神戸は、日本で初めて水族園が生まれたまちです。
1957年にオープンした「須磨海浜水族園(旧・須磨水族館、愛称「スマスイ」)」は、神戸市民にとって水族園の代名詞的存在。阪神間最大級の海水浴場である須磨海岸にあることから、関西エリア全域の人々にも親しまれています。
特に近年は、夏になるとイルカが須磨海岸を泳ぐ「須磨ドルフィンコースト」や、新年のカウントダウン、夜の水族園を幻想的に演出する「須磨アクアイルミナージュ」など、新しい企画が目白押し。「最近のスマスイは、ちょっと面白い!」と注目を集めているのです。
これらのユニークな企画の仕掛け人のひとりが、現在は飼育展示部副部長(2015年4月より部長)として飼育員を統括する大鹿達弥さん。昨年までは“飼育員経験のある広報”としてスマスイに変革の波を起こした人です。
大鹿さんは「水族園が発展するには、外に向かって開かれなければいけない」と、地域を巻き込み、地域の人たちに開かれた水族園をつくろうと考えています。
大鹿さんが現在のような考え方を持つまでには、いったいどんなことがあったのでしょうか。約20年に及ぶ飼育員生活を振り返るインタビューをさせていただきました。
須磨海浜水族園「イルカの生態と行動の秘密」の展示パネル前にて、大鹿達弥さん
1972年神戸市長田区生まれ。兵庫県立農業高等学校卒業後、某農業大学に進学したが「神戸恋しさに」5日で退学。1991年、一般公募で須磨海浜水族園の飼育員に採用される。2006年神戸市役所観光交流課に異動し、4年間に渡って神戸市の観光業務に携わる。2010年に須磨海浜水族園が指定管理施設になったのを機に神戸市を退職し、指定管理者の事業体に再就職するかたちで復帰。「広報のできる飼育員」として、数々のイベント企画や園と地域との交流を行う。2014年より飼育展示部副部長。現在は明石市在住。
「大人になったら飼育員」の夢がかなって
「須磨水族館」時代の写真。昭和なつかしい雰囲気が感じられます
神戸市長田区に生まれ育った大鹿さんは、根っからの神戸っ子。動物が好きだったので、小学生のころにはもう飼育員を目指していたそうです。
兵庫県立農業高校畜産科を卒業すると、県外の某農業大学に進学しましたが、「神戸があまりに恋しくて」5日で中退。神戸に舞い戻ってきました。すると、たまたまそのタイミングで、スマスイ史上唯一となった「飼育員の一般公募」が行われたのです。
約130名が応募するなか、採用されたのは当時18歳だった大鹿さん一人でした。
畜産を学んでいましたから、興味があるのは水族園よりも動物園。「神戸市立王子動物園の飼育員になれたら」という想いはありました。
でも、スマスイは子どものころに、暇さえあれば自転車で遊びに来ていた場所。水族園好きだったから受けてみようかなと思ったんです。
念願だった、愛する神戸のまちで飼育員として働くという夢をかなえた大鹿さん。畜産は学んできましたが、魚については「幼い頃から釣り好きで、魚の名前を知っているくらい」だったそう。
水族園で働き始めてから、魚とその飼育に関する知識を身につけていきました。
本を読んだり、経験のある飼育員の先輩たちに教えてもらったりして勉強しました。大学は4年間しかありませんが、それ以上の期間をずっと学び続けることができて、いい勉強になったなあと思います。
仕事のために学び、仕事から学ぶ日々を送っていた大鹿さんが、阪神・淡路大震災に遭ったのは飼育員になって4年目のことでした。
避難所になり、分校にもなった水族園
大鹿さんは、阪神・淡路大震災を長田区の自宅で経験しました。家は傾き、けがもしましたが、周辺の被害状況は「規模の大きな地震が起きたな」と感じるくらい。
「職場の方はどうなっているだろう」と車でスマスイに向かいました。ところが、須磨区に入り、スマスイから約2.5kmの距離にある神戸市営地下鉄板宿駅のあたりまでくると景色は一変。道路は渋滞し、車はいっこうに動きません。
「なんやこれ? ごっついやないか!」大鹿さんは車を降りて歩いてスマスイに到着すると、そこには100名近い避難者が集まっていたのです。スマスイは指定避難所ではありませんが、避難者を追い返すわけにもいきません。急きょ対応することになりました。
幸いなことに、展示用の水槽が割れる被害はありませんでしたが、全長3mのノコギリエイなど大型ホルマリン標本の容器が破損。大人数を収容できるエントランスホールに、ホルマリン液の刺激臭が充満したため、「さかなライブ館」に避難者を誘導しました。
避難者の受け入れにあたって、最初に問題になるのが食料と水の確保です。区からの手配もままならないなか、何とか園内で食べられるものを探して炊き出しを実施。近隣にある国民宿舎須磨荘から布団や毛布を借り受けて配布しました。
余震が落ち着くにつれて、避難者は帰っていきましたが、約3カ月間スマスイには15名前後の避難者が滞在していたそうです。
また、避難所となった鷹取中学校での教室不足を補い、受験を控えた3年生たちの授業を行うため、スマスイの本館レクチャールームとレストランを提供。2月から3月24日の終業式まで「鷹取中学校 分校」になりました。
3月には在校生による「3年生を送る会」をイルカ館の観客スタンドで開催。スマスイの職員たちは、イルカのジャンプや握手で卒業生を送るという演出で花を添えました。
震災から20年目となった2015年には、20年ぶりに「3年生を送る会」がスマスイで開かれました。震災の記憶を受け継ぐために集まった中学生のために、スマスイのイルカたちは20年前と同じくジャンプで応援したのです。
震災でライフラインが止まり、約7割の魚が死んだ
生きていた魚を救出し、死んだ魚を取り上げる飼育員たち。「波の大水槽」では2,415尾のうち,2,393尾が命を落とし
スマスイは、震災直後から約3日間ライフラインがストップ。エアレーション(水中に空気を溶かすこと)、給水、ろか循環などの装置が機能せず、酸素欠乏や水質悪化を引き起こしました。
イルカやラッコなど肺呼吸ができる生き物たち以外はこの状況に耐えられず、なんと魚たちの約7割が死んでしまったのです。飼育員たちは、この事態をどうすることもできず、魚たちが死んでいくのをただただ見送ることしかできませんでした。
スマスイのシンボル「波の大水槽」では、2,415尾のうち生き残ったのはわずか22尾。水槽は白濁し、水底にはお腹を上にした魚が折り重なるように横たわっていたそうです。
また、飼育歴7年のガラパゴスサメ、国内最大級のツマグロ、2m前後まで成長していたマダラエイなど、スマスイが育んできた稀少な魚たちも命を落としました。
水を抜いて空っぽになった「波の大水槽」
震災から3日後、スマスイは開園以来はじめて「波の大水槽」の水抜きを実施。水位を下げておき、翌日午後からは新鮮な海水を入れた水槽に生き残った魚を救出しました。
各水槽でも同様の作業を行い、最後に死んだ魚を取り上げていきました。
死んだ魚を取り上げて、ゴミ袋に入るように飼育員が切り刻んで。自分らがずっと世話してきて、昨日まで生きていた魚を、ね。
みんな無言でした。思うところはあっただろうけど、誰も口に出しては言わなかった。次のこと考えていかなあかんしね。その後も、そのことについてはあまり話してないんじゃないかな。
夕暮れには、死んだ魚は2tトラックいっぱいに積み込まれてスマスイを去ったそうです。しかし、悲しみに打ちひしがれる時間もありませんでした。
3月になると、神戸市は「市民の憩いの場としていちはやく再開してほしい」とスマスイに要請したのです。
魚はいない、機械は壊れている、避難者はいる。僕らは最低でも1年はぐらいは再開できないと思っていました。
道路もめちゃくちゃですから、魚を受け取りにいく交通手段もままならないなか、あちこち走り回って魚を集めて。幸いなことに全国の水族館からいろんな魚を寄贈してもらったこともあり、なんとか体裁を整えたという感じでした。
大鹿さんたちが北海道から沖縄まで奔走した結果、全国21園館の協力による151種類2,207尾の寄贈を含め、全部で329種8,623尾を補充して、からくも再開の日を迎えることができたのです。
飼育員経験のある広報だからできたこと
夜の水族園を楽しめる須磨アクアイルミナージュ。子どもだけでなく、大人たちをもワクワクさせる人気イベントに
震災から10年が過ぎた2005年、大鹿さんはスマスイから神戸市観光交流課への異動辞令を受けました。当初は「いやいやながら」だったという異動ですが、大鹿さんはここで大きな学びを得ることになりました。
観光交流課では、ユニバーサルツーリズム(障がい者のための旅行企画)の推進や、神戸ルミナリエなどの大きな事業にも携わりました。ここで、イベントの情報発信や広報の大切さを痛感したんです。
スマスイでは、立派なことをやっていても外への発信が今一つ不足していたし、イベントひとつやるにも地域との関連性を考えるという視点が欠落していたと気づきました。
ところが、観光交流課に異動して4年目、「そろそろスマスイに帰らせてほしい」と要望を出していた大鹿さんに、青天のへきれきの事態が起きました。2009年、スマスイに指定管理者制度が導入されたのです。
神戸市職員である大鹿さんがスマスイに戻るには、神戸市をいったん退職して指定管理者の事業体に再就職しなければいけません。しかし大鹿さんは、スマスイへ戻り、観光交流課での経験を活かしてスマスイの広報マンになることを決意します。
神戸市職員を辞めてスマスイに戻ったのは僕だけですね。須磨に愛着を持ちすぎていて、ほかの人がやっているのを見るのはイヤだという想いもあれば、元同僚やスマスイの生物への思い入れもありました。
市職員には、僕以外にも観光課の仕事をできる人がいっぱいいます。でも、スマスイには飼育員の経験もあり、広報もできる人間は僕しかいない。「しゃあない、行ってやるか」とカッコつけて戻ってきました。
スマスイの広報として、大鹿さんは多くの改革を実現しました。まず、月に2〜3本だったプレスリリースの数を約10倍に。情報をオープンにしてメディア掲載の回数を増やしました。
飼育員ならではの視点を活かしたイベントも多数企画しました。そのひとつが、2014年にはじまった神戸の夏の新しい風物詩「須磨ドルフィンコーストプロジェクト」です。
須磨の海でジャンプする2頭のイルカたち!「須磨ドルフィンコーストプロジェクト」
イルカにとっても、広い海で泳ぐことはストレスの軽減になります。須磨に来る人にも喜んでもらえますし、須磨海岸のイメージアップにつながってほしいと思います。
「須磨ドルフィンコーストプロジェクト」では、7月〜8月にかけて須磨海岸海域で2頭のイルカが遊泳し、来園者が浜辺でイルカとふれあうことができる「海辺のドルフィンウォッチング」などの企画を実施。
地元商店街とともにグッズの企画・販売を行ったり、地域の人たちの協力を得て浜辺の清掃をしたりするなど、さまざまな活動で地域との連携を深めました。
いろんなところで「スマスイと一緒にやりましょう」と声を掛けてもらえるようになりましたし、神戸のいろんな業種の人たちとイベントや交流ができるようになったのが一番うれしいですね。
現在、大鹿さんは地元・若宮商店街の副会長にもなりました。若宮商店街は2015年春から「若宮商店街 ドルフィンロード」と改名し、スマスイと共に地域おこしを行おうとしています。
こうして、神戸市はもちろんさまざまな業種の団体と恊働する機会を増やし、スマスイのイベントを広く発信したことによって、来園者数の下降曲線もストップしました。
スマスイの強みは「逆に、目玉がないこと」
スマスイのイルカライブのようす。この日は遠足に来た幼稚園の子どもたちが歓声をあげていた
大鹿さんは、スマスイの強みは「目玉となるものがないこと」だと言います。「この生き物は他の水族館にはいないぞ!」という目玉になる生き物がいないからこそ、いろんな種の飼育や企画にチャレンジできるのではないかと考えています。
たとえば、ワールドカップを記念した企画展では、3種類の生物が勝敗を予想。また、年末には「スマスイ初夢プロジェクト」を立ち上げてスマスイで叶えたい夢を募集し、「大好きなイルカの餌をつくりたい!」「アナコンダを首に巻いてみたい」など、5人の夢を叶えました。
「大好きなイルカの餌をつくりたい!」という初夢をかなえた女性。みごとな包丁さばきでイルカの餌をつくりました!
3.6mものアナコンダを首に巻くという初夢をかなえた男性も…。ちなみに、アナコンダの展示企画は大鹿さんの担当です
こうした企画は、生物をよく知る飼育員ならではの発想と、その協力があるからこそ実現できるものばかりです。
たとえば、焼き肉を好きな人が「焼き肉を食べないと調子出ない」とか言うでしょう? そんな感じで「スマスイ行かないと精神状態が保てない」というくらいに、生活の一部になれたら一番うれしいですね。
いわば、心の余裕のなかで来てもらう場所だからこそ、僕らも心の余裕のなかで面白がってアイデアを出すし、博物館施設としてギリギリのラインを模索しながらふざけたことをしようとしています。
2015年3月に屋上展望広場にオープンする「水辺のふれあい遊園」のコンセプトは「もしも、スマスイで飼育園が昔懐かしいデパートの屋上遊園地をつくったら…」。なんと、お湯に浸かるカピバラの水槽のすぐそばで「カピバラと一緒に入っている気分」を味わえる足湯も新設しました。
スマスイのイベントを見ていると、「この生物の生態すごく面白いでしょう」「このイベントでこの魚のことをもっと知ってください」と、語りかけられているような気持ちになります。
そして、「ちょっと行ってみようかな?」を繰り返し、やがては“行きつけの水族園”になってしまう……今のスマスイには、そんな底力が秘められています。
もし、もう一度地震が起きたら
大鹿さんは、スマスイのなかで一番好きな生物は「須磨海岸の生物たち」だと言います。
神戸愛が強いから、須磨海岸にいる地味で目立たない生物が好きですね。石をめくって出てくるような生き物もそうですし。展示しても、地味すぎて誰も見てくれないんですけど。
須磨海岸に生息する浜辺の生物たちに注がれる、温かなまなざし…大鹿さんの強すぎる神戸愛を感じさせられます。しかし、この神戸とスマスイへの愛こそが、今のスマスイを動かしている大きな熱源のひとつ。
大鹿さんの想いはスマスイの発信源ともなり、人をつなぎ、地域とつながる力にもなっているのだと思えてなりません。そして、大鹿さんの神戸愛を知れば知るほど、大好きなまちを壊してしまう震災の恐ろしさを思わずにもいられないのです。
大鹿さんは「もし、もう一度同じ地震が起きたら…」と、少し考えてからこう話してくれました。
もし、もう一度同じ震災が起きたら、魚を一匹も殺さずにできるかというとできないですけどね…。いつも言うんですけど、心づもりは大事やなあと思います。
来るかもしれないと思うかどうかで全然行動は変わってくるし。「こういうこともあるのではないか」と考えておく、対策をとっていくのは大事だと思います。経験値しか生きませんから。