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無力さに泣いたあの日から20年。神戸のブランディングを手がける「ルリコプランニング」星加ルリコさんに聞く、”地元のための仕事”のつくり方

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「震災10年 神戸からの発信」の一環として行われた「133days cafe」

特集「震災20年 神戸からのメッセージ」は、2015年1月17日に阪神・淡路大震災から20年を経過し、震災を体験した市民、そして体験していない市民へのインタビューを通して、「震災を経験した神戸だからこそできること」を広く発信していく、神戸市、issue+design、デザインクリエイティブセンター神戸(KIITO)との共同企画です。

1995年1月17日火曜日。星加ルリコさんは、東京での大学生活の1年目。学期末に提出するレポートの準備に追われ、徹夜明けの朝を迎えていたそうです。

早朝6時、友達からの電話が鳴りました。

「ルリコの家のあたり、震源地だと思うよ」。

慌ててテレビをつけると、兵庫県の地図が映し出されており、実家のある神戸市垂水区に震源地の「×」印が重なっています。目の前が真っ暗になった瞬間でした。

数週間後、神戸に戻った星加さんは、三宮から長田のまちを歩きました。

まちが壊れてしまったこともショックでしたが、それ以上に「自分はこの事態に対して何もできない。あまりにも無力だ」ということが情けなくて涙が止まりませんでした。

だから、決めたんです。「私は、神戸のために何かできる人間になろう。そのために、いつか力をつけて神戸に戻って来よう」と。

それから約10年がたち、大きく成長した星加さんは、自分との約束を守り神戸に戻ってきました。
 
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星加ルリコ(ほしかるりこ)
1975年生まれ。神戸市垂水区で育ち、18〜27歳までを東京で過ごし、現在は灘区在住。阪神・淡路大震災発生当時は、武蔵野美術大学彫刻学科の1年生だった。大学卒業後は、東京の都市計画コンサルタント事務所にて、ニュータウンの企画、セールスプロモーション、PRツールデザインを手がける。2004年、神戸にてRURIKO PLANNNINGを設立。2008年「デザイン都市・神戸」申請書作成を担当、認定に貢献する。

神戸をブランディングする仕事

星加さんは現在、企画・デザイン会社「ルリコプランニング」の代表。アートディレクターとして、店舗プロデュースや商品開発、イベント企画などのほか、神戸のまちに関わる仕事も多く手がけています。

ルリコプランニングの代表的な仕事のひとつは、神戸市に依頼されたユネスコ創造都市ネットワークのデザイン都市の申請書作成です。
 
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ユネスコ創造都市ネットワーク認定により作成したロゴマーク。「創造都市ネットワーク日本」ウェブサイトより。

当初、行政の方たちは、都市の造成や震災復興などに力点を置いてアピールしてしまっていたんです。

そこで私たちは、「神戸は開港以来どんなふうにデザイン都市であり続けてきたのか」に注目して、そこに関わった「人」にスポットを当てる申請書を練り上げていきました。

「神戸はデザイン都市として世界に対してどんなお役立ちができるのか」を発信しないと、ユネスコ側にも認定する意味がないと思ったんです。

星加さんの戦略はみごとに功を奏しました。2008年、神戸はアジアで初めて、世界で4都市目となるデザイン都市に認定されたのです。

星加さんが、神戸に戻ってから約6年後のことでした。

自分の無力さが情けなくて泣いたあの日

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学生時代の星加さん

高校生のころから「とにかく色々なまちに住んでみたい!」と思っていた星加さんは、東京の武蔵野美術大学彫刻学科に入学。アーティストを志す大学生活を送っていました。

阪神・淡路大震災が起きた日は、同じく上京していた姉と電話で話したそうです。

ニュースを見ながら、「きっと自宅は倒壊しただろうし、両親がどうなっているかもわからない」と思いました。

その日は夕方まで実家と連絡がつかなかったので、「大学を辞めて、神戸に帰らなければいけない」と姉と話し合っていました。

しかし、幸いにも星加さんのご両親は無事。一部倒壊したご実家も予想したほどの被害はありませんでした。

「帰ってくるのは、期末試験が終わってからにしなさい」という両親の言葉に従い、星加さんは数週間後を待って神戸に戻りました。

いったい何が起きたのか、自分の目で確かめたい。そう考えた星加さんは、実家に帰る前にまず被災した神戸のまちを歩いてみました。

社会人であれば、まちに対してできることがあったと思います。あるいは、関西にいればせめてボランティアに参加することもできますが、私は親に仕送りをしてもらっている状態で、東京での学業を放り出して帰ってくるわけにもいかない。

自分があまりに無力だったからこそ、「いつか必ず神戸のために何かできる人間になろう」と、強く思ったのだと思います。

それからの星加さんは、「神戸に帰ったときに何ができるか」を常に意識するようになりました。大学での作品制作においても、震災時に見た映像、自らが感じた衝撃やまちの復興を彫刻で表現するようになります。

しかし、「自分自身の表現と社会を結びつけることができなければ、神戸に帰っても何もできない」と考え、思い切って就職活動をはじめます。その後、都市計画設計の会社に就職し、住宅地の企画とプロモーションの仕事をしました。

まちづくりの仕事なら、何か接点があるかもしれないと思ったんです。震災がなければ、そのままアーティストを目指していたかもしれませんね。

都市計画に学んだ「暮らしのデザイン」という視点

都市計画の仕事をしていたころ、星加さんは上司から「暮らしをデザインしなさい」とよく言われたそうです。

たとえば、北欧の家に憧れる人は、「北欧の家」ではなく「北欧の暮らし」をほしいと思っている。だからこそ家や住宅ではなく、「暮らしをデザインする」視点を持つようにと教えられたのです。
 
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都市計画設計の会社に勤めていたころの星加さん

その当時、星加さんが担当した仕事に、茨城県龍ケ崎のニュータウンで展開した「ユアーズ倶楽部」という先進的な住宅地プロジェクトがあります。

「ユアーズ倶楽部」では、「北欧木造住宅」「古民家再生住宅」など、4つのテーマを決めて住民を募集したんです。

さらに、まちのどこに道路を通すのか、宅地の分譲からオーダーメイドで決められる企画で、話題になりましたね。広告費用がない中で、先進的なことをしてメディアに取り上げてもらう戦略です。

「北欧」「古民家」というキーワードで集まってきた人たちは、お互いに気が合うのでまちづくりもスムーズだったそう。まさに「暮らしをデザインする」ことで成功した事例です。

星加さんは、神戸で仕事をする今も、この視点を大切にしています。

1週間予定の帰省から、まさかの起業!

その後2002年、星加さんはステップアップのために退職。転職活動の合間を縫って神戸に戻り、都市計画の仕事をしている人たちへのヒアリングを行いました。

折しも、震災から10年が過ぎようとしているタイミング。星加さんは、主に都市計画関連の企業の人たちを対象に「10年前のまちの状況はどうだったのか。あなたは何をして、物理的・精神的な復興をしましたか?」を聴くことにしました。

一週間かけて一日二人ずつくらいお会いして、いろいろな話を聴きました。

「神戸こそ、最先端の住宅が密集している」と言われることが多く、都市計画においては、神戸はすごく特別な場所なんですよね。ところが私は、神戸のことを何も知らないまま東京に出てしまっていたことに気づきました。

最初は「また東京に戻って、8年くらいは働こう」と考えていた星加さんですが、ヒアリングに行くと「この人にも話を聴くといいよ」と次のヒアリング先を紹介されます。そして、一週間、また一週間と、東京へ帰る予定がどんどん先延ばしになっていったのです。

そして、そのまま半年後。ヒアリングで知り合った住宅設計の会社に、「ここに席を置いて仕事するといいよ」と言われ、ついに星加さんは企画会社を起業します。

女性が起業するときって、成り行きまかせというか。「え、私にできるかな?」と思いながら、周囲に「できるよ」「えー?」みたいな感じが多い気がしますね。私自身もハングリー精神はなかったんです。

「震災10年 神戸からの発信」の一環として行われた「133days cafe」の仕事が舞い込んだのは、それから間もなくのことでした。

神戸のための初仕事は「133days cafe」

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星加さんが手がけた133days cafe「CREATORS KOBE 衣・食・自由」

震災から10年経った2005年に、メリケンパークを会場とした「タイムズ メリケン~神戸からの発信館~」というイベントの中で、133日間にわたって開催された「133days cafe」。

震災から復興した過程で磨きをかけた、神戸の洋服や家具、靴などを紹介する「神戸の技」、神戸の洋菓子店20店による「KOBE洋菓子セレクション」など、神戸の生活文化を発信する中で、星加さんは神戸のクリエイターたちのオリジナル商品を販売する「CREATORS KOBE 衣・食・自由」を担当します。

会社をシェアしていた仲間が、神戸市から「133days cafe」のブースデザインを依頼されたんですね。「星加さんは、企画とプロモーションができるからやらない?」と誘われて、ふたつ返事で引き受けました。

神戸のために何かしたかったし、しかも震災に関する発信事業だったからめちゃくちゃうれしくて。

まるで、神戸のまちから「おかえり!」と迎え入れられたかのようなご縁でしたが、「採算度外視で引き受けてしまった」ため、自分のお給料は約一年半はナシ。

スタッフのお給料を支払うために、カードローンに駆け込むことさえあったそうです。

ただ、「133days cafe」は、行政の仕事で日々いろんな人に出会えるので、人脈ができます。だから、「儲からなくてもいい、これは種まきだ」と考えていました。

それに「これでダメなら東京に戻ってもいい」とも思っていたんです。

その結果、「133days cafe」をきっかけに星加さんはさまざまな仕事のオファーを受けるようになり、ルリコプランニングは軌道に乗っていくのです。

ちなみに星加さんは以前、先輩から「神戸のような地方のマーケットでは、一流の仕事はできない」と言われていたそう。トップを目指すなら、神戸に帰るなんて都落ちに他ならない、と。

ところが、今は「むしろ神戸のほうが独立・起業するクリエイターにチャンスがある」と感じています。

27、28歳で独立や起業する人が多いそうですが、それはちょうど「転職しようか、結婚しようか」と、人生に迷う時期でもありますよね。その年頃の若くて優秀な人たちが、神戸にたくさん戻ってきてくれたらいいと思います。

東京であれば大手代理店に流れるような仕事も、神戸でならフリーランスや個人事務所で受注できます。事務所の維持費や生活コストも東京に比べれば安く、何よりも海や山が近くて環境もいい。空港も、新幹線もあるので東京との往復にも好都合なのです。

「東京と行き来しながら仕事をするクリエイターが増えて、観光から農業までもっとデザインされればいい」と星加さんは考えているのです。

神戸だから実現できた「毎日が日曜日!」

起業してから10年。今の星加さんの肩書きには、「神戸商工会議所デザイン都市推進委員会」副委員長、「デザインクリエイティブセンターKOBE」検討委員、「港都 神戸」グランドデザイン検討委員会、六甲・摩耶活性委員会などがズラリと並んでいます。

いずれも、神戸全体のブランディングに関わる仕事。まさに19歳の星加さんが夢見ていたことがかなったのです。

今は「毎日が日曜日!」で、めっちゃ楽しいです。この10年間、仕事に行きたくないと思ったことはまずないですね。

人生は一回きりだから、週末を待つような人生だけはイヤ。このまちに帰ってきたからこそ「Every day’s Sunday!」って言えるんです。

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六甲・摩耶活性化プロジェクト、月一回のワーキングのようす。中央の大きな紙には「六甲・摩耶 私はこれができるかも?」と参加者のアイデアが書かれている

最後に、星加さんに「これから神戸でやりたいこと」を聞いてみると、こんな答えが帰ってきました。

私の起業コンセプトは、神戸、そして日本のいいものを世界に発信すること。世界中から神戸のいいものを見にきてもらいたいですね。今、まさにそれができているのが神戸ビーフの仕事です。

神戸ビーフは、畜産技術の高い日本の農家にしかつくれません。世界中の人が「これがいいね」と思ってくれたら絶対に売れるはず。そう思っていただけるようにするのが私たちの仕事です。

星加さんは、「誰もが自分でやらなければいけない」という状況だった震災当時は、「みんながプレイヤーだった」と振り返ります。

そして今こそあのときのように、神戸のまちで暮らす人たちが「プレイヤー」として活躍できるような方程式が必要だと考えています。

たとえば、生活産業の分野の商品開発で、市民の声を聴く神戸ならではのシステムを企画すること。
あるいは、福祉・教育や観光など、まだデザインの介入が少ない分野にデザインの力を活かすこと。

暮らしづくりにクリエイターがプレイヤーとして参加すれば、まちはよりいっそう活性化していくはずです。震災とデザイン。神戸の未来をつくるのは、意外なキーワードの組み合わせなのかもしれません。