NPOグリーンズの合言葉でもある「いかしあうつながり」とは、関わっている存在すべてが幸せになり、幸せであり続ける関係性のこと。それをみんながデザインできるような考え方、やり方をつくり、実践し、広めるのが、NPOグリーンズの新しいミッションだ。
とはいえ、それってどんなこと? 発案者の鈴木菜央も「まだわからない(笑)」という。「わからないなら、聞きに行こう」というわけで、鈴木菜央が「いかしあうつながり」「関係性のデザイン」に近い分野で実践・研究しているさまざまな方々と対話する連載。第4回目はフリーランスエディターで、ミニマリスト、サステナブル領域のスタートアップ企業、おかえり株式会社の取締役兼共同創業者でもある増村江利子さんです。
ー 目次 ー
▼「当たり前」を問い直して、自分なりの「ものさし」をつくる
▼暮らしの中で、自分にフィットするかどうかを吟味する
▼ごみの行方に責任を持ちたい
▼何も考えなくても生きていける、消費者として教育される怖さ
▼薪ストーブで暖をとるまでに生まれる循環
▼長野で見つけた、理想的な地域における家族のあり方
▼多様な関わりを生む、地域の「仕事」の豊かさ
「当たり前」を問い直して、自分なりの「ものさし」をつくる
鈴木菜央(以下、菜央) 僕が江利子さんと初めて仕事を一緒にしたのは、greenz.jpでは、「暮らしのものさし」の連載かな?
増村江利子(以下、江利子)さん そうですね。
菜央 「暮らしのものさし」という連載があって、さっき数えたら、120本ぐらい記事を編集してもらったよね。「わたしたちエネルギー」という、暮らしの中でエネルギーをつくったり楽しんだりする人たちについて取材しながら考えるという企画も200本近くやっているんじゃないかな。
さらに最近は、「消費されない生き方」という連載を一緒にやったりして。そういう意味で、たくさん関わりがあるわけなんだけど、江利子さんが追いかけているテーマがあると思うんです。それは連載名「消費されない生き方」や「暮らしのものさし」にも表れていて、なんというか「生きるリテラシー」みたいなことをずっと考えてきているのかなって思っていて。それの実践として、今、長野でモノをあまり持たない暮らしを営んでいたりすると思うの。その辺のことを、今日じっくり聞いていきたいなって思っています。
江利子さん はい。
菜央 最初に、自己紹介…肩書きのない自己紹介をnoteでやっていたけど、そういう風にしても良いし、好きなようにしてほしいんだけど、この文脈で自己紹介するとしたらどんな感じになるのかな?
江利子さん そうだなー、この文脈で自己紹介をすると…。
菜央 この文脈じゃなくても良いよ(笑)
江利子さん 難しいですけど…、私は人が決めた価値観とか、人が決めたこととかが好きじゃないんですよね。これはnoteに書いたんですけど、例えば、結婚すると結婚指輪を贈るとか。それも、私は「私が自分で決めたことじゃない」って思うんですよね(笑) どこの時代の誰がそういうことにしたのかわからないけど。
菜央 本当だよね。
江利子さん プロポーズをするときには指輪を贈る、結婚をしたらお揃いの指輪を身につけるっていう文化になっちゃったから、ある意味、消費者が踊らされているわけで。
例えば、サンタクロースって赤い衣装を着ているじゃないですか。あれ、コカ・コーラ社が仕掛けたキャンペーンなんですよね。「サンタクロースが赤い衣装なんていうのは、嘘かもしれない」なんて誰も考えない。でも、自分はどうなのか? とある意味「疑う」ことをしないと気づけない。当たり前のようになっていることって、本当は当たり前じゃないかもしれないって思っているんです。
私の原点は、おそらく菜央さんも一緒に参加した「50Wの太陽光発電システムを自分でつくってみる」というワークショップ(※1)があるんですが、すごくショックな出来事だったんですよね。
何がショックだったかというと、「電気ってつくれるものなんだ」っていう発見。つくれるものだということすら知らなかったし、電気をON/OFFのスイッチでしか見たことがなくて、画面の裏側はどうなっているのか、どこから供給されるのかさえ想像したことがなかった。それが原発だということをうっすら知ってはいたけれども、気にしたこともなかった。そんな自分に、本当に驚いたんですよね。
そういう価値観の転換を、greenz.jpで担当させていただいた記事の中で、たくさんいただいたなと思っていて。そんなことを繰り返しているうちに、東京都新宿区から長野県諏訪郡富士見町という地域に軸足を移すことになって、さっき言ってくれた「生きるリテラシー」を自分なりに見つけていくこと、それを自分の手で実践することを続けています。
(※1)藤野電力で開催している、ミニ太陽光発電システムの組み立てワークショップ(イベントレポートはこちら)
菜央 今、どんな家に住んでいるんですか?
江利子さん 今、トレーラーハウスを改造した50平米ほどの借家に住んでいて、家族5人と中型犬2匹と猫3匹で暮らしています。普通に考えるとものすごく狭いです。
江利子さん そして家電のない暮らしをしているんですが、洗濯機も一度やめたんですけど、3ヶ月ぐらいしかもたなかった、あまりに大変すぎて(笑)
菜央 ははは。
江利子さん 洗濯機は使うことにしたんですけど、それ以外の家電は、ほぼない。電気は使います。それから、例えば、オーディオ類とかパソコンとか携帯とか、もちろんそういうものはあるんですけど、いわゆる生活家電が洗濯機しかない。トイレのウォシュレットはあります。
菜央 音楽は聴くし、ウォシュレットはあるけど、冷蔵庫はない?
江利子さん ない。
菜央 電子レンジもない?
江利子さん ない。家電量販店に行くと、笑っちゃいますね。「これいらないな」「これもいらないね」みたいな。滑稽な感じに見えてしょうがない。
菜央 ドライヤーもない?
江利子さん ドライヤーなんて、とんでもないです。あんな消費電力の高いものを使うわけがないです(笑)
菜央 ははは、なるほど。髪の毛はどうやって乾かすの?
江利子さん 自然乾燥です。
菜央 暖炉の近くとかで?
江利子さん いやいや、もう乾かしもしないです、自然乾燥で(笑) タオルドライってやつです。
菜央 (笑)
暮らしの中で、自分にフィットするかどうかを吟味する
菜央 さっきね、「疑う」って言っていたから、そこから始めようと思うんだけど、「疑う」って、あんまりみんなやらないよね。なんで疑うようになったの?
江利子さん なんでだろうな。その発端を探すのは難しいですけど、例えば、大学受験とかも、「行きたい大学に行く努力をすれば良い」みたいな解釈をしていて、音大に入ることにしたんですけど、1年目は見事に落ちて、でも、その大学のその学部しか受けなかった。2年目もその大学のその学部しか受けずに、まあ2年目はさすがに受かったんですけどね。
みんな保険をかけるじゃないですか。大学受験で何校か受けたりして、滑り止めってやつですよね。でも、滑り止めの意味って何なんだろう? みたいに思っていました。
菜央 その頃からそうなんだね。
江利子さん その頃からそうです(笑)
菜央 それはなんで? 子どもの頃からそう? 親の影響なの? それとも自然に生まれた感覚?
江利子さん 自然に生まれたのかな。もちろん親の影響もあったとは思いますね。
菜央 江利子さんのいろんな試みの根っこには、全部「疑って」、その上で良いと思えば、洗濯機の話がそうだけど、選び直す。何も考えなしにそれがあるのと全然意味が違う。
江利子 そうですよね。厳密に言うと、「疑う」という行為よりも、「それは本当に自分に必要なのか」とか、「これが本当に自分にフィットするかどうか」っていうのをすごく吟味する、検証する、問い直すということなんだと思います。
菜央 「自分にフィットする」ってどういう感覚なんですか?
江利子さん みんなそれをやっているけど、自分は、本当はどうなのか。みんながそうするのが当たり前でも、自分は実はそうしたいと思っていないことってありませんか?
菜央 あるある。いっぱいある! みんなあると思う。
江利子さん 菜央さんは、例えばどんなことですか?
菜央 うーん、子どもがスマホを持っているとか(笑)
江利子さん それは私も嫌ですけど、やめればいいですよね(笑) 仕事上、スマホを自分が持つのをやめるっていうのは難しいですけど。そういうのを、一個一個検証してくって感じですね。ギリギリのラインを自分で見つける。
菜央 フィットした時ってどういう感じなんですか?
江利子さん フィットした時…、そうだな…、やっぱり嬉しいんだろうな。私はこうするっていう、自分のものさしが増えていくことの喜び。ものの持ち方にもすごくこだわりがあります。例えば、下着は2セットしかないです。靴下も2セットしかない。まあ毎日洗えばその次の日の分はあるわけで。
そうやって突き詰めていくと、例えば、電子レンジもないので、ご飯を温める必要がある時に、お鍋にお水を張って、その上にちょうど良いザルを置いて、ほんのちょっとの隙間があれば、蒸らすことができるっていうことに気づいた時の嬉しさ?(笑)
そういうのにすごく喜びを感じるタイプなんですよね。それは、わりと最近、この10年の間に気づいたことですかね。
菜央 それが、フィットした感じ?
江利子さん あ、これでいいんだ! って。
菜央 「ゴミも出ないじゃん!」とかそういうこと?
江利子さん そうそう。
菜央 家電買わなくて良いし、電気も使わないし、部屋はスッキリする。
江利子さん そのためのものを買わないというか、あるもので工夫したりするのが楽しいのかな。このトレーラーハウスに暮らし始めたばかりの頃に、隙間風が入ってくる箇所があって、夫が適当に、その辺にあった角材を使って、釘を打ちつけたんですよ。そうか、これでいいのかって思って。
菜央 ある意味、合理主義?
江利子さん それは、そうかもしれないですね。
菜央 江利子さんの話をずっと聞いていると、超合理主義な感じがするのね。
江利子さん そっか、そうなのか。
菜央 でも合理主義っていうのが、ひとつのことの合理主義じゃないの。スピードだけでいったら電子レンジが一番早い。だけど、そもそもそれ生産するとき、使う時の環境負荷はどうなの? とか、電子レンジの安全性どうなの? とか、電子レンジで変わる味はどうなの? とか。
もしくはモノが増えて部屋が雑然とすることとか、電子レンジの下を掃除する手間が増えるよねとか、壊れた後の廃棄物の問題とか、あとそもそもの、哲学的な美しさとか。ありとあらゆる方向から考えて合理的なのが、「蒸らす」っていうことだったっていうことなのかな。
江利子さん ですね、いま言われたこと全部あてはまるな。あとは合理的っていうよりも、やっぱりシンプルなことが好きなのかな。掃除機も使わないけど、箒とちりとりでごみや埃を集めて捨てることのほうがシンプルだと思っていて。掃除機にごみが溜まるよねって思うわけです。あの溜まったごみを捨てるの、嫌じゃないですか。一回一回、ごみをなくすほうがシンプルな気がするんです。
ごみの行方に責任を持ちたい
江利子さん ごみの話になったのでお話すると、私の父親は横浜市の地方公務員だったんですけど、公務員といっても、役場で働く人ではなくて、清掃局にいて、ごみ収集車の運転手だったんです。何十年もずっと。晩年はごみの焼却センターに勤務していました。子どもの頃はあんまり人に言えなかったですけど。
大人になって、ふと美容院に行ったときに、髪の毛がぱらっと床に落ちるじゃないですか。すごい量の髪の毛が。それをみた瞬間に、ついほんのさっきまで自分の体の一部だった大切にしているものでも、床に落ちたらもうごみになるのかということに気がついて、それもまたショックだったんですよね。ごみって一体なんだろうと思い始めました。
ごみの捨て方にもこだわりがあって、家の中で分別スペースをつくっていて、リサイクルのために17種類の分別用スペースをつくっているんです。容器包装プラスチックに商品のシールが貼ってあったら、それははさみで切り取って、中はちゃんと洗って、キッチンの上で乾かして、そこまで丁寧にやる。そこまでやっているからこそ、ものは少ない方がいいと思うし、ごみは出ない方がいいと思うのかな。
菜央 なるほど。なぜそれをやり始めようと思ったのかな?
江利子さん 気持ちが悪かったんでしょうね。都心に住んでいた頃は、マンションのごみ置き場に、いつでも置いておくことができて楽だったけど、なんというか、責任の所在がわからない。それに、生ごみから堆肥をつくるようになってから、それは「土に還るのか? 還らないのか?」がすごく気になるようになっちゃったんです。
例えば、水という生きていくうえで不可欠なものにしても、私たちは蛇口をひねれば、止めるまである意味無制限に水を使うことができますよね。でも、その蛇口からキッチンのシンクの深さ、15cm程度分しか責任をとってないと私は思ってるんです。
水はすごく遠い水源から運ばれているけどそのことには普段気をかけることもないし、見えてない。その、普段は気をかけることも、見えることもないということが、暮らしの中で多すぎると思うんです。水を使ったあとの排水とか、ものを捨てたあとのごみの行方とか、そういったもの全部を気にしないと、国や自治体や企業だけではなくて、個人が責任をとっていかないと、この地球はもう、もたないって思ってるところがあるんだと思います。
菜央 そっか。責任を取らない部分がほとんどになってきちゃって、そうすると責任が取れない部分に関して、何か問題が起きても何も対処できないよね。
江利子さん そう思うんです。責任を取っていないところは、インフラとしての仕組みやサービスが動いたりしてなんとかなっているけど、それは社会構造としてなんとかなっているだけであって、自分は何もできていない。
菜央 あとは自然が受け止めて、自然がゆがんだり壊れたりすることで帳尻が合ってるけど、あらゆる影響を自然が引き受けてくれてるんだよね、今は。
江利子さん そうですよね。例えば、トイレットペーパーとかも。これもこの間気づいたんですけど、トイレットペーパーって何でできてるか知ってます?
菜央 え、紙? 紙だから木?
江利子さん そう、紙は紙だけど、木ってどこのどんな木なのかとか、調べもしないじゃないですか。
菜央 調べないですね。
江利子さん でもね、ちゃんと調べてみると、日本はけっこう頑張っていて、再生紙が6割くらいで、4割くらいがパルプ、いわゆる木からつくられる。その木は、ほとんど輸入材に頼っているみたいです。
トイレだから、トイレットペーパーは流して終わりじゃないですか。リサイクルもできないし、リユースもできない。でも暮らしに不可欠な日用品が、どこからきてどこへ行くのか、その循環を全部しっかりと見ないと。本当は暮らしって、そういうものだと思うんですよね。だけど今、あまりに見えないものになっちゃっていることが問題だと思っている。
まあしょうがない部分もあるとは思うんです。都市部は特に、土がないから。土がないと循環はどうやったってできない、見えにくいと思うんです。
菜央 あと僕がひとつ、すごい気になるポイントがね、そういった責任を取らない構造って、実は「便利」っていう言葉でだいたい進んできたと思うんだけど、その「便利」っていう言葉の裏側に、僕らの生きる力を失っていく、消費者っていう言葉がある。人生消費、消費人生みたいなね、冗談抜きでそんな状況じゃない?
江利子さん (笑) そうですね。
何も考えなくても生きていける、消費者として教育される怖さ
菜央 人間っていろんな側面があって、例えば、愛を表現するとか、自分の魂を表現するっていうのも人間の欲求だと思うんだけど、それすらお金を通じて成り立つ社会になっちゃった。車とか、インスタとか、旅行とかも自己表現だったりするけど。
僕らは、純粋に自然からの恵みや、人のつながりで欲求を満たすことを、ほとんどしなくなっちゃった。あらゆる人間の活動がお金なしにはできなくなったんだよね。あらゆる事柄に値段がついて、サービス化されて、産業に組み込まれて、マーケットになっていった。地域みんなで結婚式やお葬式を手づくりしていた文化に、大都市の資本のお葬式の会社が入ってくる、みたいにね。
僕らはみんな、消費者になっちゃったんだよね。「自然とのつながりの希薄さ」「まわりの人とのつながりの希薄さ」と、そして、自然に頼ることも知らず、人と何かを一緒にやることも知らない、「一人ひとりに生きる力がない状態」っていうのが、消費者だと思うの。その消費者が大量にいるっていうのが、近代資本主義経済の成長にとって非常に重要なんだよね。
力がない人が増えれば増えるほど、お金を介して欲求を満たすことが増えて、結果経済は大きくなる。だから、社会の中で、学校やメディアを通じて、僕らは生きる力がない状態、パワーレスな状態にされていっているっていう側面もあると思う。
江利子さん そうですね。特に何も考えなくても生きていけるっていうのが、すごく怖いと思いますね。例えば電車に乗る時に、「まもなく電車が到着します」「電車が到着しますのでお下がりください」みたいに、すごくアテンションされるじゃないですか。
でもね、そのアテンションって、本当は自分で気づかなきゃいけないし、感じなきゃいけない。自分自身はもちろん、それを他人にもしてあげなきゃいけないものだと思うんですよね。自分でやらなくても、スピーカーで外からシャワーのように降ってくるのは、かなり大変な状況だと私は思っていますね。もっと自立しなきゃいけない。そのアテンションがないと、本当に危険だっていうこともあるかもしれないけど、危険、リスクをどんどん回避する方向になってしまっている。
子どもにケガをさせてはいけないから、包丁を持たせませんとか。どういう扱いをしたら、どういうケガをするっていうのは、多少はやっぱりケガして覚えなきゃいけないって私は思っているところがあって。道具の使い方とか、どういう道具を使ったら何をつくれるのかとかって、すごく大事な学びだと思うんですよね。それが全部、アテンションで消されてしまう、使い方はこうだよってhow toが決まっていて、その通りにやるみたいな、今そんな世の中なんじゃないかなって思っています。
菜央 あと、生きるリテラシーって言ったときにね、例えば、火を起こすとか、家を建てるとか、食べ物を得るみたいな、そういう力もとても重要だよねって思うんです。僕は、バンコク生まれ東京育ちだったので、大学生くらいの時は、まったく生きる力がなかったわけですよね。僕が高校を卒業して大学浪人をしていたときに阪神淡路大震災が起きてボランティアに行ったんですが、実感したのが、生きる力を発揮できない、育めない都市の脆弱さと危うさ。
結局のところ、誰も生きる力を持ってないというのはかなり大変なことだな、と思った。
大学を卒業してから、生きる力をつけたい、と思ってアジア学院というところでボランティアをしたんですが、ある朝電話がきて、大学の同級生だった、僕の親友が自殺したって聞いて。
アジア学院で、僕は生まれて初めて、「生きている」「生かされている」という感覚、自然の豊かさ、人のつながりの豊かさに身を委ねる幸せを感じていたんです。それまで「生きている」と感じたことがなかった僕としては、「生きる意味がわからない」「どこにも僕の居場所はない」と言ってた彼がもし、自然との豊かなつながりの中で暮らしていたら……、もし彼が、ともに暮らしをつくる人の豊かなつながりの中にいられたら……と思わずにはいられませんでした。
みんなを消費者として扱う近代社会の恐ろしさ。僕らはみんな、それこそ『未来少年コナン』(※2)の、地下でひたすらパンをつくる工場で働く、何年も太陽を浴びたことがない人たちみたいな状態が今だなって思う。知ってる人しか知らないと思うけど。
(※2)1978年にテレビ放映されたアニメ作品
江利子さん わかんないけど、そうなんですね。
菜央 わかんないよね(笑) まあ要は、命のエネルギーみたいなものを発散するにも、サービスを通じてしかできない。だからアーティストかもしれないし、すごい才能があるかもしれないけど、消費者として教育されてるし、消費者として生きてるから、その枠の中でしか可能性が発揮されないんだよね。そういう意味で、江利子さんの実験っていうのは面白いなと思ってみていたんですよ。
薪ストーブで暖をとるまでに生まれる循環
江利子さん そっか。でもね、手はかかりますよ。家には薪ストーブ一つしか暖をとるものがない。灯油は買ったこともないんですよ。灯油を入れるための赤いケースすらない。だけど、薪ストーブのための薪も、買ったことがない。この辺りの地域の人で、薪ストーブを持っている人っていうのは、ネットワークがあって。「あそこの倒木、持っていっていいぞ」とか、「いらない材木いるか?」とか、いろんな人が声かけてくれたりして、なんとかなってるんですよね。
でも、軽トラで行って、丸太を玉切りにして、それを軽トラに積んで、運んでおろして、薪割りをして、家の脇に積み直して、それを家の中に運んで、薪をくべるって、ものすごい労力じゃないですか。でも、そこまでやらないと暖をとれないって、便利とはかけ離れているけど、ありがたいなと思っていて。本当にありがたいんですよね。
「あそこの倒木、持っていっていいぞ」って言ってくれてありがとうっていう人に対しての感謝もあるし、倒木に対して、使わせてもらうね、ありがとうっていうのもあるし、すごい感謝の気持ちが生まれる。それは、灯油を買ってきて、灯油を触るの嫌だなとか匂いが嫌だなとか思いながらも使い続けて、灯油がなくなったらピピピってお知らせしてくれるのとは全然違う、いい循環がもてているなって気がしますね。
菜央 さっきのね、超合理主義なんじゃないかっていうのと近いなと思ったけど、やっぱり、木をもらうことで、その人と関係が豊かになるし、その人がいるお陰で、倒木っていう、生態系の中で命をまっとうした、一つの死を迎えた木を使えるっていう幸せ、それがあたたかさっていうのにつながっていくとか。
あと、「薪ストーブあるんだよね」って誰かと世間話をしたのが伝わって、それが薪になってやってくるみたいな。そのまち全体の人間関係の豊かさ。薪を集めて薪を切る、自分が薪を集めるということを通じて、いろんな豊かさがそこに生まれるんだよね。
江利子さん ですね。マイナスになることがないんですよね。何も奪ってない、何も消費していない。それで、その関係性はプラスになるっていう。プラスに転じることばかりです。
便利さの現代のスピード、「翌日お届け」みたいな世界からしたら、強烈に不便なんだろうけど。でも、「翌日お届け」によって友だちはできないし、自分が困っているときに声をかけてくれる人もできないし、子どもをちょっと見ててくれる人も見つからないし、何もしてくれないんだよね。ただ、もうそろそろ届きますよって案内はしてくれるけど(笑)
菜央 そうね(笑)まぁ僕は、「翌日お届け」を使ってますけどね。
江利子さん 私も使いますけどね(笑)
長野で見つけた、理想的な地域における家族のあり方
江利子さん あとね、こっちに来て、理想的な家族を見つけたっていうか、あ、家族ってこういうものなんだなって思ったっていうのは、けっこう大きくて。私、家族の関係がぎくしゃくした中で育ってきたんですよね。それで、幸せな家族というものがよくわからないところはあるんです。だけど、今住んでいる家の大家さんが理想的で。
子どもが4人いて、それぞれ近くに住んでるんです。娘さん3人と息子さん1人なんですけど、この大家さんが、スーパーおじいちゃんなんです。自分はしっかりと社長業をこなして、さらに週末には、娘たちの家の畑仕事を手伝ったり、飼い犬が脱走するからゲージを修理したり、薪を運んでクレーンでおろして、すごい量をドサッと置いて帰っていったりとか(笑)
菜央 何それ、差し入れ?(笑)
江利子さん そう、差し入れ。しかもクレーンで(笑) 重機もバンバン使うし、なかなか手の届かないところを娘さんがいない間にやってくれている。何歳になっても子どもたちをずっと見守って、いつでも手を差し伸べてあげている。しかも近くで、すごく頻繁に。
お孫さんたちのお迎えは、ばあばがだいたいやってるし、みんなでしょっちゅう、じいじ・ばあばの家に泊まってる様子もみるし。こんなに頼っていいんだなあって。子ども世帯で集まって、よく庭先でバーベキューもやっている。私たち家族も毎回参加するんですけど、椅子と家にあるものを持ち寄ってね。それがひとつの正解というか、地域の中で家族や親戚がどういう関係性だったら幸せなのか、というのを見せてもらっている気がします。
菜央 へえ。親戚じゃなくてもそういう方が近くにいると、自分が歳を取ったときのロールモデルになるっていうか、「あ、そういう幸せもあるのか」とか学べる感じなんだね。いいね。
江利子さん そうですね。
多様な関わりを生む、地域の「仕事」の豊かさ
菜央 そのね、おじいちゃんが元気な理由がね、たぶん仕事の捉え方の違いなのかなとか思ったりしてね。ギャラをもらうための仕事っていうのじゃなくて、あらゆる仕事が仕事みたいな。それこそ普通に経済合理性を考えたら、クレーンをわざわざ動かして人の家の庭に薪を置かないわけで。
驚かれることも楽しみにしてるんだろうし、全部が、人間関係とか、自分の長期的な幸せとかにもつながってるし、地域の幸せにもつながってて、豊かな収穫がある。Forbesに江利子さんが連載しているコラムで「働くっていうのは、自分たちの生きる世界をつくることだ」って書いてたけど。
労働と経済がイコールだし、さらにそこに健康とか、自分が伝えてきた、それこそ生きるリテラシーを他の人に伝えるかとか、単純な楽しみとか、友人関係とか、いろんなものがそこから収穫できる、お金以外のいろんな収穫。むしろ田舎だと、お金だけで測れば少ないんだけど、お金以外の収穫がめちゃくちゃ多いから、みんなそれを楽しんでやってるから、まわりが豊かになるんだよね。そのおじいちゃん一人いることで、集落全体がどんだけ豊かになってるかって考えると、すごい。
江利子さん うん、本当ですね。
菜央 で、おじいちゃんも、みんなからもらってるんだよね、収穫を。生きる元気とか。あとやっぱ、おじいちゃんはGDPの増大に寄与しないから、もう引っ込んでてよみたいな。ひどい言い方をすれば、世の中の平均ってそうじゃない?
江利子さん うん、確かに。
菜央 だけど多様な関わりがあることが、生活のデザインっていうか、暮らしのデザイン、地域のデザインになっていて。いくつになってもやることがあるし、衰えたら衰えたなりにやることがある。その豊かさって、消費者であることとは対極にあるんだよね。
江利子さん うん、本当にそう思いますね。対極にあるなあ。
(編集: 福井尚子)
(編集協力: 西谷渉)