「働く」で社会を変える求人サイト「WORK for GOOD」

greenz people ロゴ

毎月発行し続けて27年。主婦が友だちとはじめた地域メディア「瓦版や」が“そんなつもりなく”育んできた人とまちとの関係性。

みなさんは、趣味や社会活動など、暮らしのなかでずっと続けていることってありますか?
やりたいと思っていても、それを実行し日常生活に根付かせることは、時間とエネルギーがかかるものです。

今回ご紹介するのは、大阪のあるまちで発行している情報誌『瓦版や』です。パート勤めの主婦だった猪原真知子さんが仲間とともにスタートして、なんと27年ものあいだ、毎月休みなく発行し続けてきました。現在は猪原さん、そして長女と次女の3名が編集を手がけます。

「長く続けるつもりはなかったんだけど」と言いながらも、家事、子育て、仕事、情報誌づくりと、四足の草鞋を履いて走り続けてきた猪原さんに、活動への思いと暮らしや生き方のヒントをお伺いしました。

猪原真知子(いのはら・まちこ)
大阪府堺市出身。結婚を機に大阪市住之江区へ。1994年に仲間とともに『瓦版や』を創刊し、毎月発行。現在は自宅の一角に『瓦版や』編集部を構えているほか、空いた部屋を活用してカラオケ歌い放題や大正琴の教室として、一部自宅を開放している。

読む人目線でわかりやすい、井戸端会議みたいに気軽な情報誌。

猪原さんが編集長をつとめる手づくりの情報誌『瓦版や』は、1994年に創刊し、現在は毎月6万部を発行。猪原さんの拠点である大阪市住之江区の北加賀屋を中心に、周辺エリアに無料でポスティング配布。制作費は広告料でまかなわれています。

タブロイド版4ページの誌面には、商品を譲りたい人とほしい人とを誌面上でつなぐ「ちょっとリサイクル」、子どもの写真を紹介する「はいポーズ!!」など、道端で出会った友だちに「ねぇ、ちょっと聞いてよ」と声をかけるように気軽で親しみのある空気感があります。

ここで少し、記事の中身をのぞいてみましょう。

まず、タイトルのすぐ右下には、猪原さん直筆のメッセージ。創刊時に編集メンバーのアイデアではじめた手描きのメッセージは、編集部の思いを伝える唯一の場です。「ちょっとリサイクル」「交番だより」「SEIRYUの運勢」「ちょっとご案内」などの各コンテンツも、実は創刊した頃とほぼ変わらない構成となっています。

ところで気になるのが、コンテンツ名の頭についている“ちょっと”というワード。その由来を尋ねてみると。

『瓦版や』は、井戸端会議の延長みたいなものなんです。私は普段から本や新聞をしっかり読むタイプじゃないから、難しいことを言われてもわからへん。だからこそ、読者目線でわかりやすく、おしゃべりしているみたいに簡単な内容で、大きな文字にして……と、わかりやすさにこだわったんです。

「警察が味方になってくれたらなにかと心強いはず!」という思いで創刊号から継続している「交番だより」は、猪原さんが近隣の警察署へ直談判に行き実現したコンテンツです。以降、27年にわたり防犯喚起のための情報提供が続いています。この実績が評価され、2021年2月には住之江署から猪原さんへ感謝状が送られました。

自宅のポストに入っていた『瓦版や』を見かけた署長からの提案で、感謝状が送られた。

子どもを介してできた、友だちとのつながりをたやさないために。

住之江区は大阪市の南西部に位置しており、『瓦版や』の編集部のある北加賀屋は、大正から昭和にかけて造船業で栄えたエリアです。堺市出身の猪原さんは、結婚を機に夫の住む住之江区へやってきました。

猪原さんが『瓦版や』を始めたきっかけは、PTAやママさんバレーでの仲間たちとの出会いにはじまります。猪原さんは、働きながら家事と子育てをしつつ、地域の “ママさんバレー”チームに所属していました。さらに、PTAの役員もしていた猪原さんの自宅には、頻繁に友だちが集い、お茶を飲んだり、お好み焼きパーティーを開催したりしていたそうです。

ある日ふと、「PTAやバレーが終わったら、せっかくできた友だちと離れ離れになってしまうのではないか」と、猪原さんは寂しくなってきたのだといいます。そして、ちょうど同じ頃、事務職員として勤務していた会社で、無料配布されている“地域の情報誌”たるものの存在を知りました。

私はここが地元というわけでもないから、子どもを介したつながりばかりでしょう。だから、子どもが卒業しても私たちがつながっているために、みんなでお店でもしたいなぁなんて思っていたんです。「お好み焼き屋さんがええんちゃう」などと話していたこともありました。そんな時にパート先で、ある地域の情報誌を見て、「これやったら、みんなでできるかもしれない」と直感的に思ったんです。

それ以来、猪原さんの頭のなかは情報誌づくりのことでいっぱいに。編集部での役割分担まで勝手に考えて、実現できるのではないかという思いを膨らませていきました。しかし、そのことをママさんバレーの仲間たちに話すと、反対の声が上がったといいます。猪原さんは、当時をこう振り返ります。

仲間からは「そんな大変なことできるわけないやん」と叱られました。私はいつも、あと先考えんと、思いつきでやりたいと言ってしまうもので。

でも、このメンバーならできるという確信があったんです。だから、みんなにしつこく「やってみたい」と言い続けていたんですね。そうすると、今度は別の友だちが、「そこまで言うなら、1回やってみよう」と言ってくれて。私もみんなも、どうせ続いても半年くらいだろうという軽い気持ちではじめたんです。だから、まさか今日まで発行し続けているなんて夢にも思ってなかったです。

そうして、1994年11月に創刊号を発行。ギリギリまで決まらなかったタイトルは、友だちとの何気ない会話で出てきた「瓦版」という言葉がヒントに。そうして始まった『瓦版や』の取材、編集、発行、そして配布。「みんなに知ってもらいたい情報を、わかりやすく伝えたい」という思いを土台に、掲載内容や役割分担が決まっていきました。

左から、創刊号と第2号。現在とほぼ変わらない誌面構成。猪原さんの思いを伝える手書き部分は現在も続くおなじみのコーナー。

明るくサバサバとした性格のAさんは営業担当、ワープロが得意なBさんはレイアウト担当、周辺のネタに詳しく話題が豊富なCさんとDさんは情報収集の担当、……というように。言い出しっぺで編集長の猪原さんが、当時5〜6人いた編集メンバーに役割を分担していきました。そして、猪原さんは全体の企画と、行政や警察への出稿依頼など、その他の仕事を一手に引き受け、2万部(当時)の配布はメンバー全員で行うことになりました。

編集作業は実寸の記事を切り貼りして行う。「広告を出稿してくださる方に対しても、お金をいただいている以上はそれぞれが目立つようにしたい」と、構成を考えるのは猪原さんの仕事。

読者と家族の存在を支えに、情報誌づくりも主婦業も懸命にこなす。

仲間たちと『瓦版や』を発行した1994年当時、猪原さんは、なんと3つの仕事を掛け持ちしていました。現在のようにスマートフォンやメールでのやりとりが一般的ではなかった時代。電話やファックスはあったけれど、情報誌の制作に関するコミュニケーションはほとんどが対面で行われていました。

広告などの営業や集金にまちじゅうをまわって、帰ったらもう夕方。それから急いで夕飯の準備をするなんてことは当たり前の日々でした。でも、まちの中でそうやって動いていたら、人とのつながりもできるじゃないですか。

さらに当時は、3人いるお子さんのうち、2人が受験生だったそう。

これからがんばらないと! という時に私も『瓦版や』をスタートしました。周りの人からは「あんたようやるなぁ!」とあきれられました。でも、隣で「がんばれ」って言うだけじゃ、子どもは親の存在をうっとうしく感じるでしょ。受験は本人が踏ん張るしかないんだし。だから、私も一緒に、自分のやりたいことをがんばりたかったんですよ。

以前は、読者とのコミュニケーションも兼ねて近隣の公共施設にてフリマを開催していた。読者の方たちと日帰りのバスツアーに出かけたこともあったのだそう。

子育て、主婦業、仕事、そして『瓦版や』の編集。仕事と子育ての両立だけでも息切れしそうなものですが、猪原さんは四足の草鞋を履いて、常に全力疾走。疲れたから休刊しよう、もうやめようなどと思ったことはなかったのでしょうか。

1998年頃に、ママさんバレーのメンバーのみんなが編集チームから抜けた時はさすがに辛かったです。でも、それぞれ事情がありますからね。私一人になってしまって。パソコンもできないし、これはいよいよピンチかもしれないと思いました。でも、夫に相談したら「今、真知子にできることをすればいいやん」と言ってくれて。それで、「あ、そっか。そしたら、ぼちぼちやれることだけをやろう」と思い直して、前を向いたんです。

それからは、ワープロの操作を猛勉強。時代の流れにあわせて、今度はパソコンのつかい方も習得。苦手分野ではあったものの、努力の甲斐あって、今ではレイアウトまでできるようになったそうです。しかし、その作業は深夜にまで及ぶこともしばしば。

新聞創刊後に猪原さんが家族とともに結成した、ソフトバレーチーム「瓦版や」。メンバーが配布を手伝ってくれることも。

そんな日々のなか、睡眠不足が続いてオーバーワークに。病を患って入退院を繰り返した時期もあったといいます。けれど、どんなピンチの時も悲観せず、目の前にあるやるべきことを懸命にこなしてきた猪原さん。この原動力は、いったいどこから湧いてくるのでしょうか。

やっぱり「感謝」です。読者、広告主、配布してくれる仲間、そして家族。周りの人たちへの感謝の気持ちが私の活動の源です。

私は編集なんてたいそうなことをしていると思っていなくて、みんなの声を誌面に載せているだけ。誰でもできることなんです。だから、私が続けようと思ってやっているというよりは、情報を提供してくださる人、そして待ってくれている読者の方に背中を押されて、発行を続けさせてもらっているような感覚なんです。

「家族あってこそ成り立っている」と話す猪原さんが大切にしている、家族からの寄せ書きを見せてくれました。

「そんなつもりなく」いつの間にか築かれていたまちとのつながり。

自宅編集部の前に“たまたま”設置することになったベンチと自動販売機。近隣の人たちの憩いの場にもなっているそう。

創刊号から毎月欠かすことなく発行してきた『瓦版や』ですが、2020年に起きた新型コロナウイルス感染症による自粛の影響が及びました。イベント情報などを中心に、掲載すべきネタがなくなり、広告の出稿もグッと減ってしまった時期には、通常4ページの掲載が2ページに減ったこともあります。

しかし、コロナ禍で気持ちが塞ぎそうな状況下でも、『瓦版や』がまちの人たちに根付き、心待ちにしている人たちがいるのだと感じ取れるエピソードも。

あるエリアでは、自立支援事業所の障がいのある人たちにポスティングをお願いしているんです。その事業所の方によると、『瓦版や』の配布の仕事は取り合いになるほど人気だと言うんです。配っているときに道端で出会うまちの人が「それちょうだい」とか「(配ってくれて)ありがとう」などと声をかけてくれるみたいで。

現在は2月と8月以外の偶数月に「住之江公園ミュージックガーデン」にて「ミニフリマ」を開催し、読者とのコミュニケーションの場をつくっている。

『瓦版や』は、猪原さんの想像もしないところで、まちの人同士のコミュニケーションを育んでいるようです。

「友だちとの絆をたやしたくない」との思いでスタートし、もう初期メンバーは残っていませんが、猪原さんには今、『瓦版や』を通して得たかけがえのない読者や仲間がいます。

おかげさまでいろんなつながりができて、友だちも増えました。その友だちがまた新たな出会いをつくってくれたりして、ありがたい気持ちでいっぱいです。友だちは人生の財産ですよね。

現在、猪原さんの自宅では、空いた部屋を活用して「カラオケ歌い放題」や「着物リフォーム教室」、「大正琴教室」を開催するなど、住み開きも行われています。(緊急事態宣言時は「カラオケ歌い放題」と「着物リフォーム教室」はお休み。)

猪原さんが講師をつとめる大正琴の練習風景。もともとは、自宅で開催していたカラオケ歌い放題や着物リフォーム教室に『瓦版や』を見て来た人たちが大正琴教室の生徒さんに。現在は交通の便のいい住之江会館に開催場所を移し、10人の生徒さんが通う。

地域の人たちの生活に根付き、つくっている猪原さんにとってはもはや欠かせない日常の一部となっている『瓦版や』。「そんなつもりなかってんけど」、27年も続けてきた地域メディアの、これからもきっと「そんなつもりなく」続いていくであろう進化が楽しみでなりません。

今は仕事もしていないし、私には『瓦版や』しかないから、することなくなったらさみしいし、困るかもしれません。だから、30周年まではがんばります。そのあとのことは、そのときに考えます!

自宅編集部には「ちょっとお茶しに行っていい?」と友だちが立ち寄ることもしばしば。

猪原さんは、地道に『瓦版や』を発行し続けてきたことで、目には見えないまちとの関係を築いてきたのではないでしょうか。つくり手と読み手、あるいはまちの人と人との関係性を「そんなつもりなく」育んできた媒体。そのまちに暮らし、そこで生活をしている人だからこそ、まるで呼吸をするように自然に、人びとの日常に溶け込んでいったのかもしれません。

名誉や結果を求めたわけではなく「友だちとの絆をたやしたくない」というごく個人的な思いに駆られるように活動をスタートし、あらゆるシーンで「自分が大事にすべきことは何なのか」を本能で感じて決断しながら、一瞬一瞬を大事にして進んできたように思います。やりたいと思ったらまずはやってみる。そして、結果は後からついてくるものだと、猪原さんの背中から学びました。

私たちの日々の生活に、当たり前のように存在している物事や人との関係は、誰かが「そんなつもりなく」とも大事にし、継続し、育んできたからこそ、今そこにあるのだと気づかされるひとときとなりました。