防災教育に取り組む「NPO法人さくらネット」河田のどかさん(写真左上)
「救える命がたくさんあったはずなのに、悔しい」。悔恨の思いを活動のエネルギーに変えて、今日も防災活動に東奔西走する女性がいます。
「NPO法人さくらネット」に勤める河田のどかさんです。河田さんは7歳で阪神・淡路大震災に被災。震災がその後の人生を決定的に変えました。
1987年、兵庫県神戸市須磨区に生まれる(現在、同区在住)。7歳のとき須磨区の自宅で阪神・淡路大震災に遭う。その後、防災教育を専門的に学べる兵庫県立舞子高等学校環境防災科に進学。神戸市内の大学に在学中から防災関連のボランティア団体の運営に関わる。大学卒業後の2010年4月より「NPO法人さくらネット」に勤務。現在、同NPO、防災・滅災教育推進課課長。
もしものとき、生きる力、乗り越える力を育てよう
まずは河田さんが勤務するNPO法人さくらネットの取り組みを見てみましょう。
NPO法人さくらネットは、防災・減災教育、災害にも強い福祉コミュニティづくり、協働による市民社会づくりに取り組んでいます。また、実際に災害が起きた際には、現地入りするボランティアをサポート。東日本大震災の復興支援活動にも取り組んでいます。
2011年には、東北の被災地でボランティアに取り組みたい全国の学生のために、被災地での移動手段・宿泊施設・食事・活動先をコーディネートする仕組みづくりとして、「いわてGINGA-NETプロジェクト」を岩手県立大学学生ボランティアセンター、岩手県社会福祉協議会などと協働で主催してきました。
また、全国で防災教育に取り組む学生たちを表彰する「ぼうさい甲子園」の事務局も3年前から務めています。毎年、日本全国の小・中・高校、大学を中心に、100〜120の団体から寄せられた防災の取り組みから優秀な団体を選び、1月には表彰式を行います。
全国で取り組まれている防災活動を表彰する「ぼうさい甲子園」表彰式の様子
そんな「さくらネット」の中で、河田さんが担当しているのが、防災・滅災教育です。阪神・淡路大震災から学んだ教訓を後世に伝えるための博物館「人と防災未来センター」(神戸市中央区)で、子どもたちや教育関係者、自治体の職員に向けて、防災への意識を啓発し、継続した防災活動を自主的に行うためのプログラムの企画開発と実践を行っています。
この他、近畿の幼稚園や小中学校などで講演活動を行ったり、地域団体や社会福祉協議会と手を組んで「子ども防災EXPO」という防災啓発プログラムを開催することも。インタビューを行った日は「避難所運営の訓練指導がある」とのことで、事務所のある兵庫県西宮市から京都まで飛んで行きました。
「防災教育こそが人々の意識、そして街のあり方までを変える」と言う河田さん。「ぼうさい甲子園」の受賞常連校である徳島市の津田中学校は、夏休みを返上して住民にアンケートし、災害への課題を抽出して、町長や町議会に対策案を発表しました。そんな子どもたちの頑張りは、地域の人々の意識を変えているのです。
「NPO法人さくらネット」では防災教育で使用する教材の貸し出しも行っています
子どものうちから正しい防災教育・防災活動に取り組み、万が一の自体に備えることが大事です
子どもの目に映った神戸のまち
仕事を通して人生の多くの時間を防災教育に捧げる河田さん。被災した冬の日、震災が起こった午前5時46分。食器棚からお皿が飛び出しながら次々に割れる様子が、スローモーションのように脳裏に焼き付いている、と言います。
もともと朝は弱いのに、その日だけは偶然目が覚めていて、会社に行く父を布団の中から身を起こしながら見ていました。「じゃあ行ってくるわ」と父が言うと、これまでに聞いたこともない地鳴りがして、体が浮くように上下左右に揺さぶられました。
「神戸に地震は来ない」と言われていただけに、それが歴史に残る大地震だとは瞬時には理解できなかったそうです。しかし、地震発生から続く余震の中で、ただただ恐怖が増していきました。
地震発生から数時間後、河田さんの住む地区では停電が復旧。テレビをつけると被害の映像が映し出されていました。家屋の倒壊や火災などが集中した神戸市長田区に住んでいたおじいさんとおばあさんの安否が気になり、家族全員で車に乗って須磨区から長田区まで移動することにしました。
その道すがら、まだ幼かった河田さんの瞳に映る映像は鮮烈でした。大きなビルは倒れかかり、2階建てだったはずの家の瓦がすべり落ち、それとはわからないくらいに壊れている。
そして、呆然と立ち尽くす人々の姿。「早く進みたい」と、はやる気持ちを抑えながらおじいさんの家に着くと、家は半壊状態。結局再建はかなわず、取り壊すことになりました。
両親が共働きなので、小さい頃からおじいちゃんの家によく遊びに行っていました。まるで自分の家のように思っていたので、地震で家がなくなったと言われても信じることができなくて。
「家を見たい」と親に言い続けて、震災から1年後にやっと連れて行ってもらえました。家の跡地を見たら本当に何もなくて、そのときはじめて「ああ、地震で家が本当につぶれたんだ」と実感しました。
心の拠りどころだったおじいさんたちの家がなくなったショックは大きく、冬休みの作文にも書いたほどでした。しかし、「なんでもっと楽しいこと書かないの」とお母さんから諭されたそう。「お母さんを悲しませないように」と、その後地震のことを考えることは次第に減っていったそうです。
河田さんのおじいさんの家の前で撮られた思い出の写真
防災を専門的に学べる高校に進学した理由
無意識にフタをしたままだった震災への記憶をひもといたのは、中学3年生のときに読んだ新聞がきっかけでした。
私が通った兵庫県立舞子高校は、環境防災科を新設したばかりでした。その1期生にあたる方が「祖母が家屋の下敷きとなり、亡くなってしまった。震災と向き合うためにこの学科に入った」と書いていたんです。
私よりつらい経験をした人が震災と向き合おうとしている。「震災を知ろうとすることは、悪いことじゃないんだ」と思うようになりました。そして、私もただ阪神・淡路大震災と向き合いたいという思いで、この学科に入りました。
こうして全国で初めて防災を専門的に学べる学科に入り、災害への知識、防災への知恵を体得していった河田さん。
神戸は地震がないと言われてきたから備えをしていなかったということ、そして神戸は家の倒壊や家具の下敷きになったことによる死者が多かったと知りました。家具の固定や耐震補強をしていれば救えた命は4,000人あった、とも言われているんです。
河田さんが防災に込める祈りにも似た思いの底には、身近な方の死があります。保育園のときにお世話になった先生が、倒れてきた家具にぶつかり、亡くなっていたのでした。
「もしも家具を固定していれば……」。人生には「もしも」なんてありません。そんなことはわかっていても、何度も問いかけてしまいます。
地震は避けることができなくても、被害を少なくすることはできる。防災啓発で救える命があるのなら、防災の知識をもっと学びたい。
その思いから、河田さんは大学でも防災・社会貢献ユニットで防災教育を専攻し、ボランティア団体を立ち上げ、防災啓発にも取り組むことにしたのです。
一度は離れることも考えた防災の道
行動では誰よりも積極的だった河田さんですが、「心のどこかでは受け身なところもあった」と振り返ります。
大学3年生で四川大地震が起こったときに、防災教育を学ぶゼミに所属していました。そのとき被災地支援として千羽鶴を折って、一つ一つの鶴に願いを書く「一羽一願プロジェクト」が立ち上がったんです。
この鶴を四川に持って行く、という話がでたときに、私は「怖いから嫌」と思ったんですけど、本当のことが言えないから「経済的に厳しいから行かない」と言ったんですよ(笑)
そしたらみんなが費用を出せるように知恵をしぼってくれて、申し訳なくなってきて「行きます」と言ったんです。
今の道を選択するまでには、たくさんの葛藤があったそうです
「それまでの活動は、誘われて取り組むことが多く、自信を持って活動をしていなかった」と河田さんは振り返ります。就職活動でも、力を入れているはずの防災活動なのに、うまく自己PRできないこともあり、いったん防災の道からは離れようと考えたことも。
それは、いつまでもしぶとく疼く震災の記憶があるからでした。
実は高校3年生のとき、小さかった頃の記憶がフラッシュバックのように蘇ったことがあり、四川大地震が起こったときも、耐えられなくなって。平常心でやっていく自信がなくて、弱くなっていく自分をどうすることもできない、と思ったんです。
後から思うと、四川には行って良かったです。現地のプログラムの中で、事実と向き合う大切さ、教訓・思いをつなげる必要性を実感しました。支えてくれた仲間に感謝ですね。
そうして紆余曲折を経て卒業後に就職したのは、学生時代からボランティア活動を通して関わりのあった「さくらネット」でした。ここに入って、改めて自分のミッションを考えはじめます。
生涯かけてやっていこうと思ったときに、私はなぜこの道に入ろうと思ったのか。そのきっかけは何だったのかを振り返って、掘り下げて考えるようになったんです。
その答えが見えてきたときに、防災教育が嫌いだからやめようと思ったのではなくて、本当はこれがやりたかったけど、向き合う勇気がなくて逃げていただけなんだとわかりました。
震災の記憶をつなぎ、語り継ぐ存在へ
「あのときの気持ちがまだ続いていると感じることがある」と河田さんは言います。とは言え、なかば忘れかけていた記憶もありました。記憶を呼び覚ます手助けをしてくれたのが、高校3年生のときに授業で書いた震災の手記『語り継ぐ』の存在です。
実は、被災したのが7歳だと言うと「じゃあ覚えてないよね」と、記憶をないものにされることがありました。
でも当時の高校の先生が「体験の大きい、小さいは関係ない。年齢も関係ない。当時は上手く言葉にできなかった気持ちを高校3年生になって、今の言葉で伝えることが震災の体験と教訓を伝えていく上での“穴埋め”になる。震災に関していろんな人が記憶を語るけれど、子どもの記憶は抜けている」と言ってくれたんです。
「これからも防災教育の裾野を拡げていきたい」と話す河田さん。徳島市の津田中学校のように、地域と一緒に日常から防災活動に取り組む学校を増やすことが目標だそうです。
学校教育の中でも、「もっと日常的に防災教育が広がっていく仕組みをつくったり、防災の知恵を学び、活動する子どもたちを支える若い層の仲間を増やしたい」など防災にまつわる夢が広がります。
世代間での交流が少ない現代社会では、河田さんのように記憶をつなぎ、語り継ぐ人はとても大事な存在。
けれど河田さんは、ただ震災の記憶を伝えるだけではなく、一人ひとりがいのちを大切にする心を持つ大切さを伝えているのです。それは、未来の命を守ることにつながります。
あなたもあらためて、防災・減災のことを学び体験する機会をつくってみませんか。