「スタジオ・カタリスト」が再生させた古民家を活用し、地域の憩い場として機能している喫茶店「初駒(はつこま)」。自然と集うおばちゃま方に囲まれながら話しをしてくださった角野さん(一番右)
神戸市長田区駒ヶ林。「路地のまち」と呼ばれるほど路地が入り組んでいて、昔ながらの民家が数多く残る下町です。
その一角の古民家に事務所を構えるのが「スタヂオ・カタリスト」。建築設計はもちろんのこと、都市計画、景観、さらにはワークショップ・イベント企画・運営なども手がける地域の建築設計事務所です。
「まちづくり屋」のごとく、神戸のまちを駆け回っているのが「スタヂオ・カタリスト」の角野史和さん。
過疎化が進む農村部のまちづくりでも、海辺の防災まちづくりでも、都市部の景観まちづくりでも、オールドニュータウンの持続化へ向けたまちづくりでも、それぞれの地域に関わる人たちを尊重し、意見を聞いて、その人たちのやる気を促す。
そうやって新しいつながりや関係性を生み出して、自発的な変化を促すのが「スタヂオ・カタリスト」のスタイルです。もちろん建築でも、それに関わる人たちの参加のプロセスを必ず設けます。
建築まちづくりからお隣のおばあちゃんの庭の草刈りまでこなす角野さんの、阪神・淡路大震災にまつわるストーリーを振り返りたいと思います。
1980年宝塚市生まれ。加古川市で育ち、現在は神戸市在住。中学3年生のときに加古川市の自宅で阪神・淡路大震災に遭う。兵庫県立兵庫工業高校建築科から広島工業大学へ進学。大学在学中から象設計集団、いるか設計集団を訪ね、地域密着思想を学び、卒業後神戸の地に戻り、建築設計事務所フリーダムにて建築設計の経験を重ねる。2007年より有限会社スタヂオ・カタリストのスタッフとして神戸のまちづくりに携わる。建築から企画、編集業までその業務は多岐に渡る。
神戸のまちが壊れていくのを目の当たりにして
20年前のあの日あの朝、角野さんは加古川市の中学3年生。経験したことのない強い揺れで目を覚ましました。加古川市は震度5から4だったため、自宅周辺には大きな被害はなく普段通りに学校へ登校したそうです。
しかし、神戸市をはじめとした甚大な被害状況がみるみる明らかになり、学校は休校に。「これはただごとではない」と帰宅した角野さんは、ニュースで神戸のまちの被害を知ることになります。
確かに揺れはすごかったけど、大震災であるという自覚はありませんでした。友だちが「200人ぐらい死傷者出てるで」と言っているのを聞いても、嘘だと思っていたほど。でも、家に帰ってテレビを見たらホンマやった。
長田が燃えている様子や、高速道路が倒壊している様子を目の当たりにしました。これはかなり大変なことになっているな、と子ども心に感じました。
角野さんが建築士を目指して受験勉強をしていたまさにそのときに起こった大震災。最初は建物が潰れ壊れていく映像を、ただただ家で見ているしかできませんでした。
「ボランティアに行かなければ」と思ったんですけど、親に止められました。今思えば、子どもですから受験勉強からの逃避みたいなところもあった気もするんですけど(笑)
神戸のまちが壊れていくのを目の当たりにして、何かしなきゃいけない、とあのとき、確かに刻み込まれました。
その後、角野さんは和田岬にある兵庫工業高校建築科へ進学。高校周辺は震災の爪痕が色濃く残り、テレビでみた光景そのままの状態で、駅から高校への通学路にも、倒壊して2階が1階になってしまったマンションが残っていました。
そんな状態が高校1年生の夏まで続いたそう。ブルーシートで覆われたまちは、角野少年の目前で復興を遂げていきます。
震災以前の暮らしの痕跡がまったくなくなって
広島工業大学で学んだ角野さんは、2002年建築士として神戸のまちへ戻ります。もちろん、専門は建築ですが、現在は「暮らしと共にある建築」や「建築の周りにある環境」を大事にしたいと、まちづくりに関わる仕事を多く担当しています。
その根底にはやはり、阪神・淡路大震災の影響がありました。
嫁さんのお母さんが神戸市須磨区の下町長屋に昔住んでいて。嫁さんにとっても不思議な、まちでの遊びの思い出が詰まった土地でした。あそこは特に甚大な被害に遭った場所で、まちがほとんど焼けてしまった場所だったんです。
そして、震災から復興したのち、まちを見渡すと、震災以前の暮らしの痕跡がまったくなくなってしまっていた。横にいた嫁さんは寂しげで、ふたりして心の拠り所が消えてしまったような、なんとも言えない悲しさをおぼえました。
まちづくりに関わっている身としては、より安全な方向にまちが変化するのはええと思うんですが、全く無に還ってしまうような変化はちょっとつらい。
だから僕は、「痕跡さえあれば拠り所になる。暮らしている人の想いがまちに残って、それが継承されていくんがええな」と感じたんです。
神戸は復興が早かった、と一般的に言われています。たしかに、まちはつくり直されて綺麗になりましたが、人々が残した暮らしの痕跡は永遠に取り返せません。角野さんはそれがひどく寂しいことだと感じていたのです。
震災の教訓から、防災に対してとても意識の高いまちになった神戸。高い防災意識と暮らしの痕跡を失う経験をしたからこそ、それを慈しむ気持ち。
相反する2つのベクトルを丁寧にすくい上げて、両立させようという試みに角野さんは関わり始めます。
ここで一番即効性がある防災は「コミュニティ」
角野さんが現在拠点にしている駒ケ林は、下町情緒に溢れていて、まだまだ「おせっかい文化」が残っている地域です。
野菜ももらえるし、隣近所は皆顔なじみ。インタビュー中も、駒ケ林に長く住むおばちゃまたちが当時のことなどを気さくに話してくれたり、角野さんに鋭いツッコミを入れたり、風通しの良い人間関係がここに根付いているのがよく分かります。
駒ケ林は、奈良〜平安時代からずっと歴史がある集落で、路地のまちと呼ばれるだけあって、細い道が入り組んでいます。木造密集地という課題をはらみながらも地域の人はこの雰囲気を愛しています。
一般的には防災性を高めていこうとしたら、道を広げていくという方法があるんですけど、このへんの路地は道を広げたら住む所なくなるし、そもそも、まちの形がかわって、もう路地のまちとは呼べんでしょ?
このまちが持つ雰囲気を継承しながら、まちをハード面ソフト面両方から更新していく必要があると思っています。
現在の建築法では、家を建て替える場合、道幅を4m設けなければなりません。木造密集地では、道を広げるのがむずかしく、結果、建て替えが進まない。そうやってまちの老朽化が進んでいるのが現状です。
そこで角野さんは、道幅を4mではなく2.7mに緩和することで建て替えしやすく、さらに建て替え時には耐火性能をあげるなどのルールを決めた「ひがっしょ路地のまちづくり計画」の決定までの地域へのサポートに奔走しました。
しかし、角野さんが大切にしているのは、こうやってまち並みを残すことでコミュニケーションを持続させながら、“コミュニティ=人とのつながり”を防災につなげていくことです。
いま紹介したような計画は、防災性が発揮されるのに時間がかかります。こういう地域において一番即効性がある防災は「コミュニティ」だと思います。
こういうまち並みやからこそ、密なコミュニティが構築されている。いまだにこの辺はご近所でのしょうゆの貸し借りが当たり前だし、みんな集まってしゃべるような場所もあって密接なんです。
例えば、各家の脇に水道があるんですけど、この計画と合わせて、駒ケ林で『じゃぐち協定』を結びました。有事に用意してあるホースを災害現場に一番近い家の水道の蛇口につなげて地元の人間で火を消す努力をする。これこそ、コミュニティがものをいう防災です。
このまちで消火訓練をするのは、地域の人が顔をあわせる餅つきのとき。「餅つきはなぜかみんなちゃんと集まるんですよね(笑)」と角野さんは言いますが、そのとき、“一人で逃げられない人”と“助けてあげられる人”とのマッチングをしているのです。
阪神・淡路大震災では、多くの人がすみかを変えることになりました。それは「家を失ってしまった」だけではなく、そのまちに住む理由を失ってしまったからではないでしょうか。
たとえ、家を変えようが建て替えようがなくなろうが、自分のまちの形がここにあること、そして人とのつながりがあること。角野さんたちを見ていると、このふたつが暮らしを持続させる大きな理由になるような気がします。
このまちを好きになるということ
神戸でまちづくりに関わると、必ず震災の話に直面します。僕らも、神戸のまちづくり情報誌「わがまちとーく」という媒体で、震災から20年に関するお話を、自治会とかまちづくり協議会の方々に伺っています。
例えば、そこで話された方が「震災は52歳のプレゼントやったわー」って言っていたのが印象的でした。悲しかったし、つらかったけれども、それを「贈り物だ」と言える神戸の強さがある。
そういう意味では、震災前から神戸には住民主体でまちのことが考えられる素地があったのかもしれません。
現在角野さんが行っている活動を付箋で記したもの。多種多様!
そういう角野さんの活動の一つに、「まちなか防災空地整備事業」というものがあります。
震災後ずっと手つかずの空き地が数多く点在していて、地元としては困った状態。そんな場所を防災拠点として整備して、なおかつ日常でも使えるようにリデザインする。
その整備費は神戸市が一部負担してくれる上、固定資産税が何年間か免除されるという神戸市の事業です。
単なる防災拠点をつくってもつまらない。どうせなら楽しいほうがいいじゃないですか。
だから、アーティストの方々と一緒に、子どもが遊べる場所にしました。
空き地に巨大な黒板(!)が登場し、空き地が「二葉じぞう広場」という防災拠点兼公園に生まれ変わりました
子どもって楽しい経験をした場所は忘れないと思うんです。「災害が起きたら、ここに集まるんだよ」と言えばちゃんと来れるはず。
危険を教えて教育するのも大事ですけど、心に刻み込まれるのもいいなと思う。それが、思い出になっていく。
「地元におもろいところがあったなぁ」って、子どもたちが過ごした痕跡が残る。その痕がまちなかにいっぱいあればあるほど、このまちを好きになってくるんじゃないんですかね。
駒ケ林の路地をギャラリーにしてアート作品と日常の暮らしの風景を同時に楽しんでもらう「モノホシザオギャラリー」
最近では、下町風情の残る長田を舞台に「下町芸術祭」を開催しようと、地元のアーティストが集って「新長田アートコモンズ実行委員会」を結成。角野さんもメンバーに入っています。
この活動の中でも、物干し竿だらけの路地をギャラリーにして、アート作品と日常の暮らしの風景を同時に楽しんでもらう「モノホシザオギャラリー」など、角野さんは新しい試みをしています。
「昔ながらのコミュニティは新しいものを良しとしないのではないのか」と、心配になったりもしますが、最近ではご近所の方も協力してくれるようになってきたそう。
ここはわりとアーティストが多いまちですけど、そういうひとたちが「まちなかで何かを表現したい」と思ったときに、僕は地元と彼らをつなぐ役割になってます。僕は地元の自治会長さんをよく知っているし、僕自身、おもろいことが大好きですから。
まちを好きになる人がここで育って、さらに、おもろいな、と新しく入って来てくれる人たちが増えたらいいな、というつもりでやっています。ここは一見開かれているように見えないので、そこを開かれているように見せるのが僕の仕事だと思っています。
「最近は駒ケ林や長田で、”まちのプレイヤー”にスポットライトを当てるのが楽しい」と角野さんは言います。”まちのプレイヤー”とは、まちの中で勝手に楽しんでいる人たちのこと。
例えば、「毎日店の前の黒板になぞなぞを出す散髪屋」、「綺麗な月が出たときに路地に現れる望遠鏡おじさん」など、自主的に面白いことをしている人たちをフィーチャーしていくことでまちの魅力を発掘しています。
長田のまちの面白いもの、アートなものを集めてマップにした「長田アートさんぽ」
ねたましいくらい、みんなおもろいこと好き勝手にやっているんですよ(笑)
「新長田アートコモンズ実行委員会」でお散歩Mapをつくる機会があったので、バッチリ盛り込みました。まちにとってひとは宝ですから。こんなおもろいひとが住んでいるまち、絶対好きになるでしょ?
駒ケ林そして長田のムーブメントには、まちと人に対する、深い深い「愛」を感じずにはいられません。
そして、角野さんの活動から見えてきたのは、ひとの顔が見えるまちづくり、顔がみえる助け合いがなにより大切であることを、神戸のまちはすでに知っているということでした。
まちは人そのもの。
まちが好きになれば、人はまちを守ろうとする。人の手で防災できる。しかも、その防災活動そのものがまちを慈しむきっかけにもなり得るのです。