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“ちがい”を認め合える社会をつくる。「ダイバーシティ研究所」代表・田村太郎さんに聞く「しなやかで強い地域のつくり方」

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特集「震災20年 神戸からのメッセージ」は、2015年1月17日に阪神・淡路大震災から20年を経過し、震災を体験した市民、そして体験していない市民へのインタビューを通して、「震災を経験した神戸だからこそできること」を広く発信していく、神戸市、issue+design、デザインクリエイティブセンター神戸(KIITO)との共同企画です。

田村太郎さんが代表を務める「一般財団法人ダイバーシティ研究所」のウェブサイトには、次のように書かれています。

ライフ・スタイルや社会のニーズが多様化するなか、組織に多様な人材が存在してこそ、本当のニーズにマッチした企業活動やサービスができるのではないでしょうか。

例えば、外国人住民として地域で暮らしていく中で、あるいは子育てや介護を担う経験を経て、さらには、介護される立場を経験して初めて見えてくるものが、今後はますます価値のあるものとなるでしょう。

「多様な背景を持つメンバーで構成される組織はしなやかで強い」という考え方に立って、積極的に組織の構成員が多様になるような戦略を持つことが必要となってきます。

ダイバーシティ研究所では、「ダイバーシティ」を雇用機会均等やワーク・ライフ・バランス(仕事と私生活の両立)の取り組みの推進にとどまらない、「しなやかで強い地域や組織づくりの『処方箋』」と考え、そうした地域や組織を実現しようとする人々の力になりたいと考えています。

田村さんがこうした理念を持ち、先駆的な活動を継続してきた理由を知るためには、1995年のあの日に遡る必要がありました。
 
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田村太郎(たむら・たろう)
兵庫県伊丹市生まれ。一般財団法人ダイバーシティ研究所の代表としてCSRにおけるダイバーシティ戦略に携わる。2011年の東日本大震災を受けて、「被災者とNPOをつないで支える合同プロジェクト(つなプロ)」、スペシャルサポート関西の発足に関わり代表幹事を務める。現在は、復興庁復興推進参与(非常勤)としても東北復興に関わっている。震災当時は23歳。伊丹市の自宅で被災した。現在は神戸市中央区在住。

レンタルビデオ店の電話が外国人の災害ホットラインになった日。

在日フィリピン人のためのレンタルビデオ店の店員。それが阪神・淡路大震災当時の田村太郎さんの仕事でした。

店舗があったのは大阪。フィリピンの映画やドラマのビデオを輸入して貸し出すお店には、レンタル以外の生活相談もたくさん寄せられ、「お客様」へのサービスとして、調べものなどにも応じていたそうです。

最初は東海地震がきた!と思いました。伊丹の実家で寝ていたら揺れがきて、ベッドごと振り回されて死ぬんじゃないかと。

電気はつかないし、テレビもラジオも入らないから、とにかく大阪のビデオ店にいかないとだめだと思って伊丹駅まで行きました。すると駅の売店の方に「何言うてんの。今日は電車なんか来ないで!!」と教えられ、地元が大変なことになっていると初めて知りました。

翌日、なんとかお店に辿り着くと、ビデオ棚は全部倒れているありさま。ただ、お店にはお客さんの在日フィリピン人から、電話がじゃんじゃんかかってきました。当時は、携帯電話やインターネットもまだ普及してなく、日本で暮らす外国人は、テレホンカードを使って公衆電話から連絡をとるのが一般的でした。

実は、災害時には公衆電話が優先的につながるようにインフラが整備されていたので、フィリピン人のお客さんがいつものように連絡すると、あっさりつながったというわけです。

そして、連絡ができるのなら助けたいと思った田村さんは、震災発生から2日後に外国人のためのホットラインを立ち上げ、FMラジオの番組や避難所でのチラシ配布を通じて、相談できる場所があることを知らせて回りました。

立ち上げ当初から、英語、中国語、スペイン語、ポルトガル語など7言語で対応。一週間後にはボランティア通訳の協力のもと、20言語対応・24時間受付の体制が整いました。そして2週間のつもりで始めたホットラインはあまりの相談の多さから、その後、半年も継続することになりました。

英語圏と、それ以外の言語圏では手に入る情報の量がまったく異なりました。英語圏なら英語で出ている広報物を見れば、補助金をもらうには区役所へ行けばいいということは分かります。

とはいえ、その後「証明書はどうすればいい?」といった相談になると、ほかの言語圏だと、その情報さえ手に入らない状況で、まず「お金がない!」から始まるんです。だから一つ一つ彼らが何の助けを求めているのかを、引き出して理解しないといけませんでした。

1995年7月に多文化共生センターを設立。

180人近くの外国人が亡くなった阪神・淡路大震災から半年。その間に田村さんたちの活動は様々な広がりをみせました。例えば健康保険の問題。被災直後の一ヶ月は誰でも無料で治療を受けられました。

しかし、2月に特例措置として条件が変更されると、保険未加入のため治療を続けられないケースもでてきたのです。

そこで、震災で傷病を負った在留外国人は、たとえオーバーステイ(不法滞在)であっても治療が続けられるように働きかけ、復興基金の事業として政策につなげるために奔走。そうした活動を通じて田村さんに一つの気付きが生まれました。

この人たちは震災が起きて困ったというよりも、もともと普段から困っていた。震災でより困難な状況に置かれたことで、社会に課題が明らかになったのだと思ったんです。

この見逃されていた社会課題をなんとかするために、95年の7月には「多文化共生センター」という団体を設立しました。2006年には外国人の問題だけでなくて、地域がもっと”ちがい”に対して寛容な社会になっていけるようにと「ダイバーシティ研究所」へと発展させて今に至ります。

多文化共生センターの設立当時、田村さんは若干23歳。「頑張ってるなあ。きみ?いくつや?」と聞かれて年齢を答えても実年齢よりも上に思われ、免許証を見せるまで信じてもらえないことが何回もあったそうです。

田村さんは「非常時だったからこそ自分に何ができるかが明確になり、肩書きや年齢に関係なく取り組みを評価してもらえた」と振り返ります。
 
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ダイバーシティ研究所のウェブサイト。活動は多岐にわたる。

公平平等とダイバーシティは似ているが、ちがう。

ダイバーシティとは「多様性」のこと。ダイバーシティ研究所の主な事業は、この多様性の根本的な考え方を企業に理解、浸透させ、実践していくアドバイザーやコンサルタントです。

“ちがい”に寛容な社会をつくるために、まず社会的影響が大きいところから意識を変えていこうと、企業の採用や就労環境の変化を促すアプローチをしていきました。

我々は、まずダイバーシティの根本の考え方を理解してもらうようにしています。最近では女性のキャリア活用がダイバーシティの一環として顕著に取り上げられていますが、公平な機会やチャンスをつくることがダイバーシティではありません。似ているようでちがうのです。

極端に言うと、公平な採用試験の結果、合格者が女性ばかりになってしまったら、それは女性に偏った採用。そこだけ見ると職場の多様性の度合いは小さくなってしまいますよね。それなら採用の仕組みから変えていかなければなりません。

ほかにも、持病を持っている人は治療しながら週3日の就労でも良いとか、子どもが熱を出したので仕事を休む、などのことも受け入れられる職場づくりが多様性につながっていきます。

ある意味で多様性があることは「不平等」なんです。それを認める寛容さが多様性のある社会をつくるんです。

たしかに、田村さんの言うように、多様な“ちがい”を認める社会を日常的に目指していれば、震災のような非常事態が起きたときにも、マイノリティや弱い立場の人に目を向けることができるはず。また、あらかじめ彼らの立場を想定して物ごとを決められるのではないでしょうか。

「多様な背景を持つメンバーで構成される組織はしなやかで強い」。社会はそうした日常の積み重ねの上に実現します。東日本大震災のボランティアサポートをしていたときには、その積み重ねがいき、避難所で見落とされがちな子どもの心のケアや、障がいを持った方のケアを支援することができました。
 
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多様性はある意味「不公平」だが、それを受け入れる寛容な社会をづくりが課題という。

復興とまちづくりならやっぱり神戸、と言ってもらえるように。

現在、神戸市の人口の4割は阪神・淡路大震災を経験していない人、震災後に転居してきた人、震災後に生まれた人で構成されています。

阪神・淡路大震災のときに活躍していた30代、40代の方々ももう50代、60代。20年を経た今、もう一度、誰もが暮らしやすい神戸を見直す必要があるのではないかと田村さんは考えています。

今、神戸の大学生が東日本大震災の後にボランティアで東北に行っても、現地の被災者や支援者に「語れるもの」が少ないんです。「神戸のときはどうしたの?」と聞かれても、知らないから経験則を伝えることができません。

もう一度神戸のまちづくりを見直すなかで、阪神・淡路大震災を経験したからこそ語れるものを受け継ぎ、増やしていかなければいけないと思いますし、行政のそういう取り組みに期待しています。

2012年から復興庁の役職にも就いている田村さんにブレはありません。

復興とダイバーシティに共通するのは、入口があって出口はないということです。復興が進めば進むほど、常に誰かが取り残されたまま進んでいるのではないか? 偏った立場からの計画ばかりが推進されていないか? と見守る必要があります。
 
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東北での復興支援活動にも尽力。黙祷するスタッフ。

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関西、神戸の学生と一緒に進めるボランティア活動のサポートも。

最後に今後の展望を聞きました。

ダイバーシティの担い手を増やしたいです。事業として実践し、活動を継続できる若者を育てることが私の役目なのかなと思っています。そのためにコミュニティ・ビジネス等の活動がしやすく、手を挙げた若者にチャンスを与えられる神戸市であって欲しいですね。