ヴィッセル神戸の練習場に招待され、選手と一緒にサッカーに挑戦した宮城と神戸の子どもたち
東日本大震災から4年。あなたの目に、今の被災地はどのように映りますか?
目に見える復興は進んでも、被災した子ども達の心の傷は今もなお癒えぬまま。最近になり、東北では不登校の子どもが増加するなど、子どもを取りまく状況が心配されています。
そんな被災地の子ども達に元気を与えようと、2012年にスタートしたのが「未来の宝 夢と希望と絆の架け橋プロジェクト」。毎年夏休みに、宮城の子ども達を神戸に招き、神戸の子ども達と数日間交流し、未来まで続く絆を育む取り組みです。
このプロジェクトを立ち上げたのは、神戸市内を中心に数店舗を展開する美容室経営者であり、美容師でもある「日本美容福祉協会」代表・西山博資さん。
西山さんは、どのようなきっかけで宮城県と関わりを持ち、なぜ「子ども同士」の交流にこだわったのでしょうか。
その原点は、20年前に起きた阪神・淡路大震災で、西山さん自身が被災した経験にありました。
神戸市内を中心に美容室を数店舗展開する有限会社アールアンドエス企画代表取締役・NPO法人日本美容福祉協会理事長。1995年、阪神大震災で神戸市兵庫区・長田区の店舗が全壊・半壊の被害に遭う。震災1週間後から地域の被災者向けに無料シャンプーを提供。その後、災害の起きた各地へ出向きボランティアシャンプー・カットを行うように。東日本大地震の被災地でボランティアを行った後、2012年にNPO法人日本美容福祉協会を立ち上げ、宮城の小学生を神戸に招く「未来の宝 夢と希望と絆の架け橋プロジェクト」をスタート。
阪神・淡路大震災の1週間後、半壊の店舗で始めた無料シャンプー
1995年1月、阪神大震災が起きたとき、西山さんは、神戸市兵庫区と長田区で3つの美容室を経営していました。
兵庫区・長田区は「被災六区」と呼ばれた神戸市内でも特に被害が大きかった地域。西山さんのお店や従業員寮はすべて全壊・半壊の被害に遭いました。
お店をすべて失ってしまった西山さんでしたが、幸いにも従業員は全員無事。
がれきだらけの街で「何か自分たちにできることはないか」と考えていたところ、建物が傾いて半壊状態の店舗で、ストックのシャンプーを利用することを思いつきました。水道も電気も止まっていたため、多くの被災者はシャンプーができず、灰やがれきの埃で髪が汚れたままになっていたのです。
シャンプーに必要な温水を確保するために、西山さんはあちこちを駆け回りました。井戸を持っていた近所のお店に水の提供をお願いし、車で長時間かけて京都まで出向き、水を温めるためのガス機器やポリバケツなどを大量に購入。
そして、震災から1週間後、半壊状態の西山さんのお店のシャンプー台で、無料シャンプーの提供が始まりました。
無料シャンプー情報は被災者の間でまたたく間に広まり、1日100人もの人が訪れるほどの盛況ぶりでした。西山さんはこのとき、災害時に美容師が被災者のためにできることは何か、身をもって体感したのです。
あらゆる被災地でのボランティアカット、三宅島の少年との出会い。
お店を新築し、再スタートを切った西山さんでしたが、再開の3年後となる2000年、神戸市兵庫区を襲った湊川水害で床下浸水の被害を受けます。再び店舗を失い、どん底の気持ちを味わっていたとき、北海道・有珠山噴火が発生します。
居ても立ってもいられない気持ちになった西山さんは、美容師仲間たちに呼びかけて被災地へ。現地の避難所でシャンプーやカットを無料で提供し、阪神・淡路大震災のとき同様、大勢の被災者を元気づけることができました。
同時に西山さん自身も、「必要とされている」という実感とともに、生きる手応えを感じたそうです。
一方、同年に起きた三宅島噴火では、現地へ駆けつけられなかった西山さん。歯がゆい思いをしていたそのとき、当時小学生だった息子さんが学校でもらってきたプリントで「笑顔のお返しプロジェクト」と出会います。
2000年・有珠山噴火の避難所で行ったボランティアカット
「笑顔のお返しプロジェクト」は、全国で災害に遭った子ども達を神戸に招き、神戸の子ども達と交流をはかり、阪神大震災の時に全国からもらった笑顔をお返して元気になってもらおう、というもの。学校で配られたプリントは、三宅島の子ども達を神戸に招くにあたり、ホストファミリーを募集するものでした。
西山さんは「三宅島の子ども達のために何かできるなら!」と即座に応募。みごと抽選に当たり、避難中のひとりの少年を数日間受け入れることになりました。
息子と同じくらいの年齢で、今も2人は連絡を取り合っているんですよ。就職が決まった時も連絡してきてくれて。彼は今、「日本丸」という客船に乗っていて、神戸に寄港するときは僕たち家族と一緒に食事をすることもあります。
彼のホストファミリーをしたことは、自分が「子ども」にこだわる大きなきっかけだったのかなと思っています。
子ども達は、成長してからもこうして関係が続いて、地域と地域を結ぶ架け橋になってくれるんですよね。何かが起きたときに遠くから駆けつけられるような関わりを、築くことの大切さを知りました。
「子どもたちは未来に続く架け橋になってくれる」という気づきは、その後の西山さんの活動に影響を及ぼすことになります。
東日本大震災の避難所で出会った、宮城の純粋な子どもたち
神戸でも揺れを観測した2011年3月11日、東日本大震災のニュース映像は、阪神・淡路大震災をまざまざと思い出せるものでした。
「同じくらい悲惨なことが起きている」と感じた西山さんは、さっそく翌日、車にシャンプーやガスボンベ、バケツ、水などを大量に積んで、現地に向かいました。
しかし、福島で美容師仲間に会うことはできたものの、そこから先に進める状態ではなく、泣く泣く神戸へ引き返すことに。結局、ボランティアカットの活動を始められたのは、3度目の訪問となった4月末ごろ。宮城県の塩竈市や東松島市の避難所で活動しました。
桂島の避難所でのボランティアカット。家長であるおじいちゃんから順番に、カットは行われました
そんな中、西山さんは「松島湾の島に取り残されている人がいる」という情報を聞きます。船着き場が壊れて出入りが難しい状況の中、松島湾の浦戸諸島・桂島へなんとか機器や物資を運び、避難所となっていた浦戸第2小学校・中学校でのボランティアを始めました。
ここで西山さんは地元の人々と接し、強烈な印象を受けたのだそうです。
被災した状況下であっても、避難所では秩序がぴしっと整っていたんです。子ども達は、僕たちが避難所に着くなり、自ら進んでお手伝いをしてくれました。
シャンプーの順番も、まずはおじいちゃんから、次におばあちゃん、お父さん、子ども、最後にお母さん。誰もそのことに疑問を抱かず、きちんと順番を守るのです。
子ども達も津波の被害で悲惨な光景を見てきたんですよ。それでもひたむきにルールを守って行動する彼らと過ごしていたら、この子たちのために何かしてあげたい思いが湧いてきたんでしょうね。ほとんどその場の勢いで、「今度、僕が君たちを神戸に招待してやる!」と言ったんです。
そうしたら子ども達の目がキラキラと輝いてね、「本当に!?」「ヤッター!」と、とても喜んでくれて。
純粋な彼らを目の前に、「これは、何としてでも実現をしなくては」と思ったんです。約束を守るために、その後は本当にいろんな人を頼り、必死で考えました。
こうして、いよいよ始まった「未来の宝 夢と希望と絆の架け橋プロジェクト」。とはいえ、思いつくままに交わした口約束からの出発であり、実現までの道のりは決して簡単なものではありませんでした。
避難所で一緒に過ごした、浦戸第2小学校中学校の当時の校長先生に、宮城県や塩竈市の教育委員会などとの交渉を頼み、西山さんは運営面の整備と、資金調達のためのあらゆる策を練ります。
そして、自らが代表となり、美容師仲間数人とNPO法人「日本美容福祉協会」を設立。街頭での募金活動や企業へのスポンサー営業を行う傍ら、老人ホームなどの福祉施設へ出向き出張サロンを行い、その代金を全額、プロジェクトの資金にするという仕組みをつくったのです。
ただ「遊ぶ」だけではない、未来につながる子ども達の交流
その後「未来の宝 夢と希望と絆の架け橋プロジェクト」は多くの人の共感を得て、募金や寄付金、スポンサーも集まりました。そして、2012年8月、ついに第一回「未来の宝 夢と希望と絆の架け橋プロジェクト」が実現します。
事前に、西山さんは兵庫県立甲北高校ボランティア部の学生達と綿密な打ち合わせを行い、親元を離れてやってくる子ども達との行動プランを練りました
宮城からやって来たのは、西山さんと約束を交わした宮城県浦戸諸島の子ども達を中心に、一般公募で選ばれた小学5・6年生の30名。
神戸では、阪神・淡路大震災の震源地・淡路島の小学生10名と、兵庫県立甲北高校のボランティア部の学生15名が彼らを迎えました。
西山さんは、ただ楽しく交流を深めるだけではなく、お互いの地域で起きた災害のこと、神戸が20年でここまで復興できたこと、普段からできる防災のことなど、あらゆることを学び、思いを共有する5日間のプログラムを考えました。
そうすることでより強い絆が生まれ、地域と地域の「架け橋」として将来も助け合える関係を築いてもらうことが大切な目的だったのです。
2012年、宿泊施設にて。全員が同じ宿泊施設に滞在し、すっかり打ち解けて仲良しに
阪神・淡路大震災の犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑モニュメントを見学し「亡くなった人が『忘れないで』と言っているみたい。宮城にもつくるべきだ」と感じる子、阪神・淡路大震災当時の映像を見て「今の神戸からは想像できない。宮城も早く復興したい」と地元の復興に前向きな気持ちを持つ子…。
西山さんは、宮城の子ども達の心に、希望の光が灯るのを感じました。
神戸市・東遊園地で「慰霊と復興のモニュメント」を見学。後日のアンケートには「小さい火だけれど燃え続けていて勇気をもらいました」とのコメントも
淡路島の北淡震災記念公園では、阪神・淡路大震災で出現した野島断層を見学。本物の断層を見ながら、地震について学びました
一方、神戸の子ども達は、20年前の阪神・淡路大震災のことをほとんど知らない世代。
自分たちの住む街が過去に甚大な被害を受けたことを知り、東北の被災した子ども達のリアルな体験を聞くことで、災害について考える機会となりました。
中には「神戸で大きな地震があったことを初めて知り、びっくりした」と言う県外から転校してきた子も。阪神・淡路大震災の体験を次の世代に伝承する機会にもなりました。
阪神・淡路大震災の被害の様子を写真で勉強。神戸の子ども達は、自分たちのよく知る街が大きな被害を受けたことを知る機会にもなりました
多くの人に賛同してもらい、ずっと続けていくことが目標。
子ども達が帰宅してから、西山さんのもとには宮城の子ども達からたくさんのお手紙が届きました。
お母さんからのお礼も多く、「興奮して帰ってきて、神戸のお話ばかりしています」というようなうれしい内容ばかり。確かな手応えを感じた西山さんですが、「みんなの関心が東北に向いている今だけでなく、5年後も10年後も続けていきたい」と強く思っています。
高校生ボランティアの募金活動に、ヴィッセル神戸の選手も協力をしてくれました
西山さんの熱い思いは各企業にも伝わり、2014年には過去最多の企業がスポンサーとなりました。大阪ガスのガスエネルギー館に招待され、環境やエネルギーについて学んだり、株式会社アシックスの宿泊施設に泊まったり、JALの飛行機で移動をしたり、ヴィッセル神戸の選手とサッカーにチャレンジしたりと、子ども達の5日間はさらに充実したものとなりました。
大阪ガスのガスエネルギー館に招待され、環境やエネルギーについて学びました
JALからの協力で往路は飛行機に。機材の見学もしました。帰り道は、神戸と宮城の遠い距離を体感してもらうために、バスで移動しました
すべてのスポンサーロゴがプリントされたTシャツに、全員が感謝の思いを書き、各企業へプレゼントしました
今後は他の東北支援プロジェクトとの連携も考えている西山さん。
夢は、今参加している子ども達が成長し、将来プロジェクトの運営を担ってくれること。最初の年の高校生ボランティアの子たちは、そろそろ就職活動が始まる頃。プロジェクトの運営側に彼らが参加する日も、そんなに遠くはないかもしれません。
現在、構想しているのは、震災で犠牲になった子ども達のための「青い鯉のぼりプロジェクト」との連携。傷んで使えなくなってしまった鯉のぼりの生地を活用して何かできないかと考えています
子ども達に書いてもらったアンケートには、神戸で感じたさまざまな思いが綴られていました
取材の際、西山さんが大事に保管している子ども達のアンケートやお手紙を見せてもらいました。子ども達が綴った言葉を読ませてもらうと、彼らが神戸での体験から得た元気や勇気、うれしい思いがひしひしと伝わってきました。
それと同時に生まれたのが、「この子達のために私も何かお手伝いをしたい!」という思い。
「青いこいのぼり」の生地活用で、何か協力できないかとお話したところ、西山さんは「どんなささいなことでも、共感して動いてもらえることがうれしい」と何度も話していました。
東北の子ども達は震災から数年経った今の方が問題を抱えていて。今、不登校の子どもが全国で一番増えているのが、実は宮城県。震災が原因で家庭環境が変わり、心に闇を持つ子どもが増加しているのです。
僕は、このプロジェクトを一人でも多くの人に知ってもらい、協力をしてほしい。子ども同士の絆は、将来まで続きます。
もし、お互いの街で災害が起きたとき、「あの子の街を助けよう」と地域同士の架け橋となってくれるはず。日本の防災につながるのです。地震の経験を風化させず伝えていくためにも、ずっと続けていきたいと思っています。
私のように西山さんのお話を聞いて共感する人が増えたり、参加した子ども達が大人になり、中心となって協力の輪を広げたりすることで、架け橋の支えがますます強固なものになっていきそうな予感。
西山さんの熱い思いと相まって、今後の充実がとっても楽しみなプロジェクトです。