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被災しなかった私にできること。神戸でアジア女性の地位向上を目指す「AWEP」事務局長の有吉真紀さんに聞く「震災のあとさき」

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神戸市長田区に拠点を置く「AWEP」メンバー。右から4番目、両手を元気よく広げる有吉さん。前列左から2番目は前「AWEP」代表で現理事のもりきかずみさん。(c) (特活)アジア女性自立プロジェクト

特集「震災20年 神戸からのメッセージ」は、2015年1月17日に阪神・淡路大震災から20年を経過し、震災を体験した市民、そして体験していない市民へのインタビューを通して、「震災を経験した神戸だからこそできること」を広く発信していく、神戸市、issue+design、デザインクリエイティブセンター神戸(KIITO)との共同企画です。

皆さんは震災と聞くと、どんなシーンが浮かびますか?

家や家族を失った人々。避難所での生活。テレビから映し出されるこうしたさまざまなシーンを見ていると、痛みを分かち合いきれず、被災していない人は、申し訳ないような気分になったりします。

その一方で、自分にできることを探すという人もいます。

現代の日本でいち早く都市直下型大地震を経験した神戸では、震災をきっかけに、さまざまなボランティア活動や社会貢献団体が生まれました。そして震災から約20年を経た今でも、それぞれの活動が続いています。

今回お話を伺ったのは、神戸でアジア人女性のエンパワメントに取り組む「特定非営利活動法人 アジア女性自立プロジェクト(以下、AWEP)」の理事であり事務局長を務める有吉真紀さん。

有吉さんはAWEPでの活動以外にも、AWEPでの活動をきっかけに、東日本大震災でのボランティアや神戸の新長田でまちづくりにも取り組んでいます。

その根底には「直接被災していないからこそ、震災を知りたい。そして顔の見えるつながりをつくっていきたい」という気持ちがあるのだそうです。お話を伺っていると、まるで有吉さんが直接経験しなかった震災を、ご自分の中でもう一度たどっているような印象を受けました。

今日はそんな有吉さんご自身の軌跡とAWEPの取り組みをご紹介したいと思います。
 
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有吉真紀(ありよし・まき)
1975年兵庫県神戸市生まれ。現在は神戸市北区在住。19歳のとき、大学進学先の岡山県総社市で阪神・淡路大震災が起こったことを知る。大学ではテキスタイルを学ぶ。卒業後、神戸にてフェアトレード雑貨を扱うショップのオープンを新聞で見てフェアトレードの活動を知り、そのフェアトレード雑貨を扱うショップでボランティアをはじめ、その後販売スタッフに。ショップ閉店後、結婚と出産を機にショップで製品を扱っていた「アジア女性自立プロジェクト」のスタッフとして関わるようになり、2014年4月から同団体の理事であり事務局長を務める。

「AWEP」はどんな活動をしているの?

まずは有吉さんが理事であり事務局長を勤める「AWEP」の活動を見てみましょう。
 
1. フェアトレード事業
AWEPの活動は1994年6月にフィリピン人女性たちとの出会いがあり、8月に活動をスタート。当時、日本にはフィリピンからエンターテイナーとして来日した女性たちが増えてきていました。

中には日本人と知り合ったり、結婚したものの、日本人男性が不明や離婚で連絡がとれず、日本人男性との間に生まれた子どもを連れて帰国し、日本人の父親から養育費がもらえず、仕事もない…。こうした三重苦に直面する女性たちがいたそうです。

そこでAWEPは、アジア人女性が生まれた地に暮らしながらものをつくり、販売することで自立できるようにと、「アジア女性自立プロジェクト」を立ち上げました。

現在はフィリピン、タイ、ネパール、インドネシアの4カ国と取り引きをしながら、製品を国内のフェアトレードショップや雑貨店で販売しています。
 
2. スタディツアー、セミナー、ワークショップ
AWEPでは、取り扱う製品の生産者を訪れるスタディツアーも行っています。ツアーにはAWEPのメンバーに加えて、フェアトレードや女性のエンパワメントに関心のある一般参加者を募集し、アジア女性の現状を知る機会も設けています。

また在住外国人の方からアジアを学ぶセミナーや、アジアの料理をつくるといったワークショップなども開催しています。
 
3. 在住外国人の方に向けた電話・来所相談
AWEPでは在住外国人の女性から、ビザに関することやドメスティックバイオレンスなど、さまざまな相談を受けています。毎週水曜日、英語と日本語での来所相談を行うほか、電話での相談も承っています。
 
4. 在住外国人への情報発信
電話・来所相談や、セミナーやワークショップを通じて知り合った在住外国人に「あんしん通信」というメールでの情報発信を行っています。内容は育児の情報や地域の大きな行事など。日本語を母語としない方にも分かりやすく情報が伝わるように、簡単な英語と日本語で配信しています。
 
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写真奥、フィリピンの手織り布を使ったバッグ。日本人男性との子どもを一人で育てるフィリピン人のシングルマザーの女性たちが設立した団体の製品です。写真手前は、タイ北部の少数民族に伝わる伝統刺繍を施したポーチ。農家の女性たちが性産業に送り込まれることを防ぐためにできた団体が作製しています。(c) (特活)アジア女性自立プロジェクト

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ネパールスタディツアー訪問団体スタッフとツアー参加者
2014年3月にはネパールの生産団体「シャクティ・サムハ」を訪れるスタディツアーを行いました。ネパール・カトマンズにある現地NGO「シャクティ・サムハ」は人身取引被害者の女性たちが集まって立ち上げた団体です。被害にあった女性や子どもの医療ケア、心理サポート、予防・啓発活動や社会復帰に向けた自立支援活動を行っています。AWEPは2011年より編み物や、さをり織りという織物での仕事づくりのためのフェアトレード事業を一緒にはじめています。スタディツアーではさをり織りの技術指導を行ったり、交流を深めたそうです。(c) (特活)アジア女性自立プロジェクト

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できあがった製品を干しているところ。現地の施設には洗濯機がないことはもちろん、そもそも停電が頻繁に起こり、電気もないという環境。天日に干してショールを乾かし、停電復旧後にようやくアイロンがけをする、という実にゆっくりとした時間の中で、ショールが少しずつつくられていきます。(c) (特活)アジア女性自立プロジェクト

震災が地域の課題を可視化した

AWEPは、もともとフィリピンから日本に働きに来た女性たちが帰国後、海外への移住労働ではなく、生まれ育ったフィリピンで生活できるように、仕事づくりに協力し、女性たちの自立を支援することを目指して1994年8月に設立されました。阪神・淡路大震災に見舞われたのは、それから約半年後。

メンバーもそれぞれに被災したため、グループとしての活動は難しいながらも、前代表であるもりきかずみさんや当時のメンバーが、大混乱の中、神戸の在住外国人の安否情報を集め始めました。

もりきさん自身も被災されていましたが、大阪や京都からやってきた外国人支援に取り組む他団体と一緒になって活動したそうです。

在住外国人の方は、避難先や支援物資、義援金に関する正しい情報が入りにくかったり、避難所では居場所を見つけることが難しく、結局自宅で孤立するケースが多いのだとか。

もりきさんらによる安否確認活動の結果、孤立状態のフィリピン人やブラジル人が神戸市内のあちこちにあることが分かったのだそうです。

こうして震災をきっかけに、AWEPでは、アジアに住む女性のエンパワメントだけでなく、在住外国人に相談窓口を設けたり、地域情報発信の活動に取り組むようになりました。そしてその取り組みは、現在も脈々と続いています。

被災しなかったからこそできること

一方、現在AWEPの事務局長であり理事を務める有吉さんは、震災当時はまだ大学生。通っていた大学がある岡山に住んでいました。震災を知り、友人宅で「神戸はどうなってんの!?」とテレビにかじりつくように見ていたそうです。

「神戸のご実家など、被害はどうでしたか?」と伺ってみると、ちょっと意外な答えが返ってきました。

神戸の実家は半壊や全壊もなく大丈夫だったんですよ。ものが落ちて壊れるような被害は当然ありましたが。

震災直後に岡山で公衆電話から実家に電話をかけたら、つながったので親に話を聞くと、親には「とにかく今は戻ってきても何もできないから、戻ってこない方が良い」と言われて。「心配しても何もできないなら、仕方ないか」と、岡山にとどまり、勉強を頑張ることにしたんです。

未曾有の災害に家族が直面し、どうすることもできないと思った有吉さんは、そのとき暮らしていた場所での生活を続けました。被災した神戸に戻ってきたのは、震災から約半年後の夏休みでした。

電車で岡山から戻って来るときは、震災後のがれきなどはもうなくなっていました。三宮などは復興工事の最中でしたね。だけど、自宅のあるまちに帰ると、被害は何ともない、みたいな状況なんです。

神戸出身だと「すごい被害があるんじゃないか」と思われていて、岡山に戻ると必ず「向こうはどうだった?」と聞かれるんです。

「家が全壊するような被害は何もなかった」とは言いにくいので、どんどん後ろめたいような気分になっていきました。

被災地の外にいる人は、メディアを通して得る情報から、“被災地”と聞くと一様に甚大な被害があったと想像しがちです。しかし一つのまちの中でも、被害の状況にはグラデーションがあります。

阪神・淡路大震災の場合は、六甲山より海側に位置する被災六区と呼ばれる地区(東灘区、灘区、中央区、兵庫区、長田区、須磨区)に特に被害が集中しました。有吉さんのご実家は山手の方に位置していたため、幸いにして、甚大な被害はなかったのでした。

有吉さんは、どこか後ろめたい気持ちを抱えたまま大学を卒業し、神戸に戻って大学時代から関心のあった雑貨店で働いた後、フェアトレードに興味を持ち、フェアトレード製品を販売する雑貨店で働き始めました。

当時神戸には「ハーバーサーカス」という商業施設があり、被災したショップが「一坪ショップ」として多く集っていました。有吉さんが勤務していたお店も、そこに軒を連ねていたそうです。被災した人たちの間に身を置きながら、有吉さんの中には、ある思いが芽生えていったようです。

あまり震災は意識してなかったものの、岡山の大学を出てこっちに戻ってきたら、記憶が呼び戻されるように「見ていなかったものを見たい、知りたい」と思うようになりました。

フェアトレードを知り海外に興味をもったことから、外国だけでなく日本のことや自分の住む地域をもっと知りたくなったからです。そしてAWEPで働くことで震災を知ることができるから、今でもAWEPで働いているんだと思います。

震災をきっかけに生まれるコト

AWEPで働くことは「震災を知ることにもつながる」と言う有吉さん。いったいどういうことでしょうか?

AWEPの事務所があるのは、神戸市長田区にある「たかとりコミュニティセンター」(以下、TCC)。ここは、震災直後から「たかとり救援基地」として、ボランティアグループや人々が活動の拠点としたところです。

長田区は外国籍の住民が全体の10%をしめる地域。たかとり救援基地は、震災直後から在住外国人の支援にも力を入れていました。その後2000年にTCCとなり、AWEPも引き続き参加することになりました。

AWEPのほかにも、国や文化を越えて、共生のまちづくりに取り組むNPOやNGO、地域、教会がTCCの仲間として同じ場所で活動をしています。TCCでは現在、震災からの活動を伝える活動や、その経験を生かして今も日本を含む世界各地で起こる災害に対する支援も行っています。
 
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TCCは、カトリックたかとり教会の敷地内にあります。もともとあった教会は、震災時に迫りくる炎が燃え移り焼失。建物は一部損壊の被害を受けましたが、聖堂は最初建築家の坂茂氏による設計で仮設の聖堂がたてられ、まわりには各団体が活動する仮設の事務所が建てられました。2007年に仮設から今のたかとり教会が再建され、たかとりコミュニティセンターもその中をお借りして現在も活動しています。震災という非日常を助け合うための空間は、今では国籍や文化を越え、日常をより豊かに生きるための活動拠点になっています。

有吉さんはAWEPの活動とは別に、東日本大震災の後、「絆プロジェクト」というアートプロジェクトの最初の現地訪問のコーディネーター役として、現地の団体とコンタクトをとるなどの活動を行いました。

現地の団体はAWEPと同じくTCC内に事務所を置き、東日本大震災でできた被災地の災害FMの支援を行っている「FMわぃわぃ」というコミュニティFMに紹介を頼みました。

「絆プロジェクト」とは、神戸で震災を体験した人に震災の状況をインタビューする、という活動から始まりました。

こちらはインタビューした人の名前を詩に織り込み作品にする「なまえアーティスト」のたみのともみさんと、写真家の井上理絵さんのコラボレーションプロジェクトが始まり。現在は各地での作品展示のほかに被災地商品の販売、復興応援イベントを開催しています。

最初にプロジェクトを通して震災から1年後に宮城県を訪れました。その後もいろいろな活動で何度か東北に足を運びました。直接経験しなかった阪神・淡路大震災を知りたい、その空白を埋めたいという思いが、やっぱり今でもずっとあるんだと思います。

そして、阪神・淡路大震災のときにできなかったボランティアを東北の被災地ですることで自分自身の阪神・淡路大震災の穴を埋めようとしているのかもしれません。

東北を訪れた活動の中に、宮城県気仙沼市でも、震災のことをお茶やお菓子を食べながら語り合う「女子会」を仲間と開いたこともあるそうです。

すると意外にも、有吉さんが阪神・淡路大震災で経験したのと同様に、直接被災をしていなかったり、被害は少ないけれど、被災して行き場のない気持ちを抱えた人々が集まったのだと言います。

震災の当事者同士では話しづらいこともあるので、神戸で被災した人たちと、東日本大震災で被災した人たちが話し合う場所を持ったらどうだろうか、という思いを持っていた仲間と一緒に企画しました。

するとそこに来た人が「周囲に自分よりもっと大変な人がいるから、自分のつらさを口にできない」という人が意外にも多かったんです。実際はその方たちもお子さんたちを抱えて大変な思いをしているのに。このとき、あらゆる人に、いろんな形の支援が必要だなと思いました。

私は直接震災を体験したわけじゃない。だからこうした間接的なサポートを続けていけたらと思います。

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2013年11月には気仙沼の被災者と神戸の被災者が気軽に話す「第1回 東北&神戸 女子会in気仙沼」を開催。(c) 東北&神戸女子会in気仙沼

終始さわやかな笑みをたたえながら話をしてくれた有吉さん。インタビュー中、何度も“つながり”という言葉を口にしました。「大事なのはつながること。そして忘れないこと」だと言います。

阪神・淡路大震災という、神戸が負った大きな傷。でもそこからは希望に向かって、お互いに助け合おうという小さな芽が生まれ、その芽は根を生やし、広がりを見せていきました。

神戸のまちは、ときを経て見事に復興を遂げました。この街をより素敵にみせているものは、“傷から生まれた絆”なのかもしれません。