「最近観て号泣した映画は?」と聞かれたら、私は迷わず『トゥルーノース』と即答します。
『トゥルーノース』は、北朝鮮の政治犯収容所で、過酷な状況をサバイブしていく家族を描いたアニメ映画です。そう聞いた瞬間、「ちょっと苦手かも…」と思われた方もいらっしゃると思います。その気持ちも、とてもよくわかります。
私は20代から北朝鮮をはじめとする独裁政権に関心があったけど、それだけではこの映画を観ることはなかったでしょう。『トゥルーノース』を観た最大の理由は、プロデューサーであり監督兼脚本家でもある清水ハン栄治さんの作品だったから。じつは、清水さんの前作『happy-しあわせを探すあなたへ』(以下、『happy』)というドキュメンタリー映画は、私の人生を変えるぐらいのインパクトがあったんです。
実際に私は、それを観たことがきっかけで14年間勤めた出版社を辞め、英語もほとんどわからないのに、37歳でカリフォルニア大学バークレー校の心理学部を目指すことを決めました(大学で学んだあとは、家を引き払って、約2年弱、禅センターやスピリチュアルセンター、ナバホ族の集落などを渡り歩くことに。リアル『happy』生活となって、現在に至ります)。
だから今回もまた、自分にどんな変革が起きてしまうのだろうと若干怖かったんですが、清水さんの作品なら観ないわけにはいかないと、内心ビクビク、スピリットは前のめりで鑑賞しました。
そして、いざ映画を観たら、大号泣です(2回泣きました。マスカラはウォータープルーフでぜひ!)。重たいテーマで気持ちは沈んでいるのに、同時に「清水さん、この映画をつくってくれてありがとう!」「生きているってすばらしい」「なりたい自分でいよう(登場人物のセリフより)」と生命力が湧き上がってきて、なぜかハッピー。これは、作品を観れば体感できる不思議な感覚です。
できない現実ではなく、やりたい熱意を形に。
私の人生を変えた映画プロデューサーの最新作。
でも、いったいなぜ私は、重たいテーマなのに、気持ちがハッピーになったのでしょうか。それはずばり、この映画をつくった清水さんの人柄や生き様そのものが、映画の中にしっかり込められていて、その奥底にある思いが伝わってきたから。
清水さんの作品を観ると、言葉が何かを教えるのではなく、その人の人生経験丸ごとが教えてくれるのだなぁと思い知らされます。そして、その偽りのない思いが作品に自ずと現れたとき、本でも映画でも記事でも、観た(読んだ)人の心をグイっと動かして、人生の何かを変えてしまう力になるんだなぁと。
たとえば清水さんは、アニメをつくったことも脚本を書いたこともなかったけど、情熱に突き動かされて作品をつくってしまうし、ディズニーアニメ映画『ムーラン』の音楽監督マシュー・ワイルダーに直談判して起用を実現しちゃったりもする。さらには10年間も完成するかどうかもわからない状態で、映画の製作費にどんどん貯金を注ぎ込んじゃったりもする。
そんな生き様を見ていると、「この人って怖いものなしで自分とは違う超人なの?」「どんなマインドでいればそんなことがやれるの?」「仕事とか幸せとか生きることを、清水さんはどう捉えているんだろう?」と、伺いたいことが山ほど出てきました。
そこで今回はインタビュー形式で、私の疑問のすべてをストレートにぶつけてみました。在日4世としての清水さんのライフストーリーや、映画『トゥルーノース』制作の苦労、秘められた思いなどをお届けします。「やりたいけどできなさそう」「本心とは違うけど変えられない」と何か前に進めないことがあっても、読めば迷いが吹っ切れて、きっと元気になれるはずです。
清水ハン栄治(しみず・はん・えいじ)
1970年、横浜生まれ。「難しいけれど重要なことを、楽しくわかりやすく伝える」をモットーに映像、出版、教育事業を世界で展開。2012年より62か国で公開され、世界の映画祭で12の賞を獲得した『happy-しあわせを探すあなたへ』をプロデュース。人権をテーマにプロデュースした偉人伝記漫画シリーズは世界15言語に翻訳されている。
土居 清水さんは、映画のほかにも、ダライラマ14世やガンジーなどの漫画をつくられて、チベットやパレスチナなどの人権問題を発信してこられましたよね。初監督作品となる本作の製作は、10年ほど前に国際人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」から「北朝鮮の人権問題をどう思う?」と声をかけられたのがきっかけだと伺いました。漫画に比べて、アニメ映画はコストも手間も比べ物にならないぐらい必要だと思います。どんな苦労がありましたか?
清水さん はじめは正直言って、尻込んでいました。『happy』のときは、出資者ありきでスタートしたので、映画をプロデュースしたといっても、本当の苦労を知らずにいたんです。今回本当に大変だったのは、お金集めや配給先を決めるといった、プロダクション以外のことでした。
僕はそこの大変さを知らずに入っていっちゃった。でも、「無知でナイーブ」であることってじつはとてもパワフルだとも思っているんです。土居さんも『anan』の編集者を辞めていきなりバークレーに行っちゃうとか、むちゃくちゃ苦労されたと思いますが、でもなんとかなっちゃったっていうところもありますよね。僕もそう。で、今に至ります。なんでも頑張れば、やっぱり形になるんだなって。
とはいえ、制作期間の10年のうち、5年以上は資金集めや協力者づくりに費やしました。出資者を募ると、面白そうなテーマだから興味はもってもらえるんだけど、でも北朝鮮だしな、ちょっと危なっかしいなって却下されることが何度もありました。それは、ヨーロッパでも韓国でも日本でもアメリカでも同じで、いよいよお蔵入りかな、潮時かなっていう時が何回もありましたね。
でも、作品のデモ画像とかサンプルトレーラーをつくっていくと、無機質な3Dデジタルのキャラクターたちが、生命を持ち始めたんです。「できるかどうかわからないもんに自分のお金と時間を注ぎ込んでもなぁ」って思っても、夜、夢の中に 登場人物のミヒ(主人公ヨハンとともに政治犯収容所に連行された優しい妹)が出てくるんです。それで「オッパ(兄さん※)、なんで諦めちゃうの?」とか言ってくるんですよ。
(※)韓国語で年下の女性が年上の男性に対して親しみを込めて呼ぶ言葉
清水さん 彼らは生身の人間ではないけれども、僕がつくった血の通った生命体。だから待ってろ、おっちゃんが助けに行くからな、と決意が固まっていきました。そうすると、それまではいかに多くのお金を集めるかにフォーカスしていたんですが、それが低コストでどうつくれるかに変わっていったんです。それでインドネシアの優秀なアニメーターにお願いして、ありえない低予算で完成しました。
土居 実際に収監されていた4名の方にインタビューし、日本や韓国で暮らす30名の脱北者の方にも取材されたと聞きました。取材内容をもとに、公開処刑のシーンなども忠実に再現されたとか。それならば、前作のようにドキュメンタリー映画として制作してもじゅうぶん成立したと思いますが、なぜ、アニメという形を取ったのですか?
清水さん 言語を英語にして日本語字幕にしたのも同じ理由からですが、年齢も人種も、なるべく幅広い人たちに観てもらいたいという想いがあったためです。じつは、取材した内容を実写やドキュメンタリーで描くとあまりにも残酷すぎてホラー映画になっちゃうぐらい酷くて、誰も観ないなと思ったんです。感情が揺さぶられてほしいんだけど、観賞後のトラウマを残したくはなかった。だからアニメという形を選びました。
とはいえ、オブラートに包みすぎたり、現実味が薄れすぎたりして、「アニメのお話」だと思われると、今世紀最大の人権蹂躙ともいえる北朝鮮の収容所の話が「まぎれもない事実」だということが伝わらない。
だからアニメの素材感を工夫しました。デフォルメしすぎず、かつリアルにしすぎず。何バージョンかつくってみたら、3Dだけどポリゴン(多角形の面)の数を少し減らし、カクカクした折り紙みたいな素材感にしたのがいちばん良かった。そうしてできたのが、現在の造形です。
完成後に、協力していただいた脱北者のみなさんにも観ていただきましたが、「涙でマスクがぐじょぐじょになった」「北朝鮮の知られざる現実をここまで正確に表現した作品は今までなかった」と高く評価していただけました。
土居 北朝鮮を描いた風刺映画『ザ・インタビュー』が、2014年に北朝鮮のサイバーテロにあって公開中止になったという事件がありましたよね。出資候補者たちが尻込みしたというお話もありましたが、清水さん自身にはそういう怖さはありませんでしたか?
清水さん 怖いなっていうのはありましたね。ちょうど東南アジアに住みながらつくっていたので、ジャカルタやバリ島、日本を行ったり来たりしていたんです。エアアジアの格安チケットを利用していたんですが、その中継地点がクアラルンプールなんですよ。通るたんびに、「ここで金正男(※)が殺されたんだなぁ。怖いなぁ」と思っていました。
(※)北朝鮮のトップである金正恩朝鮮労働党委員長が暗殺に関与したと疑われる異母兄のこと。金正恩委員長は、容赦なく親類を粛清し、政権を維持している。
それで、ちょうど彼が暗殺されたチケットカウンターの前で、替え歌をつくったんです。マドンナ主演の映画『エビータ』の『Don’t Cry for Me Argentina』をパロって“Don’t Assasinate Me, North Korea (私を暗殺しないで、北朝鮮)”って熱唱して1分の動画にして。それを2017年秋のTEDレジデンシープログラム(※) に送ったんです。
(※)14週間NYにあるTED本部に滞在し、世界中から先行された選出者(2017年秋は清水さん含めて14名)とともに意見交換する。またTED公式イベントでの発表も行う
清水さん かなりの難関で選出されるのは難しいみたいなんですけど、突拍子の無さを気に入られて受かっちゃった。怖いのをそのままにしていたら怖いだけだけど、恐れも活用してやろうと思ったんですよね。
非凡な天才でも、器用な人間でもないから、在日4世という出目、
コンプレックス、ユーモアなど、個性のすべてを作品に注いだ。
土居 さすがですね(笑) 一般に私たちは自分のポジティブな一面は表に出すけど、ネガティブな一面は隠そうとしますよね。でも清水さんは逆境でもチャンスでもなんでも活かされるというか。清水さんご自身も在日4世(※)というルーツをもてあましたときがあったと伺いましたが、この作品では個性のすべてを総動員されています。そしてそれが大きな力になっている。
だからこれは清水さんにしかつくれない作品ですし、そのひたむきなエネルギーが私たちの胸を打つのだと思います。
(※)30歳のときに、世界中を旅するのに便利だと考えて日本国籍を取得。そのためミドルネームとして韓国姓のハンを使用。悪意はなかったとわかってはいるが、当時は知人のひとりから「おめでとう。やっと日本人になれたね」と言われた。
清水さん 持っているものを総動員しなきゃつくれなかっただけです。脚本を書いたのも今回が初めてだったし、映画をバンバンつくれたり、小説家みたいに新しいストーリーをどんどん生み出せるほど器用じゃない。となると、少ない引き出しでやらないといけないから、もっているネタを総動員して使わなきゃならないんですよね。
たとえば知識だけじゃなくて、自分のコンプレックスとか、自分でも嫌だなぁと思う一面とか、でもここはいいじゃないって認めているところとか、そういうものを全部いったん出して、一生懸命つくり上げた感じです。知識がある人なら、これもあれもってストーリーが描けるけど、僕にはただ、それができなかったんです。
清水さん ちなみに、前作『happy』をつくっているときは、自分をモルモットにしていろいろな幸福度を上げる実験をしたんです。
脳科学の先生に「瞑想がいいよ」と言われたら瞑想の資格を取ったし、「ポジティブ心理学を学ぶといいよ」と言われたらそれも学んだし、「おいしいものを食べると快楽物質のドーパミンが出るよ」と言われたら、どんどんおいしいものを食べました。恋もいっぱいしました。「南国は素敵だよ」と言われたので、ついにはバリ島にも移住しました(笑) そういうことを全部やっていったんです。
清水さん すると、確かに恵まれていたし幸せな気分にもなったけど、まだほかのディメンション(面、次元)の幸せがあるなって思って。それがサービス(奉仕)やヒューマニティ(人類愛や慈悲)だなぁと気づいたんです。そこから、北朝鮮の人権蹂躙を世界に訴えたいという『トゥルーノース』プロジェクトにつながるのですが、じゃあ、このプロジェクトで僕がいかにサービスできるかとなると、自分の存在意味を探っていくことになったんですよね。
だからこの作品で、僕という人間が何でできているかを分析せざるを得なくなりました。人生の棚卸しですよね。この年齢で、男性で、日本に生まれたけど在日で、こんな性格をしていて、こんな仕事して、こんな失敗があって、こんな成功があって……と棚卸ししていくうちに、ぼんやりと人生に起きた偶然的な要素のすべてが、この作品で整合性が取れたんです。
たとえば自分には、外国語が喋れて、MBAがあって、ある程度ビジネスのこともわかっているという要素があるので、外資系のサラリーマンっていう人生も考えられるでしょう。でも、だったらなんで在日? なんでメディアの仕事をかじってたの? っていうふうに、僕にはそこの適性からはみ出す一面もたくさんあるんです。
ところがこの作品では、そういう不適合要因を含めた自分を形づくるすべての構成要素がつながった感覚があったんです。だから僕の全要素が活かされたと思っていただけたのかもしれません。
そうなると絶対的に迷いがなくなるというか。この映画をつくることがもはや自分の存在理由で、それが見つかってただただ幸せだという思いが作品づくりのものすごい原動力になりました。これほど導かれているのに、やらないのは本望じゃないよなって。それで自分のお金を注ぎ込んでやり始めたんです。
土居 前作『happy』では、お金や社会的地位などの外的な状況は、幸福度の1割程度しか影響しないとありました。
とはいえ、1割は左右するということですよね。マズローなどの心理学者も、自己実現するには、安全や生理欲求などの基礎的な欲求をまず満たす必要があると語ります。ところが少年ヨハンは、政治犯収容所という最悪の状況でも人間性を取り戻せました。外側のものごとには左右されない悟りを得た覚者のようですが、そんな彼の姿から何を描きたかったのでしょうか?
清水さん 普通は難しいですよね。ある意味ヨハンは超人類だと思います。腹が減って、体が疲れて痛くてたまらないってなったら、普通あんなふうにニコニコできないですよ。でも彼はしちゃう。自分の目指す究極の姿として彼を描いたんです。
それに比べて今の僕らの生活は、コロナがあったりして大変は大変だけど、多くの人は餓え死んでいるわけじゃないですよね。野犬に襲われて食われそうとか、家に帰ったら処刑されるとかではない。となると、僕らの幸せや不幸を決定づけているのは、自分の心が生み出すクリエーションの部分が大きいと思うんです。つまり、実体が伴わない。
もちろん社会的に恵まれない人はいるし、経済格差はあります。孤独を感じている人がいらっしゃるのも事実です。でも、大半の不幸は自分の中で創造していて、そこに溺れているという心のからくりによるものなんじゃないかな。
僕が好きな「Pain is inevitable. Suffering is optional(痛みは避けられない。苦しみは選択する余地がある)」というダライラマ法王の言葉があります。ヨハンは別格としても、苦しみを客観的に捉え、上から下から斜めからと観察してみると、僕らだって心のあざむきの構造に気づけると思います。
土居 それとヨハンは、“いちばん怖いものの正体=死”を直視したことが大きかったのかなと思いました。彼はもっとも大切な家族を亡くして、さらにボコボコに殴られて横たわりながら、バッタの死体にアリが群がっていく姿に、新たな始まりとしての死というか、生成消滅を超えたところにある生を見て、悟りを得ます。私はこのシーンが、仏教の縁起、諸行無常のような感じで、仏教僧が風葬場に一晩中座り、死体の腐敗のプロセスや鳥獣に食われるさまを黙想する修行の様子と重なったんです。
いずれ「必ず死ぬ」という運命が避けられないからこそ、
与えられた時間を「どう生きたいのか」に向き合える。
清水さん 仏教のすごいと思うところは、諸行無常という大テーマがありながら、それでおしまいじゃないところだと思います。いくら若いときは元気で調子が良くても、みんな年老いて病気になり、死ぬというサイクルを繰り返す。愛する人だっていずれは必ず死んでしまう。仏教は、そう説くわけじゃないですか。それだけだとお先真っ暗な感じですよね。でも仏教はそのあとに「じゃあ君はどう生きるの?」と説きます。
ヨハンはその問いを真正面から捉えて自分ごととして生きている。この作品の内容は北朝鮮の収容所の話ですが、僕は大テーマとして「生きる意味ってなんだっけ?」ということを強く打ち出したかったんです。すべては滅するという絶対に逃れられない生死のサイクルの中で、自分に与えられた時間をどう生きたいのか、それを考えてもらえたらいいなと。
『トゥルーノース』というタイトルには、2つの意味がこめられています。ひとつは「ニュースでは報道されない北朝鮮の現実」。そしてもうひとつは「Find your true north(人生で本当に大切なものを見つける)」という英語の慣用句からの「人生の羅針盤」です。
完成まで10年かかったし、僕はいい歳になってから映画製作に関わるようになったから、死ぬまでに何本、映画がつくれるのかなと自問するんです。だから、『happy』では「幸せとは何か?」、『トゥルーノース』では「人は何のために生きるのか?」という普遍的な問いを、人生をかけて追究したいなとなりました。
土居 人生の羅針盤といえば、ヨハンのお母さんが死に際に遺した「誰が正しいとか間違っているじゃないの。誰になりたいかを自分に問いなさい」という言葉に、号泣しました。私たちはともすれば正しいか間違っているかという議論に陥りがちですよね。この政府は正しくて、あの政府は間違っている。この描き方は正しくて、あの表現は間違っている。お前はどっち派だ? というように。このセリフはどんな背景で生まれたんですか?
清水さん 自分ができていないことをお母さんに言ってもらったという感じです。だって、揉めごとがあって、「俺のほうが正しい」、「お前のほうが間違っている」っていう言い争いになるって誰にでもあることじゃないですか。
深い部分では、泰然自若とする理想像があるんだけど、そこにはなかなか辿り着けず、「いや、俺のほうが正しいし」で止まっている自分がいたりして。そんな一面をお母さんに叱ってもらいたいと、自分ごととして生まれたセリフなんです。
その後にミヒが「逝っていいよ(You can let go)」とお母さんに死に逝く許可を与えるセリフがあります。これは、チベットにある死者の送り方に倣いました。僕らは亡くなろうとする人に「逝かないで!」って言っちゃいがちなんだけど、それがいちばんの禁句だと教わったんです。本人だって嫌でも抵抗できないわけだから、看取るほうは悲しくても、心穏やかに送り出してあげることが大事なんですね。親父を3年前に亡くしたんですが、そのときはそういった気持ちで見送りました。
清水さん 死という神聖なひとときを大切にし、いかに愛情をかけて安らかに旅立ってもらうかってすごく大事なことだと思うんです。前作『happy』でもテーマのひとつとして取り上げましたが、この作品でも死を直視したあとのヨハンの変化として、収容所の仲間たちを看取り続ける姿を描きました。
土居 ヨハンとは逆に、気のいい青年だったリーが洗脳教育を受け、囚人のレイプも処刑も日常茶飯事の収容所の看守として残忍になるさまも描かれていました。条件さえ整えば、人はよくも悪くもなる同じコインの裏表という現実を突きつけられたように思います。では、人生の羅針盤が指す方角を左右するものは何だと思いますか?
清水さん 自分で考えるかどうかだと思います。「思考する」って人間としてすごく尊いプロセスだと思うんです。この映画のインスピレーションになったのが、ナチス政権下のユダヤ人強制収容所の囚人であった、精神科医ヴィクトール・フランクルがその体験を綴った『夜と霧』です。彼は家族と引き離され、さらには全員を収容所で亡くし、身も心もボロボロになるんです。そこで彼は、この極限状況は、人の心はなんたるかを見る最高の場所なんじゃないかと羅針盤の向きを転換させた。そして囚人たちの心の機微や所業を観察したんです。
すると、空腹で飢える子どものパンをぶん殴って奪って食べる人もいたし、凍った湖で溺れる仲間を命を張って助ける人もいた。ここで面白いのが、それが同一人物だったということなんです。つまり人には、善人にも悪人にもなれる振り幅があるのだと。
では囚人だけでなく、ユダヤ人を虐殺した側はどうだろう? じつは、ゲシュタポのユダヤ人移送局長官だったアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴したジャーナリスト(※)もまた、彼を相当な悪人かと思っていたら、実際は思考停止しただけの凡人だという結論に至って絶句するんです。
(※)ジャーナリストのハンナ・アーレントは、1963年、雑誌『ザ・ニューヨーカー』にアイヒマン裁判記録を連載。そこに描かれたアイヒマンの姿とは、600万人以上のユダヤ人を殺した極悪人というよりもむしろ、妻に花を贈るような普通の小市民だった。アーレントはこの現象をBanality of Evil(悪の凡庸さ)と呼び、「悪は悪人がつくり出すのではなく、思考停止の凡人がつくる」と述べた
看守のリーも、普通の気のいい青年なんですよ。でもあるとき考えるのを止めたことで、どんどん悪いことをしてしまう。洗脳教育を受けて、それを信じている人もいるでしょうが、たとえ信じられなくても「もう無理だ」と、自分のロジックで考えることを放棄している人も多いんです。
つまり、僕だって彼のようになりうる。空腹でこれを食べないと死んじゃうってなったら、目の前の子どもが食べているパンをぶんどって食べちゃう自分なんて、全然想像できちゃうんですよね。一方で、仲間を助けようと湖に飛び込む自分もイメージできる。
心の針をどっちに向けようって決めるときには、「あの子も3日間、何も食べてないんだろうな」とか「盗んだらあの子の母ちゃんが悲しむよなぁ」っていうふうに考えて、心をコントロールすることが大切だと思うんです。そしたら行動につながる。それがマインドフルネスという気づきであるし、「どっちを選びたいのか?」と自分で「思考する」ことだと思います。
世界中で起きている痛ましい出来事や歴史上の悲劇というのは、そんなふうに人間が考えるのをやめちゃったことで悪化したものではないかなと思うんです。
土居 「おかしいな」と考えるには、システムのちょっと斜め上、外れているところからの視点が必要になりますよね。それは、清水さんが先にお話されたアニメ映画を完成できた理由の「無知でナイーブっていうのは、じつはとてもパワフル」にもつながるように感じます。
清水さん アニメ業界でも「ポッと出の素人のおっちゃんが長編アニメなんてつくれるわけない」という固定観念みたいなものがあります。でもそれに乗っちゃうと、この映画はできなかったわけです。
知らなかったがゆえにラッキーだったというのもありますが、加えて、思考停止せず「ホントかな?」と考えられたことは大きいです。つまりはデカップリング(分離)といって、連動性の強いものを切り離す思考法です。
「できっこない」という強烈なルールに自分を当てはめたら、もう絶対、そこから考えるのをやめちゃうじゃないですか。もちろん先人の知恵を受け入れないといけないこともあります。そっちのほうが効率だっていいかもしれない。でも、そこで流されすぎずに「ホントかな?」って一度自分で考えてみることは、“誰になりたいか”そして“どう生きたいか”を問ううえでもとても大切なことだと思います。
『トゥルーノース』を観ながら、その世界にグイグイと引き込まれるうちに、北朝鮮の政治犯収容所とは、異国の惨劇というより、私の中にある「自分さえよければいい」という暗さや都合の現れではと、心がえぐられました。しかしなお観賞し続けると、最初は自分勝手でちょっと嫌なヤツだった主人公のヨハンが、自分という枠を個人から家族、友だち、そして囚人たち全員と希望を持って拡大していく姿に胸を打たれました。
さらに作品では、囚人と看守の間に新しい命が誕生する様子が描かれ、ついには敵か味方かという境界すら溶けていきます。社会的要素に条件づけられないヨハンという存在で現される愛のカタチを見届けるうちに、私の心の傷口は軟膏を塗られたように、優しく癒されていきました。
そして私が号泣したのは、クライマックスです。この作品は、最後の最後に大どんでん返しがあるんです。それは観てのお楽しみ。映画を観て泣いたり、笑ったり、怒ったり、感動することは、まさに私たちが生きているという証しです。ぜひみなさんの目と耳と心で味わってください。きっとあなただけのトゥルーノースが動き出して、生きる希望の方角を指し示してくれるはずです。
– INFORMATION –
6月4日(金)よりTOHOシネマズ シャンテほか全国公開
監督・脚本・プロデューサー:清水ハン栄治
制作総指揮:ハン・ソンゴン
制作:アンドレイ・プラタマ
音楽:マシュー・ワイルダー
声の出演:ジョエル・サットン、マイケル・ササキ、ブランディン・ステニス、エミリー・ヘレス
94分/2020年/英語(日本語字幕)/日本、インドネシア
配給:東映ビデオ ©︎2020 sumimasen