「書く」「描く」「画く」。
「かく」と発音する言葉にも、いろいろな日本語がありますが、僕はその行為がすごく好きです。文章でも、作曲でも。どれも楽しいと心から思います。ただ、「かく」ことは、理想とする完成形と、現実に持っているスキルとの隔たりに苦しみを感じることとともにある世界。
実際に僕は、いつも締切でやむを得ず、理想的な仕上がりでなくても「完成しました」とアシスタントに報告して公開しています。「完成」というのは、諦めの瞬間かもしれません。山下達郎さんも、かつてそう話していました。
頭には理想が浮かんでいる。でも、それがアウトプットとして出てこない、満足行く成果ではないのに公開せざるを得ない。そんなことがあります。
このような、理想と現実のギャップを感じる苦しみ。しかし、これを「成長の余白」として前向きに捉えることもできます。ポジティブに楽しんで進化していこうというマインドセットは、何事もスキル習得の近道ですね。
「成長の余白」
僕は「苦しみ」だけではない感覚で、そのギャップを見つめるように心がけています。なぜなら自分がステップアップをしていっても、追い求める理想形というのはどんどん進化・変化していきますから、そのギャップがゼロになることはないのです。
「ここまで質を上げられるようになったら、次はあそこを目指してみよう」
「今までとは違う、こんな作風もできるか試してみよう」
「かく」こととは、そんな冒険心とともにあるのではないでしょうか。
こうしてギャップは狭くなったり、広がったりし続けます。でも、それにうんざりせず、前進し続ける冒険心が大事になのです。冒険心を忘れてしまうと、創作表現者としての可能性はついえてしまいます。厳しく感じるかもしれませんが、そのシビアさを楽しめるようにならないと、なかなか続けていけません。
僕が主宰している「作文の教室」の初回では、「あなたの書き手としての理想形をイメージしてください」と考えてもらうワークショップを欠かさずにしています。そう、それは受講生たちに「成長の余白」を可視化してもらうためでした。
「作文の教室」は、平均20名ぐらいの受講生でガヤガヤ話しながら行うクラスです。この「ガヤガヤ」が大事なのです。「成長の余白」を埋めることは、ひとりではできませんから。理想形はどこにあるか、そして何が今の自分に足りないのかを見つけたいときはコミュニケーションが一番です。
編集校正してくれる人、叱咤激励をくれる先輩や同期、公開したコンテンツを受け取ってくれる人。そんな人びとと出会って、文章というアウトプットを交換しながら深め育てていくと、成長の余白を埋める作業も苦しさより楽しさが勝ります。そして、文章への感想や意見を受け取ると「社会とつながっている」実感を覚えることもできるんです。
真似るところから始めていい
「作文の教室」で一番多く質問を受けるのが「スズキコウタさんは文章力を高め、センスを磨くために何をしてきましたか?」ということです。
単刀直入に言います。
尊敬できる書き手を見つけることです。
そして、どんどん真似ていっちゃえ。
そういつも言っています。
これは作文だけでなく、音楽でも、美術の世界でも言えることだと思いますね。今では超一流の画家も、習作を描いていた頃は古典的な絵のオマージュをしていることが多いです。大衆音楽の頂点に君臨しているザ・ビートルズも、初期のアルバムは、14曲中6曲ぐらいがカヴァーであることが多いですよね。
「真似る」ことを恥じてはいけませんよ。最初はそれでいいんです。その「真似る」ということの中で、少しずつ「自分だったら・・・」というアレンジを取り入れていって、オリジナルを形づくっていけばいいのです。「真似る」ことに遠慮して、根本からすべてオリジナルのものを開発しようとしていると、なかなか先に進めないことが多いようです。
まず自分でゼロから考えようとするよりも、「なんかこの人の言葉選び、空気感、切り口のつくり方が好きだ」というライターを見つけ真似ることから始めていいと思います。
僕がNPO法人グリーンズで働き始めたときに、まずこの5人の文章を分析していこうと決めました。彼らの魅力と特徴を紹介します。
松浦弥太郎さん
辻信一さん
萩原健太さん
兼松佳宏さん
小沢健二さん
憧れの方々の感性を借りて、どんどんアレンジしていく。どう自己流に書き換えていこうか。そんなことが「作文の教室」ではよく話題にのぼります。
「伝えたい」の次は「知りたい」と重ねること
伝えたいことがたくさんあるって、幸せですよね。伝えたいことが次々と浮かぶなら、書き手として、第一関門突破です。ただ、それだけでは足りません。
文章を書き、発信し、読んでもらう。そこには「伝えたい(書き手)」と「知りたい(読み手)」というふたつのニーズがあります。
どちらが大事かというと、どちらもです。つまり「伝えたい」と「知りたい」をどう重ね合わせるかが大事だと思います。
しかしプロのライターでも起こしてしまいがちなのが、「伝えたいことを書ききった」達成感で完結してしまうこと。「何がどう伝わるか」「どう受け取られたか」が背景に追いやられると、なかなか読者の知りたいと重ならず、結果「いまいち伝わらなかったな」と書き手は反省するに至ります。
「伝えたい」を重ねていく。その結果、たとえば5000字の原稿になる。その作文ができるようになるだけでも素晴らしいのですが、あまりにも要素を重ね、書きすぎてしまって「伝えたい暴走」に陥ってしまうことがあるのです。
すごい熱量。
すごい情報量。
すごい文字数。
「すごい」も3つ並ぶと、傑作が生まれる予感がしますが、逆に圧を感じてしまう結果になってしまいがちです。せっかく書くなら、とサービス精神や責任感で、ついつい文字数・熱量が増えてしまう方はいるのではないでしょうか。
でも、その熱に読み手が引いてしまう状況。それを僕はここ数年「伝えたい暴走」と名付けて、あらゆる場で指摘しています。
足し算を覚えたら、引き算に挑戦する
伝えたいことを含ませすぎると、よく陥るのは、「結局この人は何を言いたいの?」と読者が戸惑ってしまう事態です。
まんべんなく、いっぱいの情報が詰まっていると、「特に何が伝えたいことなの?」「どう人の心を動かしたいの?」ということが見えにくくなります。情報の取捨選択・整理・並べ方は、平等さよりも、あなたの主観が前に出たほうが面白いことがあるんです。その主観が独自性を生みますから。
もうひとつの暴走。それは、扱うトピックに対する愛がほとばしって、読者の心情変化が想定できなくなっている状況です。
もちろん、「僕はとにかくブライアン・ウィルソンが好きなんだ!」と熱烈な愛でアンフェアな評論を書く萩原健太さんみたいな方もいます。でも、それが成立するのは、読者が萩原さんのことも、ブライアン・ウィルソンのことも好きであるという、価値観の深い共有がされている。書き手に対する信頼と共感が深いときだけかもしれません。
「伝えたい暴走」がなぜ起きるかというと、僕らは足し算思考でものづくりをしてきた、そう教わってきたということでしょうか。
家庭科の授業で、塩をかければ味がつくと学ぶ。
音楽の授業で、楽器を加えれば合奏になっていくと学ぶ。
何かを足していくことが完成へのプロセスと教育されてきた気がします。
調味料を足していくと、素材の味は背景化していきますよね。楽器の数を増やしてダビングを繰りかえしていくと、個々の音はぼやけていきます(そういう音楽の魅力もありますけれど)。
しかし、創作には引き算思考も必要です。
削ることで、本当に伝えたいことの存在感が増します。文字数は減るけれど、情報の濃度が高めることができるので、「足りない」感は工夫で乗り切ることができることでしょう。なので、僕は結構「削る」編集者でいることを意識しています。ライター、クライアント、取材先、さまざまなステークホルダーとともに日々公開する記事を製作していますが、「そこまで要素増やすと・・・」と編集会議で発言することのほうが多いです。
そして、校正作業をするときも、どうしたらもっとシンプルにコンパクトにできるか、ということをしつこく考えて対応します。
記事を公開する前に、ワンクッション!
「伝えたい暴走」をどのように防ぐか。そんなに難しいことはありません。次のいずれかを取り入れればバッチリです。
たとえば(1)のときは、あえて自分を暴走させることが多いですね。坂本龍一さんの映画の評論を書いたときは、浮かぶことを全て文章の断片で書き出して、それがおおよそ10000字になりました。
自分を暴走させて、伝えたいことを可視化させたわけです。それを当時校正してくれた編集者の福井尚子さんと、どんどん消して最終的に4000字弱に仕上げました。今、読むと、まだ削れる部分が多いなと感じますけれどね。
引き算をすることは、足し算よりも勇気を要しますが、すごくクリエイティブな考え方でありプロセスといえます。ヒットする記事が、どれもシンプルで明快な理由は、引き算が丁寧にされているからではないでしょうか。ぜひ、引き算を始めてみましょう!
– INFORMATION –
「作文の教室」は、ローンチしてから16年、記事発信実績7000本以上のウェブマガジン「greenz.jp」が大切にしてきたノウハウをもとに、作文力=執筆力+編集観察力を伸ばすことができるゼミクラスです。
リアルタイムでの参加はもちろん、録画アーカイブや教材を使って受講することもできます。もちろんオンライン開催なので、インターネット回線さえあれば、世界どこからでも参加可能です!
https://school.greenz.jp/class/sakubun_seminar_greenz_kotasuzuki/