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再生した建物に人が住み、活用されることで町が元気になる。「中村ブレイス」中村宣郎さんに聞く、古民家再生事業40年の歩みがもたらしたもの

石見銀山を有する島根県大田市大森町。

江戸時代に銀山が最盛期を迎えたころ、この一帯には20万人が住んでいたともいわれています。しかし、大正時代に閉山してからは人口も減少の一途をたどり、1970年代にはゴーストタウンのようになっていたのだそう。

1970年代のまちの様子がわかる写真が残っています。

これらの写真を見る限りでは、大森町に明るい未来を想像することは難しいことのようにも感じられます。

しかし、現在の大森町は美しい町並みを保ち、UターンやIターンで若い世代の移住者がやってきて、さらには子どもの数も増え始めました。2017年の出生数はなんと10名! たったの10名かと思われるかもしれませんが、現在、大森町にある唯一の小学校の全校生徒が11名であることを考えると、これは大幅な増加といえます。このまま子どもが増えると町内の保育所に待機児童が出そうな勢いなのだとか。

なぜ大森町は、このような変貌を遂げることができたのでしょう。その理由に深く関わる、中村ブレイス株式会社におじゃまして、社長である中村宣郎さんにお話をうかがいました。

中村宣郎(なかむら・のぶろう)
1977年生まれ。島根県大田市大森町出身。義肢装具士。地雷で片足を失ったアフガニスタンの少女と、義肢装具士を目指す女性との交流を描いた映画『アイ・ラブ・ピース』では技術指導を務める。2018年2月に中村ブレイスの社長に就任。

「残せなかった」という後悔が出発点

まずは中村ブレイスがどのような会社なのかを簡単に紹介しましょう。

中村ブレイスは、義肢装具の製作を行う会社です。「義肢」とは、義足や義手のこと。「装具」とはコルセットやサポーターを指します。

一般的な義肢装具の会社は、病院に出向き、患者さんの型をとり、寸法を測って、工房で製作し納品するという形で事業を行っています。中村ブレイスでは、この事業を「病院販売」と呼んでいます。

もちろん、中村ブレイスも病院販売をおこなっていますが、同社の事業はこれだけではありません。使う人の肌の色や質感に合わせて、本物と見分けがつかないほどに細部までこだわって仕上げた装飾用義肢などを直接個人へ販売する「個人販売」や、これまでにもあった装具に新しい機能や使いやすさをプラスしたオリジナル商品を、全国に約500軒ある同業他社に販売する「業者販売」も行っています。

現在では80名の社員が働いている同社ですが、中村ブレイスの創業者であり、現会長の中村俊郎さんが、たった一人で会社を興したのは1974年のことでした。

納屋を改築して工房にした

京都の義肢製作の会社に就職し、その後、アメリカに渡って最先端の技術を身につけて帰ってきた俊郎さん。帰国後、ふるさとである大森町で創業しますが、場所の選択肢は他にもあったはずです。中村さんの息子で、現在社長を務める宣郎さんは、創業の地の写真を見ながら冗談めかして言いました。

普通、こんなところで会社を始めようなんて思いませんよね(笑)

最初の社屋となった納屋の改修を皮切りに、中村ブレイスが自費で改築・改修した建物は、2019年2月現在で64棟にのぼります。コツコツと積み重ねられてきた取り組みが、今のまちの景観をつくっているのです。

誰に頼まれたわけでもなく、俊郎さんが始め、続けてきた古民家再生事業。その情熱はどこからきたのでしょう。父親である俊郎さんの取り組みを見てきた宣郎さんは言います。

最初は仕事のために、職場を整えるということだったと思います。ただ、過疎化が進むまちをなんとかしたいという思いは、創業のころからずっと持ち続けていたようです。一連の古民家再生事業の根底にあるのは、「せっかくあったものを残せなかった」という思いだったと聞いています。

1985年頃まで、このまちには、使われなくなった町役場の建物が残っていました。明治時代に建てられた洋風の木造建築でしたが、いつの間にか解体されて、跡形もなくなってしまったのだそうです。かつて、その建物は俊郎さんのお父様の職場でもありました。

父親の働いていた場所を残せなかったという後悔から、これから先は自力でできることがあるなら力を尽くして、今あるものを無駄にしないようにしようと思ったそうです。

俊郎さんは1974年に26歳で起業。事業が軌道に乗って資金に余裕が出てきた2000年ごろから、古民家再生事業のペースが上がっていった

まちはどうやって活力を取り戻したのか

そんな俊郎さんの姿を見て育った宣郎さん。もちろん、生まれも育ちも大森町です。宣郎さんが少年時代を過ごしたのは1980〜90年代で、同社が創業した当時から、およそ10年〜20年が経過した頃です。

田舎だとは思っていましたが、私自身には、まちが”さびれている”という感覚はありませんでした。

1970年代には、人もまばらなゴーストタウンと化していた大森町は、どうやって活力を取り戻していったのでしょう。

中村ブレイスが会社として成長したこともそうですし、群言堂の松場さん夫妻がこのまちに戻ってきて商売を始められたこともあるでしょう。高校を卒業したら、大学進学などで一度はまちの外に出て行くのが当たり前ではありましたが、まちに働く場ができたことで、若い人がUターンで戻ってくるようになりました。

地元を離れた若者が戻ってきて働くというケースはもちろん、中村ブレイスには、全国各地から「この会社で働きたい」という若者が集まってきます。理由のひとつには、同社の製品の質の高さがあります。

義肢装具の品質のよさはもちろんですが、インパクトが強いのは個人販売の製品です。目にした瞬間、思わず息をのむようなリアルさがあります。人工乳房は装着したままお風呂に入ることができます。また、指にはネイルアートを施すこともできます。

義肢装具の大学や専門学校に通っている若者が、これらの製品に興味を持って、中村ブレイスで働きたいと全国からやって来るのです。

他の義肢装具の会社のように病院販売だけを行うなら、過疎地の事業所であれば数名でやっていくことで精一杯なのだそう。でも、業者販売や個人販売を行うことで、現在の社員数は80名。事業を多角化したことで、人口400名のまちにおいて、100名近い雇用を生み出しています。

女性社員の中には、結婚や出産を機に一旦は職場を離れても、子育てが一段落してから職場に復帰する人も多い

直した建物を使ってもらうことが、地域の元気につながる

2018年度、中村ブレイスには独身の社員が6名入社しました。遠方からこのまちに来る人たちの住む場所を確保するために、改築・改修した建物を社員寮や独身寮にもしています。

直した建物に人が住み、活用されることで、まちが元気になるんです。

寮などの住居としての活用のほか、店舗として使われている建物もある。この写真は元郵便局を改築したオペラハウス

改修・改築した建物は博物館のような形で保存されるのではなく、人が住んだり、文化活動に利用されたりすることによって守られ、新たな命を吹き込まれています。

独身で入社した若者も、やがて結婚して子どもが生まれたら、一軒家に住むようになります。そうすると、これから住宅が足りなくなる可能性が高い。古民家再生事業は今後も続けていく必要があると考えています。

この連載で紹介してきた人の中にも、島根県外からの移住者がたくさんいます。中村ブレイスの改築した建物でパン屋さんを営む日高さんも、県外からやってきた一人です。ほかにも、群言堂の松場忠さん三浦さん鈴木さん、石見銀山資料館の仲野さんが県外の出身です。

彼らが口をそろえて言うのは、「このまちには外から来た人をあたたかく受け入れる土壌がある」ということ。そのルーツはまちの歴史に見ることができそうです。

大森町は石見銀山の代官所を中心として栄えたまちです。大正時代に閉山するまで、各地から石見銀山に働きにくる人々を数多く受け入れてきました。その歴史が”大森らしさ”ともいうべき、まちの雰囲気をつくりあげているのです。

中村さんは大森についてこんなふうに言います。

このまちには“人や文化を受け入れる度量の広さ”があるんじゃないでしょうか。

中村ブレイスも、さまざまな社員を受け入れてきました。

創業者である俊郎さんが最初に雇った社員は、一時間働くと「疲れた」と言って帰ってしまう若者でした。普通の経営者ならば、解雇しようと考えるかもしれません。しかし、俊郎さんは彼なりにがんばっている姿を長い目で見守りました。

その結果、彼は少しずつ働ける時間が増え、7年半の年月をかけて、8時から17時までフルタイムで働けるようになったそうです。しかも、彼は会社で働けなかった分の時間を、自宅で専門書を読むことに使い、知識を蓄えていました。その甲斐もあって、現在の中村ブレイスの主力商品には、彼がきっかけとなって製品化されたものもあるのだそう。

そうやって生み出された製品が、今度は義肢装具の道を志す若者をこのまちに導いています。中村ブレイスには、義肢装具士の国家資格を持ち、ものづくりをしたいという思いを抱いた若者が、全国から集まってくるようになりました。

中村ブレイスの社員は、患者さんのために何とかしてあげたいという思いで働いています。宣郎さんの目から見ても「そこまでするんだ」と驚くほど、質を追求する職人気質の強い人ばかりなのだそうです。

“やさしさ”という言葉で片づけていいのかわかりませんが、悩んでいる方へ寄り添う仕事に誇りを持って、ベストの結果を考えるという姿勢がありますね。

人の心を動かすのは商品の品質とつくり手の人間性

そうやってつくられた製品は多くの患者さんに必要とされ、世界中から依頼が舞い込みます。その一方で、宣郎さんは「うちの会社は発信が苦手で……」と話します。

うちの会社は発信が苦手だけれど、どこかで察知して発見してもらえるのはうれしいし、ありがたいです。

中村ブレイスのことは新聞や書籍をはじめ、さまざまなメディアにとりあげられてきた

世の中には、どんなに品質がよくても、広まらずに埋もれてしまう商品もあるでしょう。人に見つけてもらって広まっていくものと、そうでないものの違いは何なのでしょう。

商品の質がよいということだけでなく、その商品に”心を動かす何か”があるかどうかなのではないでしょうか。つくり手の人間性と言ってもいいかもしれません。

「患者さんのために」という想いで、こだわり抜いて製品を仕上げていく社員の心意気が、製品を通して伝わり、広まっていく。実は、これこそが究極の発信の形なのかもしれません。

観光地としての石見銀山についても、宣郎さんは同じように考えています。

石見銀山は観光名所として派手さはないかもしれません。でもかつて、世界に流通する銀のおよそ3分の1が石見銀山産といわれ、大航海時代を動かしていた時代があった。今、目には見えないけれど、そういう歴史が刻まれている土地です。

世界遺産に認定された当時に比べると、観光客の数という面では減っていますが、最近では、”世界遺産“ということよりも、まち自体に魅力を見出だして来てくれる人が増えている。単に数だけを増やせばいいということではないんです。

子どもたちが戻ってきたいと思ってくれるまちにしたい

今、宣郎さんは中村ブレイスの社長として、またプライベートでは二児の父親として、どうすれば次の世代に「このまちで生まれ育ってよかった」と思ってもらえるのかを考えるようになりました。

宣郎さん自身は、地元の高校を卒業したあと、東京の大学に進学しました。高校時代は野球に打ち込み、まだ家業を継ぐことは考えていなかったそう。

しかし、大学に進学し、やがて就職が視野に入ってきたとき、宣郎さんが選んだのは義肢装具の専門学校に進学するという道でした。その専門学校卒業と同時にUターンして、中村ブレイスに入社。2018年2月、社長に就任しました。

子どもたちが同じ仕事をするかどうかはわからないけど、戻ってきたいと思ってもらえるまちにするにはどうしたらいいのか、ということは考えますよね。やっぱり、コツコツと地道にやっていくことじゃないかな。

目の前のことを地道にコツコツとやっていく――。その実践の結果、今あるのが大森町の姿です。そしてそれは、宣郎さんが見てきた俊郎さんの姿であり、これから宣郎さんが次の世代に見せていく姿になるのでしょう。

最近では子どもの数も増えてきましたが、今がピークになってはいけないと思っています。若い人が住みたいと思える地域にしていかないと。会社としては、若い人に「働きたい」と思ってもらえる仕事を続けて、ここで働きながら住んでくれる人を継続して呼び寄せられるようにしていきたい。

45年前、過疎化していたまちをなんとかしたいと考えた俊郎さんの志は、確実に受け継がれています。

自分が価値を見出だしたものを守るために、自分にできることを地道に続けていくこと。
外からきた人をまるごと受け入れ、共に新しいものを生み出していくこと。
そして、よいものを一途につくり続けていくこと。

そうした「石見銀山のくらしびと」たちの弛まぬ努力が、新たな人を呼び寄せ、また次のくらしびとを生み出しています。

みなさんの中には、45年前、俊郎さんが「過疎化する故郷をなんとかしたい」と感じたように、自分の愛するまちが活気を失っていくのを目の当たりにして、危機感をおぼえている人もいるかもしれません。

このままでは、愛すべきまちが失われてしまう。

そう思うのなら、残せなかったという後悔をする前に、自分にできることから始めてみてはどうでしょう。45年のときを経て、大森町が私たちに明るい未来を示してくれています。

中村ブレイスが改築した建物でドイツパンのマイスターが開業。県外からもお客さんを引き寄せるような人気店になっている