いたり、笑ったり、怒ったり、死にかけたり、支えてもらったり、傷つけたり、傷つけられたり、あらゆる紆余曲折の先にやっと学べました。そこで得た幸せの方程式は、とてもシンプルなもの。

1. ありのままの自分(現実)を受け入れるのが始点。
2. 思いやりと誇りを持って、心から信じること、好きなこと、この世界と一緒に輝けることを愚直に磨き続ける。
3. おのずと現れた結果として、誰かが喜ぶと幸せが倍増する。

しかし、このスタートラインの “ありのままの自分を受け入れる”というのが、ものすごく難しい。期待には応えたいし、できない自分、弱い自分、ダメな自分を認めるのはツライからです。私はたくさん遠回りしました。アメリカ先住民ナバホ族の集落では、一番認めたくない自分を強烈に見ることにもなりました。

その結果「自分が正しい」と思うことが「必ずしも正しくない」ことを思い知りました。役立てるはずという幻想も打ち砕かれて、“こういう弱いところも私で、それでも存在していいのかな”と思えるようにもなりました。

振り返れば一生の宝物だったと思います。自分のカッコ悪さを自覚し、ホンネで「どんな生き方を描きたいのだろう?」と再定義できたからです。そんな私の不格好な体験談で、少しでもあなたの気分が楽になって、何かの後押しができれば、本当に幸せです。

編集者を目指したワケ。なぜ会社を辞めてアメリカに?

あれこれ知りたくて移り気な私が唯一続けていたのは、毎日祖母へ手紙を書くことでした。就職活動直前に最愛の彼女を亡くしましたが、運よくマガジンハウスに採用されたことで、もっと多くの人に「手紙を贈れる」奇跡に恵まれました。

10年が過ぎて仕事にも慣れてきたころ、東日本大震災が発生。anan編集部で被災しました。亡くなった祖母への想いに加えて震災の大きな被害を知ることで、命の尊さとはかなさを実感。シミを無くすメイクページの校正を戻しながら、「限りある命で心から届けたいメッセージはなんだろう?」と自問自答するようになりました。

祖母に手紙を書いていた頃の思いも振り返ってみました。すると一番の愛読者でいてくれた祖母が、短所つきの私を「ありのままでいい」と応援してくれていたこと。上司や仲間、家族の思いやり、日課の瞑想などの数値化できず目に見えない世界に支えられてきたことが心に浮かびました。自問自答の末、行き着いたのは“シミを隠すよりも、喜びでシミ丸ごと輝く人に”。そんな世界観を共有したいのだとわかったのです。

そんなとき、カリフォルニア大学バークレー校心理学部のダチャー・ケトナー博士が、思いやりや感謝の心、瞑想が幸福度に影響するという幸福心理学(幸福学)初のオンライン講義を始めると耳にします。

彼から科学的根拠のある幸福学を学び、自分がそれを実体験することで、見えない世界特有の胡散くささや説教くささを軽減して伝えられるかも? とひらめきました。そこで「アメリカに行って、この先生に直接学びたい」と人事に休職相談するとNG。飽きるまで悩んだ末に、退職を決めて渡米しました。

つてがなく英語もわからないので、最初の半年間は、語学学校に通いました。「バークレーなんて絶対ムリ」と学校の先生にも言われ続けました。心が折れそうになると海を見に行ったり、近所の公園を犬に混じって走り回ったりして、TOEFL(英語検定)を勉強しました。そして8か月が過ぎた頃、いろんな奇跡が重なって、2年間博士の研究室で学べることになったのです。

「あの海の向こうに東京が…」と絶望する姿をたまたま通りかかったロシア人旅行者が撮影してくれた。

授業は最低6回録音を聞いてノートをとりました。テストは段落を丸ごと暗記して乗り切り、眠くなると教科書が読めなくなるので、夕食はほぼ絶食。ダイエットと節約になりました。学費を払うために1学期約200万円の小切手を切るたびに、ペンを握る指が震えました。

2年間の教育課程を終了しても、大学院に行かない限り学位が取れないそうで、決死のオールAでも研究室でうまくアピールできない自分を責め続けました。そうして幸福学を学びながら劣等感が募り、身も心も不幸になっていく我が身に疑問を抱いていました。

地底まで落ちた自己肯定感を上げようと、試験勉強期間の図書館でゲリラ的に「頑張って! でも単なる中間試験」とのメッセージ付きのお菓子を配ったりも。

学んだことが実感できないなか「名門大特有の弱者を蹴落とす競争原理が耐えられない」と、セルフコンパッション(自分への思いやり)の研究をしていた大学院生がバークレーを去ります。さらに念願のインターン先の研究機関では、ノーアポで訪ねてきた学部生に対して有名研究者が作業を中断され、陰で舌打ちする姿を目撃。

思いやりや感謝の心が幸福度を左右するとの研究結果をつかんでも、それを行動に移して幸せになるのはまた別問題なんだなと痛感します。

学んだことをいざ実践。家を引き払って、ナバホ族の集落へ。

不法滞在地帯のため、鉄条網が張り巡らされるビッグマウンテン。

そこで「考えるばかりではなく、幸福学を実践しては?」と、滞在ビザの残り2年弱、家を引き払ってアメリカのスピリチュアルセンターを渡り歩くことにしました。

どうせ旅するならアリゾナ州北部のBig Mountain(ビッグマウンテン)まで足を伸ばしてみないかと、バークレーの友人が打診。そこで暮らすアメリカ先住民ナバホ族のお年寄りたちの話し相手になって、彼らの窮状を書いて日本の人たちに伝えてほしいという話でした。「幸福学で欠かせない幸せの原則、思いやりの実践になるかもしれない」と、二つ返事で引き受けました。

天地に祈って不法滞在するビッグマウンテンのお年寄りたち。

日本でも空間を浄化すると人気のセージの木々が自生するが、長い干ばつで乾燥し葉は灰色に。

ビッグマウンテンは、アメリカ先住民ナバホ族やホピ族が何世紀にもわたって暮らしていた高地です。しかしその水源は、1960年代後半に始まった石炭採掘で断たれてしまいました。ここで生活する先住民たちはアメリカ政府に立ち退きを強いられています。不法滞在になるので、水道も電気もガスも通ってません。ケータイも圏外。

厳しい条件でも住み続けるのは、彼らが母なる大地と父なる天に祈る聖山があるからです。石炭は、彼らにとって母なる大地を浄化する腎臓のようなもの。それを掘り起こしたために、大きくバランスを崩した地球に鎮魂の祈りを捧げんと、お年寄りたちが不法滞在しながら簡素な生活を続けているのです。

友人から紹介されたナバホ族のおじさんは、ビッグマウンテンを去り、車で2時間ほどの街で暮らしていました。彼が取材・滞在先をつないでくれるというわけで、それまでの数日間は、街で一緒に過ごすことになりました。おじさんは毎晩お酒を飲んで少し酔っ払い、ガバメントスクール(※)で受けた体罰の話をして、怒りました。そしてときどき泣きました。

(※)アメリカ政府が設けたアメリカ先住民を同化教育するための学校。

ガバメントスクールでは、英語以外は禁止。うっかり友達同士で母国語のナバホ語でおしゃべりしたら、「汚い言葉を話した」と、口に石鹸を投げ込まれて立たされたそうです。苦い石鹸の味のせいか、自分のルーツを“汚い”と侮辱された悲しみのせいか、涙が止まらなかったとか。ある日棍棒で背中を殴られて気を失ったときは、意識を取り戻すと失禁していたというおじさん。その日以来、彼はガバメントスクールに通っていません。

木や土地を、誰のものって言い切れる?

ある日のこと、おじさんが街近くの国立森林に連れていってくれました。森で弓矢を放つ彼はもう酔っ払って怒るおじさんではなく、とても生き生きとしていました。アメリカ先住民たちが奪われてきたものを垣間見たようでした。

やがて「ここの木を家に持って帰って植えるから手伝ってほしい」とおじさんからシャベルを渡されます。そこで「違法だしやりたくない」と返事。すると「木や土地は、誰のものでもない。アメリカはそれらを自分のものだと奪ってきたが。ほかの場所に植え替えるだけだ。今までもたくさん植樹してきた」とおじさん。私にとって“盗み”になる行為でも、彼にはその感覚がないのです。

法律は、どこに権力があるかを反映するもの。確かに先住民の土地を奪ってきた強者主導の決まりだけで、正しさを決めかねるところもあります。私の正解の絶対性が揺らぎ、頭を抱えました。

「木だって美しい緑に囲まれたここから移動したくないと思います」と想像しうる限り、人の利害を超えた生命の秩序を重んじる先住民らしく反論してみました。すると「じゃあ掘り起こすのは自分でやるけど、一人じゃ運べないから助けて」と、おじさん。「困るだろうし…」と木と心の重みを感じ手伝いながら、私の正義はグラグラと揺さぶられました。

まるで役立たないうえに、ビッグマウンテンで死にかける。

干ばつのため草原が消え、ウサギが居なくなったビッグマウンテン。お腹をすかせたコヨーテは人を前にしてもヤギたちを襲う。滞在中も、コヨーテに襲われ、額から血を流すヤギが。

ビッグマウンテンに到着したあとは、さらに今までやってきたこと、学んできたことがほとんど役立たないことを思い知らされました。彼らの暮らしぶりは想像以上に厳しく、当初聞いていた話し相手というよりは労働力として頼りにされました。その生活の糧はヤギの飼育で、作業をすれば乾燥した砂風で目は真っ赤、髪は真っ白に。

電気のないビッグマウンテンは夜明けに始まり、夜更けで終わります。日が昇ると、持参した食料で朝食をつくっておじさんと息子さんと食べ、街から運んできたプラスチックタンク2樽分の水を貯水槽へ。唇でゴムホースをくわえてタンクの水を呼気で吸い上げ、バケツに移してすべて運搬してくれと命じられますが、これがかなり難しい。水を気管まで上げて窒息しそうになるたびに、おじさんが「やれやれ」とため息。

街から水道の水を入れて車で運んできたタンク。これが無くなると、もう水は無い。

その後は、おじさんの知人のおばあさんの家で、ヤギの毛皮にこびりついた虫やフンを素手で掃除してと頼まれました。ひとり作業する横では、働かず日陰で休む先住民のおばさんが。おばあさんの親戚だそうです。

「わざわざ日本人が何しに来た?」

「なぜわざわざこんなところに?」と、コーラを飲みながら彼女が尋ねてきました。「お手伝いに」と返事すると、 「日本から何人かで?」と彼女。「一人です」と言うと、「えっ、あなただけ?」と驚かれ、うなずくと目をむいて信じられないという顔をされました。会話するうちに「なぜこの人は働かないんだろう?」と、望んでボランティアに来たはずの私の心には、再び“正しさ”に囚われた当惑と怒りが…。

どんな虫かもわからず、もうヤケクソ。

この家が私の滞在先だと知らされ、様子を見にきたおじさんと二人で母屋のおばあさんに挨拶に行くと、彼も知らない彼女の息子さんが。見たところ50代で巨体をカウチにハマらせるようにして座っています。

ナバホ語しか話せないおばあさんとは違い、息子さんは少し英語が話せるようでした。「こっちまで来なさい。握手しよう」と言われて手を握ると、その触れ方、つま先から頭のてっぺんまで値踏みするような目線に、悪寒が走りました。「性的な目で見られている?」と恐怖を感じた自分に罪悪感を抱きますが、足はガクガクし、手は力が入りません。おじさんも危険を察知し、彼が山を降りるまではこの家ではなく、彼と息子さんの家に滞在することに。

帰宅して夕食を用意しようと持参した濡れティッシュで必死に手を拭いても、爪の中は糞で真っ黒なまま。しかし昼食もとらず作業したので、衛生面を気にせずがっついてしまう自分が怖くなりました。

そして床で寝るのが10日を過ぎた頃、夜に空咳が止まらなくなり…。この状態でひとり、水道も電気も電話も無く、おじさんが去った最寄りの家が車で15分と孤立した、知らない男性とおばあさんの家で暮らす…。そんなことして大丈夫? と、 悩んだ末に、おじさんが山を降りるときに一緒に街に戻りたいと頼みました。

おじさんとの別れと号泣。幸せを感じるのに罪悪感。

数日後、街のおじさんの家の前に着いたとき、「いい思い出がつくれなくて悪かったね」と言われました。「こちらこそ申し訳ありません。何も知らずに来た私が悪かったんです。お力になれず本当にごめんなさい」と謝ると、突然おじさんがブチギレました。

これが俺らの文化なんだよッ!

目の前で、ピシャッとドアが閉められました。

その後は民泊にチェックインし、バスルームに飛び込みました。数日ぶりのシャワーからは透明な水、しかも温かいお湯が。当たり前だったそれが奇跡のようでした。肌にあたるお湯の心地よさに幸せを感じたとたん、罪悪感があふれて声を上げて泣いてしまいました。シンクにびっしり溜まった砂が、涙とともに洗れていきました。

でも、心の澱はなかなか流せません。弱い自分がつくづく嫌になりました。紹介してくれた友人に事情を説明して謝ると、驚いた彼女は逆に慰めてくれましたが「もっと頑張れたのでは?」と自分のことを許せませんでした。バークレー大で感銘を受けた幸福学の研究も、私を含めた「守られた人たち」の温室の花だったのかな。これまで正しいと思いやってきたことが崩れていくようでした。自分が書くこととやっていることにもズレを感じて、8か月の間、原稿も書けなくなりました。

禅センターの休日は、書庫でバーニー・グラスマン他の本をむさぼり読んだ。©︎Warren Summers

禅センターで修行中に、顔を出したホンネのホンネ。

山を降りたあとは、計画通り、スピリチュアルセンターを渡り歩きました。住み込み禅修行した施設のひとつが、ニューメキシコ州のUpaya Zen Center(ウパヤ禅センター)。5か月間弱、作務衣姿で20〜100名の食事をつくり、トイレ掃除や草むしり、毎日3時間の坐禅にアルファベット版の「般若心経」を唱えるという生活をしました。作務の合間には、図書館の本を読み、日記帳に自分の弱さと発見と成長と願いを書き続けました。

ビッグマウンテンとは対照的に緑豊かなウパヤ禅センター。朝礼では、侍香(じこう:住職に付き添ってお香を持つ役)を勤めた(中央)。©︎Upaya Zen Center。

ある日、重いものが持てない60代のレジデントの代わりに皿洗い用の水だらいを運び続けたことで、腰を傷めてしまいます。針治療をしてもまたぶり返すので「迷惑かけられない」とセンターを去ろうとしたとき、プレジデントに「あなたの問題は私たち全員の問題。一緒に解決しましょう。できないことは他の人に頼んでください。これは、あなたの修行です」と優しく諭されました。

助けを求めるのが修行?

その言葉はありがたかったけれど、後ろめたくも感じました。ある皿洗いの後で、一人のレジデントが「こうしたらいいのよ」とたらいの水を流して私に見せ、ほとんど空にしたそれを運んで植木にやりました。ビッグマウンテンで干ばつ被害を見てきたこともあって、再び「温室感」を感じて、ムカっときました。以前から仕事をサボりがちだった彼女のことを、密かに「自分勝手だ」とも思っていました。なんならイビキがうるさいとも…。

すると彼女が「水は他にもあるの。でもあなたの腰はひとつなの。あなたはこの世界で一人なのよ」とまっすぐ私を見て言いました。ハッとしました。これは私が読んだ人に届けたいと願い続けてきた「ありのままでいい」というメッセージ。それを一番欲していたのは、私だったのか…。

実は彼女に怒っていたのではなく、自分を認められない私に怒っていたことに気づきました。自己受容できている彼女のことが羨ましかったのです。

数か月を経て、彼女が最愛の息子を自死で亡くしたことを打ち明けてくれました。その罪悪感を癒しながら、自分への理解と思いやりを示し続けてきたという彼女。加えて「助けを求めるのも修行」というプレジデントの言葉。それらを心で理解し始めたとき、彼女や皆、自分自身ともっと深くつながって、一緒に笑って、泣いて、怒れるようになりました。

早起きして卵焼きと味噌汁の和朝食をつくったときのことです。初めて食べる日本の卵焼きに、皆が笑顔になりました。日本で生まれ育った私にはありふれた、母が教えてくれた卵焼きですが、それを無心で90人分焼き続けた結果、特別だと喜ばれた。やっていることは違っても、編集者時代に力を合わせてつくった雑誌が完売したときと同じ喜びが、全身からわきあがりました。

センターを去る前に、バークレーの恩人に習い、皆につくったベジタリアン巻き寿司。この頃にはキチンとした人から、オモロい奴として知れ渡る。

「幸せとは何か」を考えてばかりいたから、自分の選択が正しいかと不安になっていたんだ。ダメな自分だから成長しなきゃと頑張るあまり、私は人に対して「思いやり」ではなく、赦せない自分の姿を投影し、「厳しい目」を向けていたのだ…。表面的には幸福学の教えにならっていたけど、深い部分では真逆のことをしていたのです。振り返れば、おじさんが扉を閉めたのは、彼もまた、自分たちの土地で力を失って山を降りた私に、自身の姿を投影したからかもしれません。

山を降りた後、ジョアン・ハリファックス僧院長と禅センターの皆と観た映画の舞台、日本の総持寺で参禅しました。その接心(坐禅修行合宿)の最終日、8か月ぶりにナバホ族のおじさんから「元気?」とのメールを受信。ようやく滞っていた記事を書き始められ、こちらに至ってはそれから約2年かけて完成させました。greenz.jpの担当編集者さんは、気長に待ってくださいました。

私たちは一人ぼっちのときでも、切っても切れない仲にある。

確かにビッグマウンテンでの体験は、私を暗い孤独に投げ込みました。でもそれは「決して他者から切り離されることはない」という理解を深めてくれるものでした。

今も雨の日は、干ばつ続きだったビッグマウンテンのことを思います。水道の蛇口は注意して閉めるようになり、電灯の下この部屋の向こうには夜明けを心待ちにする人がいるのだと、入稿の手を止めてふと思いを馳せることもあります。個である私たちはつながり影響し合って生きる、全体の一部でもある。それが痛いほどわかりました。

ともに学んだ韓国人留学生の友人とスタンフォードで開かれたインド ホーリー祭で。

助けが必要なこと。心地よさや幸せを選ぶこと。それにどこか罪悪感を抱くときは、頑張りすぎなのかもしれません。他者を思いやる心は私たちの美徳だし、大切にしたいと思います。と同時に「自分の気持ちを大事にしてもいい。自分を傷つけてまでやらなくていい」という心もあっていい。自分に傾けた優しさの分だけ、同じようにそうしたいと願う相手にも思いやりが持てるから。

禅修行から「幸せ」とは「自分の中にすでにあって人が喜ぶものを磨いて分かちあう」こと。それは「夢中で為すべきことをした先に、おのずと現れるもの」だと学びました。つまり、幸せとは生まれ持つ命の輝きで、自分と他の人を照らすこと。自分が幸せでなければ、相手を幸せにもできないのです。

どれだけ私たちの平均寿命が長くなったといっても、100年生きられる人は少なく、人生は短いものです。その貴重な時間を、望まない競争に苦しんだり、自分を罰して過ごす必要はありません。唯一無二の命を愛して赦して一途にそれを現せばいい。ありのままの自分を開き続けるのは難しいけど、それと戦うのをやめたとき、目の前の贈り物や幸せの源(命)とつながれるのだと思います。

(編集: 葛原信太郎スズキコウタ