greenz.jpの連載「暮らしの変人」をともにつくりませんか→

greenz people ロゴ

肩書き=自分なの? 『beの肩書き: 「人生の肩書き」は、プレゼントしよう』の立ち読みはこちら!〈vol.1〉

肩書き=自分なのか? 問題

「肩書き」って必要なのかな? 「肩書き」は自分を伝えるものだけど、それだけで自分という存在は伝わっているのかな?

そんな「肩書き」をめぐる”そもそも”のところから、この本をはじめてみたいと思います。


ということで、はじめまして。勉強家の兼松佳宏と申します。「勉強家」という耳慣れない肩書きに「何だか不安になった」という方は、どうぞご心配なく。

僕は今、京都精華大学人文学部の特任講師として、社会的な課題をクリエイティブに解決する「ソーシャルデザイン」を学生に教えています。その前はソーシャルデザインをテーマとするウェブマガジン『greenz.jp』の編集長を5年ほど務めていました。

また、駆け出しの研究者として、ひとりで/みんなで勉強する「co-study」のための空間づくりの手法「スタディホール」を研究したり、著述家として、弘法大師・空海の教えをソーシャルデザイン教育に応用する『空海とソーシャルデザイン』や、社会起業家や音楽家などさまざまな人の勉強習慣を明らかにする『学び方のレシピ』など、いくつかの連載を展開したりしています。

さて、ここまでの「特任講師」「研究者」「著述家」という肩書きは、所属や職種など「do」、つまり「私はこんなことをしている人です」という紹介でした。一方、最初にご紹介した「勉強家」という肩書きは、「do」というよりも「be」、いってみれば「私はこんな人です」という表明なのでした。

もし違和感を覚えた方がいたとすれば、「doの肩書き」と「beの肩書き」、2つの響きの違いにあったのだと思います。(ちなみに肩書きというと「○○会社 ○○部 ○○課長」のように「所属」や「役職」を意味することが一般的ですが、ここでは拡大解釈して名刺に添えられているような「職業名」まで含んでいます)

勉強家を名乗るまで

そういう僕にとっての初めての肩書きは、新卒22歳のときの「ウェブデザイナー」でした。高校生の頃から”デザイナー”という響きにずっと憧れていたので、最初はかなりウキウキしていましたが、2年も経ってデザイナーであることが当たり前になると、何だかズレを感じるようになります。そしてここからが、肩書きに悶々する20代のはじまりです。

転職した24歳で「アートディレクター」、26歳でフリーランスとして独立したときは「クリエイティブディレクター/デザインジャーナリスト」、28歳でgreenz.jpに合流したときは「コンテンツディレクター」。それっぽいカタカナの肩書きをとっかえひっかえ名乗っては、そのときどきの肩書きの枠には収まりきらない自分に戸惑ったり、肩書きと自分の能力との乖離が大きすぎて無能感に苛まれたり。

実は27歳の頃の約半年ほど鬱っぽくなってしまった時期があったのですが、その原因は「肩書き」との付き合い方にあったのかもしれないと、今では思っています。そして30歳になるとき「勉強家」という自分のあり方に根ざした肩書きをど真ん中においたことで、ずいぶん気持ちがラクになったのです。

そもそも肩書きの役割とは、自分と他者とのコミュニケーションをより円滑にするために、自分のことについて端的に知ってもらうための糸口を提供することです。

しかし、どんどん働き方も多様化し、複業やらパラレルキャリアやらが当たり前となってきた今、たったひとつの肩書きでは自分のことを表現しきれなかったり、肩書きの先入観からつい相手にレッテルを貼ってしまったり、「肩書き」という概念そのものが扱いにくいものへと変わってきているのかもしれません。

最近では「肩書きに囚われない生き方」というふうに、「私の肩書きは<私の名前>」と宣言する方も少しずつ増えているように思います。実際に「私の仕事は、兼松佳宏」と自分に向かって唱えてみると、何だか心が鼓舞された気持ちになります。とはいえ、外向きに「僕の仕事は兼松佳宏なんだよね」と言ってみても、相手に「?」マークを浮かばせてしまうでしょう。

誰かとつながり、ともに何かをつくりだしていくには、やはりお互いのことを知るための手がかりが必要です。そして時代から取り残されつつある「肩書き」に、もう一度新たないのちを吹き込もうという試みこそが、この「beの肩書き」なのです。

きっかけは「コメディアンとしてのバス運転手」

みなさんはバスに乗るときに、「あ、今日の運転手さんは○○さんだ。ラッキー!」みたいな思いをしたことはありますか?

僕はいま京都市内に住んでいますが、とても大好きなバスの運転手さんがひとりいます。その運転手さんはまるで「コメディアン」のように、アナウンスで小さなボケを連発しては車内を笑いで包んでくれるのです。

あるときは、僕と娘しか乗っていない終着間際であっても、「みなさま、忘れ物はございませんか? 降りられる前に、いま一度お座席のまわりをご確認ください。最近は、買い物袋、携帯電話、傘、財布、ペン、イヤホン、スマートフォン、iPhone、iPad、エクスペリア…(他に10個くらい)…パーカー、処方箋の袋などの忘れ物が多くなっております」というとっておきの定番ネタ「細かすぎる忘れ物」を披露してくれて、娘と思わず吹き出してしまいました(この面白さ、伝わるでしょうか…?)。

この出会いによって僕は初めて「またこの人の運転するバスに乗りたい」と思うようになりました。と同時に、「目的地にさえ着ければ誰でもいい」と思っていたことにも気付かされたのでした。
  
よくよく観察してみると、優しい気配りで乗客を和ませる「セラピストとしてのバスの運転手さん」や、きつい曲がり角でも躊躇なくハンドルを切る「職人としてのバスの運転手さん」もいます。当たり前のことではありますが、doが同じであったとしても、ひとりひとりbeは違うのです。しかし、彼ら/彼女らの名刺には「バス運転士」と書いてあるだけでしょうし、自己紹介をするときは「バスの運転手をしています」とだけ答えるのでしょう。それで、どれだけその人のことが分かったといえるでしょうか。

いつも何かをやっていないと焦りを感じてしまうくらい、何だか忙しないこの世の中では、私たちはdoを優先しすぎてしまっているのかもしれません。本来、その人の仕事の味のようなものを生み出しているのは、その下にあるbeのはずなのに、それについて語る機会はほとんどなく、お互い見えにくくなってしまっているのです。

そのことを島に例えて図にしてみると、こうなります。

上の線が海面だとして、「doの肩書き」は“島”にあたります。そして、地上から見えないながらもその下にある“マグマ“が「beの肩書き」です。僕でいうとかつての「編集長」やいまの「大学教員」というdoの肩書きは、「勉強家」というマグマが吹き出して、たまたま海の上に出てきて島になったものであり、僕の主要な一面でありながらも、全体からしてみたらほんの一部の表層にすぎないのです。

さらにいえば、もっと深いところには、もっとも揺るぎない「自分の名前」という“マントル”がある。NUMABOOKSの内沼晋太郎さんは「beの肩書きを考えることって、企業理念を考えることに似ているね」と表現してくれましたが、“自分理念”としての「人生の肩書き」を持つことが、自分らしい人生をデザインする上で大切な軸となるのです。

『beの肩書き: 「人生の肩書き」は、プレゼントしよう』、p15-20より



いかがでしたか? 次回のテーマは「beの肩書きの見つけ方」です。どうぞお楽しみに! 本の詳細&ご購入はこちらからどうぞ◎