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楽しいことが、しんどいときのよりどころになる。灘愛あふれる“naddist”慈憲一さんに聞く「”まちあそび”と復興のこと」

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特集「震災20年 神戸からのメッセージ」は、2015年1月17日に阪神・淡路大震災から20年を経過し、震災を体験した市民、そして体験していない市民へのインタビューを通して、「震災を経験した神戸だからこそできること」を広く発信していく、神戸市、issue+design、デザインクリエイティブセンター神戸(KIITO)との共同企画です。

慈憲一さんはデザイン事務所を経営する傍ら、豊かな灘ライフを演出するグローカルサイト「ナダタマ」を運営。

リュック一つあれば誰でも参加できるフリーマーケット「摩耶山リュックサックマーケット」や、神戸マラソンならぬ「東神戸マラソン」など、灘区を舞台に楽しい企画を次々と仕掛けている、“灘愛”溢れる“naddist”です。

阪神・淡路大震災を機に灘区に戻ってきたものの、慈さんはこれまで震災についてあまり多くを語ってこなかったといいます。しかし、実は慈さんのさまざまな楽しい活動は震災が大きなきっかけだったのです。まずは20年前のあの日のことを振り返っていただきました。
 
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慈憲一(うつみ・けんいち)
1966年神戸市灘区生まれ。大学時代から灘を離れ東京都江戸川区で生活するも、阪神・淡路大震災(当時28歳)を機に神戸市灘区に戻り、復興支援に携わる。“灘愛”をテーマにしたフリーペーパー「naddism(ナディズム)」、メールマガジン「naddist(ナディスト)」を発行。そのほか、灘イベント、灘ツアーを開催する。2006年に灘区グローカルサイト「ナダタマ」を開設。摩耶山リュックサックマーケット世話人、水道筋非公認案内人、灘区民まちづくり会議企画運営委員、灘百選の会事務局長、摩耶山再生の会事務局長。

NHKラジオの死亡者第一報に2人の同級生の名前が入っていた。

1995年1月17日早朝、慈さんは東京の自宅で奥さんのお父さんから「神戸が大変だ」という電話を受けます。テレビをつけるとそこに映されていたのは、実家近くの阪神高速道路が倒壊し、建物一帯から火の手があがっている空撮の映像でした。

実家に何度電話しても通じなくて、とりあえず会社に出社しました。職場はずっとラジオをつけてくれていたんですが、NHKラジオの死亡者第一報を知らせる数人の中に、同級生の名前が2人も入っていて衝撃を受けました。実家近くがかなり大変な状況だと分かりました。

15時ごろに避難所にいた弟さんから電話が入り、家族全員無事だという知らせを受けて、ひとまず安心。翌日には灘区の実家を目指しました。

1月18日は東海道新幹線が京都駅まで運行していたので、京都駅から在来線に乗り換えて大阪駅へ。阪急電車に乗り換えて西宮北口駅までは進むことができました。弁当と水がぎゅうぎゅうに入ったカートを引きずり、住民が東に向かって避難していく中、がれきの上を歩いてどんどん西に向かいました。

石屋川を越えるまでは街灯もついていたし、まだ実感が少なかったんですよ。でも灘区の六甲道に入ると倒壊している建物が多くて、街灯ももちろんついてなくて、むき出しになったガス管からずっと炎が出ていました。自分の知っている風景がなくなって、大変なことになっていると実感しました。

救急車や消防車のサイレンが鳴り止まない暗闇の中、がれきを迂回しながら進み、自宅らしきところに到着したのは23時半頃。西宮北口駅から歩いて4時間ほどかかりました。
 
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震災直後の本堂

慈さんの実家はお寺。本堂は恐竜が倒れたかのように崩れていたそうですが、庫裡(くり)と呼ばれるお寺の住居部分だけ平屋だったため、倒壊を免れていました。

柱の多い玄関だけが無事で、そこに布団を並べて両親、弟、おばあちゃんの4人が寝ていたと慈さんは記憶しています。家族は初日だけ小学校の避難所にいたものの、住職はお寺を管理しないといけないという考えから、避難所を引き上げていたそうです。

灘区の味泥(みどろ)地区は激甚被災地だった。

家族みんなが明るかったのが救いでした。親父は酒を飲んでウォークマンでジャズを聞いていたんです。俺が帰ってきたのを分かっていなくて、おふくろが「憲一が帰ってきたよ」と言っても「おう!」の一言で終わり。ちょっと気が抜けました。

神戸市民は1938年に阪神大水害を体験し、戦災を乗り越え、1967年にまた水害を受けて、阪神・淡路大震災を体験しているため、「一度まちがなくなることに慣れている人たち。あらゆる災害を乗り越えてきた両親世代って達観しているんですよ」と慈さんは言います。

「よう帰ってきたね、大変やったでしょう」と逆にこちらのことを心配されました。

関西はもともと地震が少なかったですし、きっと関東で大地震が起きたのだろうと思っていたみたいで。「神戸がこれほどだから東京はもっとひどいだろう」と思っていたそうです。

情報が届いていなかったので、新聞の号外を見せたら「兵庫県だけやん!?」と驚いていました。

慈さんの実家がある灘区の味泥地区は激甚被災地。周りの道は、腰くらいまでがれきが積み重なっていました。2台の自家用車のうち1台は無事だったので、JRの線路沿いに車を駐車してエンジンをかけたまま寝ようしたものの、眠れない一夜を過ごしたそうです。

翌日、1月19日は子どものころからお世話になっていた隣に住む方や、向かいに住む方が亡くなられていたことを知りました。

自衛隊の方々が遺体を引っ張り出してくれました。親父やおふくろと草を摘んで供えて。手を合わせて回ることしかできなかったんです。

倒壊した家の片付けをしている間も常に余震があり、いったんは避難したのに余震で家が倒れて亡くなったという方も身近におられたそうです。
 
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教会から借りたテントで仮本堂を設置

ほどなくして地元に「味泥復興委員会」というまちづくり組織が立ち上がりました。「手伝えることがあればなんでも言ってください」と伝え、ひと月に一度か二度のペースで東京から神戸に帰省。

東京で働きながらも、神戸の情報は、パソコン通信を使って、新聞に掲載されないような細かい情報を追っていたそうです。

1995年の春に結婚式が決まっていました。延期しようかと思いましたが、「こんな時期やから逆にめでたいことをせえ」と家族に言われて、9月初旬に神戸で結婚式をあげました。

神戸布引ロープウェイが動いていたのでハーブ園にあがったんですが、神戸のまちを一望した友人たちが「青いね」って言うんです。当時の神戸のまちは、ほとんどブルーシートで覆われていたんです。だから嫁は今でもブルーシートを見るのが嫌だといいます。

帰らなあかんな、という気がした。

東京では住宅設備機器を扱うデザイン事務所に勤めていた慈さん。結婚式の前に事務所の所長に来年退社したいことを伝えていました。

1996年4月に神戸に帰ってきました。あまり理性的な話じゃないんですよ。両親は帰ってほしいとは言っていないし、長男だからといった気負いもない。何となく帰らなあかんかなという気がしたんです。実家のお寺の復興を手伝わないと、という気持ちもありました。

結婚してすぐのころは無職だったといいます。失業手当と退職金をやりくりし、結婚の祝いに「家具でも買いなさい」といただいた祝い金は全部食費に消えました。
 
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当時の慈さん

29歳の慈さんはボランティアで味泥復興委員会事務局とお寺再建の手伝いをすることになります。その傍ら、前職のデザイン事務所から依頼されるとデザインの仕事もされていたそうです。

そうこうするうちに、1997年にたまたま参加した高校の同窓会で、大手教育系の企業に勤める同級生からデザインコンペの話が舞い込みました。

そのコンペに出したらうちのが通ったんです。それから毎月教材のデザインをさせていただきました。あのころ周りの人たちの助けがなかったら今頃どうなっていたかなあと思いますね。

「まちづくりは嫌い」という思いから
naddist、nadism、ナダタマという灘区を愛するメディアが生まれた。

慈さんは味泥復興委員会の立場で、高層マンションができるにあたっての、住民側の窓口を担当されていました。

まちづくりと言っているのに目の前でけんかが始まることもありました。いきなり”まちはみんなのもんやから”と言っても無理があります。

そのときに自分は親分肌でもないし、調整能力もないので、自分でできる範囲でまちを楽しくしていこうと思いました。

まちづくりは5年後こうなっていたいと目標をつくるものの、「仕事であればそれでいいけれど、自分の住むところに義務感みたいなものが生じるのは違和感があって好きじゃない」と慈さんは言います。
 
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フリーペーパーnaddsim

そんな思いと並行して、慈さんはフリーペーパー「naddism」を創刊。ご本人いわく、まちを楽しくするゲリラ活動を開始していきます。

のちにメディアをメールマガジン「naddist」(1999年)に移し、神戸を離れた人たちなどに向けて灘区の状況やまちの楽しみを伝えるようになりました。読者は1000人以上。さらにはグローカルサイト「ナダタマ」を立ち上げました。

摩耶山リュックサックマーケット東神戸マラソン六甲縦走キャノンボール大会など、神戸のまちで遊ぶ魅力的な企画をどんどんつくっていきます。
 
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naddsimの取材中

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メルマガnaddistの読者ツアー

まちあそびをやっていたのも”うすら笑い”の延長だったと思います。震災復興の活動ってしんどいし、やっとれんし、「何か楽しいことないの?」という状況だったからメールマガジンのnaddistなんてウケたんだと思います。

一回まちが全部なくなったときに、まちの話をしてくれるメディアの存在が、しんどいときのよりどころみたいになっていたと思います。

神戸のまちに期待すること。

最後にこの20年間を振り返って、神戸のまちに思うことを聞いてみました。

住民も頑張ったけれど、行政もすごく頑張ったと思います。遠慮せんと「頑張りましたよ!」と、もっと言っていいと思うけどね。割と遠慮しいが多いね、神戸は照れる人が多いから。

ふとした瞬間に震災のことを思い出すことがあるものの、「いつまで震災震災言うねん」と言われるトラウマもあって、自分も含めて神戸の人が口を閉ざした時期があったと慈さんは振り返ります。慈さんは今後の神戸に期待することはどんなことでしょうか。

神戸って観光とかでちょっと来て楽しむようなところじゃなくて、住んでなんぼのまち、住んでこそ価値のあるまちだと思うんです。だから神戸に住んでいる人が楽しくなるようなことをしていきたい。

何やったら神戸で面白いことをやっているから、それをきっかけに神戸に住みたくなるというのが僕的にはうれしいけどね。

逆に言えば神戸には大したもんがないんですよ。コンパクトな生活都市で、自然溢れる、天然の良さを露出していかんと神戸は生き残っていかれへんし、普通の地方都市になってしまうと思います。

インタビューの中で何度か、震災を体験した方には「そういうのあったなあ」という昔の話を共有することで気が楽になる状況がある、とお話しされていたのが印象的でした。

自分のまちがなくなるということを体感すると、知らず知らずにアイデンティティが喪失していき、そういう状況ではnaddistのようなメディアや神戸のまちを楽しむイベントは有効だったと実感されているようです。

神戸の復興のために尽力した慈さんがその経験の中で積み重ねてこられたのは、楽しみながら参加できる”まちあそび”の仕組みであり、その遊びの中で自然な形で人の輪をつくって「気が楽になる状況」のベースをつくってこられたのだと思います。

慈さんの楽しいゲリラ活動は、まちに何もなくなったことで生み出された、地域のつながりをつくるヒントではないでしょうか。