横浜のベイエリアに、古いバスを改装したバーがあった。そこに7、8年通い詰めた舛本佳奈子(ますもと・かなこ)さんは、バスがスクラップになってしまうことを知り、夫の弘毅さんとともにそのバスを引き継ぐと決めた。
しかし引き継ぐには、移転先を見つけて自走しないバスをレッカー車で移動する必要があった。当然のことながら首都圏近郊では、レッカー車とバスが通れるような道に接道した空いている土地も少なく、地代も高い。バスを置けるような土地はなかなか見つからなかった。しかし、佳奈子さんは諦めず、多くの人に協力を仰ぎ、最終的に駿河湾に面する沼津市のはずれに場所を見つけ、レッカー費用をクラウドファンディングで捻出してバスを運び、さらに自らの拠点も沼津に移した。それが6年前のことである。
今では、バスバーはもとの雰囲気を残したままお酒を楽しめるチルアウトスペースに生まれ変わり、道を隔てた廃墟同然の海の家はライブが開けるアトリエに変貌。さらに裏山には1日1組のキャンプ場が開かれている。
教えてもらったThe Old Busのホームページを開くと、海辺にたたずむ、さびついた水色のバスの写真。雪をかぶった富士山を背景にまるで映画の1シーンみたいだと思った。
しかし、オシャレな写真に目を奪われていてはいけない。
「佳奈子は私の中では一級の変人」と、佳奈子さんのことを知るgreenz.jp編集部の小倉奈緒子(おぐなお)さんは力説する。
「とにかくやりたいことを躊躇なくやる人。そして、やりたいこと以外への執着のなさがすごい。例えば、自分がリノベーションした物件を友達に貸しているようなんだけど、儲けをとっていない。お金にこだわりがない」(おぐなお談)
おぐなおさんは、かつて佳奈子さんが管理人をしていたシェアハウスの住人だったという間柄なだけに、写真からは見えてこない佳奈子さんの変人性をよく知っているようだった。
そう言われると、いくら大好きなバーとはいえ、それは移住までして取り組むことだったのだろうか。なぜ夫は反対しなかったのだろうか。佳奈子さんの選択には謎が多かった。
廃バスを歴史ごと引き継ぐ
12月初旬のある晴れた日、編集部の車で西浦へ向かった。
伊豆修善寺道路を降りて、駿河湾方面を目指し、内浦という漁港を南へ。ヨットハーバー、何かの養殖筏、釣り人が集まる洋上の釣り堀。伊豆の風物が車窓を通り過ぎていく。そして富士、富士、富士……。伊豆半島の付け根のくびれ部分にあたるこの地域では、海岸道路のどこからも、富士山が見える。
やがて、みかんの選別場を過ぎた頃には人家もなくなり、海に向かって急斜面の山が迫りくる西伊豆らしい風景になった。何個目かのカーブを曲がると、海沿いの狭小地に、まるでずっとそこに放置されているかのように古びた水色のバスが置かれていた。The Old Busである。

もとは浜松近郊を走っていた観光バスを前オーナーが購入し、ペンキを塗り直して使っていた。車体には酒造会社の名称が英語で記されており外国のバスのようだった

犬のウシイロを抱いた弘毅さん(左)と佳奈子さん(右)
道を挟んだところにある廃屋のような建物から白黒の斑の犬を抱いた男性が現れて、車を誘導してくれた。パートナーの弘毅さんだ。続けて先に到着していたおぐなおさんと佳奈子さんが現れた。初めて会った佳奈子さんは目が大きく、声が低く落ち着いた雰囲気の人だった。弘毅さんもおだやかそうな人で、とてもお似合いのカップルに見えた。
「ちょっと見てみますか」と、佳奈子さんがバスを案内してくれた。
運転席と客席の間にある木製ドアを開けると、そこは紛れもなくバーだった。磨き上げられた木製のカウンターと座面の高いチェア。後部座席側にくつろいだ雰囲気のテーブル席があり、クッションにもたれて本でも読んで過ごせたらと夢想した。
圧倒されたのは、名刺で埋め尽くされた天井だ。以前このバスが横浜で営業していたときから、訪れたお客さんが残していったものらしい。
佳奈子さん 壁や床のようなボロボロになって使えないところは新しくしましたが、カウンターやテーブル、家具、天井の名刺はそのままです。前のマスターや常連さんが来たときに、懐かしんでもらえるよう空気感はそのままにしたいと思って。
佳奈子さんは、単に場所だけが気に入ったのではなく、前のマスターが積み上げてきた歴史ごと引き継いだのだ。
とはいえ、ホームページを見るとバスを運んでいる途中でタイヤがバーストしたり、100kmを運ぶのに6時間かかったりと、一筋縄ではいかなかったようだ。ふたりが今アトリエとして使っている元・海の家も、地権者から、「人が住めるような建物ではないし、集落のはずれにあるから商売をできるようなところでもない」と釘を刺された場所。そういったマイナスの要素は気にならなかったのだろうか。
佳奈子さん うーん。でも、うまく直せば使えると思いました。それに、バスを置ける場所はなかなかないし、何よりもロケーションが気に入りました。もちろんこれだけ海に近いので津波があったら……と不安はありますが、そのときはそのとき。そもそもバスも建物も老朽化しているので、何かあったらダメになることも大いにありえますね。
この動じなさはいったい何だろう。相当腕に自信がなければこういう返事にはならないように思う。また、地震や津波に備えることが常識化している日本で、「そのときはそのとき」と言い切れるのは、どういう境地からなのだろう。佳奈子さんはどういう人生を歩んできたのだろう。時が止まったようなバスの中で、その生い立ちを聞いた。

錆びついた運転席

走行距離526,043.2kmで止まったメーター

バーカウンターにて

くつろいだ雰囲気のテーブル席。天井には、無数の名刺が。
鈴なりに切符が貼られた廃線後の駅舎のようだと思った

どの窓からも雪を被った富士山が見える

アトリエ兼住居としてリノベーション中の元海の家。外観は廃墟にしか見えない

外観とはうってかわっておしゃれに改修されたアトリエの奥の間。廃業する旅館からマットレスをもらい、中のウレタンを取り出して、床下や壁の裏に敷き詰めて断熱材の代わりにし、一重だった窓に別の部屋の窓を移植して二重窓にしているため、薪ストーブで十分暖かい
営業ノルマを達成し、旅人のポジションを獲得
生まれは愛媛県の松山市。両親ともにヨット部というスポーツ一家で3人きょうだいの長女として育った。
佳奈子さん 母は当時ヨットの女性人口が少ない中で、全国3位になったり、結構活躍していたみたいです。父はヨット部の仲間たちと会社を立ち上げて、四国にまだ入っていなかった乳製品の流通ルートを開拓したり、健康食品を扱ったり、ファンシーショップを開いたり、駄菓子屋をやったり、こだわりの農法で米づくりをしたり、一時期は土づくりとかもしていましたね。とにかくやりたいことをやっているような人でした。
子どもの頃に好きだった遊びは探検ごっこ。おやつを持って友達や兄弟を引き連れてどこまでも歩き、捜索願いを出されそうになったこともあるとか。工作や絵を描くのも好きで、日がな一日チラシを見続けるような子どもだったと回想する。
瀬戸大橋が開通した年に父親の仕事の都合で香川県の丸亀市に引っ越し、中学時代はバスケットボールに明け暮れた。高校ではサッカー部のマネージャーを務め、その後、横浜の大学に進学するために上京した。
佳奈子さん その頃美大を知っていれば、そっちに行きたかったかなと思いますが、世間知らずだったので、どんな大学や職業があるかも全然知らず、何となくお金がかからずに入れる国立に入りました。
田舎から出てきた開放感でめいっぱい遊んだという大学1年目。何をして遊んでいたかというと、「麻雀」だ。
佳奈子さん 父親が麻雀をやったら頭が良くなるといって兄弟みんな覚えさせられたんですよね。だから、駄目大学生として過ごして、さすがにこれじゃまずいと思って新しいことに挑戦しようとテニス部に入りました。そうしたら、コーチが全日本の監督だった人で、そこからはテニス漬けの生活になりました。ただし、全然部員がいなかったので、私ひとりになってしまい初心者なのに主将を務めることになりました。主将で試合に勝てないとカッコ悪いので、めちゃくちゃ練習をしたら、何とか勝てるようになりましたけど。
麻雀が父親の影響ならば、負けず嫌いは母親譲りなのだろうか。とにかくスポーツに明け暮れた大学時代だったようだ。そのため、周囲が就活をしていることにも気づかず、主将を引退した4年時にはたと現実に気づいた。
佳奈子さん 東京で暮らすにはしっかり稼いで自立して過ごせるようにしないといけないと思って、就職情報誌やネットで探しましたけど、あまりピンとくる職業も見つからず、3年くらいでやめて世界を放浪しようかなんて考えていました。だから、初任給が高い会社で、風通しが良さそうで、バリバリ仕事できそうな会社に入りました。
幕張メッセなどで行われる展示会ブースを請け負う制作会社だったという。配属されたのはクライアントへの企画提案や制作サイドの進行管理をする営業企画部で、体力に自信があった佳奈子さんは、寝る間を惜しんで働き毎回営業目標を達成した。

「暮らしの変人」連載を一緒につくるピープル編集部のメンバーと話を聞いた
佳奈子さん とにかくすごく運がよかったと思います。誰かのサポートについたら、他の仕事をもらえたりして、仕事が舞い降りてくる感じでした。
営業目標が毎回達成できると、社内でも一目置かれるようになる。こうして、長期休暇をとっても誰からも文句を言われないだろうと、自分なりに予想できる状況をつくったのだという。たまりにたまった代休を利用して、佳奈子さんがとった行動は、長期休暇をつかって海外旅行に行くこと。
佳奈子さん 3年働くと1週間のリフレッシュ休暇をもらえる制度があったので、ゴールデンウィークのようなタイミングに代休をつけて、約1ヶ月休む計画を立てました。これで海外に行くと上司に言ったら承認してもらえました。
最初に訪れたのは、イースター島やマチュピチュなどのある南米。世界一周航空券を使い、行きたい場所を3週間の行程に詰め込み、駆け足で世界をまわった。「伝えたいことはハートさえあればなんとかなる」と実感し、以降毎年海外旅行に出かけ、会社の中で「休みのたびにどこかに行くキャラ」というポジションを切り開いた。当初3年で辞めるつもりが9年間務めあげ、その間キューバ、チュニジア、ベネズエラなど20カ国ほど旅をした。行きたい国にはある共通点が。
佳奈子さん 人の営みが見えるような土臭いところや自然が豊かなところを訪ねるのが好きでした。遺跡や廃墟めぐり、バイクで旅をするのも好きで、北海道1周もやりました。ライダーズハウスに泊まると、宿の人が温かく迎えてくれて。将来こういう宿をやってみたいという思いが芽生えてきました。
あったか家族をイメージしてシェアハウスをつくる
あるとき佳奈子さんは、当時「外人ハウス」と呼ばれていたゲストハウスに住む外国人の記事を目にした。
佳奈子さん まずゲストハウスに住めることに驚きました。自分でも探してみたら、南千住に胸キュンな物件が見つかって。住んでみると、会社員からヒッピーまでが混ぜこぜに住んでいて、この暮らしはいいぞと。
いまではシェアハウスと呼んで認知も広がったこのスタイル。そのシェアハウスを運営していたのが、過去にgreenz.jpでも紹介したことのある大関商品研究所。佳奈子さんは、シェアハウスに住みながら、旅の中で思い描いた夢を実行に移す。それは、自らシェアハウスをつくること。イメージの源泉は旅の中にあった。
佳奈子さん 旅で出会った人たちが家族ぐるみで温かく接してくれたのが印象的で、コミュニティのような場所をつくりたいと思っていました。そこで、社長の大関さんにアポをとり、企画書を持って相談に行ったところ、「物件を見つけてみなよ、一緒に見に行くから」と言ってくれて、いろいろなアドバイスをもらいました。
南千住から浅草にかけて、日雇い労働者向けの簡易宿泊所が点在するこの界隈は、比較的賃料が安く、一階が倉庫という築60年ほどの一軒家を見つけることができた。さっそく契約し、村のような雰囲気をイメージして名前をつけた。のちにおぐなおさんも参加する「ニジノワムラ」である。
佳奈子さん 初めてのリノベーションだったので、大関社長に施工が必要なところを請け負ってもらい、自分たちでできそうな壁塗りやタイル張りなどは空いている土日に会社の同僚や友達の手を借りてやりました。仕事終わりで夜中にきてひとりでやることも。今考えると、どこにそんな体力があったのか……。
晴れて大家さんになった佳奈子さんにひとつの転機が訪れた。
佳奈子さん 大関さんが「うちの会社に来る?」と言ってくれて、すぐに「行きます」って。
見よう見まね、結果オーライな乗り越え力
大関商品研究所に入社した佳奈子さんは、会社で保有しているシェアハウスの管理業務を任されると同時に、横浜にツリーハウスをつくるプロジェクトの広報を兼務することになった。ホームページを立ち上げたり、ロゴをつくったり、SNSでの発信、イベント企画、やれることは何でもやった。
佳奈子さん 前職で会社のデザイナーがパソコンで作業をしている様子を見ていたし、時間がないときは自分でやらざるを得ないので、見よう見まねでデザインソフトの使い方や図面の描き方を覚えていました。
見て覚えるなんて昔の職人のようだけれど、その観察力によって、ツリーハウスプロジェクトは無事ローンチした。さらにそのユニークな空間をカフェとして運営することも決まり、店長にも抜擢された。しかし、致命的なことに佳奈子さんはコーヒーが飲めなかった。
佳奈子さん でも、やるなら美味しいコーヒーを出したいと思い講座に通いました。豆の香りや味を評価するカッピングの回では、ちょっと口に含んで吐き出すところを全種類飲んでしまい、その夜に過呼吸になって病院行きに。ただそれをきっかけにコーヒーが飲めるようになりました。

佳奈子さんオリジナルブレンドのラム酒入り薬草チャイ(オーツミルク使用)。とても香りがよかった

佳奈子さんが担当したツリーハウスカフェの記事
あまりおすすめできないショック療法のような乗り越え方だが、とにかく佳奈子さんはカフェの仕事を全うするために苦手なコーヒーを克服した。さらに、住む場所をツリーハウス下のシェアハウスに移し、複数の物件を管理するかたわら、ニジノワムラの管理を個人活動として行った。仕事もプライベートもシェアハウスな日々は、とても刺激に満ちていたようだ。
佳奈子さん シェアハウスには、自分にないものとの出会いを求めてやってくる人が多く、面白い面子が集まると、それぞれに声をかけてはカフェで交流会を開いていました。面白い人同士がつながるといいなと思って。
しかし、カフェの店長ともなると、週6日勤務となり、好きに使える時間は減っていった。あるとき思い切って、会社に勤務時間を減らしたいと申告した。すると、「業務がちゃんと回るなら」という条件で、週3日勤務にしてもらうことができた。給料は半減したが、週の半分以上の時間を自由に使えるようになったのだ。
佳奈子さん 同じことを繰り返しやるのがたぶん性に合わなくて。行きたいときに行けるとか、会いたいときに会いに行けるようにしたいなと思ったんです。だけど、そのときはなかなか言い出せませんでした。みんな働いているから働かなきゃいけないとか、働いていないとさぼっているんじゃないかとか、誰かに遠慮しているような気持ちが常にありました。でも自分が遠慮したところで誰も喜ぶ人はいないと、あるとき気づきました。いったん自分のためにちゃんと時間を使ってみようと。
リノベーションは「でっかい遊び」
自由な時間を得て、佳奈子さんが始めたことは、自分の家を持ち、フルリノベーションすることだった。
佳奈子さん 横浜に古びた2階建の一軒家を借りて、自分の好きなイメージをたくさん詰め込みました。でも、しばらくそこに住んだら、2階建の家を持て余してしまい、もっと小さな家に住みたくなりました。そこでその家は友達に住んでもらうことにし、自分用にすごく安い平屋の1K物件を見つけました。モロッコを旅した後だったので、モロッコスタイルを取り入れて、あとスペインで一泊した洞窟住居がすごくよかったので、押し入れを洞窟風にしました。
でも、家が完成すると、もっと好き放題やりたくなって。仕事を減らした時期とも重なり、今度は賃貸じゃなくて、土地付きの物件を買おうと思いました。賃貸だと、どこまでやれば大家さんに怒られないか気になるし、せっかくつくったものを返してしまうのがもったいないから。
押し入れを洞窟風にした時点で、好き放題やっているようにしか思えないのだが、旺盛な制作欲は止まらず、ついに横須賀の坂の上に念願の土地付き物件を見つけた。100万円で築70年、100平米ほどの平家住宅である。それまで住んでいた小さな家は、カフェを始めたい友人に使ってもらうことにし、横浜市内の解体現場から古材や家具を調達し、1年間かけて米軍ハウス風の家に改修した。お金をかけなくても心地いいものがつくれることに手応えを感じたという。

アトリエの半分は資材置き場になっていた

壁掛け時計の中身を使ったオブジェ
佳奈子さん 最初に勤めていた会社で、展示会ごとにたくさんのものをつくっては3日の会期が終わると全部ゴミになるのを見て、これってすごいことだよなと思っていました。でも、旅先で水も満足にないような暮らしに触れていくと、無駄にはできないなと思うようになりました。むしろ不便なほうが、やりくりする知恵がつくし、お金をかけずにいいものをつくることのほうがクリエイティブで挑戦しがいがあるなって。だから、横須賀の家は、自分がどこまでできるのかを試すような「でっかい遊び」でした。
不動産に人生を縛られない
これまでの日本では、家というものは30年ローンを組んで購入する「一生もの」。近年は、家を投資の対象にして住み替えていく人もいるけれど、家が人生でもっとも高価な買い物であることに変わりはない。しかし、佳奈子さんはお金をかけずに住みたい家をつくっている。それによって何が変わるかといえば、家という不動産に生き方を縛られないということではないだろうか。
事実、佳奈子さんは「つい、家ができたら次の家を探したくなるんですよ」と、時間も労力もかけて改修した家を簡単に手放していく。賃貸物件は、大家さんの同意のない又貸しは禁止されているため、そこは交渉して可能にしているようだが、リノベーションにより高まった価値を家賃に上乗せして、収益を上げていこうという気持ちはないようだ。自ら購入した横須賀の家は、使わずに置いておくのも家にとって良くないという理由から、友達に安く貸している。
佳奈子さん ニジノワムラの運営はちゃんと収益が出るようにやりましたけど、それ以外は自分の制作欲を満たすため。大家としてやっていこうとすると、責任が生まれて息が詰まっちゃうんです。それよりは自分の好きなものをつくっていたい。
すると、傍らで聞いていた弘毅さんが言う。
弘毅さん そこで収益をとろうとしないのは、住んでもらっているのがすべて友人だからということもありますね。友人であれば、我々が東京に帰ったときにも泊まれるし、そういう機会に修繕をすることもできますから。
それを聞いて、なるほどと思った。もし見ず知らずの人に貸し出したなら、自分が思いを込めてつくったその場所を訪れることはなかなかできないだろう。信頼のおける友人であれば、拠点のひとつにもなり、自分のペースで直しながら、ずっと関わっていられる。逆に必要以上に賃料をとってしまうと、ゆるやかに保たれている関係性を壊すことにもなりかねない。そう考えると、佳奈子さんにとって、人や場所との持続的なつながりがお金に変わる価値だと言えるのかもしれない。
弘毅さん 変なことをしていると変な人が集まってきて仲良くなるんですよね。廃材の情報もそういうつながりから巡ってくることが多いし、困ったら助け合うような関係が周りにあります。
類は友を呼ぶ。佳奈子さんは自分のことを変人と思ったことはないと言うが、それは周囲に同じように人と違うことを好む変わった人が集まっていたから気づかないだけだと言いたい。その代表格が弘毅さんだ。実は弘毅さんは東京大学出身。東大を選んだ理由は、「二年間教養学部があって、やりたいことが決まっていなかったから」である。
弘毅さん 大学のときはやりたいことを探してあちこち動き、鳥人間コンテストにも出たけど、非電化工房にいく頃にはもうやりたいことはなくて、「あそこに行けば、やりたいことがある人に出会えるかな」と思って行ったんです。やりたい人の手助けができるかなと。
そんな弘毅さんがやりたいことでいっぱいの佳奈子さんと出会った。まるで運命であるかのように。
弘毅さんと出会い、「できる」がさらに増えていく
勤務時間と給料を減らしてもらったことで佳奈子さんは、以前から興味のあった発明家の藤村靖之さんが主宰する非電化工房の見学会に参加し、そこで住み込み弟子をしていた弘毅さんと出会った。のちに弘毅さんのお母さんがツリーハウスの近所に住まわれていた偶然も重なって交流が始まり、横須賀の家のリノベーションにも手伝いに来てくれた。
佳奈子さん 弘毅が非電化工房でちょっとした大工仕事を学んでいたので、動きがよくて、何回か手伝いにきてくれるうちに仲良くなりました。ひとりでやっているときに比べたら、できることの幅がすごく広がって。自分ひとりだと躊躇していたことも弘毅がいたら、「まだできる」と思えるようになりました。
初めてのデートはお気に入りだった埠頭のバスバー。横須賀の家が完成した2017年末に結婚した。訳あってツリーハウスカフェが閉店となり、軽トラの荷台に手作りの小屋を設置したキャンピングカーで新婚旅行に出かけた。行き先は、佳奈子さんの実家の四国に始まり、九州から北海道まで。
佳奈子さん 横須賀の家は、庭も土もある生活。眺めも良くて鳥の声ばかり聞こえる場所でしたけど、だんだん火を使う暮らしをしたくなりました。関東以外にも別の拠点をつくりたいと思って、下見を兼ねた旅でした。
山のほうであまり寒くない地域をあちこち巡っていたんですけど、どこもいいところばかりで決め手が見つからなかったんですね。そんなときにバスバーが撤去されるという話を聞いて。このバスを無くしてはいけないという気持ちと、カフェ業務がなくなったタイミングでもあったので私が引き継いでなんとかできるかもしれないと思い、弘毅にも相談しようと電話をしたら「いいんじゃない」と。

海の家の裏手にあるキャンプ場は、もとはジメジメした土地だったが、溝を掘り水脈を変える大地の再生方式で土壌の水はけをよくし、快適なキャンプができるようにした

キャンプ場にはツリーハウスも

ツリーハウスの窓枠は額縁を利用している

軽トラの荷台に乗せるとキャンピングカーになる小屋。
海の家の改修工事の際には、ここで寝泊まりをしたという

圧力鍋と銅線を使った手作りの蒸留器。「仕組みを調べたら、圧力鍋でつくれるんじゃないかと思って」と佳奈子さん

佳奈子さんの薬棚。
手に入る植物を健康にも活かしたいと、年に何回か飛騨に通いながら薬用植物の利用法を学んでいる
こうして、佳奈子さんはこれまで身につけてきたあらゆるスキルを惜しみなく使い、スクラップ寸前のバスを引き取り、100kmもの道のりを運び、新天地を沼津に開いた。バスを直すだけではなく、廃材を利用して海の家を直し、周囲のみかん農家から剪定した枝を薪としてもらい、ガスを契約せずに火を利用する暮らしを実現している。さらに、近所にもう一軒家を購入して、廃材を利用しながら必要な材だけ買い足して、洗練されたインテリアのゲストハウスをつくっている。それだけではなく、修善寺のほうにも物件をおさえたという話を聞いた。佳奈子さんのでっかい遊びはいったいいつまで続くのか。是非バスバーやキャンプ場を訪れて、その暮らし方に触れてみてはいかがだろうか。
最後に、舛本佳奈子さんの変人性は何かと言うと、「なんでもDIY」という一言に尽きるのかもしれない。この日の夜、私たち取材チームは、佳奈子さんがつくっているおしゃれなゲストハウスに宿泊させていただいた。そして翌朝、パンとコーヒーをかじりながら、なんとなくこの変人企画で取材させていただいた糞土師の伊沢さんの話になった。伊沢さんが、自分が死んだら土に還るために土葬の準備をしているという話だった。すると、舛本さんが「うちもね…」と、やおら弘毅さんのお母さんの葬式を自前で行った話をしはじめた。
お母さんの死期が近かったのでお葬式もDIYでしようと考えました。お母さんは私たちの生き方が好きだと言ってくれていて、「お墓には入りたくない、散骨してほしい」など、しきたりにはこだわらない方だったので喜んでもらえると思い、親族も賛成してくれたので決行しました。
棺桶をインターネットで注文し、亡くなった日に軽トラの荷台にのせて病院に横付けして、生前好きだった服を着せて乗せてもらい、アトリエでの葬式後に火葬場に運びました。病院の方も火葬場の方も「初めてのケースだ」と驚いていましたけど、こちらの意向を汲んで協力してくださって、大変だったけど楽しい思い出になりました。
葬式がDIYできることに驚いたとともに、周囲の目を気にせず、しきたりすらも軽やかに超えていけるところに超一級の変人性を感じたのは言うまでもない。DIYの精神とはつくる喜びにあると思うが、つくる喜びで満たされた葬式は、きっと愛にあふれていたのではないだろうか。

夕暮れ時になりランタンに灯りがつくと、ムードがさらに増して

窓越しに夕景の富士をのぞむ美しいひととき
(撮影:廣川慶明)
(企画:小倉奈緒子)
(編集:廣畑七絵)