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「百年の森林」で暮らしをつくる。岡山県西粟倉村で、温泉宿をリノベーションしたローカル起業家、井筒耕平さんと小野裕之対談

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小野裕之(手前)と井筒耕平さん(奥)

この記事は環境省と太陽と星空のサーカスがこの夏、渋谷区神宮前につくり出した仮想都市「COOL CHOICE CITY」の活動の一環として開催された「greenz talk」のイベントレポートです。

最近、「地方創生」や「まちづくり」といったキーワードが注目を浴びています。しかし、実際に効果的なまちづくりが実現できている地域はごくわずかのように感じることも。

そんな中、岡山県西粟倉村は、森林資源の活用を中心として地域経済を回していく「百年の森林構想」を掲げて、着実に実現へと向けて歩みを進めている数少ない地域となっています。

そこで7月23日に開催した「greenz talk!」では、政策的な「地方創生」の話ではなく、もうちょっとリアルな、暮らしに直結した話をお聞きしたいと考え、ゲストに井筒耕平さんをお迎えました。井筒耕平さんは、西粟倉村に移住して「村楽エナジー」というバイオマスエネルギーを活用する会社を立ち上げ、活躍されている方です。

井筒さんは、静岡でサラリーマンを経験した後、エネルギー事業のコンサルタントをしていました。その後、積極的に山の現場に入るようになり、自らチェーンソーで木を切り出し、薪をつくるように。

そして現在は、薪ボイラーを村の施設に導入、自治体と協力して木材を熱エネルギーとして活用する仕組みをつくっています。さらに2015年の4月には、2011年に廃業した「あわくら温泉 元湯」を引き継ぐかたちで、改修、リノベーションを行い、リニューアルオープンさせました。

今回のイベントでは、中山間地で精力的なチャレンジを続ける井筒さんのこれまでの歩みから、お仕事のこと、そして西粟倉村の森についてまで、幅広く伺いながら、私たちの暮らしのあり方を問い直してみたいと思います。

司会は、greenz.jpプロデューサーの小野裕之が担当しました。
 
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井筒耕平(いづつ・こうへい)
「村楽エナジー」株式会社代表取締役
1975年生まれ。博士(環境学)。愛知県岩倉市出身、岡山県西粟倉村在住。専門は、再生可能エネルギーおよび林業に関する実践および調査研究。西粟倉村にて、薪ボイラーのための薪工場の運営、薪/丸太ボイラー導入コーディネートを行い、実践的な木質バイオマス利用を進めると同時に、客観的な視点を持ったコンサルティングやSNS発信を行っている。2015年4月、閉鎖していたあわくら温泉元湯を再生し、開業。6月には林業事業をスタートさせている。

「失われた12年」からの脱出

小野 まずは、井筒さんのこれまで、そして岡山県に移住するまでのいきさつについて教えてください。

井筒さん 僕は、共産党員の家庭で育ちました。だから、幼少期からずっと活動的なことに参加してきました。

そんな親への漠然とした反発や受験勉強への不安もあって、いわゆる「幸せな家庭」とか「安定した職業について普通に暮らしたい」という、漠然とした幸福への渇望を持つようになっていったんです。

ただ、「社会のために役に立ちなさい」という親の教えは常に心のどこかにあり、それを今、実行しているようなところもあるので、単なる反発心だけではなかったような気もしますが。

大学を出てからは、静岡の会社に就職したのですが、しばらく働くうちに、一度きりの人生でこのまま過ごしていていいのかな? と思い悩むようになりました。

あとはサラリーマン時代に部長や課長の姿を見て、自分はいずれこうなるのかと、人生の先が見えちゃったようになって面白くないんです。「先の見える不安感」というのでしょうか。もっともっと楽しめる人生を生きたいなと強く感じたことが、「失われた12年」から脱出するきっかけとなりました。
 
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会場は満席に

コンサルタントから森の現場へ

井筒さん 僕は学生時代、スキーやサーフィンばかりやっていたので、自然環境にお世話になっていたという思いがありました。そこに恩返しがしたかったので、名古屋大学大学院の環境学研究科に入り直したんです。

僕の先生は、「地球は温暖化と言われているけれど、10万年周期で見ると地球は温暖になったり氷河期を迎えたりする。だから、気候変動問題も短期的な視野ではなく、長期的な視野で見なければならない」と語るような人でした。

大学院を卒業した後、東京にある「環境エネルギー政策研究所(ISEP)」というNGOでインターンをします。

このNGOは自然エネルギーを普及させるために、政策提言とか、国際会議のコーディネートとか、いろいろなことをやっているところですが、国会議員や日本各地の県会議員などと距離がずっと近くなって、刺激的な毎日でした。そういう経験はすごく重要だったと思います。 
 
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当日は息子の風太くん(右)も登場

井筒さん そのあと、ISEPともつながりのある岡山県の「備前グリーンエネルギー」という、省エネコンサルタント会社で働きました。このとき岡山県に初めて住むようになります。当時30歳ですから、岡山県に来てもうすぐ10年ですね。

ここでは自治体と一緒にエネルギービジョンなどをつくるコンサルタントの仕事をしていましたが、大抵はビジョンを作成して提出して終わりという流れだったので、「これだけでは社会は変わらないな」と感じました。

もちろんその先で活用してくれる所もあるのですが、計画に携わった自分自身がコミットしないことがなんとも歯がゆかったのです。もちろん、コンサルという仕事は必要です。

たとえば、僕は今、自分の村(西粟倉村)でエネルギー事業をする傍ら、他の地域のコンサルもしています。でも自分が住んでいる村を客観的に捉えるのは難しい部分があって、自分の村のコンサルはできないんですね。

客観的に意見を言ってくれる存在は大切です。ただ自分はもっと現場に入って自分で手がけていきたいと考えました。それで総務省がやっている「地域おこし協力隊」に応募して、美作市の上山地区という所で活動することになりました。

なぜ林業の現場に飛び込んだのか?

小野 コンサルタントをしていた井筒さんが、協力隊に応募して森林の現場に入ろうと思った理由は何だったんですか? ちょっと唐突な気もしますが。
 
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greenz.jpプロデューサーの小野裕之

井筒さん そこはシンプルに、現場に入りたかったんです。独立するにしても、木の伐り方も分からない状態だったので修行ですね。岡山を選んだのは偶然です。

小野 僕は美作にいるときから井筒さんを知っていますが、当時はエネルギーに特化した活動ではなかったですよね? 美作では地域おこし協力隊としてどんなことをしていたのでしょうか?

井筒さん 地域おこし協力隊は、農山村に入って地域の仕事をするのですが、3年間は国から給料が出るという仕組みになっているんですね。

僕が美作市で3年間何をしていたかというと、荒れた棚田の再生と林業を手がけました。僕がいた上山集落というところには、8300枚の田んぼがあって、美しい棚田で有名な米どころでした。

でも農業者が高齢化して、人口減少もあって耕作放棄地になって、ひどい状態で放置されていたんです。もう棚田だったことがわからないほど、草というか笹が伸び放題になっていましたから。

だから棚田の再生というのは、とにかく草刈りなんですね。「夏は守りの草刈り、冬は攻めの草刈り」と言うんですが、夏はとにかく生えて来る草をこれ以上広がらないように刈っていくイメージです。逆に冬は草が生えませんから、高さが3メートルくらいの固い笹を叩いて燃やしていって、埋もれた棚田を取り戻すようなことをしました。
 
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美作の美しい棚田は、地域おこし協力隊が中心となって蘇らせた

井筒さん そして、僕はずっとバイオマスエネルギーが専門だったんです。バイオマスを日本で成功させるためには、林業を再生させない限りできないことがわかっていました。

ヨーロッパでは林業が盛んだからそれと連動してバイオマスが盛んになっている。日本は林業を見ずにバイオマスだけやろうとしているのはおかしい、と言っていたんです。でも林業は儲からない産業だから、若者がやりたがらない。じゃあ、自分でやってみようと思ったのです。どういう苦労があって、どういう収入があってということを学ぶためです。

林業をやっている人の収入は、ひとつは切った木を売ること、もうひとつは補助金です。たとえばユンボウを操作して山の中に草や木を運ぶための道をつくると、林野庁から補助金が出る仕組みになっています。僕も400メートルくらいつくりましたね。まさか自分が日本の国土に道をつくることになるとは思いませんでしたが(笑)
 
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耕耘機で畑を耕す(美作)

井筒さん 日本では戦後に高く売れると思って杉や檜をたくさん植えたのですが、安い外材が入ってきたことで誰も切らなくなってしまいました。

すでにそれから50〜60年経って、切り時の木がたくさん茂っているのですが、伝統的な林業地以外は道もないということで、インフラがまるでできていないんです。つまり日本の林業というのは木を育ててきましたが、切る仕組みをつくってこなかった。だから一生懸命道をつくり出したのはここ10年くらいだと思います。

林業はまだこれからの産業なんですね。戦後の最盛期には50万人が林業で働いていましたが、現在は約6万人しかいません。しかもそれが高齢化しています。僕は実際にやってみて、多くの人がやった方がいいなって思いました。その林業の活性化があって、はじめてバイオマス事業が成り立つということです。

西粟倉村で薪ボイラーを導入

小野 その後、どういうきっかけで西粟倉でエネルギーのことをやるようになったのでしょうか?

井筒さん きっかけは美作にいるときから西粟倉でバイオマスをやりたいんだという話がきて、コンサルをしていたんです。

西粟倉村は人口1525人の村で、面積の95%が森林です。まず村として「環境モデル都市」「バイオマス産業都市」に国から指定されています。それから「百年の森林構想」という計画をつくりました。

こういう「全体としてこういうふうにしていこう」というマスタープランは、県はつくるけど、普通は自治体レベルではつくらないんです。でも西粟倉村の場合はそれをつくり、ほぼすべての職員が山の利用の仕方についてはその方向に向いている。
 
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伐採した材木から薪をつくる

井筒さん 林業をやる場合は、基本的に良い木、つまり高く売れる木を出したい。なぜなら同じ作業をしても、価格が違うからです。それで、その時に建材などには使えない悪い木も出て来ます。

2013年以前は、ものすごく安くなってしまう紙の原料として出すしかないという状況だったのですが、それをエネルギーに利用しようという話が出てきました。薪ボイラーを温泉施設に入れようという話もその流れから持ち上がります。そのタイミングでちょうど僕が美作を離れようとしていたときだったので、思惑が一致したんですね。

小野 そこからはどうでした?

井筒さん 薪ボイラーは村の予算で入れていることもあって、当初の計画通りに進んでいます。去年は1カ所に入れて、今年は元湯を含めて2カ所、2年間で3カ所ですね。
 
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薪を置いておく薪ラック

みんなが集まれる場ができた

小野 ここで、今、井筒さんが西粟倉を拠点に展開している事業を教えてください。

井筒さん 西粟倉で僕がやっている事業は主に3つです。「村楽エナジー」には6人のスタッフがいます。まずひとつ目は温泉に熱供給をする事業です。

これは薪割り機を使って、薪をつくっている様子です。その薪を、温泉旅館などに導入した薪ボイラーで燃やして、熱供給を行います。燃料費が年間1000万円くらいかかっていたとすると700万円くらいになりますから、この仕組みは絶対に得します。

小野 みなさんもスーパー銭湯を経営する機会があったら導入してください(笑)
 
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薪ボイラーに薪を投入する「村楽エナジー」のスタッフ

井筒さん 2つ目の事業として、先ほども言ったようにコンサルの仕事を他の自治体でやっています。そして3つ目の事業として、今年の4月から温泉旅館の経営をはじめました。

ここは3年くらい誰も経営していなかった温泉旅館でした。ある時期までは自治会が宿直制にして交代で村の人たちが運営していたのですが、みんな高齢者だからきつくてやめてしまったんです。そこで僕らがやってみようと村長に言ったら、どうぞということになりました。
 
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井筒さんが経営する温泉旅館

小野 温泉旅館の元湯は、奥さんが主導しているんですよね? なぜ温泉旅館の経営をされようと思ったのでしょうか?

井筒さん いくつか理由があります。ひとつは、コンサルや熱供給事業とは違ったキャッシュの入り方をする事業をやろうと思っていました。収入も薪事業より大きいですし。

それから、エネルギーのことだけやっている「薪ボイラーおじさん」だったらマニアックだから一般の方には広まりません。でも温泉があればみんな興味を持って来てくれるじゃないですか。 

小野 温泉経営が始まって現在4ヶ月だそうですが、難しさはあるでしょうか?

井筒さん 場を持つと、気軽に外に出ることができないというのが一番大変ですね。宿泊の方がいると、朝の6時半くらいからご飯をつくって、夜11時頃まで仕事がある。一日やっていると結構ぼーっとしてきます。

もちろん良いこともあって、現在村の移住者は70名くらいなのですが、「みんなが集まれる場が今まではなかったので、それができたことがうれしい」と言ってもらえました。

小野 計画通りにはいっていますか?

井筒さん そうですね。今言った通り日々はすごく忙しいのですが、すでに営業は軌道に乗っています。これからもこんな感じで続いていくんでしょうね。
 
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温泉旅館は村人の憩いの場でもある

モノをつくらない事業のやり方がある

井筒さん バイオマス事業で何を体現したかったかというと、地方でモノをつくらない事業のやり方があるんだということなんです。

これまで西粟倉村は、地域資源を使って家具をつくるなどして外貨を稼いできました。でも温泉旅館などが出てきたことで、従来のモノをつくって外に売るという流れだけではなく、お客さんに来てもらって外貨を稼ぐという流れが出てきました。またもうひとつ別の流れとして、資金を外に出さないビジネスも出て来ています。

僕も含めてここ数年で若い移住者が増え、エネルギー供給もそうですし、移住者にデザインを頼むとか、その人たちが村にいることでお金を外に出さずに村内で回していくという流れです。

「村楽エナジー」も、熱供給事業に代表されるように、地域の中で仕事をつくるということを目指して活動しています。行政からしたらそういうことはやって欲しいと思っていたことなので、移住者である僕たちを信頼してくれている。生い立ちから、現在の西粟倉村での活動までざっとお話しするとこのような感じですね。
 
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兼業林家を増やしたい

小野 それでは、会場からも質問をとってみましょう。

質問者 今まで林業のなかった地域で、そんなに木を切って山から木がなくなるようなことはないのでしょうか?

井筒さん 村の山の成長量と比べて、林業に必要な量はとても少ないので、当面の間は木が足りなくなる心配はまったくありません。計画としては、4年後くらいに「地域熱供給」システムを導入したいと思っています。

これは、村役場とか道の駅とか小学校などがあるエリアの地下にお湯が流れるパイプを埋めて、暖房や給湯に利用するというものです。それをきちんとやろうとすると、今の10倍くらいの木が必要となります。

でも、村の林業にそれだけの材を出す能力が今の所ありません。だからもっと林業に携わる人口をもっと増やしていきたいと思っています。これは西粟倉村だけではなく、日本全国同じような状況です。

日本に林業家がたくさんいた昭和30年代には、50万人くらいが関わっていたことはさきほども言いましたが、そのほとんどは兼業林家でした。林業の他に、農業とかモノづくりとか、いろいろやっていたのです。

僕が増やしていきたいと思っているのは、そういう兼業林家ですね。林業は兼業でもできる仕事だからです。そしてそれは確実に収入になります。もちろん、合う人と合わない人はいると思います。

僕自身は種を育ててじっくり大きくする農業より、誰かが育てた木を倒して運ぶ林業の方が性に合っていました。確かに体力的にはめっちゃしんどいので、毎日やろうと思ってもなかなかできません。

でも山は逃げていくわけじゃないから、しんどかったらやらない日があってもいいんです。だから兼業くらいの方がいい。そうした兼業林家が増えることが、日本のエネルギー問題も変えていくのではと思っています。
 
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兼業林家は必要があれば何でもこなす。写真は猪狩りの様子

小野 今日は井筒さんの子どもの頃の話から、エネルギーの話から林業の話にまで行き着きました。みなさんも機会があれば西粟倉村を訪れてみてください。どうもありがとうございました。

井筒さん ありがとうございました。
 

(対談ここまで)

 
コンサルタントから森に入って、薪ボイラー導入に奮闘する井筒さんのお話はいかがでしたでしょうか?

衰退が著しいと言われる林業の新しい見方や、バイオマスエネルギーの広げ方について、今まで誰もやっていなかったような方法で切り開いている井筒さん。彼がモチベーションを高める理由のひとつには、「日本では監督やコーチは多いけれど、プレーヤーが足りない」と言われていたことがあります。

「だったら自分がやってやろうじゃないかと」という思いでチャレンジを始めた井筒さんは、「林業はお金にならない」と言われているものの、むしろそんなときだからこそベンチャーの可能性があると考えています。彼のように、現場に思い切って飛び込んでみることで新しい世界が開けてくるのかもしれません。

これからは兼業林家という新しい林業のカタチや、地域でお金を回す仕組みに注目してみてはどうでしょうか?

(Text: 高橋真樹) 
 
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高橋真樹(たかはし・まさき)
ノンフィクションライター、放送大学非常勤講師。世界70カ国をめぐり、持続可能な社会をめざして取材を続けている。このごろは地域で取り組む自然エネルギーをテーマに全国各地を取材。雑誌やWEBサイトのほか、全国ご当地電力リポート(主催・エネ経会議)でも執筆を続けている。著書に『観光コースでないハワイ〜楽園のもうひとつの姿』(高文研)、『自然エネルギー革命をはじめよう〜地域でつくるみんなの電力』、『親子でつくる自然エネルギー工作(4巻シリーズ)』(以上、大月書店)、『ご当地電力はじめました!』(岩波ジュニア新書)など多数。
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