「あのときの自分は、何も考えていない、どうしようもないアホでした」
阪神・淡路大震災を振り返ってそう話すのは、神戸音楽シーンの担い手のひとり、「一般社団法人COMIN’KOBE実行委員会」理事長、「株式会社パインフィールズ」代表取締役の松原裕さん。
当時15歳だった松原さんが神戸で暮らす重みを感じ、ふるさとへの想いを、音楽フェスによる復興支援という形で行動に移したのは、震災から10年後のことでした。
松原さんが始めた「COMIN’KOBE」は、有名アーティストから地元・神戸のバンドまで、復興支援や恩返しという趣旨に賛同するアーティストが、一堂に介して開催されている入場無料の音楽フェスです。
「何も考えていなかった」という一人の少年が、4万人もの観客を集める音楽フェスを開催するまでの過程には、いったい何があったのでしょうか?
遅れてやってきた復興への想い、その心の変化を辿ります。
1979年神戸市北区生まれ。一般社団法人COMIN’KOBE実行委員会・理事長/株式会社パインフィールズ代表取締役。神戸市内にて、ライブハウスや飲食店、レコーディングスタジオ、インディーズレーベル、音楽プロダクションなど、音楽に関連するさまざまな事業を広く手がける。震災の復興支援として2005年より入場無料の音楽フェスティバル「COMIN’KOBE」(2010年までは「GOING KOBE」)を開催。2014年は約4万人を動員した。震災時は15歳で、北区の自宅で被災。現在は神戸市兵庫区在住。
“被災した”という実感がなかった震災当時
松原さんは、自宅の2階で就寝中に被災しました。ドーンという音とともに体が宙に浮き上がり、驚いて目を覚ますと、たんすは倒れ、壁掛けのラジオが顔の真横に落下してきたと言います。
北区は神戸市内では比較的被害が少なかった地域ですが、覚えている限り生まれて初めての地震だったということで、いったい何が起きたのかまったく分からなかったそうです。電話はつながらず、テレビもつきませんでした。
そんな中、松原さんはひとまず学校へ向かおうとします。まちも大変なことになっていて、電柱は倒れていたし、車は道沿いの大きな側溝に落ちていました。
学校に着いたら校門に先生が立っていて「あかんあかん! 帰れ!」って言うんです。それですぐに家に帰りました。
当分は学校がないこともわかって、そのときは、今思えば本当に不謹慎なんですけど、ラッキーだと思いました。もう勉強せんでもいいんだって。
松原さんは当時、受験勉強の真っ最中。公立高校に受かればバンドをやってもいいと言われていたため、猛勉強の日々を送っていました。ところが震災の影響で入試が延期になったり、志願書を提出するだけで受かったりする高校もありました。
大変なことになっているのはもちろん分かっていたけれど、食べ物は両親が用意してくれたし、お金を稼いでいたわけでもないから、仕事の心配もない。実際の自分の被害とは感じていなかったんですね。勉強しなくて良くなったことを、ただただラッキーだと思っていました。
インタビューに答える松原さん
3年後、周囲の人から気づかされた復興への想い
そんな松原さんの意識が大きく変わったのは、3年後のことでした。高校を卒業してすぐに、当時組んでいたバンドで1週間の全国ツアーに出かけたのです。
ツアーバンドが出演する場合、ライブハウスのスケジュールには“バンド名(from神戸)”と、活動拠点の地名が記載されるのが通例です。
するとそれを見たお客さんから「地震、大丈夫でしたか?」と次々に話しかけられたのだそうです。なかには差し入れをくれたり、驚くほど心配してくれる人もいました。
ライブハウスの人も同じでした。誰もが震災のことを尋ね、心配してくれました。それはツアーの間じゅう、どのライブハウスでも、同じだったそうです。
あるライブハウスの店長は「震災のとき、何かしなくちゃと思ったけれど結局何もできなかった。だから今日は君たちにごはんをごちそうさせてください」と言って、全部おごってくれました。家に泊めてくれる人もいたし、「これで好きなものを食べて」とお金をくれた人もいました。
とにかくたくさんの人にお世話になった7日間でした。僕は、こういうふうに見てもらっているんだと分かって、ラッキーなんて言っていた自分がすごく情けなくなってしまったんです。ほんまにあのときの自分はバカだったなぁってめちゃくちゃ反省しました。
神戸から遠く離れた土地で、初めて会う人たちにもらった思いやりが、松原さんに震災と改めて向き合うきっかけをくれました。
そしてもうひとつ、子どもが産まれて父親となったことも、松原さんの意識を変えるきっかけになりました。
僕は結婚が早くて、20歳のときに子どもが産まれました。今は離婚して、シングルファザーです。だからなのか、僕の脳みそは20歳ぐらいから動き出したみたいなんですよね(笑)
それまでは、自分のことしか考えていませんでした。子どもが産まれて、尽くす喜びを知って、自分一人で生きているわけじゃないということ、助けられて生きているということがやっと分かってきました。ちょうどその頃、いろいろなことに気づくきっかけがたくさんあったんですね。
2005年「GOING KOBE」スタート!
ひとしきり反省したあとに出てきたのは「何かしたい、何かしなくちゃ!」という思いでした。そんなとき、神戸出身のガガガSPというバンドが、長田駅前で復興チャリティイベントを開催しました。2003年のことです。
僕、ガガガSPのボーカル前田氏と同い年なんです。それなのにすごいことをするなと衝撃を受けて、僕ができるのはこういうことなんじゃないかと思いました。関心をもっていない人が気づいたり、考えるきっかけになるのが音楽のイベントじゃないかって。
自分自身が、実際に震災を経験しているにも関わらず他人事だと思ってきた人間です。自分と同じような人はきっといっぱいいるだろうから、自発的に考えてもらうような仕掛けがいると思いました。固い言葉を使うと風化させない、思い出すきっかけになるもの。
ちょうど震災10年事業ということで、神戸市から一部のイベントに助成金を出して頂けることも知って、よしやろう! 挑戦してみよう! って一念発起して始めた感じですね。
こうして松原さんは、震災から10年目の2005年に最初のイベントを開催しました。当時のイベント名は「GOING KOBE」。神戸からありがとうを伝えよう、震災を風化させずに伝えようというふたつの趣旨のもと、第1回目は全7ステージ、約1万人を動員します。
その後、徐々に規模は拡大し、2014年4月29日に開催された10回目の「COMIN’KOBE(ex.GOING KOBE)」では全14ステージを設営。
震災について語るトークステージ、防災グッズの体験・販売を行う減災ビレッジというテーマゾーンなどを設け、募金活動も行いました。アーティストが自発的に募金箱をもって立ってくれたこともあるそうです。
毎年出演しているガガガSPをはじめ、かりゆし58、KEN YOKOYAMA、アルカラなど出演アーティストは総勢130組以上、観客動員数は約4万人となりました。
「COMIN’KOBE」の様子。1日あたりの観客動員数4万人は、フジロックフェスティバルとほぼ同じです。これを個人で始めたのだから、ものすごい行動力です
大変でも10年続けてきた理由
何かしたいという想いだけで立ち上がり、当初は右も左も分からなかったという松原さん。少しずつノウハウは身に付いてきましたが、正直なところ今でもものすごく大変で、やめたいと思うことはしょっちゅうだそうです。
毎年フラフラになって、来年こそはやめると必ず手帳に書きます(笑)
でも人間って忘却の生き物ですから、終わったら忘れてね。気づいたらまた、来年の「COMIN’ KOBE」の準備をしていて、今、すでにだんだんしんどくなってきています(笑)
でも、毎年たくさんの感動をもらっていますし、やりがいも感じています。続けてねって言ってくれる人にも応えたいし、助けてもらった人への恩返しもしたい。
その人たちの顔が浮かんだら、徹夜がしんどくても頑張らなきゃってなる。みんなにみこしを担いでいただいて、10年間なんとか頑張れているのかなと思いますね。
想いを支えるのは、やっぱり、出会った人々の想い。想いの連鎖はどこまでもつながって、だからこそ、大変でも続けられたのです。
「GOING KOBE」から「COMIN’KOBE」へ
2015年の会場は残念ながらすべて屋内の予定
2010年にイベント名を「COMIN’KOBE」に変更したのは、イベントを企画運営していく中で、新たな想いが生まれたからでした。
無料のイベントなので、協賛をお願いするために、神戸の企業をたくさん回るんです。
ちなみに10社回って1社協賛してくれればいいぐらいです。ただ、協賛を申し出てくれたところはものすごく応援してくれるんですね。おまえらみたいな若い奴が頑張れって。
その中で、いろいろな方とお会いして話をするようになって、この人たちがいたから今の神戸があるんだと思うようになりました。
じゃあ、僕らの世代は神戸からありがとうを伝えるだけじゃなく、復興していただいた神戸の皆さんにもありがとうを言わなくちゃいけないんだと思いました。
そこで松原さんは 神戸のまちへの感謝も伝えようという3つめの趣旨を加え、復興した神戸にきてほしいという思いも込めて「COMIN’KOBE」と名前を変えました。
そして今、「COMIN’KOBE」は存続に向けて新しい試練のときを迎えています。
「COMIN’KOBE」存続に向けてクラウドファンディングを開始!
ホームページに掲載されたクラウドファンディングへの協力の呼びかけ
2015年から、さまざまな理由で新しい会場を使用することになりました。震災から20年目という節目の年ですし、どうしてもやりたいのでずいぶん探しまわったんですが、4万人を収容できる場所ってなかなかないんですよね。
いろいろ考えた結果、ワールド記念ホールに加えて、神戸国際展示場3号館をすべて借りることにしました。
そのために新たにかかる費用は、なんと2,000万円! 松原さんは、この2,000万円を捻出するため、クラウドファンディングに挑戦することにしました。
実はこれには、単なる資金集めだけではなく、「COMIN’KOBE」をこれからも無料でやり続けるにあたって、参加者へ意義を問いかけるという意味合いも込められています。
このイベントが毎年開催されているのは、当たり前のことじゃないんです。表には出せないストーリーもいっぱいあって、毎年、奇跡の積み重ねでどうにか成り立っています。
2,000万円は、4万人の参加者の4分の1以下、約7,000人が一人あたり3,000円寄付すれば集まります。だから、どこまで「COMIN’KOBE」の趣旨が伝わっていて、想いも一緒なのかをクラウドファンディングを通して確認してみようと思いました。
実は、お客さんに聞くと「それだったら有料にすればいい」という声がとても多いのだそうです。無料でやってもらうために3,000円を寄付するのか、有料にして3,000円のチケット代を払うのか。同じ3,000円でも大きな違いがあります。
どちらがいいということはないと思います。無料でやれば間口が広くていろいろな人が来られるし、有料であればイベントのことをより考えてくれるお客さんが集まります。でも、なにせずっと無料でやってきたから、無料で続けたいと思っています。
「COMIN’KOBE」はあくまで無料のイベント。自身の経験から、震災を他人事だと感じている若い世代が、震災を考えるきっかけになってほしいと思っている松原さんにとって、無料で開催する意味は大きいのです。
もともとイベントに込めた想いと、参加者が求めるもの。今回のクラウドファンディングは、その今後の在り方を問う挑戦でもあるのです。
次回の「COMIN’KOBE」は2015年4月29日に開催予定。クラウドファンディングはすでに始まっていて、締切は2015年2月24日午前11時までとなっています。
神戸で音楽が続けられる環境をつくりたい
松原さんが経営するライブハウス「太陽と虎」の前で
神戸というまちと「COMIN’KOBE」っていうイベントが、今の自分をつくってくれました。
「COMIN’KOBE」がなかったら、もっと気づけていないことだらけだったと思います。だから僕は神戸に恩返ししたいし、今後もこのまちでいろいろなことをやって盛り上げていきたいと思っています。
いろいろなキャパシティのライブハウスがあって、レコーディングができて、CDが出せるレーベルがあって、音楽プロダクションがあって、「COMIN’KOBE」みたいな大きな音楽フェスがある。
そんな、アーティストがわざわざ上京しなくても、神戸で音楽が続けられる環境をつくっていきたいです。
松原さんの周りにはいつでも音楽があります。その音楽に集まるものをひもづけて事業をつくり、アーティストや音楽が好きな人に貢献し、神戸の音楽シーンを支えていく。
神戸、震災、そして音楽に対する松原さんの強い想いは、けっして色あせることはないのでしょう。
それは突発的に感じ、薄れていく感情ではなく、時間をかけて気づかされた確固たる想いだからなのかもしれません。しかもその想いは年を追うごとに膨らんで、震災の記憶は、自然と若い世代へ受け継がれています。
1年に1度、音楽のもとに大勢の人が集まり、阪神・淡路大震災を振り返る。心の中の記憶の位置は更新されて、神戸のまちなみを改めて見つめ直す。
音楽がもたらす時間の共有は、神戸のまちで確かに息づき、その魅力をさらに育んでくれています。
神戸は、ユネスコ「創造都市ネットワーク」のデザイン都市認定をいただいています。
これからの課題は、まちをつくるっていう目に見えるデザインだけじゃなく、震災が起きたあの年からどう長期的に人間の心までデザインできるかっていうことなんだと思います。
復興した神戸をますます魅力的なまちにするために、松原さんの、音楽を通じた心の復興支援は、まだまだ続くのです。