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好きを仕事にできる人の人生を動かす”祈りの力”。ビザもお金もなく渡米した薄衣希代子さんをマクロビオティックゆかりの梅農園主に導いた物語。

私は、祈りの力は絶対にあると思っています。

何も、アメリカの禅センターやエサレン研究所のようなスピリチュアルな環境で暮らしていたから言うのではありません。そういう閉じられた世界の話ではなく、実社会で自分の好きなことを仕事にしている人たち(※)にお話を伺うと、毎回のように感じるのが、この「祈りの力」なんです。それは目に見えない強い思いで、お金や人という物体を動かす、祈り経済とも言えるでしょう。

(※)脚本を書いたこともアニメ映画をつくったことも資金集めの経験もなく、世界で話題の映画をつくり上げた方や、エリート教育を受けて保障された会社員生活を辞して、魂の自分とつながって好きなお菓子づくりをなりわいとする循環型の暮らしを家族と歩まれる方など

彼らの物語には共通点があります。それは「やりたいことをやる」と腹をくくると、それが実現される前に必ず、祈りのような奥深い力が働くことです。

彼らは願いを実現させるのに、資格や経験、学歴、たくさんのお金や人脈などの外側の条件は、必ずしもいらないと口を揃えます。非凡な天才やヒーローである必要もなく、ただ「できない」という外側の現実より、「やりたい」という自分の内側に意識を向けてひたむきに実行することだと言うのです。そして、未来に希望を抱いて一心に励み続けると、あるとき沸点を迎えて、神が手を差し伸べるかのような奇跡的な出来事が起こります。

祈りとは、このような頭の理解を超えた聖なるものに深く意識を向けることです。そんな深い心によって願望が実現されるというのは、脳の仕組みを踏まえても理に叶っています。

脳は毎秒4億ビットもの情報を処理していますが、そのうち意識にのぼるのはわずか2000ビット。つまり、私たちが見たり触れたりしてリアリティだと信じるものは、現実世界の0.00005%というごく一部の情報に過ぎません(※)。
(※)アラン・ピーズ&バーバラ・ピーズ著、市中芳江訳『自動的に夢がかなっていく ブレイン・プログラミング』(サンマーク出版)

夢を実現するときの障害になるのは、「こうじゃないとダメ」と0.00005%の現実にフォーカスしてしまう思い込みです。そこから自由になって、思考を超えた私たちの命の根源と意識をつなぐことで、体験できる現実が変わるのだと思います。

当然、祈りの力だけで夢が叶うわけがないと疑う人もいらっしゃるでしょう。しかし、自分を超えるものを受け入れ、人との関わりや宇宙の計らいとつながる祈りの力に素直に乗ったことで、意のままに人生を動かした人は大勢いるのです。

そのひとりが、今回ご紹介する薄衣希代子(うすぎ・きよこ)さんです。薄衣さんは現在、カリフォルニア州チコ市で、自然農法の梅農園を営んでいます。

彼女は、外側のハンデをものともせず、周りの人たちを輝かせながら、目の前のベストを選んで実行してきた人です。そして経営者の彼女が、試練のときほど大切にしてきたのが「祈り」でした。

強風で梅が一気に落ちるなど、自然相手の仕事には厳しい一面も


先代農園主の八木数子さんと薄衣さんの夫のロンさん。数子さんからは「大変なこともあるけど、誰もやったことがないことをやるって楽しいじゃない」と鼓舞されてきた。

左から梅酢($13)、梅シロップ($13)、2017年漬けの梅干し($26)、梅干しを漬けた際のシソの葉($12)。※すべて税込み価格

彼女は、人生に価値のない時間はひとつもない、困難に見える出来事もすべて人生への信頼を深めるために必要なことだと言い切ります。そして望むことにフォーカスし、望まないことには意識を向けません。なぜなら、目に見えない祈りの力が人生を動かすと知っているからです。

これは、そんなひとりの日本人女性がどんなふうに祈りの力を行動に変え、アメリカの農園経営に至ったのかという物語です。あなたが大好きなことに向かうための後押しになればと願います。

岩手県の小道で、流木アートや絵を売っていた

岩手県盛岡市出身の薄衣さんは、どこから流れ着いたのか、人知れぬ物語に磨かれた流木に魅せられた少女でした。

高校生の頃から、流木でフォトフレームをつくったり、絵を描いたりして路上販売していた薄衣さん。卒業後は進学せず、道で作品を販売し、その中で知り合ったカフェ店主の店で働きました。20代前半はインドを中心にバックパッカー旅行に明け暮れました。

ある日、大好きな絵本作家の田島征三さんが流木や木の実を使った作品展を開催すると聞き、静岡県まで足を伸ばします。その会場でたまたま出会い、意気投合した男性に、米国ニューヨーク州にある日本山妙法寺グラフトン道場(Grafton Peace Pagoda Nipponzan Myohoji)住職の安田行純さん(以下、純さん)を紹介されました。

彼女はアメリカ先住民のオジブワ族出身、デニス・バンクスさんが結成したアメリカ先住民運動(American Indian Movement)を1970年代から支援してきた僧侶でした。

アメリカ先住民を支援する僧侶との出会い

薄衣さんはこの出会いに突き動かされるように初渡米し、純さんのお寺を訪ねます。そこで食事の用意などを手伝ううち、純さんが奇跡を起こすように想いを実現させる様子に驚きます。それはお金や人材ありきで構想を計画し、着地させるという方法とは大きく異なりました。

純さんは、お経を詠んでいくらなど、信者さんにお金を請求しないんです。そうではなく、世界平和を祈って行脚し、断食する彼女の姿に共感した人が自発的に土地やお金や食べ物を寄贈することで、お寺が成り立っていました。

また、純さんは、人を丁寧に観察して、誰がどんなことが得意で何を持っていて、どうお願いするとその人が輝けるのかを知る人です。だから彼女からの頼まれごとは、お願いされた人にとって嬉しいことになるんです。私も純さんに料理の素質を見出していただいたことで、言葉でうまくコミュニケーションがはかれなくても、食を通じて人を笑顔にできる喜びを知ることができました。

たとえばお寺の家屋の建材がなければ、誰かがそれを持ってきます。そして、やがて建築の知識がある人たちが集まって、有志で建てていくんです。そんな魔法のような様子を見続けるうちに、外側の条件で無理そうに見えても関係ない。心を開いて意識を高くし、ないものではなく、あるものに集中することで祈りのエネルギーが動き、望むものが達成されると思ったんです。

やがて薄衣さんは、純さんのお寺に出入りするアメリカ先住民の人たちと顔なじみになります。2008年には、純さんやデニス・バンクスさんたちと6か月間かけてアメリカ大陸13,200kmを横断する「ザ・ロンゲスト・ウォーク2」に参加。先住民の聖地の保護や部族の主権、環境保護、地球温暖化防止の必要性などを非暴力で訴え、行進しました。

サン・ダンスの儀式で「祈りの力」を深く体験する

薄衣さんは先住民たちと過ごすうちに、彼らの祈りを中心とした生き方に感銘を受けます。

たとえば彼らは、宗教と日常の暮らしとを区別しません。バスケットを編む材料の植物を刈り取るときは、その精霊に祈りを捧げます。編み込まれた模様は、大地の恵みへの深い敬意を現します。そしてバスケットを編む技術には、天から授かった神聖な才能と感謝するのです。このようにありふれた日常の道具でも、彼らの暮らしでは、神聖の色を帯びます。また、踊りや祈りを用いた儀式では、意識を宇宙の高きものの力と交信させていました(※)。

(※) P.R.ハーツ著、西本あづさ訳『アメリカ先住民の宗教』(青土社)より

私が超自然的な祈りの力を強く信じるようになったのは、先住民の人たちとサン・ダンス(太陽の踊り)の儀式(※)に参加したことがきっかけです。

(※)大草原一帯で暮らす先住民が行うもっとも大切な宗教的儀式。一年の恵みに感謝し、翌年の万物のバランスと調和を祈る。1883年創設のインディアン犯罪法廷より禁止され、1934年まで非合法となったという弾圧の歴史も。P.R.ハーツ著、西本あづさ訳『アメリカ先住民の宗教』(青土社)より

サン・ダンスには、踊り手たちと彼らを囲んでサポートする人たちがいます。私は踊り手として参加しましたが、蒸し風呂の儀式で清められて4日間、食物も水分もまったく取らずに完全な断食をして踊り続けました。

部族の精神的指導者が、私の腕の筋肉の奥深くまで木の枝でつくったピアスを食い込ませ、私は疲労の限り踊りました。踊り手のなかには、トランス状態になって、幻視を見たり、失神したりする人もいました。そしてダンスの最後は、自己犠牲を表すために、刺されたピアスを引っ張って腕の肉を捧げるんです。

輪の外でひとり立っていると、刺すような痛みを感じました。それは腕の傷の痛みではなく、心の痛みでした。心の奥の悲しみやトラウマが吹き出すように襲ってくるんです。

でも人の輪の中にいると、みんなの祈りの一部になるのでしょうか。痛みを感じなかったんです。意識の方向性や目に見えない思念、人とのつながりがどれほど人生に強い影響を与えるのかを深く知った、忘れられない体験になりました。

そして薄衣さんの転機となったのが、2011年3月11日の東日本大震災。彼女が被災した岩手県では、4672名もの尊い生命が犠牲になりました()。当時29歳だった薄衣さんは、震源地からほど近い場所で生活。幸い、家は津波で流されなかったものの、電気やガスのない生活を数週間、強いられました。

とても悲しい出来事でした。同時に、手元にある食料をみんなで分け合って食べ、心配して近所のおばあちゃんを訪問していると、命をフルに使う感覚もありました。試練や人生の負荷は辛いものですが、生きる密度が濃くなって、命が開く機会にもなると体感したんです。

食文化を奪われ、糖尿病で苦しむ先住民

電気が通じるようになった頃、安否を心配した純さんからアメリカのお寺にこないかと電話を受けます。薄衣さんの心の奥は、微かにワクっと震えました。しかし震災後の不安定な状況で、日本を出たらもう戻ってこられないかもしれない。心に不安がよぎります。でも、多くの人が命を失ったなか、ありがたいことに自分は今ここに生きている。その命を100%使い切りたいと強く願って、気づけばほとんどお金を持たず、長期ビザもなく、片道切符を握りしめて渡米していました。

そして純さんのお寺を手伝いながら何か月か過ごした後に、ビザが切れます。その後は帰国せず、デニスさん一家と数か月間、ミネソタ州北部のリーチ・レイク・インディアン居留地で暮らしました。

かつてこの地には、メープル・シロップ、ホワイト・フィッシュ、ワイルド・ライスなどを中心とした、先住民の健康的で豊かな食文化がありました(※)。しかしそこで薄衣さんが目にしたのは、政府からの食料援助を受けて食文化を失った先住民の多くがジャンクフードを中心とした食事をし、ドラッグやお酒に溺れ、糖尿病で苦しむという現実です。

(※)森田ゆり著 『聖なる魂 現代アメリカ・インディアン指導者デニス・バンクスは語る』(朝日新聞社より)

料理で人に尽くすことが喜びとなっていた彼女は、食を通じて彼らを支えたいと思いました。

私はアトピー性皮膚炎なのですが、ローフード(※)で症状が改善したんですね。デニスさんもこの食事療法で糖尿病を完治させており、最初はローフードをつくって彼らを栄養面で支援できないかと思いました。居留地の近くには小さな酒屋のような店しかなく、週に一度、片道2時間近く車を走らせてウォルマートまで通いました。

でも、野菜や果物はすごく高いんです。限られたお金で、わずかなそれを買うのは非現実的でした。そもそもローフードは、彼ら本来の食文化ではない。表面をなぞるだけでは問題は解決されないのだと思い知らされました。
(※)食品が持つ酵素が破壊されない48℃以下で調理された野菜や果物、ナッツを中心とした食事療法

志叶わず、また、どんなに溶け込もうとしても自分はアメリカ先住民ではないという現実を突きつけられた薄衣さん。人生の方向性を見失いかけているとき、「ピース・ウォーク」があると知り、カリフォルニア州に向かいます。

ピース・ウォークは、ダンスと同じように、私にとって動きを伴う祈りです。これまでも参加することで、祈りを通して自分の心をクリアにし、気づきや答えを得てきたんです。

平和を祈って大地を踏みしめると、足の裏から地球とのつながりが感じられます。すると、自分を囲む枠のようなものが溶けていきます。歩くというシンプルなことですが、私たちの命の源である宇宙の高きものとひとつになる感覚がするんです。さらにほかの人と一緒に歩くことでそのエネルギーが相乗されます。深いレベルでみんなとつながっているという絆が感じられるんです。

カリフォルニアで日雇い仕事をしながら生活

一連の出来事を通じて内観を深め、食文化を守りたいという気持ちと“アメリカで暮らす日本人”という自分のルーツを深く認識した薄衣さん。その後は、純さんが紹介してくれた日本人女性がバークレー市に家を見つけてくれ、薄衣さんはカリフォルニアにとどまって、ベビーシッターや野菜料理のケータリングをしながら日銭を得て生活しました。

薄衣さんの肉、卵、乳製品を使わないケータリング料理

6年が過ぎたある日、バークレー市で催された日本人コミュニティのホリデイフェアで、チコ市にある八木順成さん・数子さん夫妻の梅農園で後継者を探しているという話を耳にします。それは、玄米菜食を軸とする食養生法「マクロビオティック」ゆかりの、知る人ぞ知る自然農法の梅農園でした。

有機栽培の梅でつくる梅干しは、マクロビオティックのかなめとなる食材です。しかしアメリカ産オーガニックの梅干しは、長く手に入りませんでした。そこで、マクロビオティック創始者の桜沢如一氏に命じられた直弟子の八木夫妻が、1983年に更地を買い取って日本の梅を植えたのがこの農園だったのです。

薄衣さんにとっては、自分の日本人としてのルーツと食文化を守りたいという気持ち(祈り)が重なり合う、聖なる場所に思えました。

「農園を買う!」と強く決意して起きた奇跡

とはいえ、その日暮らしの自分が農園を買うつもりなんてまったくありませんでした。順成さんが亡くなり、数子さんもご高齢で10年以上、梅干しをつくっておられず、後継者探しのお手伝いができたらと思ったんです。そこで何度かお弁当をつくってパートナーのロン(現在の夫)と老人ホームで暮らす数子さんを訪ねました。

すると突然、ロンが「農園を買う!」と言い出したんです。1000万円もの頭金が用意できるのかと思ったら、彼の貯金は200万円しかない(笑)。そこで、私も自分の心に「どうしたい?」と聞いたんです。すると「買いたい!」と言うじゃないですか。

貯金をつぎ込んでも頭金に足りず、支払い期日までは綱渡りでした。でも、ふたりとも買うことしか考えなかったんです。望むことだけを考えて、望まないことにはフォーカスしませんでした。同時に最善を尽くしたうえで、もし買えなくてもそれはそれで私のベストだと心を柔らかく持ちました。すると入金日直前にロンに仕事がたくさん入ってきたり、私にも臨時収入が入ってきたりして、結果、頭金をピッタリ集めることができたんです。

2年目の試練! パートナーが脳卒中で倒れ、無収入に

晴れて2017年に農園を購入したふたりは入籍し、薄衣さんはグリーンカードを取得。農園を「Mume Farm(ムメ・ファーム)」と名づけました。農園の実務は薄衣さんが、ロンさんは本業のイベント音響・映像ディレクターとして外で現金を稼ぐという役割分担になりました。

しかし予期せぬことが起こります。2年目に、ロンさんが脳卒中で倒れてしまったのです。

左から薄衣さんの3年漬けの梅干しに、数子さんが漬けた10年もの、20年ものをセットにした「梅干し3種食べ比べセット」(28ドル税込)。マニアに大人気とか。

脳に傷を負ったロンは、記憶が曖昧になりました。彼はどん底まで落ち、半年ぐらいは働くこともできませんでした。私たち夫婦には、病状の不安だけではなく、無収入という現実も重くのしかかってきたんです。

梅干しは、マクロビオティックの製法に基づいて、薬効を出すために3年以上漬ける必要があって、まだ販売できませんでした。農園の収入も彼の収入も見込めず、彼の家族からは「妻のあなたが働きに出て、お金を稼ぎなさい」とプレッシャーがかかりました。でも、これで農園を諦めるのは違うという確かな感覚がありました。

土や木に触れながら、希望に意識を向けて祈り続けました。そして、目の前の仕事に打ち込んだんです。外の声に流されそうになるときに、人から離れた農園にいることはありがたかったです。梅の木とも対話しました。するとやはり「私たちは大丈夫」という実感を得て、それを信じることにしたんです。

梅の古木のスプーン、リサイクルした落梅のシロップが収益に

Mume Farmの梅たちは、樹齢35年の木々。収穫量だけを考えると、梅は25年が寿命とされますが、実際の平均寿命は70〜100年弱で、200年を超える長寿の木もあります。

梅の古木を再使用し、薄衣さんが手彫りするスプーン($23〜48)。※税抜き価格

梅干し用の紫蘇も自然農法で自家栽培する。

木も人間と同じで、病気になることもあるし、長生きする木も短命な木もあります。私は木のペースに合わせて、一本一本向き合っていきたいんです。

大規模農家だと区画ごとに老木をすべて焼いて更地にし、新しい木を一斉に植えます。でも、私がアメリカ先住民の人たちから学んだのは、大地は生きていて、人間が土地に敬意を払い、尊重するよう求めていると信じること。これは、私たち日本人が大切にしてきた「足るを知る」という思想にも通じます。

小規模の家庭農園だからこそ、利便性やお金もうけを最優先にせず、梅の木に敬意を払って自然と調和しながら利益を得る方法があるはずだと祈ったんです。

ある日ボーッと農園を眺めていたとき、寿命を迎えた古木を利用して、流木で作品づくりをしていたときのようにスプーンをつくって輝きをつなごうと思い立ちました。

さらに、落ちた梅を再利用して梅シロップやジャムにしてマーケットで販売できるのでは? とひらめきました。これを実行したら、収益につながったんです。

ロンさんも徐々にペースを取り戻し、今では週に一度のファーマーズ マーケットと自分の仕事を両立できるようになりました。Mume Farmのブースには、いつもたくさんのお客さんが集まります。去年から、いよいよ梅干しの販売も開始しました。

天職は、人の縁がつないでくれるもの

マーケットの魅力は、お客さんと直接お話しできることです。「アボカドトーストに梅ふりかけをかけたらおいしかったよ」とか「焼いた肉に照り焼きソースと梅干しを乗せたらイケるよ」とか、アメリカ人のお客さんからうちの商品を使ったユニークな食べ方を学ぶことも多いです。

とはいえ私は話すのが苦手だし、英語だとさらにうまく喋れません。でもそんなふうに短所とされることは個性であり、強みにもなると思うんです。たとえば、私を「食」や「アート」という仕事に結びつけてくれたのは、言葉で愛や感謝をうまく伝えられなかったから。料理や作品が私の感情交流を助けてくれ、周りの人たちがその素質を見出してくれたんです。

進路や能力がわからないと自分を追い込む人がいますが、ひとりだけでそれを見つけるのは難しいですよ。私たちは関わり合いの中で生かされています。誰かの頼まれごとで成長できたり、人に素質を見つけてもらったりするうちに、好きなことや才能を発見し、磨いていけるんじゃないかな。そんなふうに心を開いて人と関わっていれば、必ずライフワークにつながります。私だって、自分が農園をやるなんて35歳まで思いもしませんでしたから。そんな、人生の有機的なライブ感こそが面白いんだと思います。

(インタビューここまで)

「日本で親切にしてもらった」「日本人の良い友だちがいる」と、アメリカ人のお客さんに良くしてもらうことがたくさんあるという薄衣さん。コロナ渦で自由に行き来できなくても、遠くどこかで生きる同じ日本人の優しさに支えられているのだと、目に見えないつながりや深い感謝を感じるのだとか。そしてご自身も、そんな愛の一部でありたいと祈ります。

私が苦学生としてアメリカで暮らしていたときにも、薄衣さんはこんな風に当たり前のように手づくりのお菓子や料理をふるまってくれた。

私が薄衣さんの物語から学んだのは、好きなことを仕事にしたり、自由に生きるというのは、目の前の世界を思いどおりに変えることではないということ。真の成功や自由とは、目の前の条件と自分を同一視せず、未来を信じてそれに縛られずに生きることなのです。

祈りの力はある。しかもそれは霊的世界に限らず、実社会の経済的成功を導くものでもある。薄衣さんのお話からあらためてそれを確信できました。無理だと諦める前に、自分の能力や努力だけでやれる、またはやらなきゃという思い込みを捨てる。愛と感謝の祈りを通して世界を見つめ、自分を超えるものを信じて、ひたむきに行動する。

すると世界はきっとあなたを応援し、あなたが願う方向へと導いてくれるはずです。

(すべての写真提供: 薄衣希代子)
(※)取材協力していただいた、ベイエリアの川端章予さん、齋藤由香さんにこの場を借りてお礼申し上げます。