竹灯籠でつくられた「1.17の灯り」(神戸市提供)
大きな災害が発生したとき、何よりも心配なのは家族や友人の安否です。そして、自宅に危険があれば避難場所へ移動するでしょうし、学校や仕事はもちろんお休みになります。
ところが、災害規模が大きければ大きいほどに、仕事の優先度がアップするのが公務員です。自らが被災していても、まずは役所へ駆けつけようとします。
阪神・淡路大震災の発生当日には、主な交通機関がストップしているなか、実に41%もの市職員が登庁。市役所も一部倒壊するなか、市職員たちは救援物資の配布や給水車の先導などに対応していたのです。
片瀬範雄さんもまた、自ら被災しながら不眠不休で公務のために奔走する日々を送った神戸市職員の一人でした。
1943年兵庫県神戸市生まれ(丹波市育ち)。金沢大学工学部土木工学科卒業。1966年4月神戸市役所入庁。1994年都市計画局計画部工務課長、1995年4月中央区副区長、1997年都市計画局計画部長、2001年建設局道路部長、2002年中央区長などを歴任。2004年に退職し、同年6月神戸防災技術者の会「K−TEC」を設立し参加。神戸市役所内部、全国の地方自治体、そして若い人たちへの阪神・淡路大震災の伝承、災害被災地の支援・救援、そして危機管理について学んでいる。
救出活動の8割は市民の手で行われた
片瀬さんは須磨区の自宅で阪神・淡路大震災に遭いました。片瀬さんの家がある地域の震度は7。
古い街並みの残る地域だったため、多くの家が倒壊しましたが、片瀬さんの自宅は瓦や壁は落ちたもののなんとか無事でした。耐震性を考慮に入れた1981年の建築基準法改正後の建築だったことから下敷きになることを免れたのです。
非常時だからこそ、公務員はいちはやく市庁舎に駆けつけることが求められます。とはいえ、すぐそばに倒れた家の下敷きになっている人がいるのに見捨てていくこともできません。近所の人たちと共に救出活動を行い、十数名を助け出したそうです。
被災地が広域である場合、警察や消防、そして自衛隊などの救助活動にはどうしても限界があります。実際に、阪神・淡路大震災では、救出された人々の約8割が市民の手で助けられたといわれています。
震災以降、市職員は被災市民と一緒に、復興に向けたまちづくりをしてきました。例えば、600ヵ所の避難所の運営に、24時間ずっと市職員が付き添うことはできませんよね。市民の皆さんが助け合ってくださったから、避難所の運営ができたんです。
神戸市には、行政の動きを待つ“お客さん”ではなく、自立しようと立ち上がる市民がたくさんいました。だからこそ、我々はその人たちと“一緒に”やってこれたんですよ。ここははっきりと言いたいところです。
震災後に市職員が最初にした仕事は?
メリケンパーク内にある被災遺構「神戸港震災メモリアルパーク)(名古屋市城山中学校修学旅行 K-TECの案内で視察しているようす)
当時、片瀬さんは都市計画局の工務課長。震災後に災害対策本部から最初に命じられた仕事は「被災調査図」の作成でした。
国から激甚災害指定を受けて、復旧事業に向けた国庫補助などを受けるには、どのくらいの建物が壊れてしまったのか、被災した地域はどこなのかなどの被災状況を数字で報告しなければいけないからです。
今ならGPSや衛星写真などで被害状況がすぐに分かりますが、当時はそういうものがないので、市職員が2日間をかけてまちを歩き回りました。
被災者が建物の下敷きになっているのを横目に見ながらの調査ですから、職員もすごくストレスを感じてね。つらい仕事をさせてしまったと思いますが、「被災調査図」なしには国の支援を受けられないわけです。
また、まち全体が被災した場合には、新しいまちづくりのことも考えなければいけません。
建築基準法84条では、指定した区域の建物の建築を最大2ヵ月間にわたって制限することができます。この2ヵ月間が、神戸市が新しいまちづくりの計画を検討する最初のタイムリミットになりました。
我々は、経済の活性化や中小企業の再建、そして社会基盤の復旧と共に、安全な災害に耐えるまちとして、新しいまちづくりをしなければいけないという基本方針のもとに、土地区画整理と市街地再開発事業計画をつくりました。
ところが、そのためには被災者の皆さんに土地を提供していただかなければいけませんでした。
市民の立場から言えば、避難所で今後の住いをどうするか、生活再建をどのように行うかを考えようとする時期に、壊れた家の建て直しを2ヵ月も待たせて「道を広げたいのであなたの土地をください」ということになりますから、マスコミからバッシングを受けました。
市の方針に反対する人がいるなかで、どうやって復興を進めていけば良いのでしょうか?
行政だけが考えたまちづくりでは市民の納得は得られません。このとき、力を発揮したのが震災発生の約15年前、1981年に制定されていた「神戸市地区計画及びまちづくり協定等に関する条例(まちづくり条例)」でした。
被災した市民は、まちづくりコンサルタントなどに助言をもらいながら、「まちづくり条例」に基づいて、地域住民が中心になって住み良いまちづくりを推進する「まちづくり協議会」を結成。
そして神戸市は、この「まちづくり協議会」と復興事業の協議を進めることとなりました。また、神戸市の現地相談所も開設して被災者への説明につとめました。
震災当時からまちづくりの拠点となっている「こうべまちづくり会館」
行政と被災者はどうしても対立しやすいんです。例えば、「ゲンプ(減歩)」という言葉の意味を知らない人は、ただ土地を取り上げられると思われます。専門用語一つからでも齟齬(そご)が生まれてしまうんですね。
神戸市と被災市民の間で円滑に話し合いが行えるように、「まちづくり協議会」が間に立って“翻訳”することもありました。
こうして、新しいまちづくりは、被災した市民とまちづくりコンサルタント、そして行政というトライアングルのなかで協議され、国の支援を受けながら進められていきました。
全世界・全国の支援者の皆さん、そして市民に恩返しする体制をつくろう
K−TECがこれまでまとめてきた報告冊子
片瀬さんは、復興のまちづくりについて話すときも、「市民の皆さんのおかげで」という言葉を何度も口にしました。
被災者の皆さんや、商店街の人たちと一緒に何かをつくろう。必死になるだけではなく、ゆとりをもったかたちでまちづくりをしようと、みんなで考えながらやってきました。
被災者の皆さんがやってくれるから、我々はついていくことができた……というと言い過ぎになるかもしれませんが、本当の意味で恊働してきたと思っています。
例えば、震災から3年目の春からはじまった「インフィオラータこうべ」。
道路や広場に花で絵を描くこのイベントは、「震災で傷ついた神戸のまちを美しく彩りたい」「被災者、仮設住宅に住まう人と商店街などが一緒になり一つのものをつくり上げたい」「一つのものをつくりあげる中から人と人のつながりが広がる」という市民の想いからスタートしました。
「インフィオラータこうべ」で市民とともに作業する片瀬さん(後ろ中央で立つ男性、写真:神戸市提供
「インフィオラータこうべ」道路に花の絵が描かれます(神戸市提供)
また、1月17日に東遊園地で行われる「阪神淡路大震災1.17のつどい」では、「1.17」のかたちに並べた「竹灯籠」が公園いっぱいにともされます。こうしたイベントが市民主導で生まれてくるのが神戸なのです。
神戸市役所を退職するときに、笹山幸俊元市長に「市民の皆さんや全国の皆さんにお世話になったやろ。恩返しができる、感謝の気持ちを伝える体制を引き継げよ」と言われたんです。
2004年、片瀬さんは38年間勤めた神戸市役所を退職し、震災経験を神戸のみならず、全国、世界に伝えることを第一のミッションとする「神戸防災技術者の会(K-TEC)」を18名のメンバーで立ち上げました。
「K-TEC」は、現役の市職員と退職職員という縦のつながり、そして部門を超えて誰もが参加できるという横のつながりでつくられています。現在のメンバーは66名(現役職員が7割)、毎月第二火曜日の定例研究会は一度も休まず開催。2014年11月現在で125回を数えました。
全国の自治体に震災経験を共有し、ネットワークをつくる
震災復興交流神戸セミナー(2014.10.30)
「K-TEC」の活動目的は「(1)阪神・淡路大震災の伝承」「(2)危機管理・自然災害の研究」、そして「(3)危機管理時の支援・救援」の三本柱です。
とりわけ、次に苦労する可能性のある若い市職員には、災害発生時の部局ごとの行動、対応・対策や動きを伝えて、理解してもらいたいと思っています。
新潟県中越地震や東日本大震災の被災地に行くと、「神戸から来た」というだけで一目置かれます。神戸から行って「震災のことは知らない」とは言えないんですよ。
向こうでいろいろ聞かれたときに答えられるように、退職職員がいて後方支援できるという機能もあります。
東日本大震災の発生以降、片瀬さんたちK-TECの退職職員メンバーは神戸市職員だけでなく、被災地の自治体職員の“後方支援”も行っています。
2013年には「復興まちづくりセミナー in 神戸」を開催。東北の10自治体から13名を招いて4泊5日の意見交換会を行いました。お互いの被災経験を伝え合い、復興のプロセスで経験する“困りごと”への対応なども共有しました。
2014年10月から11月にかけては、神戸市と神戸都市問題研究所、そしてK-TECが震災20年継承・発信事業として「震災復興交流神戸セミナー」を3回に渡って主催しました。これには、東北の被災地から15自治体42名が参加しています。
神戸の経験を伝えるなかで、その地域、行政規模、産業構造と照らし合わせて「うちはどうしていこうか」と考えてヒントを持って帰ってもらうんです。
4〜5日ですべてを理解するのは無理ですが、話し合うことで人づくり、ネットワークづくりはできます。それは今後、必ず生きてくる。そういう想いでやっています。
片瀬さんたちは今、予想されている南海トラフ地震の対応について先のセミナー参加者から学び、検討を行っています。大きな被害を受ける可能性のある四国沿岸地域の都市は、行政規模が近い東北の都市での事例が参考になるかもしれません。
神戸だけではなく、全国の自治体のなかで震災経験を共有することが、全国のまちを守ることにもつながっていくのです。
神戸市職員、そして市民の“DNA”を受け継ぐ
子どもたちに液状化現象を解説する片瀬さん。子どもたちに減災のノウハウを伝えることにも力を入れています
阪神・淡路大震災は、神戸に住む人々はもちろん、関西に住むすべての人にとって“青天の霹靂(へきれき)”でした。「地震は関東で起きるもの、関西には大地震はない」とほとんどの人が思っていたからです。
ところが、片瀬さんをはじめとした神戸市職員には「そろそろ何か起きるかもしれない」という覚悟があったそうです。神戸には「災害30年説」があるからです。
昭和13年(1938年)には阪神大水害が起きて当時の神戸市民の72%が被災しました。昭和42年(1967年)には七月豪雨でやはり大きな被害を受けました。阪神・淡路大震災が起きたのは「そろそろ次の大きな水害が起きるのではないか」と言われていた頃だったのです。
僕が市役所に入った翌年に七月豪雨が起きました。そのとき、先輩や上司がどんなふうに動いていたのかが頭に残っているわけです。当時はまだ、神戸市中心部の約8割が焼失した神戸大空襲を経験し、市民と一緒に戦災復興のための区画整理などをやってきた職員もいました。
笹山元市長もまた、戦後復興を経験した一人。僕を含めて、神戸市職員は、「危機にどう対応するのか」「事前に被害を減らすにはどうするのか」をDNAとして受け継いでいるんだと思います。だから、復興を乗り切れたし、K-TECのような会に賛同する職員がいるんです。
震災から20年、片瀬さんに「今、神戸に期待すること」を聞いてみました。
今は緑豊かな六甲山ですが、江戸時代に木を切りすぎたせいで100年前にははげ山だったんですよ。
土砂災害が起きてどうしようもないので、市民と行政が砂防のために木を植えて緑化していったんです。市職員だけでなく、市民も「どうすれば命を守れるのか」をみんなで一緒に考えられるDNAがあるんだと思います。
結局は、自分の命は自分で守らなければしかたない。行政だけでできることには限界があります。
市民、企業、行政が一体となって防災のまちづくりができればいいと思います。特に、K-TECには若い人たちにも参加してもらって、一緒に勉強していきたいですね。
自分の命を守ることは、まちの安全性を考えることにつながってきます。そして、神戸のまちには、まちを守ってきた人々のDNAが脈々と受け継がれています。そんな神戸の“まちづくりDNA” に触れてみたい人は、ぜひ元町商店街の「こうべまちづくり会館」を覗いてみてください。
1階のライブラリーでは、ドリンクを飲みながらさまざまな資料が閲覧可能ですし、4階には防災関連の図書室もあります2階ホールでは本格的にまちづくりを学べる「まちづくり学校」も毎年開催されています。
まずは小さな一歩から。あなたも“あなたのまち”のことを考えてみませんか?