あなたは「里山」と聞いて、どんな風景を思い浮かべるでしょうか。
実際に里山で暮らした経験がなくても、映画やドラマで目にした、空が広く、緑に包まれた風景を思い出す人は少なくないかもしれません。里山とは、人里のすぐそばに広がり、人が長い年月をかけて手入れし、利用してきた山林や田畑、ため池などから成る、人と自然が共生する景観や生態系を指します。
近年、里山は過疎化や高齢化など社会課題の文脈で取り上げられることが増えている一方で、里山で長年培われてきた文化・知恵、そしてそのあり方は、人と自然がどのように関わり合い、ともに生きていけるのかを考えるためのヒントとして、日本国内のみならず、海外からもあらためて注目を集めています。
そのひとつが、台湾です。台湾は、2010年に名古屋市で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)で日本が世界に向けて粘り強く提唱し、採択された取り組み「SATOYAMAイニシアティブ」の理念に賛同。日本の里山・里海の考え方をもとに、人と自然の共生を目指す取り組みを実践してきました。さらに、農業部農村発展及水土保持署は台湾での里山や里海の取り組みを多くの人に伝えるため、2021年から、絵本というかたちで情報を発信する試みにも挑戦しています。
今回、第二弾の絵本の出版を機に、制作を担ったシードデザイン代表の陳献棋(チン・シエンチー)さんが来日し、出版記念イベントが開催されました。日本の生活に根付いてきた里山の知恵が海を渡り、”SATOYAMA”として逆輸入されると聞きつけ、千葉の里山エリアに住む筆者が、イベントに足を運びました。
本記事では、そのイベントの様子と陳さんへのインタビューを手がかりに、SATOYAMAが示す「人と自然がともに生きるためのヒント」を探っていきます。
デザイン会社・種籽設計有限公司(以下、シードデザイン)代表
シードデザインは、文字を書くこと、絵を描くこと、手仕事を愛するデザインスタジオとして、「物語を語ること」を創作の核に、イラストレーションを通して博物学的な視点や自然と人文の関係性を表現する。2011年ドイツ「iF Award」、2014年台湾「Golden Design Award」、香港「DFAアジアデザイン賞」など国際的なデザイン賞を多数受賞。展示のキュレーションも手がけ、各地に息づく物語の美しさと価値を社会に伝える活動を続けている。本絵本シリーズでは、企画立案から取材、文章執筆までを担当。
絵本というメディアで伝える、里山の実践と理念
台湾の農業部農村発展及水土保持署は、2017年より「里山イニシアティブ国際パートナーシップ(IPSI)」(※)に加盟し、2021年に自国での里山・里海の取り組みを紹介する絵本シリーズの第一弾を刊行。2025年、その第二弾として4種類の絵本を制作しました。
※COP10で採択された「里山イニシアティブ」の具体的な実践を推進するための国際的なネットワーク
このたび刊行された絵本は、1冊ごとにそれぞれ違うイラストレーターが携わりました。どれも温かみがありながら、異なる印象でパッと目を惹くイラスト。1冊ずつ、異なる農村コミュニティを舞台に、里山や里海の自然と人々の暮らしが描かれ、その地域の生業、歴史、文化のつながりをいかしたコミュニティ再生が物語として紹介されています。

2025年12月に先行発売された第二弾(一般発売は2026年2月)。写真左上から時計回りに、『百分橋を越えて 』、『小さな台湾白魚は大波を生む』、『白い石は陸に上がり、黒い石は海へ潜る』、『カタグロトビの歌』
絵本の題材となる地域は、事前に台湾政府による選定が行われたそうですが、里山の精神である「社会(地域のコミュニティが主体となり、共同で活動に従事していること)」、「生態(人間の生産活動が、地域の自然環境と調和・共生していること)」、「生産(生産活動を通じて、地域住民の生計が持続的に維持されていること)」という三つの条件を満たしていることを基準に、里山を象徴する地域が選ばれたといいます。
たとえば『白い石は陸に上がり、黒い石は海へ潜る』は、台湾の離島・澎湖(ポンフー)を舞台に、厳しい季節風という自然条件と向き合いながら生きてきた人々の知恵を描いた物語です。島では、サンゴ礁由来の白い石で畑を守る防風壁「菜宅(ツァイジャイ)」を築き、火山性の黒い石を使って潮の満ち引きを活かす定置網漁法「石滬(スーフー)」を海中に設けることで、過酷な環境のなかでも農業と漁業を生産の中心とし、自然とともに暮らしてきました。

澎湖(ポンフー)ではこのように、死んだサンゴが堆積・石灰化した岩石でつくられた石垣が畑の作物を季節風から守っている。また、土地の面積を示す単位として、「さつまいもの株をいくつ植えられるか」で面積を測る「栽(サイ)」という独自の単位が用いられていることから、農業と生活が不可分であることがうかがえる(画像提供:シードデザイン)
ところが、日本と同じように、こうした伝統的な知恵や技術は、時代の流れの中で次第に失われつつありました。今回の絵本では、それらを若い台湾の学生たちが受け継ぎ、環境教育の場としてよみがえらせていく新たな試みが、物語として描かれています。
またそのほかにも、今回は、土地に生きる生きものと共生しながらの産業のあり方を模索する台湾の霧峰(ウーフォン)区や、埔里鎮(プーリー)にある一新(イーシン)コミュニティなどが、絵本の舞台となりました。

お米の生産地として有名な霧峰で農民と行政が協力し、環境に配慮した有機農法の実験的な取り組みを開始。その結果、ネズミを捕食するカタグロトビが飛来するようになり、有機農法最大の障壁であるネズミの食害を殺鼠剤を使わずに克服できた過程を描いた『カタグロトビの歌』。絵本の一部には、立体的に飛び出す仕掛けも
複雑な生態系の概念や、世代を超えて受け継がれるべき伝統的な知恵。これらを効果的に伝えるために、絵本というメディアが選ばれましたが、現地への取材や、大学教授など専門家による監修などを経て、絵本1冊の制作に要した期間は最低でも半年ほど。
陳さんが絵本制作の過程で最も難しさを感じたのは、里山という目に見えない理念を、いかに簡単で分かりやすく物語として表現するかという点だったといいます。物語としての魅力と、里山として伝えるべき理念や情報のバランスを保つこと。そのためにも、物語の完成までには、何度も専門家から指導を受けました。
陳さん 里山には、多くの学術的な定義がありますが、最も重要なのは「人と自然の共生」です。実際に空から里山地域を見てみると、社会、生態、生産の場がモザイクのように広がっていて、そのことが景観として表れています。
里山の精神を表現するため、絵本の制作過程で大学教授からも多くのことを教えていただきました。面白い物語はいくらでもありますが、里山というテーマをいかにうまく説明するかが、最大の挑戦でした。
里山という概念は、コミュニティが抱える問題を解決する上で良いヒントになると話す陳さん。単に有機農法を取り入れたり、特産品を開発したりするだけでは方向性を見失いがちですが、「人と自然の共生」というテーマを持つことで、自分たちのライフスタイルやコミュニティのあり方を見つめ直し、問題を解決する糸口を探すことができるのだといいます。
陳さん 私が絵本の制作を引き受け、取材に行き始めたときは、里山のことは何も知りませんでした。だから、絵本を手にとって初めて読む読者と同じように、好奇心の目で一緒に”里山”というものを探検していこうと心がけて取材に臨みました。
現地の人にとっては、すべて日常茶飯事です。毎日目にしている人にとっては、何の変哲もない出来事ですけれど、やはり我々の目から見たら、もう何もかも新しかったですね。
里山から、SATOYAMAへ
COP10を契機として始まった、里山イニシアティブ国際パートナーシップ(IPSI)の取り組み。IPSIでは、日本の里山や里海のように、人の暮らしや農業、林業、漁業と自然が相まって形成された自然環境を対象に、そこでの人と自然のより良い関係を取り戻すことを目指しています。各地に息づく共生の知恵や経験を共有し、国際社会が協力しながら、里山・里海の保全と持続的な管理、発展を進める取り組みを行っているのです。
現在、IPSIには世界各地の国際機関や政府、自治体、地域コミュニティ、市民団体、大学、企業など、分野を越えた346の組織が参加しています。こうした流れのなかで、台湾政府が自国内の里山の取り組みを「絵本」という形で伝えようと考えた最大の理由は、ふだん里山に触れる機会のない人々にも、“SATOYAMA”という考え方を身近に感じてもらうことにありました。

イベントでは、台湾の農業部農村発展及水土保持署長、 陳俊言(チン・ジュンイン)さんからのビデオメッセージも流された 。台湾にとっても、「里山」という概念の中心にある「自然との共生」を人々の心に深く根付かせることは、極めて重要な取り組みだと語った
もともと台湾には「里山」という概念はありません。そのため、一般市民にその考え方を伝えるうえで、目を惹くイラストと伝わりやすい物語から構成される、絵本という表現が活用されることになりました。今回の第二弾では、その取り組みをさらに広げるため、日本語と英語に翻訳した絵本の刊行にも踏み出しています。
そこには大きく二つの理由がありました。ひとつは、「里山」という言葉と概念が生まれた日本に向けて、台湾での実践や学びを共有したいという想い。もうひとつは、SATOYAMAの理念を国際的に広める活動に主体的に関わることで、台湾が国際社会の中で果たすべき役割を示したいという強い意思です。
里山を「SATOYAMA」として位置づけ直すことは、台湾にとって自然との新たな関係性を模索する手がかりであると同時に、自らのアイデンティティを世界に向けて発信するための重要なプラットフォームとなっているのです。
SATOYAMAからの学びは、「未来のための学問」
里山の取り組みにもともと詳しかったわけでも、個人的に関わりがあったわけでもないという陳さん。しかし、絵本制作を通して里山の実践に触れ、自然と深く結びついた地域を訪ねるなかで、自身の意識に変化が生まれたと語ります。
陳さん 私は自然豊かな農村で育ちましたが、今は都市で暮らしています。これまでの生活の中で、環境のために何かできていたかと言われると、正直そうではありませんでした。でも、里山をテーマにした絵本づくりに関わったことで、あらためて自然へと目を向けるきっかけをもらいました。
かつての台湾では、農村を離れた若者が再び農村地域に戻ることは「失敗」と捉えられることも少なくありませんでした。けれど今では、若者が都市で培った経験やスキルをいかし、新たな事業や取り組みを農村地域で始めることへの期待も高まっているといいます。里山の分野には多様な人材が必要であり、異なる背景や専門性を持つ人々が交わること自体が、大きな力になると陳さんはいいます。
陳さん 自分自身も、生まれ育った農村に貢献したいという気持ちがありますし、今の私にもできることがあるのではと思っています。
私は絵本を通じて、もっと多くの人が自然に触れ合う接点をつくり、自然環境を意識できる状態をつくっていきたいと思っています。特に、都市に慣れすぎた人がいきなり自然に触れても、居心地の悪さを感じてしまうこともあるかもしれません。だからこそ、前段階として物語を通して自然に触れる体験が、少しでもその役に立てばと願っています。

イベントでは、移住と里山ライフの実践的カルチャーマガジン『Soil mag. (ソイルマグ)』を発行する、曽田夕紀子(そだゆきこ、写真左)さんも登壇し、陳さんとの対談が行われた。曽田さんは、メディアとして「途絶えさせてはいけない知恵を少しでも記録し、残していきたい」と語った
メディアがどのような物語を語るかによって、私たちの視点は方向づけられる。すなわち、私たちがどのように世界を見るかは、メディアの影響を大きく受けるからこそ、どのような発信をしていくかが重要だと、陳さんはいいます。
陳さん 人類は、未来において、ますます自然を必要とするようになるでしょう。都市化が進み、自然とのつながりが希薄化した現代人にとって、自然と調和し共生する方法を再学習することは、台湾のみならず、避けては通れない普遍的な課題です。
一度開いた距離を縮めることは容易ではありません。しかし、自然との関わりを再考する必要があるという意識は、既に世界中で明確に芽生え始めています。里山の取り組みは、そのための具体的な道筋を示す「未来のための学問」なのだと信じています。
陳さんは、里山を物語として伝えていくなかで、「里山の価値を説明するのがいちばん難しいのは、それがすでに日常の風景になっている人たちだ」と語っていました。
私はここ1年ほど、千葉の里山エリアで暮らしています。季節の移ろいとともに変わっていく景色に癒されたり、澄んだ夜空に浮かぶ月明かりの眩しさに、はっとさせられたりする日々。けれど、それらの風景がまだまだ新鮮に映るのは、私にとってこの場所が、完全には「日常」になりきっていないからなのかもしれない。そんなことを考えました。そして同時に、だからこそ、私にできることもあるのではないか、とも思ったのです。
外から持ち込まれた「里山」という視点によって、当たり前だった風景が問い直され、価値としてすくい上げられ、次の実践へとつながっていく。絵本の中で描かれている台湾の出来事は、日本でも、そして私の足元でも、起こりうることなのだと感じました。
身の回りの景色を、美しいものとして受け取り、言葉にして伝えていくこと。それと同時に、その場所で暮らしを営むとはどういうことなのかを見つめ直し、無理のないかたちで実践していくこと。そういえば、私の住むシェアハウスでは、採れたての野菜を囲んでシェアメイトで食卓をともにしたり、醤油や味噌を一から仕込んだり、軒先でハーブを育てたりする日常があります。あらためて振り返ると、そんな時間に恵まれていることにも気づきました。
そのような日々の営みをこうして言葉にし、他者と分かち合い、ときには誰かを巻き込みながら広げていくこと。それが今の私にできる、里山での暮らしのあり方なのかもしれないと思います。
彩りゆたかで、繊細なイラストの数々。この絵本のページをめくって眺めているだけでも、里山や里海の美しい景色が目の前に広がり、そこで生きる人たちの息づかいが聞こえてくるような気がします。ぜひ、実際に手に取って台湾の風景を感じてみてもらいたいと思います。
(撮影:Satoshi Kaneko)
(編集:村崎恭子)
– INFORMATION –
「台湾SATOYAMAイニシアティブ絵本」シリーズ第2弾の内容は、
こちらのアニメーション動画からもご覧いただけます。
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