greenz people限定『生きる、を耕す本』が完成!今入会すると「いかしあうデザインカード」もプレゼント!→

greenz people ロゴ

結局、いかしあうつながりってなんだろう [いかしあうつながりコラム 3]

こんにちは、編集長の鈴木菜央です。「いかしあうつながり」について考えるコラム、今日が最終回です。今回は、ソーシャルデザインの限界を超えていく「いかしあうつながり」の事例について、そしてそこから見えてきたことを書こうと思います。

はじめに、僕が感じたソーシャルデザインの限界をおさらいしましょう。

1つ目が、社会を良くしたいと活動に邁進した結果家族や自分を大切にできない「幸せのドーナツ化現象」です。

2つ目が、ソーシャルデザインは経済的心理的に余裕がある人だけしか取り組めないじゃないか、という「一部の人だけのソーシャルデザイン」問題。

3つ目が、多くのソーシャルデザインが対症療法的活動にエネルギーを取られて、本質的な問題解決につながっていないんじゃないかという「対症療法的ソーシャルデザイン」問題。

そして最後が、社会課題に対して行動する人が増えたとはいえ、「ソーシャルデザインが環境社会問題の悪化のスピードを上回れていない」んじゃないかという問題です。

そこを突破していくには、どのようにソーシャルデザインが進化していくべきなのか? 僕はそのことを、ずっと考えていました。そして、そのような限界を超えていくのが、「いかしあうつながり」つまり、「お互いの良い関係性」に着目してソーシャルデザインをしていくことなのではないか? と思い至ったのです。

「問題」が「解決」になる村

最初にそのことを実感したのは、「Dignity Village」という村を見学した体験でした。

2014年の夏、僕はソーヤー海くんが企画した、アメリカ西海岸をめぐるパーマカルチャーツアーに参加。いろいろ驚きや学びがありましたが、一つのハイライトが、元ホームレスたちが尊厳を守るためにつくった村、「Dignity Village」でした。

「Dignity Village」はポートランド中心部から車で15分ほどに位置する、元ホームレスたちが主体となって、自治をするコミュニティです。

住民は60人ほど。名前が示すとおり、尊厳をもって生きていける村を目指して、元ホームレスたちが民主的な自治組織をつくり、さまざまなNGO、宗教団体、大学などと協力しながらタイニーハウスを建て、薪を割り、ソーラーパネルで電気をつくり、生ゴミをコンポストに入れて土をつくり、ガーデンで食べ物を一部自給しています。(Dignity Villageについては、7月19日ごろ記事になります)

このビレッジは、ポートランドのあちこちで排除されてきたホームレスたちが、一箇所に集まって組織をつくり、彼・彼女らをただ排除しようとする自治体に対して、安全な場所の提供を求めて粘り強く交渉を重ねた結果、生まれました。そのプロセスに、たくさんのアクティビストやアーティストたちが関わったそうです。僕はこの「Dignity Village」で驚いたことが2つありました。それは「自治」と「関係性のデザイン」です。

日本ではホームレスといえば「保護すべき弱い存在」で、どのように「手を差し伸べるか」という前提に立って考えるべきだ、という暗黙の前提があるように思います。

ところが、「Dignity Village」ではまったく違います。それは、一言でいえば、「誰もが、尊厳を持って生きられるはずだ」という前提。自分たちのことを自分たちで決め、行動する。全員に掃除、薪割り、渉外、PRなどの仕事があり、コミュニティに貢献できない人、ルールを守らない人は追い出されるのだそう。そして、コミュニティを構成するメンバーの一人ひとりがお互いに尊重しあう。これが1つめの「自治」です。

2つめが、「関係性のデザイン」です。「Dignity Village」では、自然の恵みを最大限活かした暮らしをしています。元ホームレスたちであるメンバーはみな、経済的に脆弱です。あらゆることがお金で解決できないからこそ、自然の恵みを最大限に生かせる暮らしをデザインしています。

最小限の材料でつくれるタイニーハウスを複数建てる。
メインの建物に機能を集約する。
そこに薪ストーブを導入し、薪で暖房する。
生ゴミをコンポストに入れて土をつくり、その土で食べ物を育てる。
温室をつくり、ハーブの苗を育て、近隣のファーマーズマーケットで販売する。
できるだけ新品を買わず、近隣から無料で手に入れた材料をつかう。
化石燃料に頼らず、経済に依存しない暮らしをつくる。

近隣の人との関係性のつくりかたも、僕らが学ぶべきことがあります。「Dignity Village」はサッカーコート1面程度の土地に、メインの建物とシャワー棟がひとつずつ、そしてタイニーハウスがたくさん建っているのですが、これは元ホームレスの方々と地元のパーマカルチャーデザイナー、大学、NGO、宗教団体などと協力してDIYでつくったのだといいます。

自力では建てられないからこそ、協力関係が生まれ、タイニーハウスを建てる経験をみなでシェアできたのです。建物だけでなく、薪とストーブ、太陽熱シャワー、コンポストトイレなどの設備をつくり、日々回す仕組みをつくるというプロセスに、周囲の人たちが関わることで、持続可能な暮らしのあり方を学ぶチャンスになります。

そのほか、近隣のNGO・NPO、宗教団体、教育機関との協力は畑の土づくり、野菜づくり、住民の健康チェック、飼っている犬猫の健康チェックまで多方面に渡っているんです。

周辺の住民との協働のコミュニティをつくり、自然の恵みを最大限活かす持続可能な社会をつくるという意味で、彼らは僕らの暮らしのだいぶ先を行っていますし、正直うらやましいとすら思いました。

「Dignity Village」で感じたのは、僕らが普段「問題」だと捉えているものは、「問題」なのではなく、「関係性」を変えれば、一気に変わるものだ、ということです。「問題」とは、関係性の歪みから生じている「現象」だと捉える、ということかもしれません。

元ホームレスたちが経済的に極めて脆弱であり、安全な家を持たないというマイナスの状況が、さまざまな人々、団体が社会課題の解決に参加するきっかけをつくっています。

「Dignity Village」のデザインは、住人と自然の間に、住人と周囲の人々との間に「いかしあうつながり」をつくることで、「問題」をあざやかに「解決」に転換しています。

「手を差し伸べて」「問題」を解決するのではなく、関係性を変えることで、いつのまにか「問題」が問題ではなくなり、新たな学び、友人関係、尊厳、「ここにいていいんだ」という安心感などの、さまざまな価値に転換されている。「苦しみ」「悲しさ」の中に、すてきな可能性の種があるのです。

これは僕にとっては大変な衝撃でした。今までまったく見えていなかった世界が目の前にバーっと開けたような感覚でした。僕は今まで、世界の半分しか見ていなかったかもしれない、と。

弱みの共有から生まれる豊かさ

もうひとつ、「いかしあうつながり」を実感した事例が、旧藤野町エリアを中心に普及している「地域通貨 よろづ屋」(以下よろづ)です。

「よろづ」の参加者は約500人。

「駅まで送っていってくれる人を探しています」
「洗濯機いりませんか?」
「本棚をつくりたいのですが誰かDIY教えてください」

などなど、メーリングリストを通じて、困っている人と解決できる人をマッチングしたり、モノをシェアしたりしています。

単位は「よろづ」。実際のやり取りには円との併用もOKです。会員になると通帳をもらえて、取引相手と取引に合意したら、通帳に内容(たとえば「犬を預かる」など)を記入し預かったほうのプラスの欄、預かってもらったほうにはマイナスの欄に金額を書き込み、お互いの通帳にサインして契約成立です。ちなみに僕が住むいすみでも地域通貨をやっています。

「よろづ」で興味深いのは、通帳の金額がマイナスになっても、それは良いことだとされているところでしょう。マイナスが増えるということは、誰かの可能性を引き出したのだから、いいことなのだ、というのです。

もうひとつ面白いのは、「弱み」が非常に重要な役割を果たしているところです。「年だからパソコンがわからない」「足を怪我して運転できない」「急な出張で猫の面倒をみれない」などの「弱み」を共有することで、他の人の「強み」が発揮されるチャンスをつくりだすことになります。実際、強みだとすら思っていなかったことが、多様な人と交わることで、強みに変わっていくのは、すばらしいことです。

これらは実際にいすみで体験したことですが、あるご老人が「iPadでFacebookが開けない」と投稿して、「そんなことなら」と20代の若者が教えた。ご老人は「これで世界が変わるわ!」と感謝した。

またあるとき、「ずぼんの裾上げできる人いませんか」と投稿があり、先日のご老人が「あら、そんなことなら」と受けて、大変感謝された。「昔の人はみんなできたのよ」と言いいながら、とても嬉しそうにしていた。

またあるとき、「わたしはもう年寄りだから何も役に立てないのよ」と言っていたご老人。ところが、「犬の面倒を見る人探しています」という投稿で、預かるだけならと預かり、感謝された。

若者にとってはパソコンの操作ができるというのは当たり前。老人にとっては、時間があることが当たり前。ところが、それぞれの当たり前が、誰かにとっては大きな助けになる。当たり前だと思っていたことが、関係性の中では「強み」になりうるんですね。

我が家も何度か犬を預かったのですが、犬がいる生活はとても楽しく、発見がたくさんありました。子どもたちもたくさんのことを学んだようですし、散歩を毎日することで、近所の犬を飼っている人との関係も深くなり、預けた人、預かった人の絆も深まりました。単に「困りごとが解決した」以上の、多様な価値がそこから生まれたのです。

困りごとを投稿した人、答えた人のやりとりを横でを見ているその他大勢の人にとっても、興味深い変化がおきます。まちなかで出会ったときに会話が増えるし、みんながみんなの興味やスキルを知ることになります。「あの人は実はこんな隠れたスキルを持っていたのか」「僕と同じ興味関心があるんだな」という具合です。それから、このようなやりとりを観察することで、「この街にいてよかった」という安心感も得られるのです。

地域通貨の参加者には、「地域のために」という気負いはありません。むしろ「困りごとを解決してくれると助かる」「モノを借りられて便利」「自分にとっては当たり前のことで喜ばれるなら得した気分」という気持ちから動いているように思います。そのような人たちが集まって、それぞれ自分勝手に動いているのに、全体としてはモノの消費が減り、困りごとが解決し、関係性が豊かになる。それが地域通貨の面白いところです。

「Dignity Village」と「よろづ」は4つの危機感にどう答えるか?

さて、ここまで「いかしあうつながり」を活かした2つの事例を紹介してきましたが、最後に、僕が感じた危機感に対して、この2つの事例がどのように答えるか、僕なりに考えてみました。

まずは、「幸せのドーナツ化現象」について。どちらの活動も、のめり込みすぎて自分の幸せ、家族の幸せが置いてけぼりになったという話は聞きませんでした。

理由としては、どちらの活動も、中心的人物はいるけれど、厳密な意味での中心がないからではないでしょうか。誰かだけがとても頑張らないといけない状況ではなく、それぞれがそれぞれのやり方、深さで関われる自由度があり、なにをするかは、それぞれの創造性に委ねられています。ちょっとしか参加しない人も、重要な役割を果たしており、そういう意味で、全員が主役であるといえます。

ただし、「幸せのドーナツ化現象」が起きやすいのはその活動を通じて生活を支えている、またはその状態を目指していく場合だと思います。「Dignity Village」も「よろづ」もそこに該当しないことから、この答えはまだ出ていないのかもしれません。

2つめの危機感は、「一部の人のものに留まっているソーシャルデザイン」問題です。「Dignity Village」は元ホームレスという、一番暮らしに余裕がない人たちが新しい暮らしをつくっています。また、関わりたい人も、それぞれの範囲で関わり方を選べることから、「一部の人のものに留まる」ことは問題になっていないようです。地域通貨においても、自分本位の理由で参加してもよいくらい敷居が低い。どちらの活動においても、この2つめの危機感への答えを出せていると思います。

3つめの危機感は、「対症療法的活動にとどまりがち」で本質的な課題の解決になっていなんじゃないかという問題です。「Dignity Village」も地域通貨も、対症療法的というよりはホリスティックな解決策を提示しているように思います。問題にフォーカスし、資源を集中して解決を図る対症療法的ソーシャルデザイン(何度もいいますがそれはそれで絶対に必要です)に対して、どちらかといえば、東洋医学的、予防医学的に全体を意識しながら、少しずつ手当をしていく、問題があらわれる前に整えるような、ホリスティックアプローチだと言えるかもしれません。

外部から問題にはたらきかけて解決するのではなく、根本的に理想の状態をつくり出し、そこに存在することで解決する。ガンディーが言う「BE THE CHANGE」がそこにはあると言えるかもしれません。

また、どちらの活動も、弱みが新たなつながりをつくり、新たな価値をつくりだしています。「Dignity Village」などは経済社会で勝者である私たちにはまだつくれていない、多くの人と協力しながら自然の恵みを活かした持続可能な暮らしを実現しています。地域通貨においては、時間がある・ない人、スキルがある・ない人、経験がある・ない人、道具をもっている・いない人が、それぞれのニーズを満たし合える関係性がある。そのような状況では、強みだけでなく、弱みにも等しく価値があることになります。手を差し伸べる人、支援を受ける人で分けるのではなく、全員が対等な当事者であるわけです。

最後、4つめの危機感は、「社会環境問題の拡大に追いつかない」問題。これについては、Dignity Villageも地域通貨も、単体では答えらないでしょう。ただ、希望を感じるのは、Dignity Villageも「よろづ」も、そこから多様な動きを生み出す土壌として機能していることです。

活動から多様な価値を紡ぎ出せることに気づいた人が、それぞれに創造的に動いていって、活動がアメーバのように分裂していっています。たとえば「よろづ」からは、誰に許可を取ることもなく、さまざまなマーケットが生まれ、藤野電力が生まれ、藤野のもうひとつの地域通貨「ゆ〜る」なども生まれました。

もしこのように、他の活動の苗床になりうる活動が日本中に普及していけば、4つめの危機感を超えていけるのかもしれないとは思いますが、どうでしょうか。そのためには何が必要か、僕にはまだわかりません。

木と鳥と虫の関係性

この連続コラムの一番最初に、greenz.jpのタグラインは「ほしい未来は、つくろう」という言葉から「いかしあうつながり」になります、と書きました。

誤解のないように伝えたいのですが、これまでgreenz.jpで紹介してきた既存のソーシャルデザインを否定するつもりはまったくありません。むしろ、社会課題の進化にともなって、これまで以上に必要になっていくと思います。

既存のソーシャルデザインを例えると、森の中の「樹木」みたいなものです。これまでgreenz.jpでは、樹木の種がどうやって芽を出せるか? どうやったら育つか? どうやったら大きな木になれるのか? ということを一生懸命考えて、発信してきました。

それは引き続きやっていくのですが、これからは「木」だけでなく、たとえば木と鳥、鳥と植物、植物と虫などの、相互のつながり、しかも「いかしあうつながり」について深めていきたいと思っています。関係性が豊かになっていけば、樹木ももっと育つのではないか、と思うのです。

「いかしあうつながり」が豊かになることで「ほしい未来は、つくろう」がより実現しやすくなるのかもしれません。

結局、いかしあうつながりってなんだろう

結局、いかしあうつながりってなんでしょう。

「いかしあうつながり」は世界を見る目、なのかもしれません。世界の「つながり」を見る視点を手に入れたら、世界がまるっきり違ってみえる。いかしあえていない現状もわかってくる。

「いかしあうつながり」は生きていく指針かもしれません。だからちょっとした工夫で、一人ひとりが大切にされて幸せになれる世界をつくれる。ちょっとしたことから、自然環境を搾取しない暮らしを始められる。自分の心から、平和が広がり、普段の暮らしから、愛に基づいた世界がはじまる。誰にだって、できるし、どんなに小さなことからでもいい。

結局のところ、「いかしあうつながり」はまだまだ、仮説です。greenz peopleのみなさん、読者のみなさん、ライターのみなさんと一緒に探しに行って、深めていきたいと思っています。よかったら、一緒に行きませんか?

おわり