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阪神・淡路大震災を経験していない若者が、神戸のまちに思うこと。東北の被災地を体験した灘高生が考えた20年目のアクションとは

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左から時計回りに、石田晴輝さん(高2)、山下純平さん(高1)、山崎隆一郎さん(高1)、中央、小坂真琴さん(高2/生徒会長)、佐野海士さん(高2)、右、島田真志さん(高1)、飯塚喜洋さん(高2)、松田宥野さん(高2)

特集「震災20年 神戸からのメッセージ」は、2015年1月17日に阪神・淡路大震災から20年を経過し、震災を体験した市民、そして体験していない市民へのインタビューを通して、「震災を経験した神戸だからこそできること」を広く発信していく、神戸市、issue+design、デザインクリエイティブセンター神戸(KIITO)との共同企画です。

みなさんは阪神・淡路大震災のとき、何歳でしたか?

現在、19歳以下の若者たちにとって、阪神・淡路大震災は自分たちが生まれてくる前に起きたこと。そして物心がつくころには、神戸のまちは逞しく復興を遂げていたのです。

震災の痕跡を見知らぬまま神戸で学び育った世代は、阪神・淡路大震災にどのように向き合っているのでしょうか。神戸が日本に誇る名門校・私立灘高等学校の、震災をフックに活動する高校1〜2年生の8人にお話を伺いました。

灘高等学校
1928年創立。兵庫県神戸市東灘区にある中高一貫教育の私立男子高等学校。日本随一の進学校として名をはせ、東京大学や京都大学など難関大学に多数の合格者を出す。制服もなく校風はきわめて自由で生徒の自立を促している。卒業生には遠藤周作(作家)、野依良治(化学者、ノーベル化学賞受賞)、江崎勝久(江崎グリコ社長)、松下正幸(松下電器産業副会長)、村上世彰(元通産官僚、投資家)など著名人多数。

灘高等学校と二つの震災の関わり

灘高等学校があるのは神戸市東灘区。阪神・淡路大震災では筆舌に尽くし難い被害を受けた地域の一つです。

震災当時、灘高等学校はなんとか校舎は持ちこたえ、行政から避難所指定をされていなかったにもかかわらずその門戸を開けて、半年間避難所として機能しました。今も当時を知る教師が数多く在籍しています。
 
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当時、灘高等学校の日本史教諭だった前川直哉さん(現・一般社団法人ふくしま学びのネットワーク 理事・事務局長)が、2011年の夏休みにボランティアで岩手県釜石市を訪れて、その様子を生徒に話したところ、生徒たちが自分たちも行きたいと志願。

灘高等学校の有志が被災地を訪れる「東北被災地訪問合宿」(通称:東北合宿)がはじまります。夏休みなど長期休暇に有志を募って気仙沼や福島へ向かい、この目で被災地の現状を見るのです。

2012年からはじまった「東北合宿」は2015年の冬で13回を数えます。

佐野海士さん 僕は現在東北合宿のリーダーを務めています。

東北合宿は、最初の頃、東北でボランティアをしていたんですけど、東日本大震災から時間がたつにつれて、中高生が2泊3日の間に被災地でできるボランティアが非常に少なくなってきた。

現在は、現地でボランティアをするっていうよりは、東北の被災地で実際に被災した人や復興支援活動をされている人、現地の高校生などの話を聞いたり、話し合ったりする場を設けるようになりました。

震災の体験であったり、復興の取り組みっていうのを知るボランティア、そして関西に帰ってきて伝えるボランティア。それらを“知るボラ・伝えボラ”といって活動しています。

前川直哉さんに現代社会教諭の片田孫朝日先生も加わり、2人の教師が20人の生徒を引率して、東北のリアルと向き合います。

そして前川直哉さんは2014年(平成25年度)に灘高等学校を退職。福島で教育支援をする団体を運営するためです。まさに不退転の決意でした。今でも前川直哉さんは生徒たちの尊敬を集めています。

被災地の復興は理論だけでは片付けられない

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石田晴輝さん(高2)、山下純平さん(高1)、山崎隆一郎さん(高1)

高校生という多感な時期に、大震災に見舞われた東北に訪れて、彼らは何を学び取ったのでしょうか。

石田晴輝さんは第13回の福島の東北合宿に参加。福島駅に集合し、福島市スタートで伊達市を経由して、海側の浜通りに出て北側から福島第一原子力発電所の近くまで歩きます。

福島第一原子力発電所から20Km圏内の南相馬市小高区は、現在は昼間のみ立ち入ることができる避難解除準備地域。東日本大震災の爪痕が深く残る場所も見て回ります。

石田晴輝さん 僕が東北合宿に行った目的は、やっぱり「知る」ことでした。今まで全然知らなかったからこそ、若干の恐れや歪んだ印象を持っていたので、実際のところを見て知れる分だけでも知りたいと思いました。

行ってみると、被害の状況だけじゃなくて、現地の人々が被害についてどう思っているか知ることができました。想いの違いも知りました。それと東北の人は熱い! ということが分かりました。

ニュースなどで見ていたものと全く違う現実がそこにはありました。「僕も同じく…」と続いたのは山下純平さん。彼は2014年春の気仙沼、夏の福島を体験しました。

山下純平さん 僕は気仙沼市の「ホテル望洋」の女将さんの話が心に残りました。「困っている人の心に寄り添える人になってほしい」って切実に言われたのが印象的で。

僕らが東北まで行って、当時避難所になっていたホテルを訪れて、震災を体験した人から実際に話を聞くってこと自体が「いいなぁ」って思いました。単純に来てよかったなぁって。

あと、復興することは単純なことじゃないなって、肌で感じました。がれき処理など考えなきゃいけないことがたくさんありました。

東北へ行ったからこそ、今後も学校で行う震災関連のイベントに関わっていきたいと思えるようになりました。

山下さんは、そのとき感じたことを神戸へ持ち帰り、文化祭で東北合宿の発表、震災支援や防災に関わっている学校が参加するイベント「ハイスクールサミット」に参加するなど、自分のフィールドでもアクションを起こすようになりました。

関わる前と関わった後、確実に変わったことは、実際に行動できているところだといいます。
 
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福島の松川浦で、現地の方から津波の被害状況について教わる

灘高1年生の山崎隆一郎さんは、「僕はほかの人とちょっと違うかもしれません」と前置きをして、福島での東北合宿についての印象を述べます。

山崎隆一郎さん 僕は、行く前は東北の現状がよく分かっていませんでした。僕は阪神・淡路大震災から3年後の1998年生まれ。

神戸は震災から3年の時点でほとんど復興していたと聞いていましたから、東北の復興も3年は無理でも、4〜5年単位でできるものだと勝手なイメージを持っていたんです。どちらかというと「もう復興できているんじゃないか」くらいの軽い気持ちで。

現地でも目の前に重い状況があるのに、「いや、それでももうすぐに復興できるんじゃないか」という気持ちがずっと拭いきれませんでした。

現実を目のあたりにして山崎さんはショックを受けます。放射線に汚染された土が、行き場がないまま、仮置き場に延々と放置されていたのです。しかもそこは元々人が住んでいた場所です。

山崎隆一郎さん 「放射線で汚染された土は、パッパとどこかに処分しちゃえばいいじゃないか」っていうのが都会の人の考えですよね。でもその「どこか」がどこにもないんです。

頭の中でパパパと数式で計算して、この量の土やがれきは、何年で処分できるって、理論上は計算できるんですけど、そういうことじゃないんですよね。今まで、僕のニュースの見方は浅かったんだなと痛感しました。

たとえば、頭の中の数値計算では「こういう数字が出ているから、こういう結果になる」などと考えておしまいです。でも、現地に行ってみると、住んでいた土地が失われた喪失感など、数では割り切れない人の感情があるんだと、今さらかもしれないけど気がつきました。

灘高生らしい、理論的な考え方にプラスされた「ひとの心」。ひとの心に触れた場所は、自分にとって、特別な場所になります。報道では現場で起こった事実を知ることができます。

しかし、その現場に実際訪れることによって「こんなことが起こっているけれど、実際現場にいる人々は、こんな風に考えているだろうな」と想いを寄せることができるようになったと言います。

佐野海士さん 僕は、東北合宿に行くことによって東北が“自分ごと”になり、当事者意識を持つようになることに大きな意味があると思っています。

前川先生の受け売りでもあるんですけど、実際足を運んで、現地の人と触れ合うことで「○○さんのいる東北」になるんです。

被災地でお話をきかせていただく方だったり、自分がおいしいご飯を食べた場所だったり、東北が関わった場所になることでニュースを見る目が変わりました。例えば、被災地でちょっとした地震が起こったときも「あ、大丈夫かな」って考えるようになりました。

島田真志さん 東北合宿を終えたあと、電車が来るまでまだ時間があるからご飯を食べようと駅の待合室で話していたら、見知らぬおじさんが「おいしい中華料理屋知ってるから」って連れていってくれたんです。

そこの中華料理屋のご主人に「どこからきたの?」と訊かれたので、兵庫から来たというと歓迎して僕らに震災当時の話をしてくれました。

「自分の命を助けるのがまず先や」って言われて、自分の身さえあればどうにかなるからって。とにかく自分の身を助けろって言われて。初めて会う僕たちに話をしてくれて、ありがたかったし、東北で聞くそういう言葉には現実味がありました。

「ニュースで見ていた被災地」が「あの中華屋のおじさんがいるまち」に。東北に行ったことによって、いままで自分が考えもしなかったことを考えるようになります。それがなによりの財産であると、彼らは東日本大震災の爪痕から身をもって体験したのです。

人と人、地域と人、ミニマムなつながりがまちを復興へ導き、防災につながっていきます。そのことを彼らが東北合宿で学び、神戸に持ち帰ったとき、「東灘の一高校生として地元で僕は何ができるのか」を考えはじめます。

「阪神・淡路大震災」で地元とつながる灘高生

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佐野海士さん(高2)、島田真志さん(高1)、飯塚喜洋さん(高2)、松田宥野さん(高2)

彼らは福島で経験してきたことを学内のほかの生徒に伝えるため、東北合宿の報告会や文化祭で展示ブースを設けました。

「伝えていく」という過程のなかで、「20年前に阪神・淡路大震災を経験したから、東日本大震災についても関心を持っています」という地元の人々の声を多く聞いたのが印象的だったといいます。

佐野海士さん 「あんな大変なことがありました。復興しました」って描くことはテレビやニュースでもやりますが、阪神・淡路大震災を経験していない僕たちにはいくら見ても実感が湧かないし、そこまで身近に感じてもいませんでした。

学校でも当時の状況を教わるんですけど、先生から「とうとう震災経験していない世代を教えることになったんか」といわれることが多くて、結講カチンとくるというか(笑)

「なんだよ!」と思う気持ちも若干あって、だからこそ、知らない世代として、何ができるのかやってみたいと思いました。

東北合宿で東北を見てきた彼らは、20年前の阪神・淡路大震災を振り返るために、まずは灘中学校・灘高等学校に在籍している教諭たちに当時のことをインタビュー。冊子にまとめようとしています。

飯塚喜洋さん 先生一人ひとりが当時のことを鮮明に覚えていて、そのときの気持ちをきちんと教えてくださるんです。また、それと同時に震災から学び取った教訓やポリシーを先生たちから聞くことができたのは大きな財産でした。

元美術教諭で今は退職された、初田先生からは「こういう有事のときは知識も大事なんだけど、知恵のほうが大事なんだ」というお話を聞きました。

例えば「鍋が無ければ料理がつくれない」、っていうのは、知識としては当然なんですけど、有事のときに「鍋がない。じゃあどうする?」ってなったとき、知識だけなら鍋がないから料理するのは無理、で終わってしまいますが、何かを代用する知恵を持っていれば料理することができます。

この話で、誰が何を必要としているのかを考える力が大事だと学びました。知識と知恵は違うんだと。

こうやって話を伺ったことで先生方に人間の奥行きを感じたし、言葉に重みを感じました。こんな先生たちに教えてもらって自分は恵まれているな、と自分自身もうれしくなったし授業のありがたみも増しました(笑)

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小坂真琴さん(高2/生徒会長)、佐野海士さん(高2)

彼らは、さらに「灘高生として、東灘という舞台でなにかできないか」と校内から校外へ飛び出す企画を考え始めました。

飯塚喜洋さん 東北合宿から帰ってから、防災のことや有事のことを考えたら、灘高等学校の生徒として、地元と関わっていくって大事だという話を佐野くんとしました。

また地元の人と交流したい。阪神・淡路大震災っていうものが、地域と僕らのお互いが学び合える共通の話題として、僕らと地域をつないでくれるんじゃないかなという感じがしました。

佐野海士さん 「そういえば、来年で阪神・淡路大震災から20年なんだ」って気がついて、生徒会長の小坂くんとも何をしようかと何度も話し合いました。

実は、小坂さんは東北合宿には参加していません。しかし、周囲の友人たちが東北に行くたびに「行かないと分からないことがある」と口々に言うのを聞いて残念に思っていたそう。

さらには、校内で「東北を経験した人」と「経験していない人」に乖離(かいり)が生じていることに気づき、「東北に行った生徒のアクションを校内に取り入れる」ことに着手します。

小坂真琴さん 東北に行ってない人にも考えてほしいと思っていたので、阪神・淡路大震災であれば「学校で起こったこと」ということで共通項がなんとか見出せるかなと思いました。

僕は東北に行っていないので「行ってない人は、この企画をどう感じるんだろう」、って思いながら企画に参加。今となっては、僕が東北に行ってしまったら行ってない人視点がなくなるな、と…。まあ言い訳めいているんですけど(笑)

そして2015年1月、灘高の最寄り駅である六甲ライナー住吉駅に20年前の震災を取り上げたパネル展示「東灘災害写真展 大震災と大水害~住吉駅から振り返る~」が実現しました。
 
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東灘区でかつて発生した災害を振り返り、教訓や課題を再確認するために、阪神・淡路大震災と阪神大水害の被害写真を収集し、パネルとして展示。六甲ライナー住吉駅横渡り廊下で2015年1月10日から1月25日まで開催された。

飯塚喜洋さん  何よりも震災に対する意識も変わりました。自分の住むまちのハザードマップを見直してみたり、この地域は防災に関してどんなシステムを用いているのか、むしろ昔からある石碑にヒントがあるなど、勉強になりました。

佐野海士さん 地域の人も20年前のことを、思い出して、振り返る機会になるし。

灘高生としても、僕らは東灘に通っているのに、震災のことを何も知らない。学び直す。灘高のあるこのまちが昔、こんな被害を受けたのかって学ぶにもいい機会でした。

全世代が想いを並列させることで、未来につながっていく

灘高等学校は全国から生徒が通う名門校。灘高生には地元出身者が極端に少なく、学校がある東灘周辺に親近感を感じたり、故郷愛を持ったりすることが難しい傾向にあるといいます。

松田宥野さん これでは、本当の意味で灘高等学校が地元から愛されているとは言えません。近隣と接点がないという状態で「灘高は日本一の学校だ」と言えるのかと疑問を呈した生徒がいたんです。

そこで、灘高が地域とつながる活動をできたらいいんじゃないかと、近隣の小学校に着目して「小学校企画」が始まったのです。

「小学校企画」は近隣の小学校5年生を対象に、灘高生が近隣の小学校で授業を行うという試み。一昨年夏にはじめて大阪の豊中市立東丘小学校で授業を行いました。

昨年は大阪の箕面市豊川南小学校で、神戸の地元小学校では、2014年10月に神戸市立本山第二小学校、2015年2月に神戸市立住吉小学校で実施しました。
 
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住吉小学校で「展示企画」のことや「災害ボランティア」について語る灘高生

松田宥野さん 住吉小学校では震災をテーマにした授業を行いました。

灘高の先生への阪神・淡路大震災インタビューや「東灘災害写真展 大震災と大水害~住吉駅から振り返る~」の駅展示などは、阪神・淡路大震災というものを通して地域とつながるということを目標としてやっていると思うんですけど。

これら二つはどちらかというと、僕ら世代への情報や歴史の共有であったり、僕らがこの地域に対してやっていることを上の世代に示すことだと思うんです。

「小学校企画」は啓蒙というと言い過ぎかもしれませんが、僕らから下の世代に対するアクション。本質的には、上の世代、同世代、下の世代の想いが並列になって、灘高が「地域とつながる」ということがやっと実装されるのではないzでしょうか。

この企画をきっかけに近隣の小学生にとって灘高生は「教えてくれた地元のお兄さん」になります。その接点が灘高生を「東灘の一高校生」にしてくれるのです。

佐野海士さん 地域で、顔を合わせたらあいさつをしたり普段から話をしたり、「あそこには◎◎さんが住んでいて」「××さんはこういう人で」ということを知っている地域の方が、実は災害にも強いんじゃないかな。

もちろん、あまりにプライバシーのないものや、コミュニティの外の人には冷たいようなものはお断りですが、何よりも僕が一番そういう心の距離が近い社会に住みたいと思っているんです。

阪神・淡路大震災を知らない世代が増えて、歴史が風化していく、と大人はいいます。

多くの人生を一変させて、歴史の教科書に載るほど大きな出来事だった、阪神・淡路大震災と東日本大震災。東日本大震災をリアルタイムで経験して、東北に出向き、地域とのつながりの大切さを知った彼らは、その聡い頭脳と純粋な心で、まちへダイブすることを選びました。

彼らは震災というネガティブなものを通して、災害が起こらなかった地域では得られないシナジーを生み出したのです。

震災が起こった後も、未来はずっと先までつながっています。未来をどんなものにしていくかを真摯に考えて行動している若者がいる。そんな神戸のまちを、誇らしいと想うのは、わたしだけではないはずです。