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想いのハナを咲かせる「シンサイミライノハナ」プロジェクトで震災を語り継ぐ。Co.to.hana西川亮さんに聞く「震災のためにデザインができること」

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特集「震災20年 神戸からのメッセージ」は、2015年1月17日に阪神・淡路大震災から20年を経過し、震災を体験した市民、そして体験していない市民へのインタビューを通して、「震災を経験した神戸だからこそできること」を広く発信していく、神戸市、issue+design、デザインクリエイティブセンター神戸(KIITO)との共同企画です。

課題解決に取り組むデザイン事務所「NPO法人Co.to.hana」の代表理事を務める西川亮さんは、「シンサイミライノハナ」というプロジェクトで阪神・淡路大震災の記憶と経験を、後世に語り継いでいく活動を続けています。

このプロジェクトは、阪神・淡路大震災から15年がたった頃、震災を知らない世代が増えている中で、震災の記憶を未来に伝え、人と人のつながりを育むため、神戸のまちで始まりました。
 
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西川 亮(にしかわ・りょう)
社会課題をデザインで解決するNPO法人「Co.to,hana」の代表理事でデザイナー。またオフィスがある大阪市住之江区の北加賀屋を拠点にまちづくりの一環として「みんなのうえん」を運営する。震災当時は8歳。堺市の自宅にて経験する。現在は大阪市在住。

震災について考えるきっかけをつくる

「シンサイミライノハナ」は、“私にとっての震災とは”というメッセージを記入してもらった花びらの形をしたカードを5枚組み合わせると咲く花。この花をまちなかなどに飾って、多くの人に震災について考えるきっかけをつくるプロジェクトです。

メッセージを書くことで初めて、亡くなった家族のことを話すことができてうれしかったという遺族の声もあります。また、同じ震災を経験していても被災の程度に差があって、もっとつらい思いをしている方のことを考えると、自分の被災経験など話してはいけないのではないかと悩んでいたという声もありました。

これまで、日本中、世界中の10万人を超える方々からメッセージが集まり、また、さまざまな国や地域でメッセージの花を咲かせてきました。

例えば、インドネシアで災害が起きた地域でも、現地と関わりのある大学の先生から声がかかり、スマトラ島で花を咲かせています。家族を失った悲しみから言葉を失くし、感情を押さえ込んでしまった子どもたちが花びらに思い思いの言葉を書くことで、少しずつ心を落ち着かせることもありました。
 
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たくさんのメッセージが寄せられ続けている「シンサイミライノハナ」

震災の記憶の継承から始まった「シンサイミライノハナ」は、ときに被災地で同じつらい思いをしている人の気持ちの共有の機会という役割も果たしながら、たくさんの人の思いをつなげ続けています。

いったい、西川さんにとって阪神・淡路大震災とはどのような体験だったのでしょうか。まず、震災当時の気持ちを振り返ってもらいました。

1月17日に見た「灰色」の景色

阪神・淡路大震災が起きた朝、西川さんは六甲山の方角全体が「灰色」に染まっているのを見ました。当時、小学2年生の西川さんが住んでいた堺市は、遠くに神戸が見通せるまちでした。テレビのニュースで映る煙に包まれ、建物が倒壊した神戸のまちがその先にあるという事実が全く信じられないことでした。

西川さん自身の震災の記憶と言えばそのとき見た「灰色」の景色。幸いにして親戚や知り合いにも大きな被害はなく、実家でもたんすが倒れそうになったのを両親が押さえていたことぐらいで、翌日からはいつもの通り学校に通っていたそうです。
 
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Some rights reserveed by Masahiko OHKUBO

それから西川さんと阪神・淡路大震災との関わり方は、おそらく多くの人がそうであるように、1月17日の新聞やニュースで思い出す「地震の記憶」にとどまっていました。

西川さんが初めて震災と向き合うことになったのは約8年後のこと。建築家を目指して神戸芸術工科大学に入学し、神戸のまちで過ごす時間が増えたことがきっかけでした。

神戸で暮らしていると、居酒屋でおっちゃんたちが酔って雑談している中にも、ふと震災のことが出てきます。今まで住んでいた大阪ではなかったことなので新鮮でした。

ある意味、震災を経験したことが神戸の人たちのアイデンティティになっているのかもしれないなと思っていました。

また、大学には災害時シェルターの設計に取り組んでいる研究室があったり、「人と防災未来センター」の主任研究員をしていた山崎亮さんと交流する機会があり、神戸に震災とコミュニティを考える人たちが集まっていました。

そんな学生時代を通じて、西川さんの社会とコミュニティのあり方に対する関心も高まっていったのです。

震災のためにデザインができること

一方で建築を学ぶに連れて、西川さんの中に一つの疑問がわいてきました。それは「建物をつくることだけが建築家の職能なのか?」という疑問です。

建築は建物ができる土地の文化や歴史、コミュニティの在り方をとらえて設計しないといけないものだと思うんです。でも建築家の中にはアートに近い考えで設計している人が多いなと思っていました。

建てるプロセスに、そこでコミュニティをつくる多くの人を巻き込みながら建築家という職能をどう発揮していくかが大事だと考えていたので、建物だけを考えることにはどうしても違和感がありました。

そんなとき、大学でコミュニティデザイナーの山崎亮さんや建築家の藤村龍至(りゅうじ)さんの講演があり、プロセスを大事にした建築をやり始めている人がいることに勇気づけられました。

そして、「震災のためにデザインに何が可能か」というコンペティションに応募した「飲料水トリアージ」が最優秀賞に選ばれたことが自信になりデザイナーとして独立する決心が固まります。

そのアイデアは、緊急時の医療で重篤レベルの判断に使われるトリアージタグを、震災時の飲料水の品質管理に応用したものでした。
 
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「震災のためにデザインに何が可能か」に応募した「飲料水トリアージ」

建築もデザインも「そこに人がいる風景」をどう、より良い方向へ導いていくかという点においては同じだと思えるようになりました。つくらなくても建築家の職能は発揮できると実感できたことが、社会課題を解決するデザイナーとしての道を選ぶ力になりましたね。

「僕らがやらないと誰がやるんだ」という思い

震災と関わることになったのは起業して間もない頃。NHKが製作した「未来は今」というドキュメンタリーと連動したイベントでのことでした。

ドキュメンタリーは、神戸の震災を子どものときに経験した森山未來さんが、14年後の神戸の街まちを舞台に神戸大学の学生と一緒にご遺族を訪ね、神戸の「今」について考えるものです。

そのドキュメンタリーの上映会で、“私にとっての震災とは”というメッセージを集めた「シンサイミライノキ」というオブジェを制作しました。「飲料水トリアージ」のことを知っていたNHKのスタッフに声をかけてもらったことがきっかけです。

メッセージを集めるために遺族の方に話を聞いて回ると、「神戸は震災から復興したと言っているが、本当はまだ復興していない、私たちの心はまだ苦しんでいる」という声もあり、震災後の神戸の姿はひとつじゃないことを痛感することに。

森山未来さんの注目度もあって、イベントには若い女性が多数集まってくれました。普通なら関心の薄い人も震災のことを考えてくれる場が持てた反面、その状況に対してもんもんとする自分がいました。

もっと若い世代に震災のことを伝えるべきなんじゃないか? 一人ひとりの体験としての震災を伝えるべきだと。今から思えばいい意味で勘違いなんですが、「僕たちがそれをやらないと誰がやるんだ」という気持ちが湧き上がってきたんです。

その強い思いが「シンサイミライノハナ」につながっていきます。
 
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大学時代のイベント用に企画した「シンサイミライノキ」も原点

震災を知らない神戸の若者と一緒に学ぶ

神戸の震災から20年が過ぎ、震災のことを知らない世代が大人になっています。今、西川さんたちは彼らと一緒に、改めて震災のことを学ぶ場作りにも取り組んでいます。

「震災後に神戸で生まれ育った世代の若者が、東日本大震災の被災地のボランティア活動にたくさん参加して頑張っている」と西川さん。実は神戸は震災を経験したことで、ボランティアやNPOの活動が盛んなまちになっていたのです。

その神戸のポテンシャルを若い人に伝え、学び、これからもっと活用していくのが僕たちの役割だと西川さんは語ります。
 
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東北支援のイベントには震災を知らない神戸の若者もたくさん参加してくれました

僕自身が直接的には全く震災を経験していないからこそ、余計に思うのですが、いろんな経験を聞いてきて、一人ひとりにそれぞれの震災があるのだと実感しています。

一括りくくりに震災を捉えることはできないものです。だから、知らない世代は、知らないということを最初に認めたほうがいいと思うんです。

僕も活動を始めた頃はどこか知ったかぶりをしかけている自分がいました。それは経験している人に対して誠実でないことだと思います。

知っているふりをすることで、経験者から学ぶべきことを見落としてしまうし、その態度はすぐに伝わります。つらいこともあえてお聞きするときに不誠実だと二度と話してもらえなくなりますから。

東日本大震災と「いしのまきカフェ」

2011年3月11日。神戸以上の震災は起きないだろうと誰もが思っていたはず。しかし、東日本大震災が日本を見舞います。

西川さんたちもすぐにボランティアとして現地に入りました。同時に避難所になっていた体育館で咲かせた励ましのメッセージの「ハナ」は被災地の人に明るさを取り戻すきっかけになったそうです。

はじめは「ハナ」に意味があるのか?という葛藤もありました。

でも、共同生活の避難所ではしゃぐこともできない子どもたちが集まってきて、一緒に「ハナ」をつくっていくと、しょんぼりしていた顔に笑顔が生まれ、避難所自体の空気も少し明るくなっていきました。

それを見て、今これをやる価値はあると確信できました。

現在Co.to.hanaは、複数のNPOと一緒に石巻の高校生が運営する「いしのまきカフェ」という復興事業を行っています。沿岸部の企業が被災し、高校生の就職先がなくなったため、将来的にまちが復興したとしてもまちに若者がいなくなることを危惧してスタートした事業です。

高校生が石巻の可能性を再発見できるよう、石巻の人を訪ねて話をきいたりしながら、「地元の資源」を掘り起こしていくサポートをしています。
 
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石巻の高校生と一緒に取り組んでいる「いしのまきカフェ」卒業生も活躍中

カフェのメニューは地元のものにこだわっていますが、そこにいる人とつながることも大切にしています。

地元の水産企業さんといっしょに商品開発をしたり、農家さんにお米の話を聞きにいったり。お客さんとの距離が近く、表情が見えるキッチンや、コミュニケーションが生まれやすいあたたかみのあるカフェスペースなどの、工夫がいっぱい詰まっています。

お店の名前、コンセプト、ロゴ、メニュー、空間デザインなど、全てをゼロから地元の高校生とつくってきました。西川さんが、ずっと大切にしてきた「その場所」に関わる人と一緒に建物や場をつくるプロセスが石巻にひとつの希望を灯して始めています。

西川さんは「そうしたコミュニティづくりこそ防災の一つになる」と言います。Co.to.hanaが大阪市内で運営している「みんなのうえん」という市街の空き地を共同農園にしたコミュニティづくりも、もし大きな災害があったときに人を守るつながりになるはずです。
 
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大阪市北加賀屋の「みんなのうえん」は農業を基点に地域のつながりを広げています

小さなコミュニティを一人の人が複数持っていると、あるコミュニティがだめでもまた別のところでカバーでき、非常時に孤立することを防ぎます。

建築をはじめとして「場」をデザインする場合に、コミュニティの在り方から考えることは、とても自然なカタチでセーフティネットをつくることになるのではないでしょうか。