【オピニオン:今本 秀爾】環境活動はサブカルチャーではない(後編)

Creative Commons. Some Rights Reserved. Photo by Paul Mayne

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はじめに

(この記事は【オピニオン:今本 秀爾】環境活動はサブカルチャーではない(前編)の続きです)

いよいよ今月末に控えた総選挙。かつてないほど政治への関心が高まっています。そこでgreenzではあの人の意見を伺いたい!と急遽思い立ち、日本における「政治的エコロジー」のオピニオンリーダー、エコロジャパン代表の今本秀爾さんに今回ご執筆いただきました。

今本さんは「環境活動を消費としてではなく、仕組みそのものを変えていく力にする必要がある」と主張します。それを実現するために今日本の環境活動に必要なことは何か、そしてなぜ環境活動と政治の関わりが重要なのか、意見をまとめていただきました。前半に引き続き、どうぞお楽しみください!

環境活動はサブカルチャーではない(後編)

今本 秀爾(エコロジャパン代表)

 前編で筆者は、昨今わが国で盛んな環境活動は、サブカルチャーとしての消費活動にとどまり、真に必要な社会改善に何ら影響力をもたらしていないのではないか、という旨を述べた。そこで日本で今後環境活動に対する実効性ある取り組みのためにもっとも必要な要素は、それぞれの活動の根本に科学的・経済的・政治的観点を盛り込むことである。

 たとえばCO2排出量削減のための取り組みであれば、何がもっとも実質的に効果があるのか、数値やデータで裏付けしたうえで、最も効果的な取り組みを優先するといった取捨選択行動が必要だ。同時に実際の活動による経済的なメリットとデメリットを予測・比較してシナリオを描き、より望ましいシナリオを選定する作業も必要となる。

 さらに地球サミット「リオ宣言」で明言された「予防原則」の徹底化を呼び掛ける運動も必要である。予防原則とは、たとえ科学的な裏付けが確実に証明されない場合でも、疑問を呈するにあたる可能性が十分にあれば、極力使用や生産を控えるという原則である。予防原則が徹底されていれば、肝炎被害やアスベスト被害はかなりの割合で防げたであろうし、地球温暖化=CO2原因説への懐疑論や陰謀論が流行する道理もなくなる。

 経済的観点からいえば、欧米ではいわば当然視されている、環境問題と貧困問題との不可分な連鎖関係に対する根本理解や認識が日本の一般世論に欠いているように思われる。なぜなら地球環境破壊の原因の多くは、多国籍企業や産業による不均衡かつ不公正な経済的グローバリゼーション、大量生産や巨大開発による自然資源の破壊・乱獲や収奪、廃棄に由来するものであり、それが結果的に原産国の経済的貧困や自然破壊、難民の急増を同時に招いていることは、言及を避けられない真実だからである。経済のグローバル化は、一体となってその国の社会の経済情勢を悪化させ、自然破壊を助長させ、治安や雇用システムを破壊し、あげくの果てに難民や地域紛争の火種をつくっている。これらは個別の環境問題としてではなく、世界共通の一体化した経済グローバリゼーションの問題として、社会的公正の視点から総合的に取り上げられねば解決不可能な課題である。
 
 そこでもっとも必要となるのが、政治・政策的観点からのアプローチないしは取り組みである。

 たとえば地球温暖化対策として有効な環境税の導入や排出量取引制度、さらにエネルギー転換や資本の分散化といった制度設計は、企業の自助努力だけでは達成されず、政治によるコントロールによってしか達成不可能である。その政治的責任や役割を認識できていなければ、民間部門の省エネ努力や日本の高度な「技術力」の必要性だけをアピールし、いつ実現されるとも保証できない未来の技術開発に解決を全面的にゆだねるといった極論を、当然のように無批判的に受け入れてしまうことになる。

 一方、ヨーロッパでは80年代より酸性雨による森林枯渇や原発による放射能汚染、有害化学物質による大気・水質汚染といった数々の環境悪化を背景に、それらを政治の現場で直接に訴え、法律やルールを変えさせることで解決しようとする「政治的エコロジー」運動が盛んになった。市民団体やNGOの環境活動家らは自ら選挙に立候補して緑の党の議員となり、数々の先進的な環境政策を、国会や地方議会で次々と提言し、要求し始めた。

 緑の党を代表とする「政治的エコロジー」の運動は、これらは単に個別の環境政策について訴えてきただけではない。上記の経済的グローバリゼーションに由来する貧困、雇用、難民、経済、社会保障や安全保障問題などの解決策を、社会的公正政策を環境政策と一体化した総合的ヴィジョンの下で提示し、実現を呼びかけてきたのである。このような「持続可能な発展」の概念にもとづく国際的な政治アクションは、その後オセアニアや北米を中心に広まり、その後南米やアフリカ、アジア諸国にも展開し、今や88カ国、数百万人規模に広がっている。

 他方で環境活動自体を取り上げても、諸外国ではキャンペーンレベルでも署名や請願活動、デモや集会、政府への要望書や政策提言といったアクションが盛んであるが、日本では90年代以降は、ほとんど影を潜めてしまっている。欧米で70年代以降盛んになったGM(遺
伝子組み換え作物)反対アクションや、代替フロンガスなどの有害化学物質に対する使用規制要求アクションといったものは、依然日本ではなじみの薄いものである。
 
 この政治的アクションの積極性や影響力の大きさの違いは、有権者の投票行動の差にもつながっている。欧州の社会では環境問題が政権を覆すほどの身近な政治の争点として争われており、とりわけ干ばつや洪水、熱波といった気候変動が起きたりすれば、その対策や結果の良し悪しが即座に投票行動に反映し、政権交代が起きるという現象が相次いでいる。

 他方で日本では、政治の場で環境問題が身近で差し迫った生活の問題として、危機感を持って優先的にかつ真剣に取り上げられる機会が少なく、票にもつながりにくいため、依然優先順位の低い問題に扱われがちである。この差が、日本の環境活動の貧困さ、発展性のなさに直結しているのではないかと、私はかねてから警鐘を鳴らしてきた。

 先にもふれたように、本当に社会を変えようと思って活動するのであれば、社会を直接動かしている当事者やシステム自体に直接的な影響力を与える実効性ある活動を自ら進んで選択しなければならない。そのためには環境活動に取り組む者には、誰しも一定度の科学
的・経済的・政治的知識やノウハウを共有し、環境破壊の当事者たちと対等な立場で、戦略や解決策を議論できるよう準備し、それを実践するアクションが緊急に求められているのである。

(おわり)