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読むことと書くことは変わらない。だからただただ”小さな物語”について考え続ける。

この絵はエゴン・シーレの『Self Portrait with Black Vase and Spread Fingers』という1911年の作品です。
私の自画像ではありません。

「作文」についてのエッセイを書いてくれと言われ、なぜ自分はライターをやっているのだろうかなどいろいろ考えた結果、この絵というかエゴン・シーレのことを思い出したのです。

絵画は、書くというよりは読むことについて重要な示唆を与えてくれます。そこまで話がたどり着くかはわかりませんが、いい絵でしょ?

書く

さて、なぜ、そしてどうやってライターになったのかという問いは、なぜ文章を書くのか、そしてどうしてそれを仕事にしたのかという問いへとつながりますが、なぜ文章を書くのかという問いは私にとってはなぜ生きるのかと同じような哲学的な問いです。

かつてフランスの哲学者リオタールは「大きな物語の終焉」を唱え、小さな物語の時代がやってきていると言いました。

「哲学を持ち出されてもわからないよ」と思ったあなた、大丈夫です。
私も理解できていませんから。
重要なのはリオタールではなく、小さな物語の方です。

私の理解によれば、大きな物語というのはみんなが同意する前提のようなもの。それに対して小さな物語というのは個人とか小さな集団の物語です。誰もが同意する大きな物語というものは存在しなくなり、小さな物語に世界は満たされるというのです。

リオタールがそう言ったのはもう30~40年も前ですが、そのようなことを今まさに肌で感じている人が実は多いのではないでしょうか?

私が文章を書くのは、その小さな物語を紡ぐことこそが生きることであると思うからです。そして、私は大きな物語などというものは端から幻想で、世界というのはもとより小さな物語で出来ていると思っています。だから私はずっと小さな物語を紡いできました。

しかし、これは実は文章を書く理由にはなっていません。なぜなら小さな物語は文字によって、あるいは言葉によって紡がれる必要は必ずしもないからです。絵画であれ、音楽であれ、写真であれ、そこに物語が存在すればよくて、さらに言えばただ生きているだけでもそれは物語でありえるのです。

でも、だからこそ私は文章を書くのです。

私にとって記事を書くこととは、観察して描写することです。映画についての記事であれ、インタビューであれ、観察する対象があってその物語を引き出して、それを自分なりの物語にして表現しているつもりです。

それは、誰かが紡いだ小さな物語を自分なりに織り上げる作業です。その作業によって初めて私は自分の小さな物語を紡ぐことができるのです。だから私は文章を書くのです。

映画『人生フルーツ』から引き出した物語とは?

伝える

さて、コミュニケーションやコミュニティの重要性が叫ばれる昨今ですが、文章というのは実はコミュニケーションには非常に不向きな表現方法です。

まず一方的だし、解釈の余地が広いし、面倒くさいし。

なので、何かを伝えたいという時に文章というメディアを選ぶのはあまり賢い選択とはいえないと思います。昔は文章くらいしか広告する手段がなかったので選ばれていましたが、今では他にいい方法がいくらでもあります。

でも、文章を載せようとかインタビューを文章で載せてもらいたいという人の多くは、そこに伝えたい想いというものがあります。

私に言わせればそれは勘違いなんですが、そのように勘違いしてしまうのも仕方がないことなのです。なぜなら、文章を読んだ時に何かが伝わったと感じる経験が誰しもにあるからです。

何かの文章を読んで「この人の言うこと、ほんとそうだよね」とか「この部分、ほんとわかるわー」とか思ったことが誰しもあると思います。そういう時に人は「この人の言いたいことはこういうことなんだ」と納得して、メッセージが伝わったと解釈するのです。

でも本当にそうでしょうか? 同じ文章を読んだ感想をいろいろな人に聞いたら、感想は十人十色だし、伝わっているメッセージも人それぞれです。そのどれがほんとうに伝えたかったことなのでしょうか?

さらにそれがインタビューだったら、書き手が私だったとして、私が伝えたいこととインタビュイーが伝えたいことは同じなのでしょうか?

辻信一さんのインタビューからは何が伝わりますか?

訊く

インタビューがわかりやすい例なので、それをもとに考えてみます。

インタビュイー(取材相手)は私に何かを伝えようとします。
想いなりメッセージなりを物語という形で。私はそれを受け止めます。
しかし十分には伝わりません。

私はインタビュイーの物語を自分なりに物語として織り直さなければいけないので、そのための材料を集めるために質問をします。

例えて言うと、インタビュイーが語る物語は真っ直ぐな縦糸です。それを織り直すためには横糸が必要で、その横糸を手に入れなければいけないのです。一部は質問で、一部は自分の内側から。

なるべくたくさんの材料を集めて、私は「この人は何が伝えたいのだろうか」と考えます。そして自分なりに考えたものを物語として文章に綴るのです。そこには二重の物語が存在しています。私の物語と、私に描写された人や人々の物語が。

そしてその記事を読む人も実は同じことをします。
ただ、読む人に与えられるのは縦糸だけです。
私が織り直した細く長い糸のような織物だけなのです。

それでも読んだ人はそれを自分なりの物語に織りなおそうとします。そうしなければ理解できないからです。理解しようとする人は、文章を読みながら横糸となる要素を自分の中から引っ張り出してきたり、時には文章を離れて調べたりして自分なりに編みながら読んでいくのです。そうすると読む人それぞれの物語がそこで織られます。

だから読む人によって織り上がる物語は異なります。そして、織り方が異なれば浮かび上がってくる縦糸の模様も違ってくるのです。

ヘレナ・ノーバーグ=ホッジさんからはちゃんと横糸を引き出せたでしょうか?

考える

結局何が言いたいのかというと、重要なのは物語を編むことだということです。読んだ人が物語を編んで初めて、その文章は意味を持ってくるのです。そして、読むことと書くことは実質的には同じだということです。

読むときも書くときも、より深くその物語を解釈するために必要なのはどれだけ横糸を引っ張り出せるかです。それを自分の内から引っ張り出すことを一般的には「考える」と言います。だから、読むときでも書くときでもいちばん重要なのはどれだけ考えられるかだと私は思っています。

でも現代人は考えるなんて面倒くさいことは嫌いです。だから、考えなくてもわかった気になれる「わかりやすい文章」が好きです。

私はこの「わかりやすい文章」というやつが嫌いです。なぜならそれは大きな物語の一部を切り取ったものでしかないと思うからです。大きな物語という了解(本当は幻想)にもとづいているから考えることなくわかった気になれるのです。

なので、文章を書く時に大事なのは読んだ人に考えてもらうことだと私は常々思っています。
そして、そのような文章を書くために必要なのは、物語を読んで考えることだとも。

ここで言う物語は文章である必要はありません。映画でも、絵画でも、写真でも、舞台でも、落語でも、漫才でも、大きな物語を切り取ったにすぎないものでなければなんでもいいのです。それらの表現にはすべて作り手それぞれの語り口や時間の流れがあり、それが物語を織り成しているのです。

それでは、冒頭で紹介したエゴン・シーレの絵が語る物語について考えてみてください。

そこから書くことは始まるのです。

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