立秋である2012年8月7日に取材を行いました。気持ちの良い秋風に吹かれながら。
少し想像してみましょう。地下鉄も車もなかった時代、人々の交通手段は舟でした。山々の下流に位置し、湾に面した大阪は「水都大阪」と言われるほど町中には川や運河がはり巡らせられており、造幣局や中央公会堂といった公的機関や財閥の建物は次々と川沿いに建てられ、舟を乗り着け川側から人々は出入りする…。川を中心に町は栄えていったのです。
やがて交通手段は鉄道や地下鉄、車へと変化し、川には堤防が築かれ、人々は堤防の中で生活をし、堤防の外(川側)で生活してはいけない法律が制定されました。川は“町の表”から“裏”へと変化し、ビルの裏側には室外機が立ち並ぶ光景が出来上がる中、これを覆す動きが大阪の中心市街地で起こっています。
主体は「北浜水辺協議会」。大阪の北浜にて常設の”川床(かわゆか)”をビルオーナーや飲食店などのテナントに設置してもらい、昔、水辺にあった人々の営みや交流を取り戻そうという動きです。
「北浜水辺協議会」の立ち上げに深く関わり、今もなお取り組みへ尽力されている事務局長の山根秀宣さん、同協議会理事でNPO法人水辺のまち再生プロジェクトの松本拓さん、同じく理事でNPO法人もうひとつの旅クラブの泉英明さんにお話を伺いました。
北浜水辺協議会の取り組みへ到るまで
山根さん(以下、敬称略) 風が気持ちいいですね。川って、建築物がない連続した空間だから、風が通るんです。町側にテラスを作っても同じようにはならないです。特にこの辺りは中央公会堂があったり、薔薇園があったり、風景が美しい。「この風景をもって、川を活かさない手はない」とずっと思ってたんです。
2003年にとあるNPOで大阪府のデザイン創出事業をコンペで受託し、水辺周辺の生活者などへアンケートを取り「みんなにやさしい水辺の提案」を報告しました。けれど、1年経っても、2年経っても、水辺は一向に変わらない。それはなぜかというと、取り組みを実践する人がいなかったからです。それならば自分が実践しようと。本業は不動産業なので、川に面したビルを買い取ろうと探したんです。でも、高いんですよ!2006年の秋、ようやく買ったのが今のY’sピアというビルです。
そして、そのビルの1階~2階を店舗スペースにして、川床が出来ればいいなと思って、NPO法人水辺のまち再生プロジェクトの中谷ノボルさんに相談したんです。すると「我々も川床が出来ないか検討していたんです。実践するための方策をNPOが練るから山根さんは地域をまとめていってください。地域ぐるみの取り組みへ育て上げないと、実現は出来ません」と。
いや~それからは、呑み歩きましたよ(笑)。その時は川床が出来るという確証はどこにもなかったけど、とにかく町の人と仲良くなろうと。けど、呑み歩いているうちに、「川床をやりたい」「川側につながりたい」と思っているビルオーナーはたくさんいて、中には行政に掛け合って「ダメです」と言われた人もいることが分かってきました。
そんな中で、既に、川床を勝手にやっているてる坊こと、山西輝和さんとの出会いがあったんです。
この界隈ではすっかり有名な「てる坊」の逸話があります。それは、毎年7月24日・25日の天神祭の頃になると、その直前に必ず換気扇が壊れる店があり、そして川に面した形で足場が組まれ、それは換気扇修理には少し大き過ぎるもので、ある日、そこにはござまで敷かれるというものです。そのビルのオーナーであり、1階でお蕎麦屋さんを営んでいるのがご主人のてる坊さんなのです。
松本さん(以下、敬称略) 僕は本業では建築の設計をやってるんです。会社勤めをしているときにコンペへ応募して、それが最終選考に残ったんです。これは勝負所だと思って、無理を承知で会社に一ヶ月休みをもらったことがあります。そしてコンペは落選して、会社も辞めざるを得ないことになって(笑)。
結果的にそれがキッカケとなって、友達と3人で独立しました。それがたまたま大阪だったんです。大阪で色んな出会いがある中で、NPO法人水辺のまち再生プロジェクトの代表に出会い、水辺の活動がおもしろくって、気がついたら抜け出せなくなっているという(笑)。それで「本気で川床を実現させるぞ!」ってことで泉さんや山根さんたちと出会ったんです。
泉さん(以下、敬称略) 僕は本業はまちづくりのコンサル業です。NPO法人もうひとつの旅クラブで活動しながら「川床をやりたい」と思い、勝手に活動してたんです。以前の活動で知り合った行政の河川管理の担当者へ話を聞きに行ったり、川床を設置するには何が障害になるかってことをリサーチして。
それで自分が旅クラブの理事長をやっていたときに、NPO法人水辺のまち再生プロジェクトへ「一緒にやりませんか?」と話を持ちかけたことで、今の3人が出会いました。お互い様々なNPOや活動をやっているので、色んな会議で会うんです。今となっては、家族よりも顔を突き合わせてる時間が長いですね、このメンバーは(笑)。
地元の賛同者と、「水都大阪」の気運を得て
それぞれの分野で専門知識を持っていたメンバーが集い、てる坊さん他、古くからこの地域で生活している地元メンバーも仲間に入り、企業からは調査費の援助も受けることができ、調査活動が始まります。
松本 ふたつのNPOの合同チームで役割を分担し、一軒一軒の建築的な条件や法的用件を網羅し、先進事例をリサーチし、他のビルオーナーへ参加意向の打診をし、そしてデザイン・ブランディングをするということを、たった2ヶ月でやり切りました。
さらにこのプロジェクトが特徴的なのが、行政の担当者も実現へ向けて積極的に動いてくれたということです。水面下では中之島の景観整備の計画が進められるなど、大阪が府市一致して「水都大阪2009」という都市プロモーションへ向けて動き出しており、これが大きな追い風となりました。
山根 2007年秋、「水都大阪2009」のために行われた市民参加準備会議で泉さん、松本さんに直接対面し、一気に現実的な話が進みます。それで「実際に川床というのは実現可能なのか?」というのを試すために、2008年10月に社会実験として運営することになったんです。
対象となるのは、土佐堀川に面したビルのうち、三休橋(現在は淀屋橋)から東横堀川が交差する地点まで。約35軒のビルオーナーのうち、「川床をすぐにでもやりたい」と手を挙げたのは8軒。そのうちビルの構造、改修工事費用などの現実的条件がクリアできた3軒で、川床が建てられました。
2008年に社会実験として建てられたテラス。
松本 川床を実現するには、エアコンの室外機を全部屋上へ上げたり、腰高窓を壊して掃き出し窓へ変えたり、床を作るよりも改造費に大きなお金がかかる場合があるんです。民間としてはその部分がネックです。一方で行政としてはどう安全性を確保するのかというのがネックです。かといってテラスの柵が高くては景色が楽しめないし、人が川に落ちればもう今後一切の活動が出来なくなるでしょう。
ということで、柵のサイズにルールを設けたり、また川からの景観を守るためにデザインコードを用意したり、一つずつ提案と交渉を繰り返していきました。
Y’sピアビルにて、腰高窓下のコンクリートを撤去する作業が行われている様子
柵の高さは70cm以上、幅は20cm以上にするというのがルール
山根 結果的に、その2008年の10月に一ヶ月間実施した社会実験が大成功をして。マスコミというマスコミが取材に来るし店の電話が鳴りやまずに、とあるオーナーは電話を冷蔵庫へ閉じ込めてしまったくらい(笑)。橋下知事も視察を希望されてたけど、予約が取れずに閉店後の夜中にやって来ました。
泉 通常だと、実施するのに10年はかかるようなプロジェクトなんです。それが、官、民、企業、よそ者も地の者も総結集したから、あっという間に実現へ漕ぎつけたんです。誰かひとりでも「NO」を言えば実現しなかった。「出来ない」理由はいくらでも述べることが出来ますから。国の河川のルールも変わりました。これまでは「川床」という文字がなかったけど、今では書き加えられています。
とても画期的な取り組みにも関わらず、あっという間に実現出来てしまったからか、あまり画期的と認識されていないのが現状です(笑)。
山根 逆にみんな驚いてしまって。「え、何でこんなに早く実現出来るの?」って(笑)。泉さんも、松本さんも、これまでの仕事の中で行政と交渉をしてきた人だから、信頼があったんです。普通は行政と戦って何かを勝ち取るけど、行政の担当者は終始前向きに検討してくれました。
それにしても、例えば「河川管理課」というのは川で問題が起こらないように取り締まるのが仕事なんです。だから、普通だったらあり得ないんですけれども。本当に大阪府の職員さんには応援してもらって感謝していますね。こういうことは、地元の人間が言うことに意義がありますから、知事にも心を込めてお礼を言わせてもらいました。
泉 それにしても、社会実験でお客さんが多く来すぎて、逆に不安になってしまい、2009年の夏にもう一度社会実験をするんです。
山根 そうそう。秋はいいけど、常設となると夏場は蚊が飛んできて料理にベタっとくっつくんじゃないか、とか(笑)。
2009年の5月~7月まで社会実験が行われて、心配事は無事に解消され、そして「水都大阪2009」が終了した2009年11月1日より、北浜テラスの包括的占用主体が水都大阪事務局より北浜水辺協議会へ譲渡され、今では自治を担っているそうです。
さらに水辺を愛するオーナーが自費負担でテラスを設置しているという背景から、大阪府とは「北浜テラス存続」の10年協定が結ばれました。ビルの建て替えなどを機に川床を希望するオーナーは増え、今では計8軒の川床が設置されています。
山根 将来的には、この水辺に船を着けられるようにして、北浜からよその港町に船で遊びに行けるようにしたいんです。北浜だけでは「水都大阪」は出来ません。各地域が船で結ばれ、水上での交流が増えてこそだと思うんです。
2007年に作られた企画書の中には、既に船着き場として機能しているテラスの姿が描かれている。(C)北浜水辺協議会
人が繋がり、町が繋がる
2008年の本格始動から4年余り。今ではすっかり大阪・中之島の顔になった北浜テラスで美味しいお酒を頂きながら、つくづく「奇跡」は起こるのだと感じます。人々の気持ちが自然や隣人と共生するような方向へ向いたとき、どこか人智を超えた、水の神様に背中を押されるような、そういうことが起きるのではないかと思いました。
最後に、何がそこまで熱くこのプロジェクトへ向かわせるのか、お話を伺いました。
山根 面白くないけど、ほんとのこと言っていいですか?私、大阪のこと悪く言われ過ぎてて腹が立ってるんです。例えば経済的な低迷を「地盤沈下してる」と揶揄されたりだとか。そう言われてしまう理由のひとつは、活かせる魅力を活かしてないからだと思うんです。道頓堀も水都大阪としてのポテンシャルを持ってます。だから、生きている間にこの地域を何とかしたい。それは、生きがいだからやるんです。そうとしか言いようがない(笑)。
松本 自分で仕事をしている中で、キャラをつくるためには他人と同じことをやっていたらダメだという気持ちがありますね。最近「水辺の建築家」と呼んで頂くことが増えましたが、「水辺の建築家」として食べていけたら最高ですね。今は「水辺の建築か?」という感じですから(笑)。
泉 僕は、当時、勤めていた会社の外で関わっていた「river cafe」というプロジェクトの存在が大きいです。当時、河川上での商売は認められていなかったんですが、それを合法的にやったんです。その時色々教えてくれたのが山崎勇佑さんと、伴一郎さんで、週の半分以上通って、その二人に教わりながら「どうしたらできるのか」を話してたんです。年をとっても遊び心のある二人に憧れて、自分もそうなりたいなと。
当時は携帯がないので、会社の電話に「今日はビール何ケースいりますか」「便所の汲み取りどうしますか」っていうような電話がばんばんかかってきて、所長には相当怒られましたね~。
山根 事実上クビですよね(笑)。
泉 そう(笑)。でも、大阪の町が良くなるには、実際に大阪のまちで遊んでる人や活動しているたくさんの人の提案を集約して、計画を作っていくことが大事だと思うんです。そのためには、まず自分たちが自分の町で遊ばないと。自分たちが遊ぶと「大阪はこうあるべき」という主張出来るフィールドになる。
また、仕事だと、自分の感覚と同じ人との出会いってそうは無いんです。ただ、このようなプロジェクトでは出逢えるんですよね。そしてそういう人達とだったら、「人生捧げて何かやる」ってときに、ガンッと前に進むことができるんです。
松本 それは感じますね。こんな風に分野の違う人達と息を長く、付き合いが続くことはなかなかないんです。こういう面白い取り組みの中に自分の役割分担あるんだって思ったら、ここで畑を耕すことが後々の面白い人生に繋がるのかな、と思います。
山根 「水都大阪2009」の最大の功績は何かというと、人を繋げていることだと思いますね。大阪には、活発に活動しているまちづくり団体はたくさんあったんですけど、どこかお互いが敵対しているような部分があったんです。それが、「水都大阪2009」をキッカケに、取り組みベースで話し合いが進み、みんな人間対人間の付き合いが出来るようになって来ました。この流れを今後も継続していきたいですし、この北浜がその先駆者となって全国へ発信していきたいと思います。
こうして川や海を通して見ると、大阪はもちろんのこと、日本全国は繋がっていくような気持ちになりました。
余談ですが、てる坊さんは、今は本場・長野でお蕎麦屋さんを営んでいるとのこと。そのお店にはここそっくりのテラス席があり、テラスからは一面に広がる蕎麦畑の風景が楽しめるそうです。
北浜テラスをもっと知ろう
東京・神奈川でもこんな取り組みが。