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ホームレスのおっちゃんの作品に”グッとくる”!アートで釜ヶ崎の課題解決を循環させる「ココルーム」

インフォショップカフェ ココルームインフォショップカフェ ココルーム

特集「マイプロSHOWCASE関西編」は、「関西をもっと元気に!」をテーマに、関西を拠点に活躍するソーシャルデザインの担い手を紹介していく、大阪ガスとの共同企画です。

大阪・西成区にある“釜ヶ崎”あるいは“あいりん地区”と呼ばれる地域のことをご存じでしょうか? 2~3万人の労働者が暮らしドヤ(簡易宿泊所「やど」の逆言葉)が立ち並ぶ、日本最大の労働者の街です。かつては大きな暴動もあり、危ない街として認識する人も多いでしょう。

この街の商店街・動物園前一番街に灯をともす「インフォショップ・カフェ ココルーム(以下、ココルーム)」は、アーティストやニートの若者、ビジネスマンから釜ヶ崎の“おっちゃん”までが集うちょっと不思議なカフェ。カフェの母体は、詩人の上田假奈代さんが主宰する釜ヶ崎には数少ないアートNPO「こえとことばとこころの部屋 ココルーム」です。

「ココルーム」からは、若者の就労支援、釜ヶ崎の“おっちゃん”たちとのアート活動、詩のワークショップなどさまざまな動きが立ちあがっていきます。詩人である上田さんは、どうしてこの地域でのアートNPO設立に向かったのでしょうか?

カフェ?それとも福祉団体?
人によって見え方が違う「ココルーム」の活動

「ココルーム」が運営する「カマン!メディアセンター」「ココルーム」が運営する「カマン!メディアセンター」

友人に連れられて、私が初めて「ココルーム」を訪れたのは2年前。「ここまでオープンな場はそうそうないな」というのが第一印象でした。若者たちと労働者のおっちゃんたちがごく自然に会話をし、夕方になると数百円で提供されるまかないごはんを食べる人を募ってわいわい食べる。「ここにいていい」という安心感のようなものがあるのです。

カフェの向かいには、同じく「ココルーム」が運営する “井戸端コミュニケーション”の場「カマン! メディアセンター」があります。ここでは毎日のようにバザーやワークショップが開かれ、道行く人たちが立ちよっておしゃべりをしています。上田さんのインタビューもここで行ったのですが、途中何度もおっちゃんやおばちゃんたちが現れておしゃべりをしていきました。

このオープンさゆえに、「ココルーム」には「ここなら何とかしてくれる」と「ありとあらゆる難題」からイベント企画までなんでも持ち込まれてきます。それに対して、上田さんたちがしているのは「話を聴く」こと。困りごとに対しては解決の糸口となる専門家へとつなぎ、社会での生きづらさに悩む若者の話を聴くうちに就労支援事業を立ち上げてきました。

「ココルーム」を福祉や就労支援の団体だと思っている人もいれば、喫茶店だと思っている人もいます。「ココルーム」の活動はかなり反応的。周りから見たらぐらついていくかのように見えるでしょうね。でも、「たまたま聴いちゃった」「つい質問してしまった」とか。“聴く”という態度から立ち上がってくるものが面白いなと思っていて。“聴く”という主体はあるわけですよ。「それを聴いてあなたはどうするの?」というのがあるから。

出発点は「アートの可能性を探りながら仕事場も作る」

「ココルーム」代表・上田假奈代さん「ココルーム」代表・上田假奈代さん

ココルームが生まれた場所は、かつて大阪・新世界にあった複合商業施設「フェスティバルゲート」。2003年に、大阪市がまだ評価の定まらない現代アートの拠点形成を行う「新世界アーツパーク事業」に誘われたのです。

全国初の公設地民営(家賃、光熱費を行政が負担)というしくみを取り入れたこの事業には、音楽、コンテンポラリーアート、メディアアートのNPOも参加しました。

「公共性を担うにはどうすればいい?」と考えた末、とにかく毎日場所を開いてみんなに使ってもらおうと思ったのね。じゃあ、おうちごはんを出すカフェを作れば、アートスペースを作るより人が集まりやすいし少しはお金を落としてくれるから、毎日オープンできるかもしれないと考えて。カフェを併設した展示・舞台スペースを開いたんです。

音楽や演劇などの活動をする人たちは、フリーターで稼ぎながら余暇を使ってアート活動をすることが多いもの。上田さんには、「この社会の枠組みのなかで身を削ってアート活動をする」状況をなんとかしたいという気持ちもありました。

少ないお金でもお給料を出し、まかないごはんで食費を抑えながら活動場所を提供して、アートの可能性を探りながらみんなの仕事場を作ろう。この思いを出発点に「ココルーム」はスタートしました。

釜ヶ崎との出会い「なぜみんなホームレスの話題をタブーにするの?」

「インフォショップカフェ ココルーム」がある動物園前一番街商店街「インフォショップカフェ ココルーム」がある動物園前一番街商店街

やがて、「ココルーム」をはじめ他のアートNPOとの交流のなかで、海外から来たアーティストがカフェに立ち寄ったり公演したりと、フェスティバルゲートはアートセンターのような役割を担いはじめました。同時に、上田さんはこの街で見かけるホームレスの多さに驚き、また「誰もホームレスのことを話題にしない」ことに疑問を持ちます。

カフェには、釜ヶ崎で日雇い労働者を支援する人たちも現れるようになりました。上田さんはコーヒーを運びながら「釜ヶ崎とは何だろう?」「なぜ、この街にはホームレスが多いのだろう?」と少しずつ学び始めました。

1969年生まれの私はまさに高度経済成長の恩恵に預かった世代。釜ヶ崎は、それを支えてくれていた街なのだとわかってきて。彼らがバブル崩壊後に、高齢化して働けなくなっても「自己責任だ」と言われながら野宿している。この状況に私も加担してきた側だと思うと、避けてはいけない問題だと思ったのね。

2004年になると、「ココルーム」は釜ヶ崎への取り組みは本格化します。同年、ホームレスが販売する雑誌「THE BIG ISSUE JAPAN」が創刊されると、上田さんはすぐに周知イベント「reading THE BIG ISSUE」を企画。二回目には、生活保護者グループ「かまなびごえん」の紙芝居劇、野宿生活者の朗読パフォーマンス、ホームレスのピアノ演奏や「ビッグイシュー」販売員の語りを行います。

これをきっかけに、「ココルーム」は釜ヶ崎でのアート企画コーディネートを引き受けるようになりました。

みんなの悩みを解決することから生まれた「就労支援事業」

フェスティバルゲート時代の上田さん(牧田清氏撮影)フェスティバルゲート時代の上田さん(牧田清氏撮影)

スタッフ、ボランティア、お客さんなど「ココルーム」に関わる人の共通の悩みは“仕事”。お金にならないアート活動のためにフリーターを続けて30代を迎えた人。コミュニケーションがうまくいかず就職がままならない若者たち。「ココルーム」は彼らとの対話のなかで、「一人で思い悩むよりはみんなで話してみようよ」と「みんなでしゃべる場」を作るなど、 人間関係の問題にも取り組みはじめました。

2005年に厚生労働省が「ニート対策」を打ちだしたことを受けて大阪市が公募を行うと、「ココルーム」はこれらの取り組みをまとめて「就労支援カフェ・ココルーム」として提案。3年間にわたって就労支援モデル事業の委託を受けることになりました。ところが、ようやく活動が軌道にのりはじめた「ココルーム」に突然大阪市から「新世界アーツパーク事業」の打ち切りの知らせが届きます。

私たちはフェスティバルゲートにいたい。だから、「この場所に必要な公共性のあるアートNPOの仕事と何か?」を考え始めたのね。フェスティバルゲートの半径1~2キロのなかには、再開発地域、釜ヶ崎、同和地区や飛田遊郭など、近代化のゆがみ、澱のようなものがたくさん落ちている。だとしたら、このビルは近代化によって失われたものを取り戻すビルになればいいと思ったの。

アートNPOだけではなく、さまざまなNPO活動や企業、大学のサテライト。また、少子高齢化が激しい地域であることを考えて、子どもを預かる保育園や乳児院、高齢者のデイサービスや老人ホームも入るビルになればいいのではないか? 「ココルーム」は他のアートNPOと協力し、これらの構想を大阪市に提案するなどして、フェスティバルゲートでの活動継続の道を模索します。

しかし、2007年には「完全撤去」という結末を迎え、7人いたスタッフは全員退職。2008年1月、上田さんはひとり、釜ヶ崎の小さなカフェに移り「ココルーム」第二期を迎えることになりました。

講師に美術家・森村泰昌氏も! 学びあいの場「釜ヶ崎芸術大学」

釜ヶ崎芸術大学のようす釜ヶ崎芸術大学のようす

2008年は、釜ヶ崎では15年ぶりの暴動、秋にはリーマンショック、年末は年越し派遣村の開設と暗い事件が続きました。「ココルーム」を開く上田さんの元にやってくるのは釜ヶ崎のおっちゃんたちばかり。「警察沙汰ばっかり起きるし、いろいろあったよね」と上田さんは振り返ります。

「釜ヶ崎が抱える問題に向き合いたい。この社会のなかで、恵まれた環境にあるわたしは、抑圧され排除されてきた人たちのことを何ひとつ考えずに、自分だけのびやかに表現できていればいいのか?」そんな思いを胸に、上田さんはコツコツとアートで釜ヶ崎に関わる仕事を増やしていきました。

抑圧された状況にある人たちが勇気を振り絞って自分の気持ちを表した作品にグッときちゃうの。言葉を奪われて、もしくは発すること自体がなかった人たちが自分の気持ちを表すのを見て、私自身がよくわかんない気持ちをうまく言えなくて苦しんできたことと重ねちゃうんでしょうね。それに、実はアートに触れることなく生育してきた人とハイアートのアーティストが出会って何かつくるととめちゃくちゃ面白いんです。

昨年から今年にかけては「釜ヶ崎芸術大学」を開催。全25回の講義を担当した講師陣は、天文学者の尾久土正己氏、宗教学者の釈徹宗氏、美術家の森村泰昌氏、音楽家の野村誠氏やファッションコーディネーターの澄川小百合氏など、そうそうたるメンバーです。もちろん、上田さんも詩人として詩の講義を担当しました。

おっちゃんたちの学び欲はすごいから、講師の方々も教えていて楽しかったようです。「釜ヶ崎芸術大学」が終了した後も、お世話になった講師の先生方の本を回し読みする「釜芸自主ゼミ*推薦図書を読む!」を開いています。

「誰かの話を聴く」ことから課題を発見し解決のしくみを考えていくという「ココルーム」の循環は、たしかな足取りで釜ヶ崎の街との関わりを深めています。

詩人の仕事とは「自分の命に働きかけること」

詩のパフォーマンスを行う上田假奈代さん詩のパフォーマンスを行う上田假奈代さん

最後に、詩人としての上田さんについて書きたいと思います。

上田さんは、20代のほとんどを京都でコピーライターとして働きながら、詩人として活動。「詩を仕事にすることはムリだ」と諦めていたと言います。そんな上田さんに転機が訪れたのは2001年。詩人仲間の若者の自殺という事件でした。

「僕、詩を仕事にしたいんです」と相談されたのに、いい返事ができなかったのね。そして、私と話した一週間後に飛び降りて亡くなったという知らせが届いたの。「あの時なぜ、大変やけどがんばりなさいねと言わなかったのか」とすごく悔まれたの。なぜ「詩人は食えない」と思いこんで可能性を信じなかったのかと思い「詩人の仕事とは何か?」を深く考え始めたんです。

誰もが人生を生きるなかで、深く落ち込んで「自分が死んでも明日また太陽が昇って世界は動いていく」と思うことがあります。でも、「たった一行の詩の言葉、誰かのひとこと」で思いとどまることもまたあります。

上田さんは「自分の命に対して働きかけをするのが詩人の仕事。そういうことを24時間集中してやりたい」と思い至り、コピーライターを辞めて「詩業家宣言」。「詩をなりわいにする」ことを模索し始めた1年後に「新世界アーツパーク事業」に参加したのでした。

インタビューの最後に、改めて「上田さんにとって詩を作ることは?」と問いかけてみました。

詩を作ることは生きることかなぁ。生きることをくっきりすること。もう一度細部をていねいに見つめることだったり、深さをさぐることだったり。それが「生きていることの実感」になる。昨日は持っていなかった感覚を今日は持っているという、この瞬間のかけがえなさがすごく大事だから、書きつけておきたいのかしら?

上田さんにとっては詩を作ることも「ココルーム」で活動することも同じく「生きることをくっきりさせること」なのだと思います。あるいは、誰にとっても仕事とは「生きることをくっきりさせること」なのかもしれません。

みなさんは、「生きることをくっきりさせる」ためにどんなことをしていますか?