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栗とオープンガーデンだけじゃない。次々と市民協働の動きが生まれる小布施町が自分たちの未来を「誰かにお任せにしない」のはなぜか?

みなさんは、小布施というまちを知っていますか?

もしかしたら、栗や葛飾北斎というキーワードでピンとくる方もいるかもしれませんね。greenz.jpではこれまでにも「小布施若者会議」や「小布施エネルギー会議」の記事を通して、まちの取り組みを紹介してきました。

長野県で一番面積の小さなまち、小布施。人口約1万1,000人のこのまちには、なんと年間100万人以上の観光客が訪れるといいます。じつは、地方における“まちづくりの先進地”とも言われる小布施町。その歩みには、「ローカル」を舞台に取り組みを行うすべての人へのヒントが詰まっているに違いありません。

グリーンズはそんな小布施町で、「地域で生きる」を考える2泊3日のワークショップ「ソーシャルデザインキャンプ」を開催しました。

今回は2016年3月に行われたこのワークショップの中で伺った、「ローカル先進地」小布施町のこれまでとこれからを、まちづくりを担う慶應SDM・小布施町ソーシャルデザインセンター研究員・大宮透さんのお話とともに、お届けします。

小さいけど、魅力にあふれる小布施町

そんな小布施ですが、どんな歴史をたどってきたのでしょうか? まちづくりの話に移る前に、簡単に振り返ってみましょう。

小布施に訪れた人がまず驚くのが、景観の美しさです。古き良き日本といった風情ながらも、洗練された印象を受けます。また、必要な機能は中心市街地に集まっていて、移動がしやすい、コンパクトシティでもあります。
 

まちの中心地、北斎館と高井鴻山(たかい・こうざん)記念館をつなぐ”栗の小径”。「町並み修景事業」の一環としてつくられた遊歩道で、道に栗の木のプロックを敷き詰めたところから名付けられている。(提供:TATSUYA INO

周囲には美しい里山の風景が広がり、自転車や車を使えば、緑あふれる果樹園や山の近くまで簡単に足を伸ばすことができます。
 

千曲川沿いの桜(提供:TATSUYA INO

小布施の歴史を紐解く上で欠かせないのが、千曲川と松川の存在。というのも、小布施はこの松川が氾濫を繰り返して土砂が堆積してつくられた扇状地(せんじょうち)なのです。そして、松川が千曲川に合流する場所に小布施は位置しています。そのため、現在の地名「小布施」は、この瀬が合うクロスポイント「逢瀬」が語源だと言われています。

松川は強い酸性が特徴で、生物が全く住めない環境。そのため、小布施全体も酸性の土壌で、米や農作物が育ちにくい場所でした。ところがたまたま約600年前頃持ってきた栗が良く育つことがわかり、栽培が始まりました。そして戦後には、りんご、桃、梨、ぶどうなどその他の果樹の栽培へと広がっていきました。
 

小布施の名産品、栗

千曲川で舟を使った輸送が発達した江戸時代には、交通と経済の要所として定期的に市がひらかれました。

こうした交易の中心地という土地柄から、江戸後期には豪農豪商が誕生。特に有名なのが、高井鴻山(たかい・こうざん)という人で、彼が招いた葛飾北斎は小布施に何度も滞在し、たくさんの作品をこの地に残すことになりました。これが、小布施が「栗と北斎のまち」として知られるようになったきっかけです。

「景観のまちづくり」のはじまり

江戸時代に栄えた小布施ですが、明治時代以降は衰退の歴史をたどることになり、人口は減少の一途となりました。こうした背景から1970年に始まったのが、小布施のまちづくりの第1期です。

当時の町長が掲げた「農業立町、文化立町宣言」を元に、文化振興の大きな役割を担ったのが、1976年に建設された、葛飾北斎の作品を収蔵する北斎館の存在でした。
 

北斎館外観

これが思いがけず話題を呼び、観光客が押しかけるように。素早くこの動きに反応した栗菓子屋が、次々と北斎館のある中心市街地に店を移転してまちの賑わいを醸成。こうして小布施のイメージがつくられていったのが、1970年代後半から1980年代前半のことです。

そして人が集まってくるようになると、北斎館の周りを中心にまちなみの整備も始まりました。町民の意識が高まると、行政が条例づくりなどでバックアップ。これが1980年代前半からの「町並み修景事業」です。
 

町並み修景地区の様子

景観を大切にする意識は、やがて90年代からの花のまちづくりにもつながり、オープンガーデンとして“家びらき”をする取り組みも行われます。
 

オープンガーデンには”Welcome to My Garden”の看板が

興味深いのは、町民がまちづくりに積極的に参加していること。行政が始めたことに、町民が反応し、それをまた行政が制度づくりでサポートする。まちを共につくっていく、良い相互作用があるのが見て取れます。

まちを大きくしない。自立したまちづくりの道へ

2000年以降、まちづくりの第2期が始まったきっかけは、国によって市町村の自主的な合併が促された大規模な動き、つまり「平成の大合併」でした。合併しないことを選んだ小布施は、自立したまちづくりへの道を歩む決意をします。

2006年、政策課題について町民が集まって議論する組織「まちづくり委員会」が発足。議論が必要なテーマごとに部会をつくり、部会ごとに月に1度会合を持ち、話し合いを重ねて、役所へ提言をします。こうした町民の意見を反映する仕組みがあるところが、小布施におけるまちづくりの大きな特徴です。
 

2009年にオープンした町立図書館「まちとしょテラソ」。建設の検討は、町民も含む実行委員会によって行われました。

また、町民の声を取り入れるだけではなく、大学などの研究機関や、町外の企業とも積極的に連携を行っています。さらに現在、まちづくりの一つのテーマになっているのが、若い世代へのバトンタッチです。

そうした、まちにイノベーションを起こす「若者」そして「よそ者」として中心的な存在になっているのが、慶應SDM・小布施町ソーシャルデザインセンター研究員の大宮透さん。2012年から始まった小布施若者会議の立ち上げと運営に関わり、行政と町民の間で日々小布施のまちの仕組みづくりのために奔走しています。


大宮透さん

初めて小布施に足を運んだのは、まだ大学生だった2009年、日米学生会議の一員として、滞在したときでした。

日米学生会議のメンバー、日本人とアメリカ人の計72名を小布施町は全員ホームステイで受け入れてくれたんです。学生会議では国内4都市を回ったんですけど、そのおもてなしや、地域再生のあり方も含めて、ダントツに小布施が印象に残ったんですよね。

「全部任せるから、まちのために好きなだけ動き回ってみなよ」

その後、都市計画を専攻していた大宮さんが大学院に進学しようとした直前に東日本大震災が起こりました。陸前高田に通い詰め、担当教授と共に「りくカフェ」の設立支援など、仮設期の復興支援を行います。

「りくカフェ」の初動まで携わった後は、地元の群馬県高崎市で、やはりまちづくりに関係する活動を続けました。しかし、今後何を仕事にして、自分を社会にどう位置付けていこうか、しばらく迷っていたといいます。

全く自分にとって新しい場所で、地域の市民活動の支援を、行政の政策の全体像と、虫の眼と鳥の眼で行ったり来たりできる仕事をしたいなと考えていたんです。そんなとき、小布施の市村良三町長からたまたま電話がありました。

人生に迷っていたタイミングでかかってきた一本の電話。その内容は、日本版ダボス会議を開きたいから、協力してくれないか、ということでした。実はその計画は、日米学生会議で滞在した直後、すでに町長の頭の中にはあったそう。

日米学生会議で滞在した2泊3日の最終日に「まちづくりフォーラム」があったんです。その時に学生たちが小布施に対して、褒めるだけではなくて割とストレートに「ここは全然面白くなかった」「ここはこう変えたほうがいい」と意見をしたのを、町長が面白がってくれて。

それから若い人や海外の人が入ってくれるのが、まちにとって良いことだと考えたようで、開催直後に「2,3年後に日本版ダボス会議みたいなものをしたいから、そのときは手伝ってくれないか」と言われていたんですよ。

そして久しぶりに小布施の地を訪れた大宮さん。話し合いを重ねた結果、ダボス会議とは少し毛色の異なる、「小布施若者会議」というオリジナルのプログラムの運営を、準備段階からアフターケアまで任されることになりました。
 

小布施若者会議の様子(提供:小布施若者会議)


小布施若者会議の様子(提供:小布施若者会議)

会議がひと段落着いたのは2012年10月、大学院の2年目も終盤を迎えて、いよいよ今後の進路を決めなければいけないときでした。

いろいろ振り返る中で、小布施って面白いなと思ったんです。一つのプログラムをつくるときに、議員もいる、町民もいる、それから町外の人もいる。いろんな人が喧々諤々、言いたいことを言いあって議論する場って、なかなかないじゃないですか。

そういう小布施から学ばせてもらいながら、まちに貢献できるような仕事がしたい、という思いを町長へ伝えたら、「大宮くん、全部任せるから、まちのために好きなだけ動き回ってみなよ」と言われました。

町長は本気なのだろうか?そんなことを考えながら、やりたいことをまとめた企画書40通(!)をつくり上げて町長に見せたと言います。それから業務委託で、大宮さんの小布施のまちづくりがスタートしました。

大宮さんは、2012年の年末に小布施に移住し、現在は、小布施と大学連携する慶應SDMの研究員という肩書きで活動。

高校生のサマーキャンプの実施、町民の小商いを支援する助成制度、小布施若者会議から生まれた第二町民制度(ツアーに参加すると、第二町民として小布施町からのお便りや町民が参加する年間行事への招待が届く制度)など、様々な人たちとネットワークをつくりながら、小布施でやりたいことを実現するための仕組みづくりをすることが主な役割だと話します。

まちのために、何かやりたいと思う人を増やしたい

現在の町のフェーズとしては、たくさんのプロジェクトを回すことよりも、本質的なものを選んで集中投資する時期に入ってきたといいます。

今が一番面白くなってきたところです。これまでは、自分も小布施のメンバーも次の小布施にとって必要なことが何かがまだ見えていなかったので、どちらかというと人のつながりをつくっていた段階でした。

この3年の活動を通して、やっと課題や伸ばすべき活動は何かというのが見えてきたところで、プロジェクトを具体的に進められるフェーズにきている手応えがありますね。


「小布施ソーシャルデザインキャンプ」では大宮さんに町の中心部を案内していただきました。

大宮さんは、これからの小布施が、どんなまちであってほしいのでしょう。

新しいものを常に生み出そうという意気込みを、ひとりひとりがずっと持ち続けるまちであってほしいですね。

自分の居心地がいいってどういうことだろうと考えてみると、美味しいカフェがあるのもいいんですけど、一番重要なのは人との関係性ですよね。

だから、まちと町民と互いに居心地がいい関係をつくって、何かやってみたいと思える人の裾野を広げたい。まちの人がやりたいと思ったことが、やりたいと思ったときに実現できて、自分から積極的に参加していけるような地域にますますしていきたいですね。

エネルギーのことは、まちの課題として捉える

小布施の今後を考えるときに、その中核になりそうなのが、エネルギーの問題です。これからのエネルギーを小布施はどう捉え、再生可能エネルギーとどう向き合うのか。

この問題についても「小布施流」に、町民や町外の人、専門機関が一緒になって、どんなエネルギーが小布施に適しているのか、もしソーラーパネルを並べるとしたらどこがいいかなど、2011年に始まった「小布施エネルギー会議」を通じて話し合ってきました。
 

小布施エネルギー会議の様子。地図を見ながら、ソーラーパネルの設置場所を検討しています。

こうしたエネルギーにまつわる調査は、地域の歴史を見つめ直すことになり、ソーラーパネルの置き場所を考えることは、まちの景観について思いを馳せることにもなったといいます。

実は、小布施は風力発電には向かず、土地面積が小さいこともあって太陽光パネルでは十分なエネルギーが供給できないなど、再生可能エネルギーへの転換を検討するのは険しい道のりでした。

現在では、果樹の剪定時に出た枝を燃やして熱を賄うバイオマスと、昔使われていた水車を活用した水力発電にフォーカスする、というところまでたどり着きました。今後はいよいよ事業化を目指していくそう。

時間をかけて話し合いを重ね、今あるものを生かしたエネルギーのあり方で、小布施は新たなまちづくりを目指そうとしているのです。
 

農村部に広がる果樹園。ここからたくさんの剪定枝が出ます。

グリーンズが主催した「小布施ソーシャルデザインキャンプ」でも、参加者から町長へ質問がありました。

「すでにまちづくりに十分な取り組みをしているのに、なぜ弱点と言われる再生可能エネルギー問題に取り組むのでしょうか?」。町長はこう答えました。

電気は自分たちの手の届かないところでつくられている、私自身もそう思ってきました。でも、本当にそれでいいのかと思っているんです。

そういう既成の価値観を超えて、例えば全ての世帯を再生可能エネルギーで賄うことは難しくても、役場だけ、学校だけでもできたら、まちの中に住んでいるみなさんもエネルギーのことをもっと自分ごととして考えることができるんじゃないかと。そう思って取り組んでいます。


市村良三町長

新たな価値観を取り込んで自分の既存の価値観を超えていくこと、そして暮らしを自分ごとにしていくこと。この二つには小布施が常に“今”を更新しながらまちづくりの先頭を走っていくための鍵があるような気がします。
 

ソーシャルデザインキャンプ、フィールドワーク中の1枚。小学校の敷地内もオープンな空間として、通り抜けることができます。窓(左上)から小学生が「こんにちは」と元気に挨拶してくれました。

振り返ってみれば、70年代のまちづくりから、小布施は行政の動きに町民が反応し、また町民がやりたいことを行政が仕組みづくりでサポートするなど、行政と民間の協働によって、歩んできました。

小布施の人たちを主体的にさせている理由は何なのか? という別の質問に、「自分の住んでいる地域が大事だと思ったら主体的にならざるを得ないでしょう。もともとは地域のことはまちの人たちがやっていたのに、いつのまにか行政に任せきりになったのはここ50〜60年の話です」と話す町長。

それを聞いて私自身もハッとしました。自分の住んでいる地域が、社会が、世界が変わらないことを、自分以外の誰かや、何かのせいにしてはいないでしょうか。あるいは、誰かや、何かにお任せしてしまってはいないでしょうか。

地域と外の人をつなぐネットワークをつくり、小布施のまちづくりを牽引する大宮さんも、大活躍するがゆえの、こんな悩みを最後にポロリとこぼしてくれました。

実は、地域が大事だという話をしながら、僕自身は出張や忙しさもあって一番小さな単位の自治会の活動にほとんど参加できていないんです。地域を超えたコミュニティづくりは確かにできているけど、自分の足元がぽっかりしてしまっている。今後の自分の暮らしのあり方を、見つめ直したいと思っていますね。

個人の単位で始められるまちづくりは、もしかしたら便利さや忙しさと引き換えに手放している、私たちの暮らしをひとつずつ手元に取り戻すところから始まるのかもしれません。

みなさんも、まずは地域に心地よく住むためにできることを考えて、誰かや何かに任せている身の回りのことを一つ、引き受けてみませんか?

わたしたちエネルギー」は、これまで“他人ごと”だった「再生可能エネルギー」を、みんなの“じぶんごと”にするプロジェクトです。エネルギーを減らしたりつくったりすることで生まれる幸せが広がって、「再生可能エネルギー」がみんなの“文化”になることを目指しています。