チャリティーマッチで来場者がつくった1.17の文字。©阪神・淡路大震災20年 1.17チャリティーマッチ実行委員会
阪神・淡路大震災から20年を迎えた1月17日、ノエビアスタジアム神戸で開催されたチャリティーマッチには、24,000人を超える観客が集まりました。
神戸をホームタウンとするプロサッカークラブであるヴィッセル神戸のOB、現役選手を中心とした「KOBE DREAMS」と、中田英寿さんや名波浩さんなど元日本代表選手を中心とした「JAPAN STARS」が対戦し、90分間の熱く楽しいプレーでファンを魅了しました。
写真左が吉田さん。カズさんの得点をアシストした直後。©阪神・淡路大震災20年 1.17チャリティーマッチ実行委員会
「KOBE DREAMS」として出場したカズこと三浦知良選手の2点目をアシストしたのは、このチャリティーマッチの発起人で、2013年までヴィッセル神戸のFWとして活躍した吉田孝行さん。
現役を引退しチームのアンバサダーに就任した1年前から、チャリティーマッチの実現に向け動いてきました。
今年は震災から20年になり、神戸のサッカークラブとして「私たちは忘れていない」という想いを伝え、メッセージを発信することに意味があるのではないかと、今回のチャリティーマッチを企画しました。
一人ひとりに直接電話して想いを伝えたところ、スケジュールの都合がついた人はみんな参加したいと言ってくれたのがうれしかったですね。
1977年生まれ。兵庫県川西市出身。神戸市在住。滝川第二高校を卒業後、1995年にJリーグの横浜フリューゲルスに入団しプロデビュー。その後横浜Fマリノス、大分トリニータを経て、2008年よりヴィッセル神戸加入。2013年に現役を引退し、アンバサダーに就任。2015年よりトップチームコーチ。
ヴィッセル神戸のチーム始動日に起きた震災
吉田さんは震災当時、高校サッカーの強豪・滝川第二高校の3年生でした。震災の日をこう振り返ります。
震災が起きた日は、冬の全国選手権も終わり川西市の自宅に戻っていました。朝方、大きな揺れに吹き飛ばされたのを覚えています。
幸い僕の周りに被害は少なかったのですが、サッカー部の寮に残っている友達のことが心配でした。でも、当時は携帯電話もなく停電も起きていたので連絡の取りようがありません。
それでも何とか学校まで行こうとしたのですが、電車も止まっていて結局行けませんでしたね。
Jリーグの横浜フリューゲルス(当時)に入団が決まっていた吉田さんは、神戸のことが気になりながらも2月には関西を離れることになりました。
横浜では義援金集めやチャリティーイベントがクラブ主導で開催され、日本全体が神戸のことを応援してくれているのを感じたそうです。
川西市の実家から歩いて5分のところに仮設住宅ができていました。関西での試合やオフに実家に戻るたびにそのそばを通っていたので、街並みはだんだん元に戻っていっても、復興にはまだまだなんだと思いましたね。仮設住宅はかなり長い間そこにありましたから。
実は、1995年の1月17日はヴィッセル神戸がプロのサッカークラブとして新しい船出を迎えるはずの日でした。チーム始動日、練習の初日に震災が起き、しばらくは活動がままならない日々が続きました。
スポンサーも被災し、市内での練習場も使えず、臨時で岡山の倉敷市に仮の練習場を確保。神戸市民24万人の署名で誕生したチームは、存続すら危ぶまれることになったのです。
神戸で練習ができるようになってからも、被災地の練習場を転々とする日々が続きました。
1995年被災直後のチーム練習の様子。近くに仮設住宅があった。©VISSEL KOBE
実家が被災した元ヴィッセル神戸の永島昭浩さんは、「神戸を勇気づけたい」という想いから1995年に清水エスパルスから神戸に移籍。
チームは結束し、翌年のJリーグ昇格が神戸のまちを元気づけました。この20年はクラブにとっても、神戸のまち、市民と共に歴史を積み上げた20年なのです。
僕は横浜のチームにいたので、当時のことは永島さんや和田さんなど在籍されていた先輩選手からうかがいました。練習場の横にも仮設住宅があって、ボールが飛び込んでしまうこともよくあったそうです。
そんなときにも被災された方から「頑張ってや」と逆に応援していただいて、それが力になって、翌年には悲願のJリーグ昇格を果たすことができました。僕が神戸に移籍した2008年も、チーム始動日は1月17日でしたね。全員で黙とうしたのを覚えています。
ヴィッセル神戸というクラブの土台には確かに「震災の記憶」があります。
チャリティーマッチのプログラムも、日本、神戸、そしてヴィッセル神戸の歴史を重ね合わせた構成になっていました。当時を知る人は自分自身の20年を思い返し、知らない人は改めて当時の様子を知ることができるようにと。
『しあわせ運べるように』と『神戸讃歌』2つの歌の絆
この試合が始まる前、そして終了後に歌われた2つの歌があったことはご存じでしょうか。一つは『しあわせ運べるように』、もう一つは『神戸讃歌』という歌です。
『しあわせ運べるように』は震災から2週間後につくられ「復興のシンボル」として神戸市の小学校を中心にして歌い継がれてきた歌です。チャリティーマッチ当日は、西灘小学校の子どもたち106人がピッチ前で合唱しました。
また『神戸讃歌』は、震災をきっかけにヴィッセル神戸のサポーターにより「愛の讃歌」の歌詞を変えたかたちで生まれた歌です。
こちらもヴィッセル神戸のホームゲームで2005年から歌い継がれてきた歌です。試合終了後、「KOBE DREAMS」のゴールの前でスタンドの皆さんと一緒に歌われました。
『しあわせ運べるように』は、これまで僕が震災関連のイベントに参加したときにも歌ったことがありましたし、神戸の子どもなら誰でも歌える歌でしたから、震災のことを忘れない気持ちをみんなと発信するためにもスタジアムで歌いたいと思っていました。
『神戸讃歌』は、サポーターがつくってくれた歌です。そして神戸のまちを愛する気持ちをつないできた歌です。
サポーターの方から歌わせてほしいと申し入れがあり、両チームの選手も快く了承してくれたので、皆さんと一緒に肩を組んで歌うことができました。どちらもこの先何十年、何百年と歌い継がれてほしいですね。
試合前には子どもたちと一緒に「しあわせ運べるように」を合唱 ©阪神・淡路大震災20年 1.17チャリティーマッチ実行委員会
『神戸讃歌』
俺達の この街に
お前が生まれたあの日
どんなことがあっても
忘れはしない
共に傷つき
共に立ち上がり
これからもずっと
歩んでゆこう
美しき港町
俺達は守りたい
命ある限り
神戸を愛したい
『神戸讃歌』は、今ではクラブとサポーターそしてまちをつなぐアイデンティティになっています。「歌い継ぐことは、震災を伝え続けること」。
それは、ヴィッセルサポーターの使命だと語る人も少なくありません。こうしたスポーツを通じた地域への愛着がコミュニティを育み、人と人の絆を深めてもいます。
「神戸讃歌」をスタジアムのみなさんとともに歌う「KOBE DREAMS」 ©阪神・淡路大震災20年 1.17チャリティーマッチ実行委員会
神戸の企業と一緒に叶えたチャリティーマッチ
吉田さんには、今回の協賛企業・団体になっていただいた企業の皆さんにも特別な想いがありました。
神戸新聞社さんは震災で社屋が倒壊しましたし、ほかにも大きな被害を受けたところもあります。
今回のチャリティーマッチは、そうした神戸の企業さんの力で実現することができました。それぞれの企業が復興を果たし、こうしてイベントを協賛していただけるまで元気になったことをうれしく思います。
また、チャリティーマッチのチケットを購入していただいた皆さんの力で開催できたことを忘れてはいけないとも。
24,000人以上の方にチケットを買っていただきました。その皆さんが楽しんで満足して帰っていただけるよう僕らは本気でプレーしました。
良いプレーで魅せることで勇気を与えることができますし、誰もが幸せな気持ちになれます。今日こうしてサッカーができること、サッカー観戦を楽しめることに感謝する気持ちを持ってもらえたのではないかと思います。
その楽しむ気持ちや感謝の気持ちが防災意識につながっていけばという想いでさまざまなイベントも実施しました。
試合前には、選手が模擬訓練を実施した映像を放映したのち、来場者全員で訓練を行う「シェイクアウト訓練」がメインスタンド側で行われました。
また、神戸新聞社による「震災写真展」も実施されたほか、神戸市内の6大学に在学する40名の学生で構成された「117KOBEぼうさい委員会」によるPR活動など、ピッチ外でも気づきにあふれた1日となりました。
©阪神・淡路大震災20年 1.17チャリティーマッチ実行委員会
©阪神・淡路大震災20年 1.17チャリティーマッチ実行委員会
We never forget 1.17 〜祈りをこめて〜
そして2011年3月11日。阪神・淡路のような大きな地震は二度と起きてほしくないという願いは届かず、東日本大震災が発生しました。
Jリーグのなかでもいち早くアクションを起こしたのがヴィッセル神戸でした。Jリーグが中断するなかで、さまざまなチャリティーや支援活動が次から次へとたち上がりました。
日本のサッカーにプロリーグができて20年あまり、サポーターやクラブのつながりは全国に広がり、試合でのライバル関係を超えた助け合いの心が生まれています。
東日本大震災や広島の土砂災害のときも、サポーターやクラブが支援するアクションをたくさん起こしています。
サッカーというスポーツを中心にして広がった助け合いは、海外のクラブでもありますが、ここまで全国的にどのクラブにも広がっているのは日本が誇りにしてもいい、スポーツ文化のひとつだと思っています。
最後に吉田さんは、震災当時の自分と今の自分を比べてこう語ってくれました。
まだ高校生で若かったから、サッカーのプレーにしても、自分のことばかり考えてしまっていましたよね。それは、どうしてもあると思います。
でも年齢を重ねると、チーム全体のことを考えるようになりました。同じように、今、神戸や東北で起きたことにどう向き合っていいかわからない人も、時間がたつうちに社会のなかでの関わり方が見えてくるときが、きっとくると思います。
もしかすると、吉田さんにとっては今回のチャリティーマッチがその向き合い方を、はっきりと見つけた機会だったのかも知れません。
震災を土台に強くなってきたサッカークラブが神戸のまちにある限り、震災の経験値や記憶は語り継がれていくことでしょう。「We never forget 1.17 〜祈りをこめて〜」と題されたチャリティーマッチのメッセージは、これからもずっと続いていきます。
神戸に生まれたサッカークラブと共に、神戸のまちと共に。
そして私たち一人ひとりと共に。