「デザイン」や「編集」という概念を、企業の経営や個人のあり方に活かし、社会的価値を創造し、提供する。一見漠然としているようですが、この価値観を共有する者同士がひとたび出会えば、業種の垣根を乗り越えて新しい関係性が動き出します。
グリーンズのビジネスアドバイザー・小野裕之がビジネスの実践者にお話をうかがう本連載。今回のゲストは雑誌『Re:S(りす)』のほか数々のプロジェクトに携わってきた編集者・藤本智士さんをお招きし、キャリア論や働き方、そして「編集の力」についてうかがいました。
意外にもリアルな付き合いが始まってからまだ日が浅いという二人ですが、共通する友達の多さや、瞬時に相手の話を理解するある種の〝共通言語〟を用いて、流れるように会話が進みます。
会場は、二人が企画・プロデュースとして参加しているイベント「Fermentation Tourism NIPPON」の展示会場。キュレーターの小倉ヒラクさんが日本全国を旅して見つけた全国の発酵食品に囲まれながらの対談となりました。
どうぞ、二人と一緒におしゃべりしたような気持ちで楽しんでください。
1974年兵庫県生まれ。編集者。有限会社りす代表。雑誌『Re:S』編集長を経て、秋田県発行フリーマガジン『のんびり』、webマガジン「なんも大学」の編集長に。著書に『魔法をかける編集』(インプレス)、『風と土の秋田』『ほんとうのニッポンに出会う旅』(共にリトルモア)、『るろうにほん 熊本へ』(ワニブックス)、編著に『ニッポンの嵐』(KADOKAWA)ほか多数。
編集者になった最初の理由は、言い出しっぺだったから
小野 藤本さんが何やってる人なのか、たぶん断片的に知ってるけどわからないって人もいそうですよね。今日はまず、Re:S(りす)のはじまりとか、あと今やってることの全体像とか、聞けると嬉しいかな、と。
藤本さん 90年代の終わり頃かな、まだ20代だったときに大阪でフリーペーパーを始めたのね。その後いくつかつくるんやけど、一番はじめは「バッグマガジン」ていう名前でみんなに「バグマガ」って呼んでもらってた。いわゆるサブカルチャーな内容だった。
当時、僕のなかの東京って今よりもさらに特別で、例えば映画の試写会の後に、ちょっとした打ち上げに連れて行ってもらったりするだけで、まわり全員クリエイターみたいな感じで、衝撃受けて大阪に帰ったりして。でもあるとき、面白いクリエイターってぜったい関西にもいるはずやし、まだ出会えてないだけやんなって思った。だから出会える場所をつくりたいと思ったけど、お金もないし、当時自分につくれそうな場所ってフリーペーパーしかなかった。
自分の携帯番号を書いたチラシをつくって大量にコピーして、大阪にあった「扇町ミュージアムスクエア」ってとこに置いて。
小野 大阪ガスがやってた芝居小屋ですよね。
藤本さん そうそう。古田新太さんの劇団☆新感線とか、生瀬勝久さんとか、いまドラマや映画を支えてる俳優さんたちがみんなあそこの舞台に立ってはって、2階には「ぴあ」の編集部があったり、一階にはミニシアターもあって、まさに関西カルチャーの拠点やったのね。そこに置いたチラシを見て電話くれた人たちとフリーペーパーをつくることになるんやけど、だからもう自分を筆頭に、全員クリエイター志望の何者でもないやつの集まり。
そんなんやから、編集したいっていうよりも、自分が言い出しっぺやから編集してた。編集者なんて存在をそもそも知らないし、とにかく僕は当時小説家になりたくてしょうがないときで、小説書いては応募してたから、書き手として売れたい! みたいな気持ちが強かった。
小野 じゃあ何か転機があったんですか?
藤本さん フリーペーパーをつくる一方で、やってみたい企画があって。今でいうGEISAIとか、当時からあった「デザインフェスタ」とか、いわゆるアートマーケットイベントを企画して、一人でいろんな企業さんにまわったりして。
ある時、FM802(エフエムハチマルニ)っていう関西の放送局のプロデューサーさんのところに行ったら、名刺がわりに渡したフリーペーパーを見て、「あ、これ、キミがつくってんねんや!」って言われて、しかも「関西のリアルなカルチャーがわかるのこれぐらいやもんなー」とか言ってくれて。
小野 発行してからどのくらいの時期だったんですか?
藤本さん 一年は経ってたと思うけど、でもまだまだどうしようもない雑誌やったと思う。なのにちゃんとした大人の人が見てると思ったら、急にすっごい恥ずかしくなって。なにより未熟な自分の文章がのってることがもう、やばいやばい!ってなって。
それまでは、書かせてください! って子には「おーいいよいいよ、一緒にがんばろう」って感じでやってたのが、そのことをきっかけにそれではアカンと、それよりも自分が書いてほしい人に書いてもらわな意味ないやん! って編集としては、当たり前も当たり前なことにようやく気づけた。
大人たちに助けられた20代が今の礎に
藤本さん 今では考えられへんけど、ケンドーコバヤシさんとか、友近とか、吉本の芸人さんにまで無償で原稿書いてもらったりしてて。当時の吉本のえらいさんが黙認してくれてたことに後になって気づいたけど。
小野 そういうのがたくさんあったんですか?
藤本さん そんなことばっかり。例えばオタクカルチャーに詳しい竹内義和さんって作家さんに原稿を書いてもらいたくて、竹内さんが出てるイベントの楽屋に押しかけたときとか、最後に「実は…原稿料が払えないんです」って言ったら、即時に「あー、いいよいいよ、よそで儲けてるから」って言ってもらえたり。
あと、今は構成作家さんとしても活躍されてる吉村智樹さんってライターさんも大好きで、もうぜったい書いてほしくて喫茶店でお会いして。そのときも「実は原稿料が…」って言おうとしたら、食い気味で「あ、原稿料いらないからね」って言ってくれて。
そんなみなさんに助けてもらった20代の経験がすっごく大きい。そのおかげで作家になりたかった自分が、いつのまにか編集の楽しさを味わうようになってた。
小野 FM802に持ち込んだイベント企画はどうなったんですか?
藤本さん そうそう、それも大人に助けてもらったというか、当時、僕が応募した小説に佳作をくれて担当編集になってくれた、いまのリトルモアっていう出版社の社長の孫家邦さんに、当時そのイベント企画の話をしたら、「大阪で大きなイベントやろうとしてる先輩がいるから紹介したる」って言われて。
それが編集者の後藤繁雄さんやった。YMOや坂本龍一さんのお仕事だったり、中沢新一さんや荒俣宏さんなどを世の中に出したようなスーパー編集者で、まさに雲の上の人。そんな後藤さんに企画書をFAXして、半年くらいしたら電話がきた。大阪にある「新阪急ホテルのラウンジまで来れる?」って。
小野 それ、めっちゃ緊張しますね(笑)
藤本さん めちゃめちゃドキドキした。それで会ったら「きみ、僕のこと知ってるか?」って言われて、もちろん知ってます! って(笑)
「きみが送ってくれたやつ、こんな感じになってるから」って言われて、きれいに整った企画書を見せてくれて。瞬間、やばいパクられた! って思った(笑) でも、まだ何も実績がない僕に、いちばん肝になるパートを任せたいって言ってくれて、それはアーティストが作品を展示したり販売できるブースの統括部分で。
「ART BEAT」っていう名前のそのイベントは、結果的に5万人ものお客さんが来てくれて大成功したんだけど、最初にラウンジでお会いしたそのときから後藤さんは「これから俺はきみを利用するから、きみも俺を利用しろ」って言ってて、当時大人たちにわかってて騙されてるふりしてた僕は、この人はなんて気持ちいい人やろうって思った。
小野 大人の契約がいきなり成立したんだ。
藤本さん そう、まったく隠さないし、ものすごく信頼できた。以降、後藤さんから教えてもらったことがたくさんある。20代はもうね、こうやって大人に助けてもらうことの連続。
だからもう、めっちゃありがたくて、いつか恩返ししたい! って思ったけど、その恩返しって、僕が稼ぐようになって今度は僕がギャラ払います、みたいなことじゃないな、ってだけは確信してた。それもいいんだろうけど、それよりも僕自身がちゃんとプロになって、僕がしてもらったことをいつか僕も、若いひとにしてあげられるようになる! って思って、それはほんと僕の原点です。
公園みたいな世界観を目指した、社名「りす」の意味
小野 のちにつくられる『Re:S(りす)』や『のんびり』『なんも大学』につながってる部分もありますか?
藤本さん もちろん、すべてはつながってると思うんやけど、26歳くらいのときに、これまたすごいお世話になってたあるデザイン会社の社長さんに「28歳過ぎたら、若いのに頑張ってんなあ、って言われへんくなるで」って言われて、それはやばいぞって思った僕は、「28までに社長になる」って決めた。それで28歳になる1ヶ月前に会社つくった。
小野 それが「りす」?
藤本さん うん、りすに社名変更する前は「パークエディティング」って名前の会社やったけど。公園て、お母さんが小さい子連れて遊んでると思えば、ベンチでサラリーマンがお弁当食べてたり、むこうでは少年たちが野球してたりとか、それぞれがまったく別のことしてるのに、違和感なく一つの場所として成立してるやん。僕、そういう光景がすごい好きで、公園みたいな世界がつくりたいって思ってたから。最初、park editingって社名にしてん。
でもとにかく、会社にしたことで、他人からの見られ方は確実に変わったと思う。お金の話も、それまでよりしっかり話してもらえるようになったし、小さくとも、対会社として見てもらえるのはいろんな部分で違った。ちょうどその頃、FM802のプロデューサーさんに、りそな銀行のお仕事を紹介してもらって、そこで出会った、藤原さんっていう銀行員の方がすごいおもしろい人で、その方との出会いも僕にとって大きかった。
銀行業って金貸し業だけど、取引先が多種多様でしょ? なので、ある取引先の困りごとを聞いているうちに、それなら別のあの企業を紹介したら解決しませんか? って取引先企業同士をつないだりするのが、本来の銀行のあり方なんじゃないか? って考えて実践している人で、且つ、銀行は銀行業でしか儲けてはいけないから、僕にとってはとても健全な代理店さんに見えた。
藤原さんには他にもいろんな考え方を教わったし、当時創刊することができた雑誌『Re:S』は、実はりそな銀行さん、つまりRESONAへのリスペクトも込めてる。
小野 えー、それ本当ですか?!
藤本さん これあんまり言うてないけど、ほんまやねん。
僕の世代ってバブルの恩恵も受けてない、むしろ就職氷河期で、経済が右肩上がりっていう概念がまずない。だからちょっと先輩の考え方をみてるだけで、違和感ばかりが募るというか、何かと既存のやり方の限界を感じてた。だからこそ「新しいスタンダードを提案する」という意味で「Re:Standard」のRe:S(りす)ではあるんやけど、でもそこに至る前に、〝りそなリスペクト〟があったのは本当の話です。
当時、東京の雑誌とか、いろんな媒体でも原稿書かせてもらったりしてたけど、自分が言いたいことを100言うためには、他人様の媒体では無理だし、そうしたければ自分で立ち上げるしかないって思って、しかも広告のない雑誌をつくろうって思ってつくったのが『Re:S(りす)』。
だけどじゃあどこで収益を得るのかって話になるけど、そのときは雑誌そのものが売れることともう一つ、リスペクトなメーカーさんと一緒にものづくりをすることで、そのロイヤリティを得ることから雑誌運営ができないか? って考えてた。実際、そこに共感いただいたフジフィルムさんとは、一緒に4万円するフィルムカメラのオリジナルパッケージをつくって、実際に一個売れたら10%、4,000円のロイヤリティをいただいたりとかしてた。
だからって、ぶっちゃけ儲からなかったけど、やりたかったことに片足掛けられた感覚は持てて、でもどこかで〝これをずっとは続けられないな”と思って、Re:Sを一回やめた。
小野 どのくらい続いたんでしたっけ?
藤本さん 2006年から2009年の3年間。11号までつくったかな。たった3年だけど、でも自分のなかではやりたいことはやりきった感覚があった。
すでにアポを取らないで取材にいくスタイルを自分のなかで確立して、それが結果的に「のんびり」にもつながってる。
今回のヒラク(小倉ヒラクさん)もそうやけど、偶然の出会いにこそ価値があると思うねん。思いもよらなかった出会いって、良い意味での想定外な瞬間だから、それってすごく意味がある。この人に話を聞きに行こうって思ったらそれは、想定内のゴールを設定するようなもんだから、「こんな人がいたらいいのに」とか「こんな人に会えたらいいのに」とかそういう思いだけを強くもって旅に出て、結果Re:Sは毎回奇跡的な出会いを経て帰ってこれたけど、今思えばそれは必然だった思う。
確かに正攻法ではないけど、僕はこのやり方に自信があったし、実際その楽しさに取り憑かれていった。だけど、そんな取材方法は、東京にいる多くの同業者のみなさんにはできないやり方だと思ったし、すなわちそれが自分の強みなんじゃないかなって思った。
小野 勝てるやり方をシンプルにしたんですね。
やめたときに咲いた、編集の力の腹落ち
藤本さん だからRe:Sを辞めるときもいろんな思いがあったんやけど、一つ思ったのは、僕はすごくアンダーグラウンドなことしてるのかもしれないってこと。
例えば「このばあちゃんのことみんな知らんと思うけど、実はめちゃめちゃすごいねん!」って伝えるんやけど、そうやって言うてるやつが僕やから。何者でもない、僕やから。北野武さんでも坂本龍一さんでもないから。見知らぬこの人の才能を届けたいと思ってもどこかで無理がある。
小野 多くの人に届けたいはずなのにつくるものはニッチ、みたいな。
藤本さん そうそう、だからもっと大衆性の高いエンターテイメントに触れるべきなのかなって本気で考えた。だから雑誌のRe:Sをやめた2009年の年始の目標は、ディズニーランドとジャニーズのコンサート行くことやった。
でね、ディズニーランドは行けば入れたけど、ジャニーズはぜんぜんチケット買えないんだよね。どうやったらSMAPか嵐か観に行けるのかなぁって考えてたら、ジャニーズの方から「本つくって欲しい」と連絡をいただいた。
小野 すごいそれ(笑)
藤本さん いつもRe:Sを見てくれてた人がジャニーズ関連の出版社の偉い人で、「以前からRe:Sをみて頼みたいと思っていたけど、日本中まわってるから無理だろうなあと。だけど‘休刊’って文字をみて、今なら頼める! と思いました」って電話をくださった。あ〜やっぱり心血注いでつくったものは、見るべき人が見てくれてるんや。てか、ジャニーズのアンテナすげえ! って感動した。そんな中でできたのが『ニッポンの嵐』。
最初は全国の小中学校の図書館に収められる書籍としてできたんだけど、東日本大震災があったから義援金用に販売もして。結局ね、彼らってすごくプロフェッショナルなエンターテイメントの世界にいるから、僕が3年間Re:Sをつくりながら「あかんこれ無理やー」とか思ってたことも、彼らが語ってくれた瞬間にものすごい影響力で多くの人に届くのを目の当たりにした。あっという間に40万部とか売れるのを見て、彼らの役割や使命のすごさをほんまに痛感したよね。
そのとき改めて「編集の力」を実感したわけ。自分が編集者として世の中に果たしていくべき役割みたいなことがムクムクとわきあがってきた。こういう経験をすると、世界はこんなにも違って見えるんか、って。だから僕は本当にあの頃、ジャニーズのみなさんや嵐のメンバーに救われました。
小野 そのときも関西にいたんですもんね。
藤本さん そうやねん。地方にいながら、ある意味東京にいる以上の経験をさせてもらってたから、このノウハウをもっと地方の人たちに手渡せたら意味があるんじゃないかなって感じるようになった。秋田で「のんびり」のチームをつくるときはまさにそれやった。
自分の役割はしぼりこんで、魔法をかける
藤本さん 僕の「編集」は本や雑誌じゃなくて、もっと広義な意味での編集やなって自覚したのもこの頃かも。
2017年に『魔法をかける編集』を出したときに考えてることを色々整理してたら、僕はものづくりもするし、展覧会とかイベントもつくるし、まちづくりの編集もする。「編集者」でいることで何かを突破してきたわけだけど、今、いろんな地域にいくと、まさにそういう意味での「編集者」たちがたくさん出てきだした感じがしてる。
出版イベントで全国まわったときに、いろんな人の悩みやモヤモヤを聞いて、あぁ手伝いたいな、解決してあげたいなって思うことも多いんやけど、そうは言っても身はひとつだし。だからもっともっと自分が活かせる分野を絞り込んでいきたいって今は思ってる。
関わりかたの言語化っていうか、自分のスキルを本当に活かしきれる場所はどこかなっていうのが僕のいまの悩みかな。
小野 まさに今、”定期刊行物が無いけど今後はどうするんですか?”って聞きたいところでした。
藤本さん 実はおのっちみたいな動きかたが必要かなーって思ってる。自分の得意なことをプロジェクトベースで活かすっていう感じ。僕もそのピントをもっと絞り込みたいんだよね。
小野 そうですね、僕もこの2年で5社くらい、社外取締役的に関わるようになりました。
藤本さん おのっちが求められるのは必要な経済にまっすぐつながっていくから、必要とされるのがとてもよくわかるんやけど、きっと、経済や経営の次のフェーズに「編集」のスタンスが必要なんじゃないかなって予想してて。僕が活かせる分野をしぼりこんで、いろんな場所でそれを使えたらいいなって考えてる。
小野 ひとたび振り掛ければたちまち問題解決する魔法の粉、みたいな(笑)
藤本さん そうあれば理想やけど、それぞれの課題全部に効く粉とかあるわけないからなあ。でも、多少泥んこになっても、そういう感じでみんなのお手伝いができたらいいかなって思う。
小野 すごい需要がありそうですね。
藤本さん だといいんやけどね、漠然としてるよね、編集て。
小野 僕はグリーンズを10年やってて、うち6年は経営やってたんですけど、そもそも僕は社外取締役タイプの経営者。だからある意味ぜんぶ他人事にできるんです。そのおかげで冷静に物事をやめる決断もできます。自分ごとになりすぎてるとやめるのが難しくなりませんか。
藤本さん ほんまそうやね。
小野 経営だけでなく人が何かを大きく変化させるときに必要なのは、新たに何かをはじめることよりも、今やってることをやめることだと思っているんです。やることを増やすのは簡単なんだけど、増やしたからといって足し算的に増えているわけではなく、むしろ一つずつのインパクトは小さくなったりする。だからこそ、減らしながら増やすっていう掛け算がいい。
よく言うことなんですけど、「いいミーティング」の定義は「やることが減る会議」。タスクが増えるだけの会議なんて行きたくないでしょみんな(笑) やってることがやめられる、もしくは他の人の手に渡る、そうやって程よくやることがあるくらいがいいと思うんですよ。
これは端的にいえば、合理化や組織化、効率化や仕組み化の話になるんですけど、大切なことは、やることをシンプルにすること。不安もあるけど安心もつくれてるってことが大事だと思いますね。
藤本さん 本当そうやね、その通り。もうおのっちの背中を追うわ(笑)
小野 いやいやあはは。
藤本さん こういうこと考えてる人多いと思うな、今。同じように、チームのつくり方自体を悩んでる人も多い気がする。特に地方では。
今回この「Fermentation Tourism NIPPON」でも、あえて石川県に住んでる財部くんていうデザイナーさんをチームに入ってもらった。素晴らしいデザイナーさんであることは間違いないんだけど、それと合わせて、地方で活躍する人たちがここ(渋谷)で集結するなら見たいなって思って。
小野 すごくいいですね。
藤本さん こんな時代なんだし、もっとそういうのが当たり前にできるといいよね。
藤本さんのキャリアスタート時期からはじまり、自ら仕事を生み出し、その中で個の役割を着実に体現してこられた話には、説得力があり、深みを感じた方も多いのではないでしょうか。また、編集という言葉を広義に捉える視点にハッとした方も多かったかもしれません。
ひとにはそれぞれ、役割と得意分野があり、「個が活かされた会社」とは一体どれほど居心地のよいものだろうか、とお二人の話を聞きながら想像していました。
自分を活かせることを改めて見つめてみる。近くに人いる人がどんな得意分野をもっているか聞いてみる。身近なところではじまる可能性の大きさを、私たち一人ひとりが試してみれば、新しい働きかたが見えてくるかもしれません。個を活かしながらの共生こそ、“いかしあうつながり”の基盤になることですね。