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地域のみんなが仲良くなれば、いざという時に助け合える。須磨海岸の海の家「カッパ天国」幸内政年さんに聞く「距離を縮める仕掛け」とは

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特集「震災20年 神戸からのメッセージ」は、2015年1月17日に阪神・淡路大震災から20年を経過し、震災を体験した市民、そして体験していない市民へのインタビューを通して、「震災を経験した神戸だからこそできること」を広く発信していく、神戸市、issue+design、デザインクリエイティブセンター神戸(KIITO)との共同企画です。

あなたは、いざという時のために「防災」の準備をしていますか? ご近所さんと、助け合える関係が築けていますか?

阪神・淡路大震災で震度7の揺れを経験した神戸市須磨区では、震災から20年をきっかけに、2014年5月、「防災」をテーマにしたイベントが開かれました。

須磨海岸で70年以上続く海の家「カッパ天国」のオーナーである幸内政年さんは、そのイベント主催者の一人。海の男の熱い心を持つ幸内さんは、海の家を経営するかたわら、須磨海岸一帯の団体・施設の人たちと一緒に、地域のコミュニティづくりに力を注ぎ、数々のイベントを企画しています。

それは「コミュニティをつくり、地域のみんながお互いを知り、仲良くなることが、防災への近道にもなる」と考えているからです。

幸内さんはどのように地域コミュニティをつくり、防災の意識を根付かせているのでしょうか。震災が発生した1995年当時からこれまでを振り返っていただきました。
 
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幸内政年(こううち・まさとし)
1976年神戸市須磨区生まれ。福岡県の大学へ進学し、阪神・淡路大震災を福岡の下宿先で知る(当時18歳)。大学卒業後、神戸市に戻り就職。薬局やホームセンターでの販売業務を担当したのち、26歳で退職。父親の跡を継ぎ、創業70年以上を誇る須磨海岸の海の家「カッパ天国」のオーナー兼漁師に。須磨海岸一帯の団体・施設とS.O.S(須磨オーシャンサービス)を結成し、地域のコミュニティづくりに取り組む。2012年からイベント「ギョギョギョカーニバル」を開催。2014年には阪神・淡路大震災20年をきっかけに、「SUMAあそBOUSAI まなBOUSAI」という防災をテーマにしたイベントを開催するなど、コミュニティづくりの中で防災意識の啓蒙活動にも取り組む。

福岡の下宿先で知った震災。「何もかもが終わってしまった」と思った

1995年1月、幸内さんは大学1年生。お正月を須磨の実家で過ごし、15日に福岡の下宿先に戻りました。そして、17日の明け方、大学の友人からの連絡で、阪神・淡路大震災が起きたことを知りました。

友達から電話があって、「テレビつけてみろ、お前の地元が大変なことになっているぞ」と。テレビでは、まさに自分の実家周辺が上空から中継されていたんです。ぐちゃぐちゃになっている地元の映像を観て、「何もかもが終わってしまった」と思いました。

家族の安否もわからず、テレビばかり観ていました。2日後にようやく電話がつながり、幸い家族や仲のよい友達は無事でしたが、とにかく現場に行こうと、数日後になんとか車で須磨に辿り着きました。

そこで幸内さんは、変わり果てた地元の光景と対面。震災の2年前に頑丈な鉄筋の家に建て替えたばかりだった幸内さんの実家だけが残り、周辺の住宅はほぼ全壊状態でした。

幸内さんの自室では、避難所では生活しづらい乳児を抱えたご近所の家族が、段ボールで間仕切りをして暮らしていたそうです。「お前が居ると一人分の水や食べ物が必要になってしまう」と家族に言われ、その日のうちに福岡へ戻ることになりました。

地元の復興への不安が募る一方、自分だけが被災しなかったという罪悪感にも苛まれた幸内さん。何もできないまま、いつしか地震について考えることをストップしてしまったのだそうです。

「もっと須磨の海を好きになってほしい!」とイベントを開催

大学を卒業後、幸内さんは神戸へ戻り、いったん就職します。その後26歳のときに、お父さんが経営していた海の家「カッパ天国」を跡継ぎとして手伝うことに。

アルバイトのシフト調整、建物の建築・解体…と、慣れない仕事が多く苦悩の日々が続く中、何より難しかったのは「人を使う」立場でアルバイトとの関係を築くこと。幸内さんのやり方に反発して、アルバイトが誰一人出勤しない日もあったそうです。

そんななか、お父さんの意向で、2年ほど海の家を人に貸すことに。この間、幸内さんは須磨海岸の他の店などを見ながら、「アルバイトとどう接したらいいのだろう」「これから海の家の経営者として、どうしていけばよいのだろう」と、自身とじっくり向き合い、考えることにしました。

須磨海岸を一歩引いて見た幸内さんは、周りの地域住民が海の家に対して「うるさい」「治安が悪い」などのマイナスイメージを持っていることに気づきます。そこで「もっと地元の海を好きになってほしい」と、幸内さんは地域住民のためのイベントを企画することにしました。

それが、2007年にはじまった須磨海岸のキャンドルイベント「Love & candle 潮風のラブレターズ」です。
 
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今年で8回目を迎えた「Love&candle~潮風のラブレターズ」では、近隣の小中学生がメッセージを書いたキャンドルで海岸に文字を描き、募集した「ラブレター」をスクリーンで上映。ラブレターの内容は、愛の告白や、亡くなった人への想いを伝えるものなどさまざまです。

美しいキャンドルや映し出されるメッセージに感動するお客さんを見て、幸内さんは、地域住民との距離が少しずつ縮まったのを実感。さらには、会場の設営や片付けをしていた海の家のアルバイトたちが、イベント終了後、イキイキと輝いた表情をみせていたことに気づきました。

涙を流して帰るお客さんを見て、アルバイトたちが「みんなでやり遂げた一体感」や「人を感動させる喜び」を体感していたんです。

それを見て、自分が彼らのためにできることは、今回のような体験を通じて、海の家で「働くとは」「生きるとは」を一緒に考え、体感していくことなんだ、と気づきました。

その後、「カッパ天国」の経営者となった幸内さんは、アルバイトたちに愛情を持って寄り添い、ともに歩み始めました。そして、キャンドルイベントで手ごたえを感じた「地域住民とつながる」「みんなでつくりあげる」ことを軸にしながら、須磨海岸でのイベントを次々と企画していきます。

「ギョギョギョカーニバル」で須磨海岸と地域住民がますます一体化!

「須磨の漁師と、魚を通じてつながる機会を持とう」と、幸内さんが須磨漁港で「漁港市」を企画したのは2011年。普段は消費者と接点のない漁師が、漁をした魚を自らお客さんに売ることで、漁師とお客さんの距離を近づけようと考えたのです。

その日は約1,000人が訪れ、お客さんも漁師さんも大喜び。一方で漁師さんからは「もっと大規模にして売上げを増やせないか」という声もあがります。

そこで幸内さんはさらに規模を広げて、「須磨海岸一帯の地域住民がつながる機会にしよう」と、海岸沿いの団体・施設に声をかけることに。そして翌年、複数の場所での共同開催となった「ギョギョギョカーニバル」に発展し、2014年で3回目を迎えました。

地元の農産物を売る「ナナ・ファーム須磨」や、遠方からも人が訪れる名所「須磨海浜水族園」。海岸エリアにある「若宮商店街」や、宿泊施設である「国民宿舎シーパル須磨」、そして須磨漁港の漁師さんたちと須磨海岸の海の家。

はじめは知り合い程度だった近隣の団体や施設が、晴れて一同に会し、「S.O.S」(須磨オーシャンサービス)が結成されたのです。
 
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「ギョギョギョカーニバル」の会場MAP。須磨海岸は、南側の海沿いに施設がならび、「須磨海浜公園駅」より北側に住宅街が広がります。駅前からシャトルバスを運行し、住民が足を運びやすいように工夫をしました

当日は、それぞれの施設が独自のイベントを実施。たとえば、ナナ・ファーム須磨では「野菜直売マルシェ」を、須磨海浜水族園では普段公開されない水槽を公開し、漁師たちは「漁港市」に加えて海賊船に改装した漁船でクルージング体験を行いました。

須磨では、南側の海岸沿いに施設が集中し、北側に住宅街が広がっています。多くの住民は、意外と地元の観光施設には足を運ばないんですよね。

そのため、この機会に北側の住民が海岸沿いを訪れ、団体・施設の人たちとコミュニケーションをとり、地元の魅力がしっかり伝われば、地元を誇りに思い、絆が強まると思いました。

僕は当日、シャトルバスで案内係をしながら、住民の方々とたくさん話をしました。「僕ら、仲良しなんですよ」とメンバー同士のことを伝えたら、「あら、そうだったの!」と、これまで関わりの少なかった僕らに親近感を持ってもらえたんです。

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ギョギョギョカーニバルの一環として開かれた、須磨漁港での漁港市には、大勢の人が集まりました。

第一回ギョギョギョカーニバルは、地元住民を中心に約3,000名が集まり、盛況のうちに幕を閉じました。

ひとつのことをみんなでやり遂げた一体感から、最初はぎこちなかったS.O.Sメンバー間の距離もぐっと縮まり、しょっちゅうお酒を酌み交わすほど親しい間柄に。これをきっかけに、このメンバーで地域のコミュニティづくりに精を出すようになりました。

「防災」を共通項にすると、コミュニティづくりの道が見えてきた

一方、ギョギョギョカーニバルを続けるなかで、課題も見えてきました。施設ごとにイベントを開催しているために、人気の施設に人が集中し、売上げに差が出てしまうのです。施設同士が協業するための「共通項」を探すことになりましたが、見つけるのは困難でした。

S.O.S.のメンバーが悩み抜いたすえにたどり着いた共通テーマが「防災」でした。須磨にある国民宿舎シーパル須磨の代表(一枝淳治さん)が、自らの施設を「災害時待避所」として神戸市に申請し、受理されました。

そこで実際に「自分たちに何ができるのか?」と考えたとき、幸内さんは20年前のあるエピソードを思い出しました。

震災のとき、陸路を閉ざされても、漁師には船と海路があったんです。漁師だった親父は、自分の船で近くの明石港に出向き、漁師仲間から灯油や食料などを調達し、自活していました。

当時はコミュニティがなかったために情報が伝達されず、港には余って腐ってしまった食料がたくさんあったのだそうです。

災害時に、「漁師だからこそできること」があるのなら、みんなにも「自分だからこそできること」があるはず。

たとえば、地元のシンボル・須磨海浜水族園は活動の「拠点」、海の家の人たちは「炊き出し」を、食料品を扱うナナ・ファーム須磨のストックからは「物資提供」、商店街の人たちは「自警団」になることができます。

「素人であっても、コミュニティがしっかり確立されていれば、みんなで力を出し合い災害時に助け合える」と確信した幸内さんたち。地域のコミュニティづくりの中で、みんなが仲良くなり、お互いのできることを知り、いざという時に助け合える関係を築くことが、大事な防災活動になると考えました。

震度7の体験をもとに震災の「恐怖」や防災の「知識」を教えたところで、災害が起きた瞬間に何ができるのかは疑問です。隣の家の人を知っているのか?家具の下敷きになった人を助けに行けるのか?って。

だけど、お隣さんと仲が良ければ「大丈夫?」と様子を見に行きますよね。一番必要なのは、コミュニティやと思うんです。

ちょうど、阪神・淡路大震災から20年という節目も近いことから、防災に関連した地域コミュニティのイベントを企画することになりました。

震災の直後、何もできず地震についての考えを一旦ストップした幸内さんでしたが、20年経ち、こうして「コミュニティづくり」というやり方で、地元の防災について考える日々が始まったのです。

“遊びながら”学ぶ、防災訓練イベント「SUMAあそBOUSAI まなBOUSAI」

“遊びながら”学ぶ防災訓練イベント「SUMAあそBOUSAI まなBOUSAI」を開いたのは2014年5月のこと。小中学校区の住民と当日須磨を訪れた観光客をターゲットとし、神戸市立若宮小学校で行いました。

大人も子どもも、仲良く遊びながら防災への「意識」を持たせる機会にしようと、コンセプトを「体験型防災訓練」としました。
 
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イベントの具体的な内容は、ライフセーバーや学校の先生、街の電気屋さんなど、地域の人たちが集まり、打ち合わせを重ねて決めました。当日起こり得るいろんなケースをシミュレーションしながら考えることができ、この打ち合わせ自体が立派な「防災訓練」になりました

当日は、職業ごとの専門性を活かしたユニークなコンテンツが盛りだくさん。消防団による「ホース的あてゲーム」や漁師さんによる「ロープワーク体験」など、いざというときに役立つ技術をゲーム感覚で学びます。

畳屋さんによる「いぐさプール」やライフセーバーによる「ストレッチ講座」は避難所での生活を想定し、考案したものでした。これらは、災害時に大切な「誰に何ができるのか」を知る訓練になりました。
 
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避難所での子どもたちの遊びを想定した、畳屋さんによる「いぐさプール」では子どもたちが大はしゃぎ

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ライフセーバーによる「ストレッチ講座」は、避難所における運動不足を想定したものでした

来場者には「できますゼッケン」を配布し、自らの「できること」とニックネームを記入し、胸元に貼ってもらいました。すると、ニックネームで呼び合ったり、お互いの「できること」を話題に会話が生まれたりしたのだそうです。

「乾杯の音頭」と書いた人が、打ち上げの場で実際に乾杯の音頭をとるなど、「できますゼッケン」は住民同士のコミュニケーションをもたらしました。
 
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「できますゼッケン」は、災害時の避難所でボランティアスタッフが「私はこれができます」と宣言し、スキルを効果的に活かすためのツール。ユネスコ・デザイン都市神戸発のソーシャルデザインプロジェクト「issue + design」が、避難所での助け合いのために2011年に考案したものです

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打ち上げを兼ねた「大交流会」では、「できますゼッケン」に「乾杯の音頭」と書いた近畿タクシー株式会社の森崎清登社長が実際に乾杯の音頭を取ることになり、大盛り上がり

世代を越えたコミュニケーションも実現し、一定の手ごたえを感じた幸内さんですが、今後は、防災に特化したイベントを続けるつもりはないそうです。それはどうしてでしょうか?

「防災」をメインとするのではなく、イベントや仕事の中に、「防災」のテイストを入れていけばいいのかなと。硬いテーマを掲げない方が、みんなが参加しやすいと思うんです。

たとえば、海の家のメニューに避難経路図を盛り込み、災害時に観光客にサッと配れるようにしたり、小中学校の運動会の種目でバケツリレーを盛り込んだり。

防災の要素を取り入れてみんなで遊んだ後に、「これは災害のときに役立つんやで」と教えるんです。その時に、「あ、そういうことなんや」と気づき、頭にインプットしてもらう。

最後の種あかしさえ忘れずに伝えれば、それで十分なんです。僕らの一番の目的は、「コミュニティづくり」ですからね。

次の時代を担う若者たちにコミュニティづくりの種をまく

幸内さんは、海の家のアルバイトにやってくる10〜20代の若者たちに、コミュニティづくりに通じる考え方を仕事の中で教えています。それが、「カッパ天国の仕事内容」の10項目です。
 
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「カッパ天国の仕事内容」の10項目は、幸内さんが毎朝、アルバイトのみんなに伝えていることです

ここに書いてあることは全部、コミュニティづくりにつながります。僕は、彼らに種をまいているつもりです。いつか、彼らが人を使う立場になったときに、この言葉を思い出してほしい。僕と同じような道を歩み、コミュニティの必要性に気づいてくれたらいいな、と思って。

現在、アルバイト卒業生たちが、Facebookを通して、各地から幸内さんの活動を見守ってくれています。幸内さんの「まいた種」を持つアルバイトさん達によって、将来、幸内さんの活動が色んな地域とつながる日がやってくるでしょう。

そしていつか、全国のあらゆる地域に、災害時にみんなで助け合えるような、仲の良いコミュニティが確立されていけば、とても心強いと思いませんか。

災害の多い日本にとって、地域のコミュニティづくりというのは、これからの時代の大切な「災害への備え」のあり方なのかもしれません。

(Text: 村崎恭子)