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グローバルで活躍してきた小野寺愛さんが、ローカルで生きる理由。母として、活動家として。生活圏だからこそ生み出せる“確実に根付いていくもの”とは。

「いいのかな。私がやっているのは、母親の地域活動でしかないんだけど…」

今回取材を申し込んだとき、小野寺愛さんは私に、こう告げました。
私は即座に答えました。

「うん、その話を聞かせてほしいの」

この記事は、こんなやり取りからはじまった、小野寺さんの現在地の記録です。

撮影: 大塚光紀

小野寺愛さん。greenz.jpでも何度も記事に登場しているアクティビスト。

かつては、国際交流NGO「ピースボート」のスタッフとして地球を9周。世界中でスタディツアーを組み、洋上のモンテッソーリ園「ピースボート子どもの家」をつくり、子ども・大人問わず多くの人に地球を感じる機会を提供してきました。

近年は、一般社団法人「日本スローフード協会」三浦半島支部代表、「エディブル・スクールヤード・ジャパン」アンバサダーといった立場で、イベントのモデレーターや海外ゲストのアテンドを務めるなど、世界的なムーブメントを日本に広める活動家として活躍。環境や食について、人々に気づきのきっかけを与え続けてきました。

そんな小野寺さんが2016年以降、もっとも多くの時間とパワーを費やし、没頭していること。それは、小野寺さんの言葉を借りると、地元・神奈川県逗子市での“母親の地域活動”です。

2016年7月、子どもたちと一緒に逗子の自然の中で遊び尽くそうと、仲間とともに一般社団法人「そっか」を設立。季節ごとの「収穫祭」など地域密着型で誰でも参加可能なイベントのほか、小学生の放課後クラブチーム「黒門とびうおクラブ」(2010年〜)、海をフィールドにした自主保育「海のようちえん」(2011年〜)といった既存の取り組みをベースに、地域の人々と手を取り、草の根的な活動を続けてきました。

2017年春には活動拠点として「海のじどうかん」を立ち上げ、子どもがシェフになって運営も行う「逗子こどもレストラン」もスタート。2019年4月には認可外保育施設「うみのこ」を開園するなど、活動の幅は着実に広がり、今や「そっか」コミュニティに関わる子どもの数は、200人以上にもなるのだとか。

Photo: Yo Ueyama

「私の子どもから、私たちの子どもたちへ」を信条に、人口5万7千人の三浦半島の小さなまち・逗子に根を張り、地域の子どもたちが育つ場づくりをしている3児の母・小野寺さん。

グローバルからローカルへ、生き方を大きくシフトしたように見える彼女の目には、今、どんな景色が映っているのでしょうか。

小野寺愛(おのでら・あい)

一般社団法人「そっか」共同代表。地球9周した船乗り、波乗り、3児(2019年11月現在12歳、10歳、5歳)の母。国際交流NGO「ピースボート」スタッフ、洋上のモンテッソーリ保育園「ピースボート子どもの家」運営を経て、2011年より、地元逗子で自主保育「海のようちえん」を主宰。2016年、地域の仲間とともに「そっか」を共同設立。「エディブル・スクールヤード・ジャパン」アンバサダー、一般社団法人「日本スローフード協会」三浦半島支部代表としても活動している。共著に『紛争、貧困、環境破壊をなくすために世界の子どもたちが語った20のヒント』(合同出版)

世界の問題の解決策は、
すべてローカルな活動だった。

「うみのこ」の園舎にもなっている「海のじどうかん」 撮影: 大塚光紀

インタビュー当日、息子の玄くん(5歳)も通う「うみのこ」の2階にある小さな和室で、まちのお母さんたちと、「そっか」の次のイベントについてあれこれ構想を重ねていた小野寺さん。

「みんなのお母さんを、ちょっとお借りしますね」。

そんな気持ちで逗子海岸のカフェに小野寺さんを連れ出しました。肌寒い曇り空の下、灰色にくすんだ海に人はまばら。テラス席に座り、チャイを2つ注文すると、小野寺さんは過去の自分に思いを馳せるようにゆっくりと、語り始めました。

撮影: 大塚光紀

小野寺さん はじまりは10年前にスタートした「黒門とびうおクラブ(以下、とびうお)」でした。子育て仲間だったタクちゃん(「そっか」の現・共同代表でもある永井巧さん)が8人の子どもたちと放課後に海遊びするっていう活動が、少しずつ広がっていて。

私は6年前、長女の桃(現在12歳)が「とびうお」に入ったのをきっかけに、毎週母親として関わるようになりました。とびうおは、ただマリンスポーツを教える習いごとじゃない。自分で考えて自分で動くことを軸に、普通は攻めないような、“身の丈プラス10センチ”で細胞が震えるようなところをギリギリまで遊ぼうっていうのが面白いな、と思っていて。

「とびうお」に出会った当時、小野寺さんは「ピースボート」で働き、世界中をフィールドにしたスタディツアーを企画・運営していました。

小野寺さん そのときの自分のテーマは、貧困の問題も環境の問題も、「答えになるようなものを見に行こう」というものでした。子どもや若者と旅をするからには、問題の現場を目の当たりにするよりも、むしろ答えを生きている人や地域に出会いに行きたかった。それで、そんな現場に人々を連れて行くツアーをいっぱい組んでいて。

世界を見るうちに浮かび上がってきたのは、グローバルな問題の解決策をつくっているのは、いつも草の根で、地に足がついた地道な活動をしている人たちだということでした。

たとえば、風力発電が世界一進んでいると言われるデンマーク。当時、もっとも大規模に風力発電を営んでいたNGOを訪れて話を聞くと、風車の所有者の8割は個人だということがわかりました。個人が集まり、皆でつくったお金で新聞広告を出して出資者を募り、協同組合形式で運営していたのです。

“自然エネルギー先進国”を支えていたのは国の政策だけではなく、個人の草の的な活動でした。小野寺さんが大きな気づきをもらったというデンマークの風景。写真はgreenz.jpの記事「電力自給率700%!? 自然エネルギー大国、デンマーク・ロラン島に暮らすニールセン北村朋子さんが語る、持続可能な未来のつくり方」より

小野寺さん 世界中から人が集まるような教育の現場も、パーマカルチャーもスローフードも、日々の活動はとても地道なもの。すべてローカルに根ざしたものでした。そんな気づきを得た頃、ちょうど3人目の子どもが生まれ、もっと自分も地域で動きたいと思うようになって。自然と、海で子育て仲間のタクちゃんがやっていることが、ど真ん中に響きはじめたんです。

ローカルであることともうひとつ、母になってからずっと軸にしてきたことがあって。それは、「平和は子どもからはじまる」ということ。子ども誰もが持って生まれた「生きる力」を大人や社会が邪魔しなければ、人はきっとどこに暮らしていても自分らしく社会に貢献する存在になる。持続可能で平和な世界への一番の近道って、もしかしたら、そんな風に人を育てることなんじゃないかって。

そんなことを考えながら毎週、地元の海でそれぞれに自分らしく輝く子どもたちを見ていて、ああ、これ(とびうお)を手伝いたいなとふわっと思うままに、ちょっとずつ活動して。その数年後には、一般社団法人化していました。

取材後の夕暮れどき、逗子海岸には、寒空の下、裸足で駆け回る「黒門とびうおクラブ」の子どもたちの姿がありました。 撮影: 大塚光紀

「ふわっ」とした衝動のままに行動し、仲間と出会い、語り合うなかで生まれたのが「そっか」。現在小学6年生の桃さんが、3年生のときでした。共同代表となった永井さん、八幡暁さんとともに、そのとき抱いていた問題意識について、小野寺さんはこう振り返ります。

小野寺さん 3人に共通していたのは、「食べてつくって遊ぶ」、つまり生きること、暮らすことそのものを、全部お金さえあれば買って“サービス”として受け取ることができるようになっちゃったことが、実はいろいろな大きな問題の根源にあるんじゃないか、という問題意識でした。

もともと人は、子どもの自転車圏内、半径2kmくらいからいただけるものだけで生きてきたでしょう? 自然のなかで人の暮らしが営まれていれば、その周りには自ずと子どもの居場所もあったはず。空き地には入っちゃダメ、公園ではボールで遊んじゃダメと、子どもの居場所がなくなっていったのは、地域の自然と人の暮らしが切り離されたことと無縁じゃないと思うんです。

であれば、まずは子どもと一緒に本気で遊びぬくことで、もしかしたら自然と人の暮らしをも再び結び付けられるんじゃないかって。「そっか」は、そんな仮説ではじめた活動でした。

「そっか」のネーミングには、「あしもと(足下)からはじめよう」というメッセージが込められています。 撮影: 大塚光紀

現在地は、みんなの期待にひとつずつ丁寧に
応えてきた結果でしかない。

「そっか」の立ち上げにまつわる詳しい話はこちらの記事に譲りますが、あれから3年。活動拠点を持ち、保育園も運営し、関わる人の数も多様性も、地域への影響力も増すばかり。保育料や参加費、日本財団からの助成金(2019年まで)を財源に、有償スタッフ30人(職員4人、アルバイト26人)とともに歩む、地域に根づいた団体になりました。

もともとこのような展開を目指していたのでしょうか? そう尋ねると、小野寺さんは「うーん」と、少し困ったような笑顔を浮かべ、「蠢き(うごめき)が広がって、自然に飽和したというか(笑)」と、まずは認可外保育施設「うみのこ」ができた経緯から語り始めました。

小野寺さん 3年前、週1日、晴れた日に海で集まろうよと「海のようちえん」(「うみのこ」の前身となった自主保育)をはじめて。3年目の去年は、それが週3日になった。午前中だけでなく幼稚園放課後クラスもできて、全部で親子50組100人という規模になって。じゃあこのまま小学校までみんなで海で育てちゃおうか、という声から保育園をはじめることに。

「海のじどうかん」も同じで、「とびうお」の人数も活動回数も増えていく過程で、善意で集合場所を使わせてくださっていた方にも申し訳なくなって、自分たちの場を持たなきゃねって。今年は、小学生だけで170人。さすがに、ちょっと使えるシャワーとかみんなで集まれる場所がほしい人数でしょう?

だから、すべてが“うごめき”的に広がっていて、規模を目指したことは一度もないんです。大志を抱いて動くというよりは、周りから突き上げられるかたちでそうなっていることばかり。当時の小さな自分たちに描けるのは小さなものでしかなかったけど、みんなの期待やワクワクに丁寧に応えてきた結果、知らない間にここまで来ちゃったという感じがあります。

“うごめき”という表現は、「そっか」立ち上げ当初のインタビューでも語ってくれていましたが、今の小野寺さんのスタンスは、当時よりさらに自然体で、肩の力が抜けているように感じました。 撮影: 大塚光紀

「ただ楽しいからやっているだけだったのが、さすがに今、転換期を迎えているのを感じる」と、笑う小野寺さん。今は保育園という事業も抱え、ここでの活動を糧に生活をする職員も数人。ティール組織など組織論にも目を向け始めたそうですが、それも「規模が大きくなって必要に迫られたから」と語ります。

ここで小野寺さん、「変容し続けるうごめきの中で、ひとつだけ、確信を持って話せるかな、と思うことがあって」と、少し姿勢を正すと、「そっか」の思い描く世界観を改めて語り始めました。

小野寺さん アフリカのことわざで、「子どもひとりが育つには、ひとつの村が必要だ」っていうものがあって。この前、辻さん(環境活動家の辻信一さん)が、「でも今は、子どもひとりをみんなで育てるような村がなくなっていることが問題なんだ」って話をしていたのが、心に響いたんです。

“ワンオペ”とか言われているけれど、子どもひとりの生きる力っていうのは家族だけでは絶対に育たない。地域の人たちとの関わりだったり、ちょっと年上、年下の子どもとのやりとりの中に、家と学校だけでは育たない何かがあると、みんなが気づきはじめている。

でも、今はその地域が壊れている時代じゃない? 「It takes a whole village to raise a child」じゃなくて、「It takes a child to raise a village」。「村を取り戻すには、子どもが必要だ」って時代になっちゃってる。

「そっか」でやろうとしているのは、子どもと思いっきり遊ぶことで、村を取り戻そうという活動。それは立ち上げ当初からこれからもずっと、変わらない理念だと思っています。

撮影: 大塚光紀

「そっか」の活動を通して、その村が今、小野寺さんの周りに、確実にできあがってきている。小野寺さんは海に目をやりながら、うれしそうに続けます。

小野寺さん つい数週間前のカヌー大会での風景なんですけど、レースに出場しているのは大人と上級生だけなのに、小さな子どもから大人まで、数十人がわらわらと応援に来てくれた。「とびうお」のテントを2つ建てたら、その周りで子どもも大人も日が暮れるまで好きに遊んでいて。

誰かが勝手に焚き火をはじめて、そこで焼かれた芋はみんなに配られる。誰かが釣ってきた魚は塩焼きになって、刺身になって、やっぱりみんなでいただく。イベントとしての「収穫祭」なんてやらなくても、自然にそういう状態になっていて。

台風が来てカヌーを解体するのも、パドル一本一本にやすりをかけて樹脂を塗って整備するのも、面倒な仕事だから、みんなで声かけあって時間をともに過ごすうちに、コミュニティになっていく。「地域のお祭りの担い手が不足する時代に、ここではカヌーが神輿みたいに機能しているね、とみんなで話している」と、小野寺さん。 Photo: Yo Ueyama

小野寺さん 誰が誰の兄弟で、誰が誰の親なのか、側から見たらもう全然わからない。わが家の年中児の末っ子も、近所のみんなが可愛がってくれる中で勝手にたくましく育っています。いま本当に、海を真ん中にした大きい親戚、大きい村ができてきた、という幸せな感じがあるんです。

だから自分のやってることは、地域社会が壊れていなかったときの“声の大きいお節介母さん”みたいな感じでしかないなって(笑)

ずっと背中を追いかけてきた人は、
本当に“普通のお母さん”だった。

華やかで刺激的なグローバルの舞台から、草の根で“うごめき”的なローカルの活動へ。今の自分を“声の大きいお節介母さん”と形容した小野寺さんの表情は、誇りに満ちているように見えました。

大きくシフトした生き方を今改めて振り返るとしたら、小野寺さんはどんな話を聞かせてくれるのだろう。彼女にとっての自然な流れとは知りながらも、やはりこの問いを投げかけてみたいという衝動に駆られ、そっと聞いてみました。「転機」や「覚悟」みたいなものがもしあったのだとしたら、「どんな小さなことでも聞かせて」と。

すると小野寺さんは、「覚悟じゃなくてすごく自然だったんだけど」と前置きをして、ずっと背中を追いかけてきた存在の活動家、アリス・ウォータースさんの話を聞かせてくれました。

小野寺さん ピースボートを卒業してからは、「エディブル・スクールヤード」と「スローフード」を、自分の中で関わり続けるローカルで国際的な活動として大事にしてきました。アリスはそのどちらにも深く関わっている人。ある意味で背中を追いかけてきた私のヒーローというか、憧れだったんです。そんな人が去年の春、日本に来て、通訳としてずっと一緒に行動させてもらって。

そのとき感じたのは、アリスがすっごくいい意味で「普通のお母さん」だったこと。仕事柄、カリスマと呼ばれる方々が忙しさのあまり家族を意外と顧みていなかったという残念な場面にも何度か出会ってきたけれど、アリスは、もうなんかすっごく普通だった。

私が空港で昼食を食べそこねて売店に駆け込もうとしたら、自分がホテルで残した朝ごはんを大事にペーパーナプキンに包んで持ち歩いていたのを「これで良かったら」って私に差し出してくれたんです。それを娘のファニーが「お母さんやめてよ、恥ずかしいから」って止めたりして。私それにすごく感動して、キューンってやられちゃって(笑)

撮影: 大塚光紀

小野寺さん もうひとつ、印象に残っているのは、スローフードの会食の場でのアリスの言葉。「この場にいる人たちはみんな生きている。自分の物語と、自分の時間を大切に生きる人が集まる場所には、幸せがある」。これにも痺れて、心から共感して。

全然飾らないし、取り繕わない。アリスはごく普通のお母さんで、目の前の人と美味しい時間、幸せな時間を過ごしたくてただただ歩んで来たということが伝わりました。その結果として、予約の取れないレストラン「シェ・パニーズ」の成功や、米国オーガニック事情の改革が広がった。

アリスと1週間を過ごして「ああ、それでいいんだ」って思っちゃった。結果を出そう、じゃなくて、結果はついてくるものなんだという考えに変わっていきました。

昨年来日したアリス・ウォータース。一週間の滞在中、そのとなりには、いつも寄り添うように同行する小野寺さんの姿がありました。

小野寺さんはこれまで、ガンジーの名言「Be the change you wish to see in the world(あなたが起こしたい変化に、あなた自身がなりなさい)」や、オノ・ヨーコさんの「ひとりで見る夢はただの夢、みんなで見る夢は現実になる」という言葉を語り、夢に向けて行動し、華やかな舞台で多くの人々を奮い立たせてきた人。そんな活動家としての顔も、私は大好きでした。

素直にそう伝えると、「それほどでもなかったよ」と笑いながら、小野寺さんはこう続けてくれました。

小野寺さん かつては華やかな大舞台にワクワクしていた自分がいた。「そんな仕事があるんだったら子どもを預けてでも行きたいな」って思っていた時期も、確実にあったはずで。

でもいつからか、そうやって大人たちが何かを企てている場面よりも、ここ(逗子海岸)で、夕暮れ時に子どもたちが全身全霊ワクワクしながらカヌーで漕ぎ出していく背中を見守る時間のほうが、自分の琴線に響くようになっちゃった。

歳を重ねるごとにそうなってきていて、「そっか」を始めてそんな傾向が加速して、アリスとゆっくり話を重ねたことで満足した。もうね、地域でやりたかったの。華やかなものとか、はっとする瞬間もいいけれど、単発じゃなくて、確実に根付いていくものを生み出す側に回りたかった。

「確実に根付いていくもの」。このワードをもう少し掘り下げてみたくなった私の様子を察したように、小野寺さんはさらに言葉を続けてくれました。

小野寺さん ピースボートでの教育プログラムやスタディツアーの場では、みんながハッとする機会をつくろうとしていました。地球一周という非日常的な学びの場でズドンと気づく瞬間を重ねて、何かのきっかけになれば、と。

それもすごく面白かったし、たぶん天職だったけれど、個人の気づきだけでは足りないと感じるようになった。日常に帰ったときにそれを共有して根付かせていく仲間がいないと、思いはかたちになりにくい。

私は、自分が今まさに子育てしているこの土地で、役に立ちたかった。下手くそでも、ゆっくりでも、このまちに安心感や信頼感を広げる一助になれたらと思っているんです。

撮影: 大塚光紀

海のおかげ。みんなのおかげ。
この景色を、もっとみんなのものに。

逗子の海に目をやりながら、ゆっくりと自分のこれまでを振り返る小野寺さんの眼差しには迷いがなく、現在の自分への確信に満ちているように感じました。「見たい景色が見られていますか?」と問いかけると、正直で真っ直ぐな答えが返ってきました。

小野寺さん うん。こんなになるとは思わなかったなぁ。心から「子どものために」だけで動ける大人って、本当はそう多くない。でも今、「そっか」のコミュニティでは他の子の成長を我が子のことのように喜ぶ大人がたくさんいる。

それは、たぶん海だったり山だったり、自然のなかでのワクワクドキドキを親子ともに共有できていて、自分自身も成長しているから。自然との関わりを自分の中に取り込み直しているからじゃないかなと思うんです。自分自身も足下の自然にワクワクできたら、少しずつ見える景色が変わってくるんですね。

こんなになるとは本当に思わなかった。海のおかげ、みんなのおかげです。

撮影: 大塚光紀

そして今、小野寺さんの見たい景色は、次の段階へ。

小野寺さん 私自身はここで夢みたいな子育てをさせてもらっているけれど、「とびうおクラブ」にせよ、「うみのこ」にせよ、アンテナを立てている大人がいる前提でしか子どもたちに場を提供できていない。どちらも月謝や保育料が発生する取り組みだし、完全な意味での地域活動ではないことを自覚しています。

事業は事業として持続可能に運営しつつ、地域に滲み出ていくものを大切に。そう肝に命じながら次のフェーズに向かいたい。「これをすべての子どもたちに」と思わずにはいられないけれど、広がりすぎると薄まる部分があることも、やってみてわかってきて。日々軌道修正、日々試行錯誤です。

20世紀の100年間を通して、資本主義社会では「私(プライベート)」ばかりが、社会主義社会では「公(パブリック)」ばかりがどんどん大きくなって。祭りや空き地、子ども会やPTA活動といった「私」でも「公」でもない「共(コモンズ)」は、ぐんぐん縮小していった。

「そっか」では人のつながりを担保する「コモンズ」を取り戻したいと思って活動してきたけれど、それをどう「パブリック」とつないでいくか、もしくは事業として持続可能なものにするためにどう「プライベート」の領域も持たせるか。

そういう段階に来ていて、いろいろ勉強しているんだけど、まあ得意分野ではないからね(笑)、ゆっくりかな。

撮影: 大塚光紀

当初は、一大決心の結果のように見えていた小野寺さんの現在地。でもインタビューを終えた今、実はそれは、小野寺さんが自分自身にかえっていくような過程の末だったのかな、とも感じられます。それほどまでに自然体で語ってくれた小野寺さん。生き方をシフトした“理由”があるとすれば、それは「魂がうごめいたから」と言えるのかもしれません。

小野寺さんがアリスの姿に触れて肩の力が抜けたように、「声の大きいお節介母さん」としての小野寺さんのあり方は、きっと近い存在の人々への静かな影響力となっていくのだろうと思います。それは刺激的、一時的なものではなく、とても自然で、だからこそ恒久的で、未来へつながっていくもの。何より子どもたちは、側にいる大人の魂を身近で感じ取って生きていく。それこそが小野寺さんの言う「確実に根付いていくもの」なのだと思います。

撮影: 大塚光紀

今回の記事では、小野寺さんの現在地を描くことに集中し、「そっか」の組織や具体的な仕組みづくりについてはあえて触れることを避けました。

読んでくださったあなたの頭の中には、

「そっか」は収益化していけているの?
児童館や保育園ってどうやってつくるの?
どうやって地域の人々を巻き込んでいったの?

などなど、数々の疑問が湧いているのではないでしょうか。そのあたりについては、また後日。次回の記事では、「私たちの子どもたち」を地域で実現する、その具体的な方法論にも迫っていきたいと思います。

「小野寺さんだから、逗子だからできる」

ではなく、

「私にも、私のまちでもできる」。

そう思ってくれる人々が増えることを願って。

(アイキャッチ画像撮影: 大塚光紀 https://www.facebook.com/photo.office.wacca/