一人ひとりの暮らしから社会を変える仲間「greenz people」募集中!→

greenz people ロゴ

自分の中に「善」を見つければ、よりよい社会へ踏み出せる。映画『幸福なラザロ』が投げかける「善性」との付き合い方。

greenz.jpのタグラインが「いかしあうつながり」なので、「いかしあう」とか「つながり」について考えることがままあります。特に「つながる」という言葉は、結構もてはやされる言葉なので、その本質はどこにあるのかを考えてしまいます。

そんな時に出会ったのが、今回取り上げる映画『幸せなラザロ』です。

この映画はイタリアを舞台にしたなんとも不思議な映画なのですが、人と人とがつながるとき、自分は相手に何を見出しているのか、なぜつながるのか、あるいはなぜつながらないのか、現代社会において「つながり」が生まれにくいのはなぜなのか、などいろいろなことを考えさせられました。

映画を観て考えても何がいいたいのかはよくわからないし、考えれば考えるほど思考の網は広がっていくばかりだったのですが、監督に質問を投げかける機会を頂いて、その答えを聞いて少しは整理できたように思えます。

なので、今回はアリーチェ・ロルヴァケル監督の言葉も紹介しつつ、映画について考えたいと思います。

ラザロとは何者なのか

©2018 tempesta srl ・ Amka Films Productions・ Ad Vitam Production ・ KNM ・ Pola Pandora RSI ・ Radiotelevisione svizzera・ Arte France Cinema ・ ZDF/ARTE

映画はイタリアの素朴な農村で始まります。そこに暮らす人々は領主に搾取され厳しい生活を送っていまして、その中でも青年ラザロはみんなに大変な仕事を押し付けられる存在です。しかし、彼はそれを苦にせず、むしろ仕事を引き受けることを当然と考えているように見えます。

その村を領主とその息子が訪れます。村人の多くが彼らを避ける中、ラザロはその息子の求めに応じて自分の隠れ家に案内し、コーヒーを振る舞います。親に反発する息子はラザロに教えてもらった隠れ家に身を隠し、行方不明騒ぎが起きますが、ラザロは秘密を守ります。

物語はその後展開し、この村が実はすでに禁止された小作人の所有を続けている村であり、村人たちは領主に騙されていたことが明らかになるのです。しかし、村人たちが解放されるその日、ラザロは山道で足を踏み外し命を落とします。

それから約20年後、元村人たちは都市でホームレス同然の暮らしを送っていました。そこに20年前と全く同じ姿をしたラザロが現れます。

20年経ってもラザロは何も変わらない一方で、社会も村人たちもすっかり変わってしまっています。なぜラザロは変わらないのか、それが最大の謎となりそうですが元村人たちはそのことをそれほど気にかけません。なので、観客は「ラザロとは何者なのか」と考えざるを得ません。そして、一度死んだと思われていたものが復活したと言う意味で宗教的、中でもキリスト教的な解釈が必然的に頭をよぎります。

しかし、ラザロが何者なのかの答えは用意されていません。ラザロとは一体何者なのでしょうか。映画を観終わって改めてそれを考えてみると、私たちの生き方、暮らし方についていろいろと考えることになるのです。

©2018 tempesta srl ・ Amka Films Productions・ Ad Vitam Production ・ KNM ・ Pola Pandora RSI ・ Radiotelevisione svizzera・ Arte France Cinema ・ ZDF/ARTE

与えることと与え合うこととの断絶

ラザロが何者なのかを考えるためには、ラザロが村で暮らしていたころにまず遡る必要があります。

ラザロが暮らす村は大きな悪に等しく虐げられた人々のコミュニティです。しかし、その中にも搾取の構造が存在し、ラザロは村人たちから搾取されています。村人たちがラザロを搾取するのは、彼にどこか「白痴」的なところがあり、何をされても「奪われた」という感覚を持たないので、搾取している感覚が生まれないからだと思います。

しかし、その中でラザロと同年代のアントニアは彼を搾取しようとしません。彼女はむしろ彼を守ろうとします。それはなぜなのか。彼女はラザロの生き方に完全なる「善性」を見出しているのです。悪にさらされてもそれを悪と捉えない無辜な善性、その尊さに彼女は気づいているのです。

アントニアは、意識的ではないにしても、村人たちみながラザロのような善性を少しずつでも持っていれば、よりよい生活を送れるはずだと考えていたのではないかと思います。ラザロだけが与えて他のみんながそれをただ受け取るのではなく、みなが与え合う社会のほうが生きやすいと感じているのだと思います。

でも、アントニアは自分だけその方向に踏み出すことはできません。それは彼女にはただ与えることはできないから。ラザロからもらったものを返すことはできても、見返りがないことがわかっているのに村人たちに何かを与えることまではできないのです。

©2018 tempesta srl ・ Amka Films Productions・ Ad Vitam Production ・ KNM ・ Pola Pandora RSI ・ Radiotelevisione svizzera・ Arte France Cinema ・ ZDF/ARTE

それを見て私は自分や現代の多くの人たちをアントニアに重ね合わせました。理想のコミュニティの有り様はなんとなくわかっているけれど、それを実現するために自分がリスクを犯すのは怖い。だから理想を実現している生き方をしている人を守ることで妥協し、どこかで自分をごまかしてしまう。そんな生き方がアントニアから見えてきたのです。

そして20年後、アントニアは復活した(と書いてしまいますが)ラザロを発見します。

その時、アントニアを含め元村人たちは社会の片隅で生きながら、やはり搾取される犠牲者であり続けています。そして、その中で他人を騙し搾取することでなんとか生きているのです。

そこに現れたラザロを元村人たちはやはり搾取しようとし、アントニアも最初は20年前のように彼の善性を守ろうとするのですが、その善性が自分の利益を損なうことにつながりそうになると、彼を遠ざけます。アントニアはラザロを搾取しないでいることすらできなくなってしまっていたのです。

でも、彼女はラザロを遠ざけることで、自分がそうしないように努めます。彼女の中にはまだ善性が残っていて、それがラザロとの再会によって再び頭をもたげたのではないでしょうか。その後の展開の中でも、彼女はラザロをなんとか守ろうとします。社会からも自分からも。その姿に、私は、アントニアのように善性を信じ、より良い生き方や社会を求める人たちの、現代社会の生きづらさを見てしまいました。

©2018 tempesta srl ・ Amka Films Productions・ Ad Vitam Production ・ KNM ・ Pola Pandora RSI ・ Radiotelevisione svizzera・ Arte France Cinema ・ ZDF/ARTE

善性をよりどころにする

ロルヴァケル監督は、アントニアという人物にどのような思いを込めたのでしょうか。

おそらく(観る者が)もっとも自分を重ねることができるのはアントニアね。アントニアのような人間というのは、ラザロという人間を理解することができ、彼のことが見える、つまり世界の中の善性が見える誰かのことで、でも、それを守る力は持っていない。いいえ、守るというよりも、完全にそっち(善性)の側につくことができない誰かのことね。

だから(善性を)守ろうとするけれど、でも、この守ろうとする意志は弱い。というよりも、第二部(後半)では、アントニアはその存在を、ほとんどうっとうしく感じている。彼女が見せつけられているその存在に罪悪感を味わわされる。詐欺を働きに行っても、ラザロがいるせいで心が揺らぐ。

「完全にそっち(善性)の側につく」とはつまり、現在の搾取構造から抜け出すことで、それは今の社会構造から抜け出すことだと言えると思います。アントニアはいつまで経ってもその一歩を踏み出すことができず、そんな自分を省みさせるラザロを「うっとうしく感じ」るようになってしまうのです。

では、どうしたら今の社会構造から抜け出し、ラザロの側につくことができるのでしょうか。

アリーチェ・ロルヴァケル監督

まあ、自分のことばかり考えるのをやめることね。誰もが自分のことばかり、自分の利益ばかりに左右されているわけだから。たぶん、一瞬でいいから自分の利益ばかり考えるのをやめて、もう少し大きな利益について考えることで、抜け出すことができるはず。

「もう少し大きな利益」とは、村でアントニアが見出したようなこと、みんなが少しずつの善性を持てばよりよい生活を送れるはずだということなのだろうと私は思いました。

監督はこうも言います。

身近な人間のことを信頼して、とか言うといかにもありきたりの、耳ざわりのいいことのように聞こえるかもしれないけれど、真実はここにあるの。身近な人間に対して偏見を無くして、澄んだ眼差しで接することによってそれ(社会が良くなる)は可能になるはず。

今の社会構造を抜け出し、社会が良くなるために必要なのは、身近な人たちと率直に関わることだと。私が映画とロルヴァケル監督の言葉から受け取ったのはそんなメッセージでした。

映画を見ると浮かんでしまう「ラザロとは何者か」という問いの答えは、考えても出てきませんでしたが、少なくともラザロは善なる者であり、私たち誰もが必ず持っている自分の中の善性について考えさせる存在であることはわかりました。そしてそれが社会との関係を考える出発点になることも。

私たちはラザロを発見し、守り、最終的に彼の側に行くことができるのでしょうか? その答えを知るためには、自分の中のラザロを守り、いかそうと努力しなければなりません。そうすることで初めて、他の人の中にいるラザロを見出し、いかしあうつながりをつくることができるようになるのです。

なんだか、最後は宗教じみた言い回しになってしまいましたが、少し宗教がかっているところも、この映画が私たちにより深く考えさせる要因なのかもしれません。

幸福なラザロ
http://lazzaro.jp
2018年/イタリア=スイス=フランス=ドイツ/127分
監督・脚本:アリーチェ・ロルヴァケル
出演:アドリアーノ・タルディオーロ、アルヴァ・ロルヴァケル、ニコレッタ・ブラスキ