病気やけがをして入院するのは大人でもつらいもの。小さな子どもであれば、家族のそばを離れることすら不安です。また、子ども同士のふれあいが少ない入院生活が長くなると、大人の医療スタッフに囲まれた“ケアを受ける専門家”になってしまいます。
そこにやってくるのが、赤い鼻をつけてハーモニカを吹き鳴らし、カラフルな衣装でおどけて登場する「クリニクラウン(臨床道化師)」です。
クリニクラウンは、遊びとユーモアを通して病棟の子どもたちの成長や発達をサポートする専門家。子どもがあきれるくらいに無邪気さと“子どもっぽさ”で、子どもたちをどんどん遊びに引き込んでいきます。
今回ご紹介する熊谷恵利子さんは、「NPO法人日本クリニクラウン協会」が認定したクリニクラウン一期生のひとり。近年、少しずつ認知度が高まっているクリニクラウンの活動について、熊谷さん自身の経験を交えながらお話いただきました。
1975年生まれ。甲南女子大学在籍中にパントマイムに出会い、フジイオサム氏に師事しパントマイム劇団「北斗七星」に入団。退団後は女性3人のユニットやソロで公演活動を続ける。2005年、NPO法人日本クリニクラウン協会主催の第一期オーディションに合格。養成課程を経て2006年3月クリニクラウンに認定される。2009年より同協会の事務局スタッフを兼務。現在は、事務局長補佐として協会の組織基盤を強化するために奔走している。
オランダから伝来!? 「クリニクラウン」とは
「クリニクラウン」は、「クリニック(clinic, 病院)」と「クラウン(clown, 道化師)」を合わせた造語。その源流となったのは、映画『パッチ・アダムス(1998年)』のモデルにもなった、ハンター・アダムス医師の活動だとされています。
1980年代には、ニューヨーク「ビッグアップルサーカス」のマイケル・クリステンセンによる「クラウンドクター(Clown Doctor)」養成が始まります。
やがて、その活動はヨーロッパやオーストラリアへと拡大。オランダでは小児を対象としたクリニクラウンへと発展し、1992年には国民の寄付によりクリニクラウン財団が設立されます。
8〜9割の小児医療施設に訪問するクリニクラウンは、オランダでは国民に愛される存在。「日本にもクリニクラウンを」と大阪のオランダ総領事館のスタッフがその活動を紹介したことで、2005年にNPO法人日本クリニクラウン協会の設立に至りました。
クリニクラウンのシンボルは赤い鼻。「ノーズ・オン(nose on)」でクリニクラウンへと変身します
“小さな患者”に子どもらしい時間を届ける
クリニクラウンたちはどんなふうに病棟の子どもたちを訪ねていくのでしょうか? 熊谷さんにお話を伺ってみましょう。
(1)準備と病棟打ち合わせ
医療スタッフとの事前カンファレンス(打ち合わせ)のようす
クリニクラウンは、控室に入ると遊びに使用する道具や衣装の消毒を実施。感染の媒介者にならないよう細心の注意を払います。
そして、医療スタッフと打ち合わせを行い、その日訪問する部屋の確認、感染予防マスク着用の有無、治療の状況や遊びへの積極性などを把握。病棟訪問時に携帯する病棟の地図に書き込みます。
事前に子どもの状況を把握はするものの、熊谷さんは「あくまで“今この瞬間”の子どもたちと関わることが大切」だと言います。
事前にいただく情報を心に留めながら、その情報に左右されないように気をつけます。
すごく楽しみにしていたのに、たまたま直前に何かあって泣いていることもあれば、「今日は体調が悪いので会えるかどうかわからない」と言われていたのに、とってもしんどいのにすごく楽しみに待っていてくれたり。自分が会ってみた時の感覚を大切にしながら関わるようにしています。
(2)病棟訪問
クリニクラウンは、子どもたちを一つの場所に集めてパフォーマンスを「見せる」のではなく、一人ひとりの子どもを訪問して遊びを提案。
また、子どもたちにクリニクラウン同士のやりとりを通して、人と関わる楽しさを体験してもらうために、必ず二人一組で活動します。
クリニクラウンが現れると、子どもたちはどんな反応を見せるのでしょうか。
初めてクリニクラウンを見た子どもたちはいろんな表情をうかべてくれます。点滴台をガラガラガラッと持って追いかけてきてくれたり、時にはクリニクラウンにいたずらしようとしたり。
驚かせようと目を「キラーン!」と輝かせたり、ビックリして目をまんまるにしていたり。いろんな表情を見せてくれるのは、すごく大切な時間なのかなと思います。
最初は怖がっていたのに、他の部屋に行くとそっと着いてくる子。遊んでいるうちに、みるみる笑顔にあふれてくる子。短い時間のやりとりのなかでもどんどん変化していく子どもたちに、熊谷さんは「子どもの力強さを感じる」と言います。
(3)訪問後カンファレンス
病棟に持ち込む衣装や道具はすべて、訪問前後に消毒。「持ち込まない、持ち出さない」を徹底します
クリニクラウンは、子どもたちとの関わりを通してキャッチした子どもたちの変化を、訪問の最後に医療スタッフと共有します。感染の持ち出しを防ぐために、衣装や道具をすべて消毒して病棟を後にします。
お母さんの後ろに隠れながらも、じっと見ている子どももいます。お母さんは、子どもにギュッとしがみつかれて「頼られてうれしい」と思うこともあるようです。
あるいは、お母さんの様子をみて「笑っているから大丈夫」と安心して、子どもがもっといろんな感情表現をしてくれることもあります。
お母さんと子どもが一緒に笑う姿を見て、スタッフの方たちも「最近、ふさぎ込み気味だったお母さんが笑う姿をひさしぶりに見た」と、ホッとして元気になってくれたりする。そういうきっかけをつくるのもクリニクラウンの役割なのかなと思います。
子どもの“身体の表情”を見る
現在、日本クリニクラウン協会で認定を受けたクリニクラウンは18名。全国で34の病院を訪問し、年間約260回の病院訪問を行い、1万人近くの子どもたちと関わっています。
クリニクラウンとして認定されるには、オーディション合格後に協会が主催する養成トレーニングや病院での実習という養成課程を経て、認定試験にパスする必要があります。
養成課程では、表現力のみならず入院中の子どもたちや家族の心理や、病院で活動する上での衛生の知識、病院規則などを学び、トレーナーの指導のもとでクリニクラウン研修生として病院で実習を行います。
病室を訪問するときも入室や退出のときの消毒は欠かせません
クリニクラウンには、ジャグリングやダンスなどは必須ではありません。技術は強みにはなりますが、練習すればある程度の技術は身につきます。
それよりも、顔の表情や動きを感じ取って状況を判断し、そのうえで自分の意志や気持ちを伝えられるかどうかがという部分の方が重要であり、とても難しいことだと思います。
クリニクラウンは、子どもの発言や行動に反応して遊びを変えていきます。主役は、クリニクラウンではなく子どもたち。子どもの“身体の表情”を受けとめながら、言葉ではなく、子どもの身体全体を受けとめながら関わります。
「自分が関わったことで遊びが変わって行くほうが、子どもは『今、ここにいる!』と実感できる」と熊谷さんは言います。
なかには、長期入院によるストレスで暴力的に言葉を吐いたり、叩いたりする子もいますが、クリニクラウンは丁寧に気持ちをほぐしていきます。
クリニクラウンがどこまで真剣に関わろうとしているのか、子どもたちは案外試している部分もあると思います。
だからこそ「君と遊びたい。君に会いたい」という気持ちを、言葉だけでなくいろんな形で発信していきます。クリニクラウンが心をオープンにその子どもと向き合うと、子どもたちにも伝わるのだと思います。
だから、「また、来たのか!」とワーッと言われても「来たよ、来たよ! ちょっと遊ぼうと思って」「やだ!」「えーっ? お願いしますよ」とやりとりして。すると、だんだんその子どもの子どもらしい側面が出て来たりもするんです。
それを見て、周囲のその子に対する見方が変わり、見方が変われば自然と関わり方も変わってくることもあります。そうやって病棟の雰囲気を和らげていけたらいいなぁと思います。
病棟には、ターミナル期で身体を動かすことさえままならない子もいます。でも、クリニクラウンが来たら「遊ぶ」と言って少しずつ身体を起こし、一緒に楽しい時間を過ごすことも。
後日、「ひさしぶりに笑顔を見れてうれしいと家族が言っていた」と医療スタッフが伝えてくれたこともあるそうです。
どんなにしんどいときでも人に関わりたい気持ちが子どもたちにはあります。私自身、人が好き、人と関わりたいという思いは、病院の子どもたちから教えてもらったかもしれません。
胸に残る「入院中の父がつぶやいた言葉」
熊谷さんが、クリニクラウンになるきっかけのひとつは、6年間に渡ってがんと闘病して亡くなったお父さんの言葉。入院していても明るく前向きだったお父さんは、あるとき院内感染で個室に隔離されることになったそうです。
個室では誰にも会えないし、話す相手もいない。あんなに前向きだった父がものすごく沈み込んでしまって。
「お父さん、誰も来ない部屋で白い壁ばっかり見てたら気が狂いそうやわ」ってぼそっと言ったんです。その瞬間、何も言えなくて息を飲んだ自分のこと、言ったときの父の姿の映像が、いつまでも鮮明に残りました。
当時、熊谷さんは学生時代からはじめたパントマイムの活動をしながら、生活のためのアルバイトのなかで、子どもの人権問題にかかわる活動に携わっていました。
パントマイムの公演で舞台に立つ熊谷さん
パントマイムも好き。子どもの人権関係の仕事もやりがいがある。どちらも中途半端だと感じていたけれど、「自分の可能性や創造力を信じてほしい、自分を好きになってほしい」ということを伝えたいんだと思いました。
その経験は、クリニクラウンになろうとした根底にもあったと思います。
お父さんを亡くしてから3年後、熊谷さんはお母さんに新聞を手渡されました。「あなたがやりたいのは、これじゃないの?」。それは「病床の子に笑いを」の見出しでクリニクラウンを紹介し、オランダ総領事館が開催する講演会情報が掲載した記事。さっそく、熊谷さんは講演会に参加することにしました。
クリニクラウンのオランダでの活動について話を聞きながら、熊谷さんはお父さんがつぶやいた「白い壁ばかり見ていたら気が狂いそうや」という言葉を思い出していたそうです。
「子どもだったらもっとつらいだろう。親に心配をかけないようにと、甘えられなかったり弱音を吐けなかったりすることもあるのではないか?」。熊谷さんは、クリニクラウンのオーディションへの応募を決めました。
自分の仕事や生き方に悩んでいた時に、ある人に「アイデンティティは一本の綱」だと言われてどこか納得できたんです。
一本に見える綱も、たくさんの小さな綱が編み込まれて大きな綱になっている。職業という枠にとらわれずに考えると、今までやってきたことすべてがつながっていて、ぶれているようで、ぶれていなかったんだと今は思っています。
パントマイム、子どもの人権問題、子どもに伝えたかった思い。熊谷さんの人生のさまざまな経験は、クリニクラウンという一本の道へと導くものだったのかもしれません。
旅立ち前の女の子から届いた手紙
熊谷さんは、今までに一度だけクリニクラウンを辞めようと思ったことがあります。それは、クリニクラウンになって2年目のことでした。
ターミナル(終末期)の子に一番最後に会うクリニクラウンは、果たして自分で良かったのかと悩んだんです。
他のメンバーなら、もっと違う遊びができたかもしれない。もっと違うことを家族に提案できたかもしれない。
喜んでもらえたとしても、果たしてそれが本当にどうだったのか答えはありません。「もう無理だ!」と思ってしまったんです。
「辞めるのではなく休む」選択をして、一か月間もんもんと考え続けた熊谷さんは、やがてハッと気がついたそうです。「私は、まだ何もできていない。クリニクラウンの活動を通して教えてもらったことをまだ返せていないのではないか」。
そう思うと、「子どもたちに会える機会がもらえるなら、今の自分にできる精一杯のことをやろう」と思い直せたそうです。
誰かにやらされているわけではない。自分が選んでいるから、自分が大切だと思っているからこの仕事をやっている。
できないこともたくさんある。でも今できる精一杯をやっていこう。その姿勢が今の自分の糧になっています。
その後、熊谷さんは事務局スタッフとして運営に関わるようになり、2012年からはクリニクラウンとしての病棟訪問から遠ざかることになりました。クリニクラウンの現場を経験している熊谷さんだからこそ、運営をサポートしてくれる企業や個人への説得力のある説明ができると期待されたのです。
でも、クリニクラウンとして子どもたちに会うのが大好きな熊谷さんにとって、現場を離れるのはつらいことでもありました。そんなある日、ひさしぶりの病棟訪問で、熊谷さんは中学生の女の子から手紙を手渡されます。
退屈でつらいこともある入院生活で、クリニクラウンが来てくれてどれだけ嬉しかったか。一緒に遊ぶのがどんなに楽しみだったか。
「もっともっと、クリニクラウンがいろんな病院に行けたらいいな」「活動を日本中に広めてほしい」と応援の言葉が丁寧な文字で綴られていました。
現場だけではクリニクラウンの活動を広げることはできない。事務局の仕事はすごく大切なものなんだと、その子が代表して言ってくれたと思えたんですよね。
「退院します」と書いてありましたが、数ヶ月後にお母さんから「旅立ちました」とメールが届きました。亡くなったという知らせを聞いたとき、熊谷さんは楽しそうに遊んでいた女の子の姿ばかりが浮かんできたそうです。
今でも、熊谷さんは、辛いときにはいつもこの手紙を読み直して励まされ続けています。「一人でも多くの子どもたちに、クリニクラウンが会いに行けるようにがんばろう」と。
「子どもが幸せな社会」は大人も幸せになれる
実はこの春、熊谷さんは3年ぶりにクリニクラウンとして復帰する予定です。
ひさしぶりの現場は、「楽しみでもあり、怖くもあり。でも、これもまたいい経験になります」と熊谷さん。クリニクラウン一期生として、常に後輩たちの前に立つ気持ちがあるからです。
後輩たちには「長くクリニクラウンを続けてほしい」と伝えています。続けるためにいろんな方法があるから考えたらいいよって。悩んだり、休んだりすることもまた自分の糧になりますから。
子どもと関わるなかで「何ができるか」を考えるのがクリニクラウン。今できていないことばかりを見て前に進めなくなるのはクリニクラウンらしくないと思うんです。「遊び心を持って、できるためにどうしたらいいか」を考えるのが大事じゃないかな。
クリニクラウンの仕事を愛し、また全国へとこの活動を広げたいと願っている熊谷さんは、この社会の未来にどんなビジョンを抱いているのでしょうか?
子どもが幸せな社会は、大人も幸せな社会だと思います。
大きな目で見ればいろんな課題に取り組む団体がそれぞれに活躍して、少しづつ社会全体が良くなって行くのではないでしょうか。それが私にとっては、クリニクラウンという分野なのです。
社会全体で考えるとクリニクラウンの活動は小さな支援活動かもしれないですが、社会全体が少しよくなる一歩につながっていると思います。そして、すぐそばにいる身近な人とニコッと笑顔を贈り合うことから、ほんの少し何かが変わっていくのではないかと思います。
今のあなたは、「子どもが幸せな社会」をつくるための、どの分野でどんな仕事をしていますか?
「子どもが幸せな社会」にするためには、ほんとうにたくさんの仕事が山積みになっています。
医療、福祉、教育など直接子どもに関わる仕事ではなくても、自分の手元の向こう側に子どもの笑顔があるなら、それは「子どもが幸せな社会」につながる仕事ではないかと思うのです。