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日本の林業は明るい。30年後の結果のために今日の仕事をする「東京チェンソーズ」が感じる希望とは。

業界の誰もしたことがない画期的な事業を次々と進め、自分も周りも環境も幸せにしながら成長する企業。

そう聞くと、どんな業界を思い浮かべるでしょうか。ITを武器に肩で風を切る異端児をイメージするかもしれませんが、実はこれ、雄大な緑が視界いっぱいに広がり、深く呼吸したくなるような森の中のお話です。

2006年、東京都で島嶼(とうしょ)部を除き唯一の村である檜原村(ひのはらむら)に、1つの企業が誕生しました。村の9割以上を占めるという森林を管理する林業の会社、株式会社 東京チェンソーズです。

温暖湿潤な日本は木が豊富な国ですが、戦後の植林が成長過程にある間に安価な輸入木材の需要が一般化し、結果として手入れ不足の山が全国的に増えてしまいました。そのため林業は体力的に厳しいとか収益が低いなど、どこか暗いイメージが否めないでいます。しかし毎日森に入る東京チェンソーズのみなさんは、私たちが見ている世界よりも先にある、明るい林業が見えているようです。

日本の林業は「希望しかない」と言い切る代表の青木亮輔(あおき・りょうすけ)さんは、斬新なアイデアで類まれな林業のあり方を先導している存在です。

今回、まちと森がいかしあう関係が成立した地域社会を目指し、竹中工務店、Deep Japan Labとグリーンズが共同で運営している「キノマチ会議」のメンバーで檜原村にうかがいました。森の仕事や林業の将来について語る青木さんのお話には、課題に向き合う姿勢や工夫、先を見据えた持続性ある事業計画など、林業に限らない、私たちの暮らしに活かせる視点がたくさんありました。

(株式会社 東京チェンソーズ代表の青木さん)

メコン川を冒険して感じた
山への思い

2006年の創業から14年、東京チェンソーズは一時期年間1000人以上がイベントに参加するほどの発信力で、熱心に活動を続けてきました。しかし青木さんも、また、一緒にお話を聞かせてくれた創業メンバーのひとり木田正人(きだ・まさと)さんも、檜原村出身ではなく、村外からの移住者です。

まずは林業、そして、檜原村に行き着いた経緯をうかがいました。

青木さん 親の仕事の都合で生まれも育ちも大阪です。大阪でもまだ近所には小さな川があって、外で遊ぶことは好きでした。また、母の出身地である岩手県久慈市に帰省すると毎年1ヶ月くらいは滞在して、川で泳いだり山に登ったり、一面ホタルがいる田んぼを眺めたりするのが大好きでしたね。

少しずつ将来のことを考えるようになった時に、映画『植村直己物語』(※)を観て、”探検家としてこんなに自由に生きる大人がいるのか!”と思ったりして。その影響を受け、高校で進路を決めるとき、山について学べる林学科があって、しかも探検部が有名な東京農大の農学部を目指すことにしたんです。

(※)『植村直己物語』:昭和16年生まれの冒険家、植村直己(うえむらなおみ)さんの半生が描かれた1986年公開の映画。

“山男”たちの必須アイテム、チェーンソーが並ぶ事務所の入り口。ちなみに社名に採用されたのは、伸ばさずに複数形にした「チェンソーズ」が正式表記です。

青木さん 農大の探検部では全国の川を下ったり、テントで過ごしたり、日本の自然の素晴らしさを体感できる機会に恵まれました。あの頃の体験で、山があることで日本の環境が豊かに守られてきたことを実感できたと思います。

大学卒業後も研究生として探検部に残り、先輩からのご縁でメコン川の遠征に参加しました。船で中国に渡ってからチベットの奥地にあるメコン川の源流まで1ヶ月くらい掛けて行くんです。その水流に乗って、あの大河を1ヶ月半ほどかけて下る旅をしました。

当時は中国経済が台頭してきた頃で、チベットの奥地に行ってもダム開発の様子を目の当たりにしました。また、日本に戻っても、気づけば子どもの頃に遊んだ場所が開発されていました。自然破壊の進んだ時代だったと思います。

想像を超えた貴重な冒険ストーリーと原体験を聞かせてくれた青木さん。メコン川の旅から数年を経て就職先を考える際、また日本の山を思い出しました。この時、意外にも青木さんの背中を押したのは、後継者がいない、日本の林業の”暗さ”でした。

青木さん 日本の自然が豊かなのは、山があって木が豊富だからです。その昔は木が切られすぎて里山の半分が”はげ山”と呼ばれる過剰利用にあったのに、数十年でこれだけ復活させたことは世界でも珍しい例だと言えます。

それに、国土の7割も森林なのに、後継者がいないんだったら、自分にも何かできることがあるんじゃないかと思いました。

青木さんを林業の世界へと導いた、日本の豊かな森林。

林業、そして檜原村へ。
「ここに残りたい」

ハローワークで、緊急対策雇用事業という半年限定の森の仕事に応募しました。宿舎付きで採用されたのが、東京都檜原村の森林組合。青木さんが25歳のときです。

青木さん まさか東京で山の仕事につけるとは思っていませんでした、林業は素人なのに採用してもらえて、毎日森に関われることが嬉しくて。同じ作業班には若くて50代、主力メンバーは60代というベテランばかりで、みんないい人たちでしたね。

休みの日にも練習に付き合ってくれたし、資格を取らせてくれたり、作業の間にはツルをつかった山の手遊びみたいなことも教わって。なんとかして半年後もここに残りたいと思うようになりました。

できるかぎりアピールした熱意は通じ、無事に契約延長。さらに欠員が出たことで見事に常勤の座を獲得しました。しかし、森林組合の仕事は日給制、雨が降ったらその日の収入はありません。日々、技術を向上させていく一方で、現実的には不安定な収入で暮らしていたと言います。

その頃、檜原村のお隣、武蔵五日市の森林組合で同じような境遇にいたのが木田さんでした。やっと若い人が増えてきていた森林組合でしたが「結婚するから安定した職に転職する」と辞めていく仲間たちを見て、このままじゃいけないという思いを強くした二人は独立を決意。森林組合から抜けて、自分たちの林業会社をつくることにします。

青木さんと一緒に創業したひとり、木田さん(左)同社の広報を担当されています。

森に関わるからこそ
大事にしたいこと

2006年の東京チェンソーズ創業後、最初にしたことは日給から月給制とし、社会保険をつけたことでした。それにより固定費が明確になり、運営するために必要な売り上げも具体的に見えていきます。

ただ当初、森林組合から独立したものの「仕事の100%が森林組合からの下請け仕事」でした。実は当時の林業では、東京都や山の所有者が仕事を依頼する際、依頼先は森林組合がほとんどだったので、青木さんたちは作業を下請けする形で事業をスタートしたのです。

青木さん 下請けになったら仕事をすればするほど自分たちに返ってくるし、売り上げ目標のためにも、だんだん無理することが出てきました。少しくらい雨が降っても作業しよう、とか、残業してもっと仕事をしよう、とか。

しかし体力的にもきつくなる上、怪我をする危険性が出てきます。これを解決するためには単価を上げなければいけない。それで少しずつ自分たちも元請けになることを始めました。

直接受注する「元請け」になることで森林組合との軋轢はないのかしらと気になりますが、時間を掛けて丁寧に、誰も手掛けないような案件から少しずつ受注を開始。森林組合にはタイミングを図って、元請けにチャレンジしたい気持ちを伝えたそうです。

青木さん曰く、元請けへの転向が「本当の意味での独立」として、大きな転機になりました。序章から現在の東京チェンソーズへと進化したことを機に、いよいよ着手できていなかったことに挑戦します。それは企業理念にも含まれた、森の仕事に対する誠実でまっすぐな思いでした。

東京の木の下で、地球の幸せのために、         
山のいまを伝え、美しい森林を育み、活かし、届けます。

青木さん 新人社員たちが山の仕事を覚え始めたので、理念の中でもまだできていなかった「活かし、届けます」を実践しようという話になりました。それまでは木を切ったら山に置きっ放しにする「切り捨て間伐」でしたが、切った木を運び出して販売することにしたんです。

森林組合の先輩から紹介を受けたという築100年の古民家が東京チェンソーズの事務所。

青木さん しかし、ただ切り出した丸太を販売しても、それで得る収益は1本あたり2000〜3000円が相場です。木を切って運び出すことは大変な作業量だしコストも掛かるのに、その利益ではとてもじゃないけど事業が成り立ちません。

それに、丸太のままだと使い道は限られていて、買う人も少ないんです。そこで僕たちは、もっと使いやすい厚さにスライスしたり、皮を取ってヤスリを掛けたり、また、通常は木を運び出すときに山に捨ててくる葉付きの枝や、根張りと呼ばれている根元の硬い部分なども活かして、オブジェやディスプレイなど自由に使ってもらえるように加工することにしました。

スライスした木材が1枚1000円で3枚も売れたら丸太と同じ価格になります。もちろんそう単純にいくことばかりではないと想像しますが、「1本まるごと販売」と名付けられたこの加工販売は、林業会社としてはかなり異例で、画期的なことでした。買い手のニーズは存在していたものの、慣習の中で応えられる方法が確立されていなかったのです。

事例がないため、青木さんたちも具体的にはどんなものが求められているのか、どのような加工が必要かを空間デザインの製作会社などと協働で進めます。また、販売価格もコストから逆算し、且つ買い手にも優しい範囲を模索。さらに、加工した木のパーツを都心で開催されるイベントなどに出店するようにしました。「森デリバリー」と名付けた移動販売サービスは、自分たちから歩み寄ることで、直接ユーザーの意見や感想を聞き、より細かくニーズを知ることにつながっていきます。

アイデアは出るんですよ。僕らは前職やそれぞれの背景が違う者同士が集まっているので、業界の慣習などに捉われない発想ができます。大変なのは、そのアイデアをどういう仕組みで運用するかという建てつけです。最適な届け方を、いかに無理なく継続可能なシステムに組み立てられるかを考えるのが一番難しいですよね。

枝や木、角材などが加工別によって一覧できる1本まるごと販売のカタログも製作。

コロナ前は毎週末のように丸太や木材を届けていた森デリバリー・カー。

補助金のみに頼らない林業を目指して
社有林で思う30年後

次々と新しいアイデアを実行した東京チェンソーズは、2015年、植樹を軸とした育林事業をスタートとさせました。「東京美林倶楽部(とうきょうびりんくらぶ)」と名付けられたプロジェクトは、またも類をみない事例として話題になります。

青木さん 東京美林倶楽部では、杉の苗木3本の植樹ができます。杉の木は古くから建築材などに好まれてきた日本の伝統的な木で、はじめは背丈20cmほどのかわいい苗木が、約30年掛けて立派な木に成長します。

東京美林倶楽部の会員は30年後、3本のうち2本を伐り出してお好きなように使っていただけます。残りの1本は伐らずに、檜原村で東京の森林の一部としてさらに成長していきます。

いわば杉の木のオーナー制度である東京美林倶楽部。30年間の木のお世話は東京チェンソーズが管理してくれるものの、会員たちは草刈りなどの作業に参加したり見学する機会もあり、結婚記念や出産祝いなど、人生の節目に申し込む人が多いそうです。自分の手で植えた木の成長を長期に渡って見守り、一部は活用して、一部は東京で自然を育むことに貢献できるとは、なんとも夢とロマンがあるプロジェクトです。

草のようにも見える背の低い緑のかたまりは、2019年に植樹されたまだ小さな杉の苗木。とてもかわいいです。

植樹体験は他にも各地で開催されていますが、東京美林倶楽部が独自性を発揮していたのはこの仕組みの部分。背景にあるのは、長年日本の林業で一般的になっていた補助金の存在です。

青木さん 植樹活動って参加費が無料のことが多いんですが、それは補助金があるから可能になります。でも僕たちは東京チェンソーズを始める時、事業の継続を補助金に頼る林業からは脱却したい、と思っていました。補助金は、何か新しく始める時のサポートであるのが望ましく、継続するために補助金に頼ってしまっていては、いつまでも収益を上げづらい林業から変われないと危惧したためです。

補助金に頼らず育林費用を捻出するにはどうしたらいいかを考えました。

元々林業では、木材の価格を1立米(りゅうべい。縦x横x高さ1mの立方体の体積あたりの値段を表す)あたりで表します。通常このエリアの木材は1立米あたり約1万円前後ですが、コストから逆算すると僕たちには1立米5万円が必要であることが分かったんです。そこで、東京美林倶楽部の入会金も、この金額を元に試算して5万円に設定しました。「1本まるごと販売」の価格などもそれを元に算出しています。

前例のない東京美林倶楽部は、本当に申し込みがあるかどうか、社内外の声も様々だったといいます。しかし初年度に用意した100口は完売、その後も、数は植林場所によって調整され変動しながらも毎年完売が続き、6年目を迎えた現在は260組ほどが会員として美林倶楽部に参加しています。

青木さん 30年間は僕たちが管理するので、毎年1000円の年会費もお預かりしています。それが30年分だと3万円、入会費と合わせて8万円になります。8万円払ってでも東京の森林を育てることに貢献したい、檜原村に関わりたい、と思ってもらえることはとてもすごいことですし、僕らにとっても30年間お付き合いしてくれるお客さんがいるなんて、ありがたいことです。

こちらは5年前に植樹された杉の木。すでに背丈を超える高さに成長しています。

この、かつて誰もしたことがないことにチャレンジする勇気や自信となったきっかけは、それまでは誰かが所有する森で活動していたことから一歩踏み出したことも起因していました。

青木さん 東京美林倶楽部を続けるためには、会員の方々が通いやすい植樹場所であることが必須でした。事務所も近いこの山が適してるな、と思って持ち主に相談したところ、購入を勧められたんです。

確かに、会員の方には30年間をお約束するのですから、自分たちの山の方がいいと思い、初めて社有林を持つことにしました。お借りしてる山と違い、植樹のための小面積皆伐(しょうめんせきかいばつ。一定の面積を伐採すること)などもしやすいですし、他にも新しい試みがしやすくなりました。

東京チェンソーズの社有林は10ヘクタール、東京ドームが2つ入っても余るような広大な森林。

斬新な取り組みは次々と

この他にも東京チェンソーズならではの個性的な取り組みは数多く進行中です。

例えば、小学校に入るお子さんが自分で学習机をつくる「6歳になったら机を作ろう」は、お子さんたちが檜原村産スギの無垢材で机を組み立てるプロジェクトで、羨ましいほど立派で使いやすそうな机をつくることができます。

また、檜原村内外に設置されたガチャガチャ「山男のガチャ」は、端材を活かして造られた木細工を販売するもの。さらに自社のウェブストアでも、端材や自社製品の直売オーダー販売も定期的に更新されるなど、企業理念に掲げた通り、森の魅力をあらゆる方法や見せ方を使って届けています。

これらを可能にするのは、自社だけでなく、様々な組織をつないだ連携によって実現していました。

青木さん いろいろやっていますが、あくまで僕らは林業の会社ですから。ものづくりにしても、販売に適した出口や方法を確立してないですし、そもそも設計もできませんでした。だから必ずどこかとコラボレーションすることで解決しています。

仕組みにして回し始めるまでが大変ですし、やってみたらうまくいかないこともたくさんありますが、腹をくくってやってみるしかありません。そうした共同事業も、これまでの林業ではなかなかできずにいたことだと思います。

山男のガチャは1回500円、丁寧に造られたキーチェーンやマグネット、バードコールなど全12種類の一つが出てきます。プラケース回収箱を兼ねた専用スタンドも檜原村の木でできています。

村や行政との連携も濃く、特に2019年に公表された「檜原村トイビレッジ構想」は、木育を目的とした林業の6次化産業で、官民一体の大型構想です。

2021年の秋頃にはトイビレッジ化を確実にする「ひのはら森のおもちゃ美術館」もオープンすることが決まり、すでに工事も進んでいます。それに伴って檜原村は、美術館が建つ隣に一足早く木のおもちゃ工房を設立しました。100%村の木材をつかって造られた工房は大変快適で、東京チェンソーズが運営しています。

おもちゃの加工場の様子。とても爽やかで快適な室内。すべて村の木でできた場所です。

山から切り出した木材は乾燥させる工程が欠かせず、一般的には乾燥機が用いられますが、時間を掛けてでも天然乾燥を行うことで色もツヤも格別に美しく仕上がります。数週間〜半年ほどの時間を掛けて太陽で乾かすことができるようにと、天然乾燥場のストックヤードも檜原村によって建築され、この工房や他の製材所とも連携しています。

さらに、檜原村で出産された方にはお祝いに木のおもちゃがプレゼントされたり、役場の飛沫防止バーテーションは木でできていたりと、森林が豊かであることを地域一体となって体現しているんです。

工房を案内してくれた東京チェンソーズの飯塚潤子(いいづか・じゅんこ)さん。檜原村で出産されたので飯塚さんも木のおもちゃの出産祝いをもらったそう。

これまで「産業がなかった」という檜原村に、こうした木を中心とした大きなうねりが起きていることを、青木さんもとても重要視しています。おもちゃ美術館ができることに伴って、森林と共にある暮らしに対して希望を確実にしているようでした。

青木さん おもちゃ美術館ができることで、村も工房をつくってくれるなど、林業でこの村を盛り上げるための投資をしてくれています。小さなお子さん連れでも歩きやすいように森の中の散歩道が整う予定ですし、きっと村のみんなも工房の仕事をしたり、人知れず木工名人だったおじいさんが活躍できるような、みんなで一緒に動き出すことも増えていくと思います。

これまでは進学や就職で村を離れざるを得なかった村の若者も、産業ができたら村に帰って何かしようという気持ちにもなるでしょう。さらに、幼少期に檜原村のおもちゃ美術館や森林に親しんだ思い出をもった人が増えたら、大人になってから家を建てる時や木を使う時に村のことを思い出して、また木を買いに来てくれるかもしれません。

別に檜原村でなくとも、東京産や国産の木材について考える人だって今より増えていきます。そしたらこの山がどんどん活かされます。今植えた木もその頃には樹齢30年を迎え、今すでに成長してる木は樹齢60年の太くて立派な木になっています。また、日本全体でみたら樹齢100年の木がたくさん育っていることになるんです。日本の林業はこれからですよ、希望しかありません。

林業の未来を笑顔で語る青木さん

画期的な活動が目立つ東京チェンソーズですが、青木さんのお話を聞いていると、その裏には地道な努力や葛藤があり、人知れず繰り返されたトライアンドエラーが透けていました。しかしそれでも、仲間と地域を思いながら、地域資源を活かして最大限の貢献をする姿は楽しさと充足感で満ちているよう。雄大な森を相手にしているからこそ、じっくりと時間をかけながら、青木さんは次々と新しい冒険心を発揮することができているように感じました。

切った後も姿を変えて生き続ける木の存在を、少しずつ身近なものにしていきたいですね。

(撮影: 秋山まどか)

– INFORMATION –

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