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神戸の経験を次の被災地へと伝えていく。「NPO法人神戸まちづくり研究所」野崎隆一さんに聞く「20年の復興プロセスから学んだこと」

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震災学習現地交流プログラムに参加する子どもたち

特集「震災20年 神戸からのメッセージ」は、2015年1月17日に阪神・淡路大震災から20年を経過し、震災を体験した市民、そして体験していない市民へのインタビューを通して、「震災を経験した神戸だからこそできること」を広く発信していく、神戸市、issue+design、デザインクリエイティブセンター神戸(KIITO)との共同企画です。

震災後の被災地ではさまざまなボランティア活動が行われます。がれきの撤去や救援物資の仕分け、避難所運営のサポートなど、とにかく多くの人の力が必要とされると同時に、医療従事者をはじめとした専門家によるボランティアも求められます。

「ところで、何か資格をお持ちではないでしょうか?」

阪神・淡路大震災から約一週間後、神戸市東灘区役所でボランティアを申し出たとき、野崎隆一さんはこう問われたそうです。そして「一級建築士さんなら、お願いしたいことがたくさんあります」と言われて驚いたと言います。まさか一級建築士の資格が、被災した人たちの役に立つとは思ってもみなかったからです。

しかしこの瞬間、野崎さんは無意識のうちに、この瞬間から人生の航路を大きく変えるべく舵を切ってしまっていたのでした。
 
神戸まちづくり研究所 野崎隆一さん

野崎隆一(のざき りゅういち)
1943年大阪市住吉区生まれ、2歳から尼崎市で育つ。神戸大学工学部建築学科卒業。一級建築士。遊空間工房代表、神戸まちづくり研究所理事・事務局長。大学卒業後は東急不動産に就職、約10年間東京で団地開発やマンション企画に携わった後、実家が経営する大阪の建材輸入商社に入社。阪神・淡路大震災時のボランティア経験を機に、まちづくりコンサルタントとして活動しはじめた。震災当時は51歳、神戸市東灘区住吉の自宅にて被災。現在は東灘区魚崎在住。

震災に呼び起こされた“熱い日々”の記憶

野崎さんは、「神戸まちづくり研究所」で理事を勤めるかたわら、個人から集合住宅、公共建築物などの設計やまちづくり計画、建築コンサルタントなどを行う「遊空間工房」の代表も勤めています。

もともと、親の会社を継ぐ意志はなく、大学では建築科へ進学。東京のデベロッパーに就職しました。東京で出会ったのは、自分より5〜10歳若い連中が身を投じていた70年安保闘争でした。

当時は、政治だけでなく文化的にも前衛的なカウンターカルチャーが盛り上がっていて。僕もバリケード封鎖した大学内で行われる議論に参加したりと、非常に高揚した時代を経験したんです。

しかし、約10年の東京生活の後、実家から「帰って会社を継いでほしい」と呼び戻され、実家が経営する建材輸入商社に入社。好きだった設計の仕事から離れ、70年代の熱い記憶もまた遠い過去のものになろうとしていました。

阪神・淡路大震災は「平日は貿易の仕事、週末は趣味のテニスでストレス解消する日々」を送っていた野崎さんを文字通り揺り動かし、目覚めさせる出来事でした。

震災が起きて、ボランティアをするうちに自分に貢献できることがあるという手応えにすごく高揚して。気がついたら、70年代に感じたのと同じように非常に密度の高い時間のなかにいたんです。

野崎さんを目覚めさせた震災経験とはどのようなものだったのでしょうか? 震災当時の野崎さんのお話をくわしく伺ってみましょう。

被災地で求められた一級建築士の役割とは?

野崎さんは神戸市東灘区の自宅で被災。幸い、野崎さんの自宅マンションは一部損壊でしたが、東灘区全体の被災状況は激甚でした。約一週間後にようやくJRが一部復旧。野崎さんは最寄り駅から3駅向こうの芦屋駅まで自転車で走って電車に乗り、大阪の会社への通勤を再開しました。

僕は自転車で毎日がれきのなかを走っているのに、大阪に行くと何も変わらない光景があるんですね。だんだんそのギャップがしんどくなってきて、週末にボランティアをやってみようと思って東灘区役所に行ったんです。

そしたら「一級建築士さんなら、いくらでもやってもらえることありますよ!」ってえらい感激されて。

野崎さんが依頼されたのは、被災者から損壊した住宅に関する相談案件に応える建物診断のボランティア。家の被災状況を確認して「これならジャッキアップするだけで大丈夫」「ここを補強すれば安全ですよ」「残念ながら建て替えの必要があります」とアドバイスして回るというものでした。

会社ではただの肩書きになっていた建築士資格が役に立ち、野崎さんは「すごくうれしかった」と言います。

「一級建築士さんが見てくれた!」とすごい感謝されるんです。自分にも貢献できることがあることがすごくうれしくて、もう快感になっちゃって(笑)。当時は、毎週土日が楽しみでしかたなかった。

「忘れかけていた建築家の虫」がうずきはじめた野崎さんのもとに、避難所になっていた魚崎小学校の災害対策本部長をしていた友人から相談が舞い込みます。

「避難所にいる人が安心して家に帰れるようにしてあげてほしい」

野崎さんは関西の若手建築家が集まって立ち上げた「関西建築家ボランティア」に協力を依頼、この案件も引き受けることにしました。

「震災復興をやりたいから会社を辞める」

神戸まちづくり研究所 野崎隆一さん

野崎さんは、魚崎小学校で大規模な建築相談会を開催することにしました。毎週末ごとに、関西建築家ボランティアの建築家約20名が現地へ赴き、建物診断ボランティアを実施。

その結果、「建築家さんが言うなら安心」と家に帰れる人が続出し、最終的には避難者の数は約2000名から約700名まで減少しました。

野崎さんは建築相談をするうちに、「無秩序な復旧にしないための合意形成の必要性」に気づきます。そこで、「魚崎まちづくりシンポジウム」を開催。3ヶ月かけて、避難所にいる住民たちと議論をし、11章からなる「魚崎街づくり憲章」が採択されました。

震災後、3ヶ月が経つ頃には、野崎さんは週末のみならず平日の夜も震災復興の仕事に奔走するようになりました。そしてついに、決心が固まります。

4月半ばに父のところへ行って「復興の仕事をやりたいから会社を辞める」と言ったら意外とすんなり辞めさせてくれました。子どもたちもちょうど手が離れる時期でしたし、妻も賛成してくれました。

その頃になると、野崎さんのところには、住宅だけでなく、市場など公益施設の再建などの相談案件も持ち込まれるようになっていました。しかし、いずれも実現するかどうか全くわからず、収入のめどは全く立っていなかったそうです。

安定した暮らしよりも「自分が役に立っている」という手応えを選びたい。この選択が野崎さんの人生をまったく新しいものにしていきました。

マンション自主再建第一号を実現!

会社を辞めた野崎さんが最初に受けた仕事は、戸数30戸のマンション再建のコンサルティング。「前任のコンサルタントと意見が合わない。野崎さんなら住民の気持ちをくんでくれるだろう」と、知人から依頼された案件でした。

マンション再建には、設計料やコンサルティング料など初期コストが発生します。住民は「被災したのだから経費を抑えて負担を軽くしたい」と考えていたのですが、前任のコンサルタントは「デベロッパーを入れて、建設会社と協力して途中で発生するコストを立て替えてもらおう」という意見だったのです。

住民は「必要なお金は自分たちで集めるから」と言ったのですが、そんなやり方で再建したマンションは前例にないのでコンサルタントが降りてしまったんですね。

事業運営費を試算すると約4,000万円。住民のみなさんがこの金額を用意して、純粋な経費だけで行う“自主再建”に乗り出しました。被災者なんだから、みんなで団結して乗り越えようという強い思いがあればなんでもできるんです。

野崎さんは、各戸の住民に繰り返しヒアリングを行って、きめこまやかに要望に対応。被災マンション自主再建の第一号を生み出すことに成功したのです。野崎さんは、この仕事を皮切りに全部で5棟のマンション再建を手がけました。

それと同時に、野崎さんは復興の全体像を見通すべく、さまざまなシンポジウムやフォーラムに参加。そこで知り合った関心の近い人たちと交流を深めるようになりました。

当時は、神戸のまちで毎晩5〜6ヶ所でフォーラム、勉強会、報告会、シンポジウムが開かれていました。毎日「今日はどれに参加しようかな」と迷うんだよね。

なんとか選択して行くと「あれ、あの人はこの前も来ていたな」という顔ぶれがいるんです。なんとなくあいさつをしたり、名刺交換をしたりするうちにつきあいが生まれて、気のあった仲間が膨らんでいって「神戸復興塾」という集まりが生まれました。

復興の全体像を明確にし、新たな被災地に投影する

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神戸復興塾が主宰する「こうべあいウォーク」。1999年に第1回を開催、神戸のまちを歩き募金を集める。2015年1月11日(日)には震災20年「こうべあいウォーク2015」が開催されます。

新聞記者、医者、商店街会長、まちづくり協議会会長、建築家、都市プランナー、大学の研究者。1996年4月に設立された「神戸復興塾」には、実に多彩な専門家が集まりました。

考え方も活動のフィールドもさまざまでしたが、共通していたのは「神戸の復興の全体像を自分なりに理解したいという思い」だったと野崎さんは言います。

集まると毎回誰か一人が報告をして、それについてみんなでわーっと議論をする。70年を思い出すような、すごくいい雰囲気の場だったね。ときどきはゲストを呼ぶこともあったけれど、常に平場で対等に議論をしていました。

そんななか、1998年に特定非営利活動促進法(NPO法)が施行される1年前に、NPOの勉強会も始まりました。1998年には、神戸復興塾の仲間とサンフランシスコへ視察旅行にも出かけました。継続的に責任を持って活動する法人の必要性を感じたそうです。

神戸復興塾というルーズな、みんなで議論する場も大事だけれど、NPO法人も立ち上げようということになって1999年に「神戸まちづくり研究所」の設立総会を開き、翌2000年3月に認証を受けました。

神戸まちづくり研究所は、神戸復興塾を母体とし「計画的・持続的に復興まちづくりに取り組み、地域に根ざした独立独歩のシンクタンク」として誕生。5年目、10年目、15年目と節目ごとに「何ができ、何ができていなかったのか」を検証してきました。

現在の神戸まちづくり研究所の最も大きな活動は、東日本大震災の被災地支援。神戸復興の全体像を新たな被災地に投影しながら、復興の手助けを行っています。

地域や災害の種類によって、復興の具体的な内容は全然違います。「神戸でこんなことをやりました」と言っても全然通じない。

ただ、復興を進めるときの考え方はそんなに変わらない。だから、全体の流れのなかで「今、みなさんはこの時点にいるんですよ」とわりと的確にアドバイスができるんですね。

復興踊り場論「被災後3年目に何をすべきか?」

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気仙沼市鹿折地区での会合のようす

野崎さんは「復興は、階段をトントンと上がると踊り場のように停滞期がある」と言います。

震災3年目の神戸が経験した“踊り場”では、どんな議論があり、どんな新しい活動が生まれたのか? その経験を共有することによって「東北の復興は遅れているわけじゃない」と理解してもらうことができるそうです。

復興の当事者である間は、なかなか全体像を見通した議論は難しく、振り返ると「充分に理解できていなかったな」ということがたくさんあります。僕たちも、5年、10年、15年目にそれぞれ振り返って検証することで、だんだん全体像のピントが明確になっていく実感がありました。

野崎さんたちは、東北の被災地に行く前には、神戸の記録を振り返り「3年目の神戸ではこんなことが起きていたな」と必ず確認しているそうです。たとえば、3年目の“踊り場”では、神戸は何を経験したのでしょうか?

行政側の復興プログラムと、市民側の復興の歩みにズレが感じられて、市民が焦りを感じる頃ですね。市民側はNPOやボランティアグループで、行政にできないことをカバーしているわけだけども、3年目くらいになると行政が先に進んでいくのに、市民側が追いつけなくて置いてきぼりになった感覚に陥るんです。

「市民の思いにもとづく施策」という感覚が薄れ、「行政の施策をどう解釈するか」と受け身になってしまうと、市民のなかに閉塞感が生まれてしまうのです。そのとき、野崎さんたちが考えた打開策は「市民側から考える復興」を議論することでした。

「よりよい神戸をつくるために、自分たちにできることは?」「自分たちならこういう施策を考える」。福祉、まちづくり、住まい再建、コミュニティなど、さまざまなテーマで分科会を開いて議論。その内容は『市民がつくる復興計画』という一冊の本にまとめられました。
 
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『阪神大震災 市民がつくる復興計画 私たちにできること』市民とNGOの「防災」国際フォーラム実行委員会・著(1998年刊)

僕は今でもこの本を大事にしています。大事なのは「自分で考えた」ということ。「自分が行政なら」「自分が復興を主導するなら」と議論し合いながらつくることは、すごく役に立ったなあと思います。

行政が先に進んでいても、後から手直しする考え方を示すことができるわけだから、良い相乗効果を生むこともできるんです。実際に、僕らが提案したことのなかに、後で行政が取り上げたこともたくさんあります。

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「大人の修学旅行」と名付けられた被災地で活動する人たちの神戸視察受け入れの様子

今年の1月17日、野崎さんは石巻北上地区で「一段落して、次に何をすればいいかわからない」と言う北上地区復興応援隊の人たちに「市民がつくる復興計画」の話をしました。すると、北上地区の人たちは、さっそく同じテーマで本づくりに取り組んでいるそうです。

そういう話を聞くとすごくうれしいよね。今も月に2、3回は被災地に行っていますが、被災地で活動する人たちを神戸に呼ぶ「大人の修学旅行」も行っています。

助成金を申請して旅費などを出して招待して、神戸で同じような活動をする人たちと意見交換をする場をつくっています。

震災で学んだ最大のものは地域コミュニティの大切さ

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震災学習現地交流プログラムで炊き出しを体験する子どもたち

神戸まちづくり研究所では、中学生や高校生の修学旅行の受け入れも行っています。旅行会社を通して震災学習プログラムとして提供。旅行会社から得た収入は、半分は受け入れ先の地元自治会や婦人会に支払い、地域活性化の一助として活用してもらっているそうです。

修学旅行生たちは10人前後のグループで炊き出し体験などをした後、「震災のとき、何が一番困りましたか?」「どうやって逃げましたか?」と事前に用意してきた質問を被災者に投げかけていきます。

「トイレにうんちがてんこもりになって困った」という話があるじゃないですか? 「どうすると思う? ビニール袋を両手にかぶせて、こうやってするのよー」とおばちゃんたちが面白がって話すんです。そしたら子どもたちが「ええーっ!」と驚いたりしてね。

高齢の女性が多いのですが、子どもたちにいろいろ質問されて、昔を思い出して話すと元気になるんです。

20年前の震災当時を振り返りながら、野崎さんは「試行錯誤しながらもみんなで乗り越えて復興せなあかん!」という気持ちもあったと言います。

そして、これからの神戸に必要なのは、市民が誇りを持って取り組み、行政もきちんと評価して応援できる分野で「先進都市」と呼べるものをつくっていくこと。野崎さんは「オープンな地域コミュニティを持っている」という点で、神戸は先進都市であってほしいと願っています。

震災が起きたとき、自分の命や生業に関わることをみんなで話し合い、決めなければいけない局面にぶつかりました。みんながお互いに支え合おうとする、オープンな地域コミュニティが生まれかけていたんです。今も、そういうものが残っているところもあるけれどやっぱり少なくなっている。

誰もが気軽に自分の問題を持ち込んで話し合えるようなオープンな地域コミュニティを再生して、神戸の誇りにしたい。

震災から20年後の神戸には、まちづくりと復興のノウハウと知見を豊かに持つ“長老”のような人がたくさんいます。現在、まちづくりや復興に取り組んでいる若い世代の人たちも、野崎さんたちの懐に飛び込んでみるときっと視野が広がるのではないでしょうか?

野崎さんたちは今、毎月11日前後の日程で「3.11支援集会」を行っているそうです。まずはそんな機会に、まちづくりと復興の“長老”たちに会いにいってみませんか? 温かく迎え入れてくれること間違いなし!です。