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熊本地震から半年。今、復興に必要なのは、被災者一人ひとりにとっての“我が家”。益城町で住宅再建の課題を取材しました!

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©Funny!!平井慶祐

こちらの記事は、greenz peopleのみなさんからいただいた寄付を原資に作成しました。なお、寄稿にご興味のある方は、こちらをご覧ください。

本日10月14日、熊本地震から半年を迎えました。

町全域に被害が及んだ熊本県益城町では、5600棟以上の家屋が倒壊。今も至るところに全壊した家屋がそのまま残され、傾いた電柱や隆起した道路など、町の風景は地震直後と変わらないまま。初めて益城町を訪れる人は、一様にその被害の大きさに驚きます。

今回ご紹介するのは、益城町で特に甚大な被害を受けた櫛島(くしじま)地区です。

前回、8月に掲載した記事で紹介した東無田(ひがしむた)地区の隣に位置する櫛島は、周辺を田畑に囲まれ、昔ながらの瓦屋根の家屋が建ち並ぶ集落で、60世帯/120人ほどの住民が暮らしています。約6割の家が倒壊し、地震後数か月は車中泊や庭先で避難生活をする方が少なくありませんでした。

81歳で“家なき子”

このちょっと先の家、81歳で家なき子だよ。

地元の方に櫛島の被害状況をたずねると、近所に住むおばあさんのことをそう話してくれました。

一人暮らしをしていた家が全壊し、一時は娘さんの家に身を寄せていましたが、その後は一人で仮設住宅に入られたそう。年金で暮らす高齢者や農家が多い櫛島は、住宅再建が難しい人も多いようです。

今回は櫛島地区を通して、益城町の住宅再建の課題と震災から半年を迎えた現地の様子をお伝えしたいと思います。
 
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櫛島地区の被害の様子。9月撮影

なかなか進まない解体作業、完了までは2年

私は地震から1ヶ月後の5月中旬から6月まで、日本財団熊本地震プロジェクトのスタッフとして、益城町の支援活動に携わりました。9月初旬に再度益城町を訪れると、町の中心部に更地がいくつかでき、橋の補修が行われるなど、ようやく復興に向けて進み始めた様子。

8月に指定避難所が集約され、現在は益城町総合体育館が町内唯一の避難所となり、10月末での閉鎖を予定しています。10月上旬までに希望者全員が入居可能な1,556軒の仮設住宅が完成。仮設団地では既に自治会が組織され、総会や懇親会が開かれるなど、被災者の方々の新しい生活がスタートしていました。
 
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公費解体が行われている家屋。櫛島地区、9月中旬頃

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櫛島に隣接する東無田仮設団地

益城町では、罹災証明で半壊以上と判定された家屋は所有者からの申請に基づき、行政が解体・撤去を行う方針で公費解体が進められています。

ところが、申請数4,785棟に対し、解体が完了しているのはわずか3.9%の189棟(9月29日現在)。家財を取り出しながらの作業は時間を要し、さらに業者の不足などにより、すべての解体を終えるまでに2年以上かかると云われています。しかし、仮設住宅の居住期限は2年。先の見通しが立たず、焦りを感じている被災者の方々もいるようです。

倒壊した家に対する感情の変化

9月中旬に訪れた櫛島周辺も、解体中の家屋やすでに更地になった土地、新築の基礎工事が始まっている家が数軒ありました。ほっとした私に、地元の方がふとこんな言葉を漏らしました。

家を壊すのがつらくて仕方がない。ついこの前まで住んでいた我が家なのに。

突然、我が家に住めなくなり、家を壊すというのはどんな気持ちなのか。

5,600棟以上が倒壊した益城町で、その一軒一軒の家はそれぞれの家族にとってどんな存在だったのか。私は外部支援者という立場で益城町に入り、自分が前に進むことしか考えていなかったことに気づき、はっとしました。
 
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日本財団が5月と7~8月の2回にわたり実施した「熊本地震避難所在住者調査」に調査員として参加した竹下和輝さんは、被災者の方々の倒壊した自宅に対する感情は時期によって変化が見られたといいます。

5月は食事や衛生面、罹災証明の発行に関する悩みが多かったのが、7月に入ると、「家がいつまで倒壊したままなのかわからない」「早く片付けて、新しい家を建てたいからお金がほしい」など、倒壊した家がまるでやっかいな存在に。ところが、実際に家を解体したご家族の気持ちはまた違っていたそうです。

竹下さん 「更地になった自分の家があった場所を見たら、なんだか力が抜けて涙が出た。いっそ倒壊した家をそのまま残しておけば良かった」と。

解体を早々に終わらせて次のステップに進めるのに、虚無感が襲ってきて、次の一歩を踏み出すのを戸惑っていました。それを見て、彼らにとって家は家族と同じような存在なのだと思ったのです。

地震のあったその日まで住んでいた思い出の詰まった我が家。被災者の方々にとって復興には欠かせない住宅の再建ですが、家は衣食住のひとつ以上の意味をもつことを知りました。

自宅再建のために抱える二重ローン

櫛島でいちはやく自宅の再建に着手したのが、大工の守口育男さんです。守口さんの自宅は全壊し、底が見えないくらいの大きな地割れが敷地内にできました。

「ブラジルが見えるかと思いました」と笑いながら、見せてくれた当時の写真。
 
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消防団でもある守口さんは地震直後、まだ余震が激しいなか、仲間と共に倒れた家に閉じ込められたおばあさんの救出にも駆けつけました。その夜は、電柱が倒れる危険から逃れるため、田んぼの真ん中にシートを敷き、毛布をかけて眠ったそうです。

その後、守口さんは家族とみなし仮設へ。櫛島の自宅の近くには寝泊まりができる小屋を建てました。しばらく仕事を休み、いつでも地元のために動けるようにしていたといいます。小屋には時々近所の人が立ち寄るようになり、初めて私が守口さんにお会いしたのもその場所でした。

守口さん 地震の後しばらくは、汚れた格好のままのばあちゃんがふら~と小屋に来ることもありました。最近はきれいにしなさって元気そうですね。

櫛島は公民館が全壊し、地元の方が集まることのできる場所がありませんでした。守口さんの小屋は地元の方にとって誰かの顔を見てほっと安心できる場所だったのかもしれません。
 
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櫛島公民館。応急危険度判定で“危険”を示す赤紙が貼られている。

守口さんは妻、子ども2人と両親の6人家族です。昨年12月に大規模に自宅をリフォームしたばかりでした。数千万円をかけて苦労して建てた我が家を壊したくないだろうと両親の気持ちを思い、実家のリフォームを決断。しかし、わずか数か月後に熊本地震が起こり、家は全壊。自宅再建のために守口さんは二重ローンを抱えることになりました。
 
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櫛島に暮らす大工の守口さん。

守口さん 自分にとって大事なのは嫁さんであり、子どもであり、家族。家族が無事だったから、落ち込んだことは一回もないです。家族が離れてしまわないように、早く家を建てたかった。

仮設住宅やみなし仮設に移り、集落を出てしまった人もいて、その人たちが帰って来られるように、まずは自分が早く櫛島での生活を再建したかったのだと守口さんはいいます。

“家族の一人になったつもりで、新しい家づくりを手伝いたい”

同地区は昔ながらの集落で道幅が狭く、現在の建築基準法上、新築や増改築の場合に必要な幅員4m以上の道路が少ないため、復興にはまず区画整理が必要になります。

さらに区画整理が行われたとしても、自宅再建の資金をもたない、高齢で金融機関の融資を受けられない人も少なくありません。一部損壊と判定された家でも、実際には修理に数百万円以上かかることもあり、融資を受けられず親戚中から資金を借りたという人もいました。

将来的には、高齢者の方々が安心して暮らせる災害公営住宅が必要になりますが、仮設住宅の目途がついたばかりで、行政の動きはまだこれからです。

櫛島と東無田地区では8月に有志が集まり、夏休みの子どもたちの思い出に、と復興祭が開催されました。これを機に、復興委員会が立ち上がり、復興計画に向けた益城町役場への働きかけを始めています。守口さんは櫛島からのメンバーとして参加。櫛島にはまだ復興に向けた自主的な動きはありませんが、少しずつ関心をもつ人が増えてきているそうです。
 
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全壊した八幡宮の境内で行われた復興祭の様子。

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地震直後から益城町の支援活動に携わる、しょどう家の堀之内哲也さんの作品「復興」がお披露目された

守口さん 復興委員会には10年関わることになるかもしれないけど、自分はこの集落が好きだから頑張りたい。

自分の家だけ建てても、仲良い人たちがいなくなったら意味ないし。集落の人には、大工の仕事を頼まれなくても、家の相談は受けるつもりです。まさに“家は家族”だから、家族の一人になったつもりで、家づくりを手伝いたい。

地震後、守口さんはその思いをさらに強く感じています。

最近、消防団の仲間の一人が新しい家を守口さんに頼みたいと声をかけてくれたとか。中学生になる娘さんはなんと建築家志望。彼女に手書きの図面を描いてもらい、一緒に新しい家を建てることを楽しみにしています。

私たちは震災とどう付き合うのか

私は、9月に益城町を訪れる前、避難生活の疲労が溜まっているのではないかと危惧していました。被災者も支援者も、もう半年間休みなく走り続けています。

そう感じたのは、何よりも私自身が支援を継続することの難しさを感じ始めていたからでした。1か月ごとに現地を訪れ、こうしてレポートするだけでも、時に仕事との両立をきびしく感じることがあります。現地にボランティアで通う方たちには交通費の負担もあるはずです。そして熊本だけでなく、その間には岩手や北海道を災害が襲いました。

熊本地震の復興が進まず、まだ支援が必要とされていることは、おそらく全国的にはあまり知られていないでしょう。これから本格的に進む片付けや解体作業に人出は必要なはずですが、支援団体は撤退を始め、ボランティアも減りつつあります。一方で、現実には、熊本県内でさえ地震の話は避けられているとも耳にします。いちばん近くの人たちが目を背けたら、誰が被災地を助けられるのでしょうか。

そんな思いを抱えながら益城町を訪れると、櫛島や東無田の方たちはとても元気で前を向いている人たちばかりでした。もちろん、そうでない方たちもいるはずですが。

ここからはもう良くなるしかないけん。10年、20年先のことは俺たちが考えんと。

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©Funny!!平井慶祐

私が出会った方たちは、口を揃えてそう言いました。未来は自分たちがつくるという意志と、集落全体のことを考える心意気に溢れた櫛島と東無田地区。

私たちは震災とどう付き合っていけばいいのでしょうか。
震災を忘れず、支援を続けていくにはどうしたらいいのでしょうか。

この機会にみなさんで話し合ってみませんか?

(Text: 杉本有紀)