日本全国、数ある地方発信型ウェブメディアのなかでも、「森ノオト」の存在を知る人は多いのではないでしょうか。
横浜市青葉区を中心に、横浜北部、田園都市沿線、港北ニュータウンなど徒歩・自転車・車・電車で30分圏内を拠点とする“地元エコ発見メディア”「森ノオト」。Ecology、Organic、Sustainability、Localizationを4つの基本コンセプトに据え、地域のお店情報からイベントレポート、インタビューまで、毎月約20本ものオリジナル記事を配信しています。
取材・執筆を担当しているのは、地域に住む約40名のライターさんたち。それぞれの個性を活かし生活者目線で語られる記事が読者の共感を集め、2009年の創刊から8年目を迎えた今、約3万人もの読者とともに歩むメディアに。イベント運営や紙媒体制作といった受託事業も展開し、NPO法人となってからは4期目にして事業規模1,300万円にまで成長しています。
記事のクオリティや更新頻度にも驚きますが、特筆すべきは、ライター、編集者、事務局など、関わる人のほとんどが地域に住む“お母さん”たちであるということ。ネタ探し、企画立案、編集会議、取材、執筆、校正、編集、公開まで、メディアづくりのすべてのプロセスを、日々子育てに勤しみながら、“子どものとなりで”営んでいるのです。
「森ノオト」を立ち上げ、編集長を務める北原まどかさんも、2歳と8歳の2人の娘さんのとなりで生きる、ひとりの“お母さん”。今回は北原さんに、森ノオトの創刊から現在までのストーリーを聞きました。お話のなかで見えてきたのは、人が育ちあうためのデザイン、そして市民が強い地域社会づくりの秘訣。
「森ノオト」が奏でる、やさしくも凛と響く音色を、森の中を散策するような気持ちで感じてみてください。
山形県出身。2004年より横浜市青葉区青葉台で暮らし、地域新聞記者・エコ住宅雑誌の編集部を経てフリーに。地球温暖化対策専門メディアの取材班、生協の広報、地域情報雑誌の編集など、暮らし・食・子育て・地球環境・エネルギーをテーマに執筆活動を行う。2009年に長女を出産後、地域で仕事をつくり、つなごう!と、『森ノオト』をスタート。東日本大震災を機に足下からのエネルギーシフトを目指す市民団体「あざみ野ぶんぶんプロジェクト」を立ち上げ、活動は市民電力会社「たまプラーザぶんぶん電力」として継続中。著書に『暮らし目線のエネルギーシフト』(コモンズ刊・2012年)がある。
“編集”が私の生き方
「森ノオト」が立ち上がったのは2009年のこと。でもその種となる小さなどんぐりの実は、既に北原さんが小学校の頃に足下に転がっていました。
小学生の頃から変態的に(笑)メディア好きでした。人を取材したりデータを集めたりするのが好きで、友達の好きな色とか、好きな野球選手とか、自分のノートに集めていて。
中学になると、「クラスの誰と誰がデートしてた」みたいな情報を手に入れると拡散せずにはいられなくて。当時は自分をコントロールできなくて、困った少女時代を送ったんです(笑)
高校・大学と進むに連れて、北原さんの取材好きはさらにパワーアップ。先生たちを取材して壁新聞をつくったり、野球部のマネージャーとして、選手一人ひとりのスコアブックを贈ったりする行動からは、“編集者”としての素質も見て取れます。
完全に好きでやっていて、そこに理由はなくて。好きで好きで、そう生きざるを得ないような。編集が生き方、みたいな感じです。
ただ、北原さんに特徴的なのは、編集を施す対象がマスではなくローカルであること。
大学のときのゼミで、日雇い労働者など、社会的に弱い立場にいる個人に寄り添いながら社会的課題を解決していくことに取り組んでいました。卒論も、一人ひとりのインタビューを通して社会を見る“ライフヒストリー”のインタビューだったんです。
そんなこともあって、当時から、いつかは個人という一番ミクロなところから時代を見ていくメディアをやっていこう、と思っていました。
そんな北原さんが自分のメディアを持つことは、時間の問題でした。大学卒業後は、神奈川県内でローカルニュースを発信している「タウンニュース」に就職し、青葉区を中心に2年間に渡り取材・営業活動を展開。雑誌「チルチンびと」の編集者を経て2005年からはフリーランスの環境ライターに。食の安全やエネルギーなどの取材を軸に、全国を飛び回る日々を送ります。
そして2009年1月、女の子の出産を機に、メディアの立ち上げを決意しました。それは、娘さんの未来が決して明るいものではないことを思い知らされたから。
地球温暖化に関する取材を通じて、この子が大人になる頃の社会は本当にまずい状況にあるんだ、地球は存続しても、人類にとってはとても厳しい状況になるんだ、ということに気づきました。
じゃあ、出産した私にできることってなんだろう、って自分の人生の棚卸しをして。そうしたら、やっぱり「ローカル」と「メディア」だ、ローカルメディアを立ち上げよう、って思ったんです。
以前から「地域で何かしよう」と話をしていた地元の工務店の社長さんに直談判した北原さん。金銭的サポートを得ることができ、約6ヶ月の準備期間を経て、2009年11月、「森ノオト」は産声を上げました。このとき、娘さんはまだ0歳。小さな生命のとなりで、北原さんは地域への種を蒔き始めました。
「私なんて」じゃない。
普通のお母さんたちが語るからこそ、面白い。
「やるからには、それなりの記事のストックをしていかないと誰にも見られない」。そう思った北原さんは、スタートしたばかりの「森ノオト」で月20本の記事を配信するというハードルを自らに課します。しかも、取材も編集もすべて、ひとりで。
驚くことに、子育てしながら半年もそれを続けた北原さん。「疲れた」のではなく「飽きた」と感じ始めた頃に、読者がついてくるようになりました。
「森ノオト読んでます」とか、「森ノオトやってる人ですか? 取材してください!」とか声をかけてもらえるようになりました。もともとこの地域はナチュラルな子育てをしている人が多いエリアで、たぶんコアな読者が20人くらいつくようになっていたんですよね。
そんなお母さんたちに話を聞くうちに、「普通のお母さんたちの取材って面白い!」と気づき、今度はお母さんたちに、「森ノオトの記事書いてみない?」と声をかけました。
発信したいものがある人って、自分のやりたいことを伝えるためにたくさんのアンテナを張っているので、好奇心旺盛なんですよね。女性の持つミーハーさとか好奇心をライターとして活かしたら面白いだろうな、と思ったんです。
読者のお母さんたちに加え、北原さんのママ友にも声をかけ、まずはライターとして5人の女性に活躍してもらうことになりました。
でもお母さんたちにメディアでの執筆経験はありません。実際のところ、彼女たちの書く記事を、北原さんはどう読んでいたのでしょうか。
もちろん、最初から上手な文章が書けたわけではありませんでしたが、子どもと一緒に遊びに行った公園のレポートとか、私が書かないレシピなんかも発信できるようになって、記事のバリエーションが一気に増えました。
普通の生活者感覚そのままで描かれた、日常に転がっている面白いものの発見というのが、読者にとって一番共感できるものなんだ、と気づいて。
でも同時に、北原さんはお母さんたちのネガティブな発言が気になるようになります。
みんなが口癖のように「私なんて」って言うんです。「普通の主婦だから何もできない」「子どもが大きくなったらスーパーでレジ打ち」とか。
よくよく聞くと、料理研究家のアシスタントだったり、TVのリポーターだったり、みんなそれぞれすごい経歴を持っていて、多才なんですよ。「“私なんて”じゃないよね、みんなすごいじゃん!」って、一人ひとりに惚れ込んじゃったんですよね。
北原さんが盛り立てることで、ライターのみなさんは、みるみるうちに生き生きと取材活動を始めたそう。文章力も向上し、それぞれにファンもつくようになり、そんな光景に喜びを感じ始めた北原さんに、大きな転機が訪れます。
きっと誰にとっても忘れられないできごと。2011年3月11日、東日本大震災が発生し、原発事故が起こりました。
「お母さん」ではなく「ひとりの女性」として立つ
震災後は、他の地域と同様に、森ノオトが拠点を置く青葉台エリアも大混乱。放射能の不安から仲間が次々と西日本へ避難するなか、実家が山形にある北原さんは、「ここで生きていく」ということについて、改めて考えました。
他にも何人か実家が関東のメンバーがいて、「私たちはここで生きていくよね」って思いを確認しあったときに、自分の地元や地盤が安定していること、揺るがないこと、地域に根ざすことが大事だと改めて実感しました。
仲間の農家さんから野菜やお米を買っていましたし、この地域で生きることを決めた以上、多少の汚染リスクがあるということも含めて、原発のある社会を受け入れていたんだろうな、ということにも気づいて。
「原発が次々につくられていくことに対して関心も持たなかったし、声も挙げなかった。それを許してきたのは私たち自身なんじゃないか」と気づいたとき、北原さんは“ルビコン川を渡る”覚悟をしました。「あざみ野ぶんぶんプロジェクト」を立ち上げ、原発に関する上映会や勉強会、講演などを開き、地域のお母さんたちがエネルギーについて考える機会を次々につくり始めたのです。
それまでは“一編集者”で、情報を発信する“黒子”に徹しようと思っていたんですけど、「そんなこと言ってられない。こんな思いは二度としたくないから、二度と原発が爆発しないような社会をつくる」と覚悟を決めて、戻れない川を渡ってしまったんです。
誰かから批判されるかもしれないし、怖いし、恥ずかしいし、講演なんて今までしたこともなかったんですけどね。
これまでエネルギー関連の取材経験も豊富で、事情に詳しかった北原さん。その活動はお母さん向けのものにとどまらず、『お母さん版エネルギー基本計画』という冊子を作成し、生活者の声を行政に届けようと“大臣まわり”をするにまで至りました。
当時の国家戦略担当大臣は20分も時間を割いて話を聞いてくださった上に、「生活者の方の気持ちがよくわかった。脱原発を閣議決定に持っていきたい」と言い、その週のテレビの討論番組でも話をしてくださいました。
その後解散総選挙になって民主党政権が崩れてしまったんですが、そのときに思ったのは、「私たちがこうありたいと願う社会をつくっていくのは、私たち自身なんだ」ってことでした。
なんでも“おまかせ”の民主主義では社会は変えられない。そう思ったとき、北原さんの心は、再び森ノオトのお母さんたちへと向かいました。
“お母さん”という層は、社会への働きかけをしていくことに対して弱いな、ってずっと感じていたんです。何かに踏み込んで議論するとか、何かを一緒につくっていく、という経験に乏しくて、自分が意見を持つということに対して恐怖さえ抱いている。
でも、森ノオトの取材の場は、お母さんたちの社会参加につながるのでは、と思いました。誰かと会ってきちんと話をして地域とつながっていくことが、「お母さん」じゃなくて「ひとりの女性」として立つことになるのかな、と。
「震災がなかったら、居心地のいいママサークルという感じのメディアで終わっていたかもしれない」と振り返る北原さん。震災後の痛烈な思いが原動力となり、お母さんたちが育ちあう場としての「森ノオト」が芽生え、ここから目覚ましい成長を見せることになります。
“みんなの森ノオト”として歩む
「森ノオト」のメディアとしての立ち位置を見定めた北原さんは、それ以降、編集においても、読者であるお母さんたちが自分で考えるきっかけをつくることに視点を置き始めました。
「こっちがいいですよ」と引っ張るのではなくて、「自分で考える」とか「自分で選ぶ」人を増やすメディアになろう、と編集方針を変えました。
答えは明白です。たとえば原子力発電が持続可能ではなく経済合理性に合わないことは明白なんですけど、それを自分で選ぶための選択肢の紹介を、メディアの専門家として出していこう、と思って。
自分で考えれば、自ずと選ぶことはできます。「自分の軸を持とうね」というメッセージを、常に持つようになりました。
この編集方針の転換によって、当然のことながらライターさん自身も、ものごとの本質を自分で考えるようになりました。創刊当初から、記事にライターの視点を必ず入れるのが森ノオト流記事のかたち。それに加え、「楽しかった」といった感想だけではなくて、「その先に何が見えた?」ということを自らに問い、発信するようになったのです。
そういった「森ノオト」流の編集方針をきちんとライターのみなさんと共有しようと、NPO法人として歩みはじめた2013年からは、「リポーター養成講座(現在のライター養成講座)」を開催し、受講した人だけが、ライターとして活動できる仕組みも整えました。
それまでライターに感覚として書いてもらって私がなんとなくまとめていたものを、初めてきちんと編集方針として伝えたのが、最初の養成講座でした。それまでのライターも全員受講してもらったんです。
2年目の2014年からは、テクニカルなことに加えて、NPOのマインドの共有や、環境講座もプログラムの中に入れることにしたんですね。それによって「今なぜ森ノオトがこういう切り口で発信しているのか?」ということをみんなが理解する土壌が生まれました。年を経るごとに、その濃さや理解度も高まっていることを感じています。
実はこの間、北原さんの次女妊娠・出産とエネルギー会社の設立、NPO設立理事の辞任などが重なり、一人でさまざまなもの抱え込みすぎて「森ノオト」の存続が危機的状況になっていたことを、北原さんは声を震わせながら語ってくださいました。
それでも体制を立て直し、イベント事業など活動範囲を次々と広げ、今や事業規模1,300万円、常勤スタッフ3名、会員100名超のNPO法人にまで成長することができたのは、こうしてマインドをしっかりと共有しながら、成長してきた仲間の存在があったから。
ライターや事務局メンバーの中から、“北原の手伝い”というスタンスではなくて、オーナーシップを持って「自分自身が森ノオトのオーナーのひとりになる」と言ってくれるメンバーが生まれてきたからこそ、今の森ノオトがあります。
あっこちゃん(事務局長の梅原さん)の森ノオト、あゆみちゃん(編集スタッフの梶田さん)の森ノオトがないといけないし、彼女たち一人ひとりが活きる森ノオトをつくっていかなきゃいけない。個人も大切にしながら、同時に森ノオトの共通言語を整えて仕組み化してきたのがこの数年でした。
その“仕組み化”の目的は、森ノオトが「森」になることだそう。
森って、自動更新じゃないですか。これまで、最初の3年で種を撒いて、次の3年で芽が出はじめて、今は間引いたり下草刈りをしながら、森をつくっていて。そして再来年からの3年で、次の人たちがやっていくための土壌をつくり、自動的につながっていくかたちになっていくといいな、って。
人も堆積して積み重なるのではなく、自動更新していく流れをつくりたいです。
自動更新できる仕組みをつくり、一人ひとりがオーナーシップを持つ “みんなの森ノオト”へ。
さらに持続可能で大きな森を育むために、来年度からは、“エコ”で地域に仕事をつくることや、ローカルメディアの横展開をしていく構想も聞かせてくれました。
こうして各地で市民が強い力を持っていくことによって、「弱い立場の人に優しい社会」を思い描く北原さんの目線は、常に未来へと向かっています。
引退したら、ライフヒストリーのルポルタージュをやりたい。ミクロから時代を見ていきたい。それが、私個人の目標です。
小さなどんぐりのような個人を見つめながら、大きな森という地域社会を育み続ける北原さんの“編集”人生は、これからも続いていきます。
子どものとなりで、“メディア”でありたい
最後に、この連載の問いである「子どものとなりで、どうありたい?」を投げかけてみました。驚くほどのバイタリティで編集という生き方を貫いてきた北原さんですが、「子どものとなり」というキーワードで母の顔になったとき、目にはうっすらと光るものが。
長女がね、「ママの仕事好きだよ」って言ってくれるんです。「森ノオトがあってよかった」、「ママ働いていてよかった」って。
彼女は、小さな頃から家庭だけでなく、森ノオトを通じていろいろな大人と関わっているし、すごく友達が多い。きっと、反抗期になったときに親以外の逃げ場がいっぱいあるんです。“地域の子ども”みたいですし、私も“地域のお母さん”だという感覚があって。
だから、私は子どものとなりで…やっぱりメディアでありたい。子どもの世界は親の世界と直結しているので、親が狭いと子どもも狭い世界しか知り得なくなりますよね。私は、子どもにいろんな選択肢を見せたいし、社会には素敵な大人がいっぱいいるんだよ、ってことを伝えたい。
自分の娘に限らず、この地域で生まれた幸せを、いろんな子たちに見せてあげたいな、って思います。
「私、母としては全然、ダメダメなんですけどね」と付け加えて北原さんは笑いました。授業参観日を把握していなかったり、洗濯物がチョモランマみたいに山積みだったり、グズる娘さんをラグビーボールのように脇に抱えて家から連れ出したり…なんて日常のドタバタエピソードも。
でもそこは、持ちつ持たれつ。「とにかくギブすれば自分に返ってくる」と北原さんが言うとおり、メディアは北原さんがしっかりと支える代わりに、PTAなど“お母さん”としての活動は、森ノオトのお母さんたちが率先してフォローしてくれているそう。ここにも小さな森が育まれていて、 “地域の子ども”と“地域のお母さん”たちが育っている様子を感じ取ることができます。
“お母さん”というのは、必ずしも子どものいる女性を指しているのではありません。生活者の総称であって、目線を暮らしと未来に置いている、次の世代のための選択を考えているリアルは“お母さん”だ、と思って使っています。
と北原さん。“お母さん”に限らず、地域に「自分」として立つ大人が増えれば、そのとなりで、子どもたちも自らの力で育っていく。北原さんはローカルメディアをつくり、自らもメディアとして生きることで、市民の力で育ちあい、自動更新していける強い地域社会を育んでいます。
あなたが育みたいのは、どんな未来でしょうか?
それが、自分がこの世からいなくなってもずっと続く「森」になるためには?
そんな視点を携えて、あなたも未来への一歩を、歩みはじめてみませんか。きっとあなたの足下には、これから大きな森へと成長する可能性を秘めた、小さなどんぐりが転がっているのですから。
(撮影:服部希代野)