山肌を杉・檜が覆う奥多摩の森。秩父山系に連なるこの森で、探検家・医師である関野吉晴(せきの・よしはる)さんの旧石器時代の暮らしの実践が始まったのは2023年の1月のことだった。
人類が初めて道具を使い始めた旧石器時代。最初の利器は石で、人々は石を尖らせた槍で狩をし、獲物を石でさばき、毛皮をなめしたと考えられている。鉄もなければ、稲作もまだ始まっていない。土器すらない。そんな原初的な時代の暮らしに73歳(当時)という後期高齢者になった関野さんが挑戦するという。
縄文探究がライフワークの筆者は、以前から関野さんと交流があり、このプロジェクトが気になっていた。そして、昨年の11月、初めて居住実験に入るという日に「遊びに行く」という名目で同行させてもらった。
関野さんが今回のプロジェクトの拠点にしているのは、長年公私ともに付き合う木工作家Nさんの工房で、居住実験を行う森は、そこから歩いて15分ほどのところにあった。森の所有者の方が関野さんの活動に協力的で、今回のプロジェクトに使わせていただくことになったと聞いている。
沢沿いの田舎道を行くと、昔の水田の名残をとどめる石垣がそのまま森の奥まで続いていた。米を作らなくなってから、杉や檜が植樹された比較的新しい森だという。林床には多湿を好むシダが繁茂し、晩秋という季節も相まって、生き物の気配もなく寒々しい雰囲気に満たされていた。そのシダの群落から一段あがった場所に関野さんの新居があった。
杉などの材を縦横に組み、竹を井桁状に渡して三角形にした骨組みだけの家だった。材と材の結束には楮(コウゾ)の樹皮をより合わせた紐が使われている。思ったよりもだいぶ大きい。「柱を組んだ時点で、屋根がはみ出す分を計算にいれていなくて、立派になっちゃって」と、関野さんは、はにかみながら話す。大きくなった分、本来はひとりで作るところをNさんを始め、つながりのある人たちに手伝ってもらったと、正直に話してくれた。
柱や梁の端部には石器で叩き切った時にできる荒々しい断面が残されていた。使っている石器を見せてもらったら、河原などに落ちている石をかち割っただけの原始的な代物で、旧石器時代の打製石器の中でも初期の礫器(れっき)に近かった。
これをどう使ったのかといえば、手に持ち、幹めがけて振り下ろすとのこと。直径15cmほどの細い杉を伐り出すのになんと最長3日かかったという。これにより、関野さんは腱鞘炎になってしまい、木ではなく竹を使うことにしたのだが、最初は竹も石器では伐れなかった。困った末に、九州で竹造形に取り組んでいる教え子に連絡し、「表面がガラス質の繊維で覆われている竹は、切るのではなく、表面のガラス質を叩き粉砕する」と教わり、竹をとるコツを掴んだという。
話を聞いている限り、石器による家作りはトライ・アンド・エラーの連続で、とても非効率なことのように思われた。しかし、当の関野さんは、「竹が使えるようになったことは、とても革命的な出来事でした」と嬉しそうにしている。
それにしても、骨組みはできたが、屋根は半割りの竹を並べただけで、両サイドの壁は開いたまま。今日から1週間居住実験をすると聞いていたが、この状態で寝泊りするのかと心配になった。
秩父山系とつながるこの地域は、里にも熊が出ると聞いている。野生動物が入ってこないように火でも焚けたらよいものを、設定上ライターもマッチも使えない。木の棒を火切板の上で回転させる火起こし法は、湿気のある場所では難しく、火も起こせない。焚火のない滞在になるとのことだった。
真っ暗になったら何をするのか尋ねると、「寝ちゃうんです」という答えが返ってきた。ああ、そうだ、夜は寝るためにあるんだよなと、そんな当たり前のことを思った。後ろ髪を引かれながらも、真っ暗闇の森を後にした。その後、関野さんはそこで家を作りながら滞在し、5日目に大雨が降り、居住実験を打ち切ったと後から聞いた。
厳冬にどんぐりと水だけで5日間しのぐ
4月下旬の好天の日、greenz peopleとともに再び森へ向かう。あれから5ヶ月が過ぎ、奥多摩の森は、春の明るい光に満ちていた。
5ヶ月前との変化でいえば、新たに小ぶりな住居が増えたことだった。アメリカ先住民が使うティピのように円錐形に細竹を組み、周囲を杉の樹皮、すすき、半割にした竹で覆っている。先行していた三角屋根の住居と比べて、コンパクトで作りやすそうだった。
「これは全部一人で作ったんです」と関野さんは少年のように顔をほころばせた。
初代との違いは、材と材の結束をすべて葛(クズ)の蔦で行ったこと。蔦を使えば、楮のようによりをかけて紐にしなくてもいい。葛は家づくりを簡略化するにはいい素材のようだった。
1月にはこの家で二度目の居住実験が行われた。一年で最も寒い大寒の日である。
関野 大寒が僕の誕生日なんですよ。-6度くらいまで下がって、恐ろしく寒かったです。どんぐりと水だけで5日間滞在しましたが、体力的に苦しくなって、ちょっとズルして、Nさんに頼んで、飯能の猟師に60キロの鹿を一頭ゆずってもらいました。それを黒曜石で解体して、アマゾン式のやぐらを組んで薫製にして食べました。弱火で24時間燻さないといけなくて、僕一人なので、寝られなくて困りました。
ズルしても正直に言えばOKなのが、関野さんのルールだ。厳寒の冬にどんぐりと水だけで5日間しのぐ。ひもじい思いをしてありついた肉の味はさぞやうまかっただろう。氷河期の旧石器時代に大型動物を追いながら狩をしていた人々も獲物がとれない日は、同じ思いをしたのではないだろうか。
人力にこだわったグレートジャーニーの旅
アフリカで生まれた人類の祖先が世界中に拡散したのは、6万年前のことだ。北方へ進出できたのは、針と糸を使い毛皮を縫い合わせて寒冷地に適応できるようになったからだ。ヨーロッパへ渡ったグループ、西アジアから東南アジア、オーストラリアへ渡ったグループ、さまざまあるが、その中でシベリアからベーリング海峡を渡り、南アメリカ南端までのもっとも遠くまで行った人たちの旅のことをイギリス人の考古学者が「グレートジャーニー」と名付けた。
その人類拡散の旅を南米最南端から逆ルートでアフリカを目指したのが、関野さんのグレートジャーニーの旅だ。近代的な動力を使わないという制限を設け、カヤックや自転車を中心に、雪上ではスキーや犬ぞり、モンゴルでは馬に乗るなどして10年もの歳月をかけた。フジテレビ系列で放送された旅の様子はDVD化もされていて、全巻借りて観たことがある。
さまざまな困難が待ち受ける旅の中で、印象に残っているのは、アラスカからベーリング海峡を渡る回だった。関野さんは3月に結氷した海上を徒歩で渡ろうとしたが、想像以上に氷が緩んでいることに気がつき、渡るのを見送った。次に6月にセイウチの皮を張ったスキンボートで渡ろうとしたが、逆風と時化で断念した。3回目の7月にようやく海が凪いだ一瞬を見計らってカヤックを徹夜で漕ぎ続け、ユーラシア大陸に渡ることができた。
変化する自然を注意深く観察し、危険か安全かを見極める。そんな旅の様子を見て、海峡を渡り、新天地に到達した太古の人たちのことを想像できるようになった。あれがもしエンジン付きの船で渡っていたら、観ているこちら側に何の気づきもなかったとも思う。
では、関野さん自身は旅を通して、どんな気づきを得ているのだろうか。そして、今始まっている旧石器時代の暮らしをめぐる旅にその気づきがどうつながっているのだろうか。場所をNさんの工房に変えて、お話を伺うことにした。
鉄と石の時代のはざまで考える
関野 人類が拡散した時代って、ほとんどが旧石器時代なんです。彼らはマンモスハンターですから、遊動生活を送り、焚火をしながらいろんなことを話し合ったり考えたりしたと思います。グレートジャーニーでは、そんな人たちに思いを馳せたかったので、人力にこだわりました。
でも、やってみてわかったことは、やっぱり鉄器時代以降の旅なんですね。どんなアマゾンの奥地にいる先住民でも鉈や斧を使っていました。プラスチックやガラスを持たずに生活している人はたくさんいるのですが、鉄だけはどこにでもありました。いったん鉄を使ってしまうと、もう鉄のない暮らしには戻れません。いかに鉄はすごいか……。
鉄を使わない暮らしに挑戦しているからなのか、関野さんは、鉄のすごさについて熱心に語り始めた。「もう戻れない」なんて、鉄は麻薬みたいだけど、実際そうなのかもしれない。石器で伐るのに3日かかった杉は、鉄の斧であればどのくらいで伐れるだろうか。鋸刃に動力源をつけたチェンソーであれば、1分もかからずに伐れるだろう。しかし、人力にこだわる関野さんの旅に、文明の利器は必要とされず、むしろどんどん削ぎ落とされていった。
関野 次に日本列島に渡ってきた人たちの旅(「新グレートジャーニー」)に挑戦しました。そのうちのひとつが南方ルートの旅で、太平洋を5000km航海することを考えたときに、グラスファイバーのカヤックでチャレンジしても全然面白くないと思ったんですね。
旧石器時代に海を渡って日本にやって来た人たちだって、自然にある素材をとってきて、全部自分で作ることをやっていたはずです。いちから作ればいろいろな気づきがあると思って、最初は石器で舟を作ろうと思いました。でも、それで5000km航海できるのかわからなかったので、やっぱり鉄を使うことにしました。
舟を作るのに必要な鉄の道具は、買うのではなく、砂鉄を集めて製鉄し、道具を作るところから。ちょうど武蔵野美術大学の教員だったこともあり、学生たちとの協働で、舟作りは行われた。
関野 まず、斧と鉈、手斧(チョウナ)、鑿(ノミ)をたたら製鉄で作るにあたり、必要な材料は、砂鉄120kgと製鉄に使う炭300kgだということがわかりました。砂鉄は九十九里浜で磁石を使って採取して、炭は岩手で松の木を焼くことになったのですが、炭300kg焼くのにどのぐらいの木を伐ったと思いますか? 3tです。5kgの工具を作るのに3tの木を伐るということは、鉄の歴史イコール森林伐採の歴史だということがわかったんですね。
設計図なんかいらない太古のもの作り
関野 次にインドネシアでは、たたらで作った斧で高さ54mの木を伐りました。すごく神々しい木で、10種類以上の着床植物が生えていて、倒れた瞬間は、誰かが地球が揺れているって言っていたけど、まさにそういう感じでした。
その木を前に、インドネシア人の舟大工に「幅7m、高さ7mの舟を作りたい」と言ったら、設計図もなしに、イメージした舟を削り出していきました。その作り方がまさに石器時代の作り方で、レヴィ=ストロースが『野生の思考』の中で言った「ブリコラージュ」。要するにそこにあるありあわせのもので全部作るんですね。
そのとき思ったのは、設計図があるということは、物が買えることが前提だということです。今のもの作りは、設計図があって、それにのっとって物を集めて作るけど、太古の作り方はそうではなかった。
アマゾンの人たちも全くそうなんです。設計図なんかないですから。家も服も周りにあるもので作るから、彼らの家にあるものは、すべてどこからきたものなのかがわかるんです。旧石器時代の人も縄文時代の人も、身の回りの自然から素材をとってきて暮らしを作っていた。だからあの家はそれなんです。
奥多摩の森にある木や竹、樹皮や蔓を集めて、鉄を使わずに設計図なしに作られた石器時代の家。そのまま朽ちれば自然に還るだけの素朴な家には、これまでの旅の中で関野さんが感じてきた気づきが凝縮されているのだ。人類が来た道を、今度は暮らしの側からもう一度見つめ直すような取り組みなのではないだろうか。
自然と人間の関係をうんこと死体から考え直す
「この中で自然から素材を取ってきて作ったものを持っている人はいますか」と、関野さんから質問が飛ぶ。もちろん、答えはNOだ。
関野 僕も持っていません。都市生活をしていると関係ないんです。それほど我々は自然から離れてしまっているわけだけど、アマゾンの人たちは、自然の中から素材をとってきてものを作ることしかやっていないんですよね。
20代の最初の海外遠征以来、30代まで通い詰めたアマゾン。関野さんは、マチゲンガ、ヤノマミなどジャングルに集落を作り狩猟採集と焼畑で暮らす先住民をとてもリスペクトしている。
関野 アマゾンの人たちも生活からゴミが出て、全部集めて森に捨てていますが、それは壊れたかごとかひょうたん、芋の皮とかなので、全部自然に還ります。人が死んだときもそうです。ひとつは土葬で、もうひとつは水葬で川に流します。そうすると、肉食の魚が全部食べてくれます。たとえ陸に打ち上げられても全部土に戻っている。つまり、彼らは野生動物と同じで、自然のサイクルの中に入っている人たちなんです。排泄物も全部野糞で、虫や微生物によって分解されるから、彼らの焼畑は地味(ちみ)が衰えないんですよ。
同じ焼畑でも、プランテーションは違うと言う。たとえば、アマゾンでは畜産飼料のために熱帯雨林を焼き払って大豆が作られている。そこで作られた大豆は、日本を含む先進国に輸出されるので、費やされた水も土の養分も持っていかれて土地には還元されない。そうすると、土地は痩せ細る一方で、荒れてしまう。
関野 商売のためにやっているか、食べるためにやっているかでずいぶん違うんです。
「自然と人間の関係は今のままでいいのだろうか」。そんな疑問が関野さんの活動の根幹にある。例えば、関野さんが武蔵野美術大学の教員時代から始めた活動のひとつに「地球永住計画」という講座があるが、それは、文字通りこの地球に人類が住み続けるための気づきを得ることを目的に、さまざまな活動をしている人たちを招いた講座である。
さらに、関野さんは自身初めての監督作品となるドキュメンタリー映画『うんこと死体の復権』の公開を夏に控えている。これは、排泄物や生き物の死体を土に還すウジなどの虫に光を当てた映画で、greenzのこの変人企画で取材した糞土師、伊沢正名さんのほか、生態学者の高槻成紀さんと、生物絵本作家の舘野鴻さんが登場しているが、3人とも地球永住計画の登壇者で、講座での出会いが映画に身を結んでいる。
関野 この映画は循環の話です。野生の生き物を観察していて思うのは、彼らは人間を必要としてないことですね。虫も微生物も自然とつながって循環しているんだけど、悲しいかな、そこに人間だけが入っていない。そればかりか、人間は自然界になくてはならない蠅やうじや死出虫(シデムシ)を害虫のように扱っています。でも、今の地球にとっていちばんの害獣が何かといったら、人間じゃないですか。
関野 生物の歴史は38億年というけど、大きな絶滅期を5回(ビック5)も経験しているんですよ。5番目が恐竜が滅亡した時です。そして現在はビック6が始まっています。ゾウやホッキョクグマ、シロナガスクジラのような大型動物がものすごい数で絶滅し始めています。これまでの大量絶滅と違うのは、天変地異ではなく人間が原因だということです。乱獲や環境破壊、温暖化、人間活動とともに外来種が入ってくるなどして、絶滅が起こっている。
僕は、その原因のひとつが人間中心主義だと思うし、一つは、欲望だと思っています。もちろん、欲望は生きていく活力の源なので、なくても困るわけだけど、困るのは、「肥大した欲望」で、言葉にすると「もっともっと」なんです。このぐらいでいいじゃないかという適正がないと、みんな「もっともっと」になっちゃうんですよ。
だから僕は講演会で本にサインをするときに「座右の銘を書いてください」と言われたときに、本当はそんなものはないんだけど「ほどほどに」と書くことにしています。実は、これは重要な言葉で、「ほどほどに」の逆は、「もっともっと」なんですよ。だから「ほどほどに」が大切。開発、経済成長ありきのSDGsには、不満なところもあるので。
緩急のある狩猟民の生き方
「もっともっと」が生まれる要因はなんだろうか。私たちが生きているこの社会では、子どもの頃から「もっといい点をとりなさい」と言われて育つし、会社に勤めると、高い売り上げを出すことが良しとされる。ただ、果たしてそれで幸せなのかというと、数字が無限であるように、「もっともっと」には終わりがないように感じられた。
関野 アマゾンに、お墓がなく先祖供養をしない、神話も持たない、ピダハンという部族がいます。ある福音派の宣教師が布教活動のためにその村に入り、聖書を教えることになったんだけど、こんな幸福そうな人たちを見たことがないといって、無神論者になり、宣教師をやめてしまうんです。彼は言語学者になってピダハンの言語を研究すると、過去未来の概念を持たず、方角や数の概念もないことがわかった。さらに心理学者に表情を見てもらいどのくらい幸せかを分析してもらったら、どの民族よりも幸福そうだということがわかった。
ヤノマミも数の概念は1、2しかないんです。マチゲンガは1、2、3まで。あとはすべて「たくさん」なんです。彼らの生活を見ると、それで十分間に合うことがわかります。
僕はそういう人たちをとても羨ましいと思うんです。でも、反面、子どもの頃から目的を持って生きろと言われてきたから、羨ましいと思いながら、やっぱり彼らのようにはなかなか生きられないんですよね。
「アマゾンの先住民のように生きられない」と言うけれど、一本の細木を切るのに3日もかけられる関野さんの時間の感覚は、先住民のそれと近いのではないだろうか。でも全てにおいてのんびりしているのとは違う。ベーリング海峡を渡るときに2回見送って、3回目に徹夜で漕ぎ切ったように、その緩急の付け方は、普段寝ているのに狩をするときは全速力で獲物を追いかける動物に近いような気がした。
関野 それが狩猟民もそうなんですよ。農業をやるとね、未来の収穫のために一生懸命やるけど、狩猟民の生き方の中心は未来ではなく今。あ、今大切だっていうときに一生懸命やるんです。
関野さんの旧石器時代の暮らしをめぐる旅は、まだ始まったばかりだが、以前はできなかった火起こしも成功率があがってきたとのことで、着実に暮らしを実現されている。
今年からは、新潟県北のマタギの里で知られる山熊田に通いながら、熊の巻狩りに同行することも始めている。旧石器時代は遊動生活だからと、行動範囲を北や西へ広げる予定だという。新たな土地の自然にからだごとどっぷり浸かり、人と自然の関係を石器時代から見つめ直す関野さんの新たな気づきに期待したい。
(撮影:廣川慶明)
(編集:廣畑七絵)
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