頑張った自分へのご褒美に。お世話になっているあの人に感謝を込めて。大切な人に自分の気持ちを伝えるために。そんな思いと一緒に、誰かのもとへと届けられるお菓子。でも、その「おいしさ」をつくるために、地球環境や私たちの未来が壊されていくとしたら、それは「本物」のおいしさと言えるのでしょうか。
「地球にも動物にも人にもおいしい牧場経営」を掲げる株式会社ユートピアアグリカルチャーは、北海道・札幌市内の盤渓(ばんけい)と、日高地方を拠点に、放牧酪農や山地酪農、平飼い養鶏などを手がけるほか、そこでとれた牛乳や卵を使ったお菓子の製造・販売を行っています。
率いるのは、北海道で生まれ育ち、長年お菓子産業に携わってきた長沼真太郎(ながぬま・しんたろう)さん。「おいしいお菓子づくり」を追い求めた結果、「最高の原材料を自らの手でつくろう」と思い立ち、生態系を壊さずに、畑や牧場などの環境を再生させながら農業や畜産業を営む「リジェネラティブ・アグリカルチャー(環境再生型農業)」の考え方に辿り着きました。
今回訪れたのは、ユートピアアグリカルチャーの拠点の一つとして2022年に新設された札幌市の盤渓農場。「放牧の実験」が行われているというこの農場で、プロデューサーとしてユートピアアグリカルチャーに参画する阿座上陽平(あざかみ・ようへい)さんとともに、お二人が放牧やリジェネラティブ・アグリカルチャーに注目した背景や、これまでの試行錯誤、実際に動き出してからの手応えなどについてお聞きしました。
ミッションは「放牧の実験」。持続可能な酪農のあり方を探る
ユートピアアグリカルチャーのモデルファームである盤渓農場は、2021年に22ヘクタールの山林を取得してつくられました。もともとは、人の手が入っていない放置されていた山林だったそう。現在は、鶏舎と卵の出荷施設のほかに、山で放牧する馬や牛が休める牧草地がつくられています。いずれは牛の放牧できるエリアを広げていき、牛の搾乳もできるようなファームとしての機能も増やしていく構想です。
長沼さん この会社で何をやりたいかというと、一番のミッションは“Graze Experiments”。つまり、放牧の実験なんです。
放牧とは、牛や馬などの家畜を畜舎につないで餌を与えるのではなく、草地に放し飼いにし、自然に採食をさせること。「放牧の実験」がミッションとは、一体どういうことなのでしょうか。
長沼さん 私たちは、放牧が環境危機の有効な解決策の一つになりうると考えています。大豆やトウモロコシなどの飼料を与えなくても、家畜が牧草を食べ、排出された糞尿が土に還って肥料になり、さらに牧草が育つ。家畜を放牧させることで植物の成長が加速し、土壌に蓄えられる炭素量が増え、放牧によって土壌が豊かになり、それを食べて健康な家畜が育つ。放牧によって、栄養素を循環させる環境をつくることで、持続可能な畜産が実現し、地球環境の回復につながるわけです。しかし、いくら「放牧は家畜にも環境にも良く素晴らしい」と言っても、実際に事業として成り立たせ、継続していくのは非常に難しいんです。
たとえば、牛を放牧できる数は1ヘクタールあたり1〜2頭ほどといわれており、十分な広さの土地が必要になります。また、放牧によって自由に牧草を食べて育った牛は、畜舎で飼料を与えられて育った牛に比べて乳量や乳脂肪分等のコントロールが難しくなります。経済性を追求するには相当な工夫が要るのです。
長沼さん ですから私たちは、「そもそも放牧が事業として回るのか?」ということ自体を試しています。いつどのような草を食べさせると、どのような質の乳がとれるのかを測る取り組みや、山間地域での放牧運営への挑戦、また、牛の発情検知や日々の行動をデータ化して牧場運営を効率化するSaaSサービス「ファームノート」への投資など、酪農にかかる費用を抑えながらおいしい牛乳をつくるモデルを探っています。
そして、実験により生産された生乳や卵は自社のお菓子工場に運ばれ、お菓子となって人びとのもとへ届けられます。その利益を実験や設備に投資することで、事業が循環していくのが、ユートピアアグリカルチャーの仕組みです。
卵のおいしさと循環を両立させた、お菓子屋ならではのファーム
では、実際に盤渓牧場ではどのような実験を行っているのでしょうか。案内してもらいました。
まずは、約1,000羽の鶏が飼われている鶏舎へ。ここでは、放し飼いの環境に近づけるため、天井が高く通気性の良いパイプハウスを採用しているほか、内部には盤渓の山の間伐材を使用した止まり木が設置されています。
また、面積あたりの飼育数を一般的な平飼いの4割程度に抑えているため、鶏たちは十分に運動をし、日光浴や砂浴びを楽しみながら自由にのびのびと過ごすことができるのです。
こだわっているのは、環境だけではありません。盤渓農場では、道産の小麦と生米糠(なまぬか)をベースとしたエサを鶏たちに与えています。
長沼さん ここで行っている取り組みは、餌による卵の味の変化を見ることです。原材料の味に一番影響を与えるのは餌だと聞いているので、盤渓の鶏たちにあげる餌と、新冠町の牧場の鶏たちにあげる餌を変えているんですよ。それによってプリンの味は変わるのか、カスタードクリームにするにはどちらの卵が合うのか。そんなことを試しています。
実際に、小麦を食べた鶏からとれる卵には嫌な臭みがないことがわかってきたそう。
長沼さん さらに、お菓子工場から出た苺のヘタ、スポンジケーキの端など、お菓子くずも与えています。お菓子くずは、鶏に不足しがちな栄養素を補えるだけでなく、卵に甘味とコクが出るんです。
これまでは産業廃棄物としてお金を払って処理していた菓子くずが、鶏の餌に。お菓子屋が運営するファームならではの、卵のおいしさと循環を両立させる取り組みです。
さらに、鶏が出す糞は、牛たちのいる牧場や山地に持っていき、牧草の肥料にしています。長沼さんたちは、鶏糞によって草の成長度合いや含まれる栄養素がどう変わるのかも実験しているのです。
牛が山地に入れるようになるまで2年。長い時間軸で実験成果を出していく
さらに、フィールドは森の中にも。盤渓牧場では、放牧酪農の一種である山地酪農が環境再生に貢献することを証明するための実験が行われています。
長沼さんたちに案内され木々の中を進んでいくと、そこには山地でのびのび草を食む牛たちの姿が……と思いきや、木々の中から姿を現したのは馬たちでした。一体どういうことなのでしょうか。
阿座上さん 牛って、実はとてもデリケートな生き物なんです。一方で、馬は身体が強く、結構どんな環境でも入っていける。そこで、まずは荒れた山地に馬たちに入ってもらって、牛が歩きやすい状態になってから放牧を始めるんです。ここ盤渓では、約2年かけて馬に環境を整えてもらい、今年からやっと牛を放てるようになりました。ITやビジネスの世界とは全然スピード感が違いますよね。
長沼さんたちは、北海道大学大学院農学研究院とタッグを組み、馬や牛などの動物が山に入ることで環境にどんな変化が起こるのかを計測しています。
長沼さん たとえば、「山=植物が多く、二酸化炭素が吸収されている」と思われがちですが、盤渓のような放置された森はあまり二酸化炭素を吸収をしていないということが計測と研究を通してわかってきました。ですが、放置されていた森の中に動物たちが入って活動することで土壌が変われば、吸収量が何倍にもなる可能性があるんです。
北海道の里山は笹が多く、放置された森では笹が生い茂り、多様な植物の繁殖を妨げてしまいます。一方、馬は笹が好きで食べる量も多いため、馬が森に入って笹を食べることで日光が入るようになり、新しい植物の成長が促され、光合成を促進することがわかってきました。
長沼さん それから、馬が森に入ることで古い木が自然と倒れるんです。人の手で木を倒そうとすると大変ですが、馬たちが森の中で生活する中で自然と身体が当たるんでしょうね。古い木は二酸化炭素を吸収しないので、それが倒されて土に還ることで、そこから新しい植物や木が生えていきます。
阿座上さん さらに、馬や牛は体重が重いので、山地を踏み歩くことで表面の草やフンがぐっと地面に混ざる。そうすると、地中の深い層で炭素が固定されますし、さらに地面が柔らかくなるので牧草が根を張りやすくなる。そういう点で、山地酪農はかなり理にかなっているんじゃないかと。牛たちも自由に歩き回って暮らすことができますし、相乗効果があるんじゃないかという仮説が生まれました。
長沼さんたちは、こうして土壌の炭素の貯留量や緑の量を計測し、5年、10年のスパンで山地がどれだけ変わるのかを計測しています。
日本の国土の約70%は山間地ですが、管理する集落や継承者がいないことで適切に管理しきれていない森林が増えていることが大きな課題となっています。山地でも育つ馬や牛などの動物が山に入ることによって二酸化炭素の吸収量が増えるのであれば、餌代も人件費も削減できる山地での放牧酪農のモデルをつくり、未活用の森林を酪農地として一気に拡大できる可能性も見えてきているそうです。
「お菓子づくりへの本気度」を伝えるため、最高の原材料を自らの手でつくり出す
動物や人に嬉しく、そして環境再生にもつながる牧場経営を追究するユートピアユートピアアグリカルチャー。収益化のための手段としてお菓子をつくっているのかと思いきや、実はその逆。全ての取り組みの起点にあるのは、長沼さんの「おいしいお菓子をつくりたい」というまっすぐな思いです。
自身を「根っからのお菓子屋」と称する長沼さんが、なぜ牧場経営に挑戦し始めたのでしょうか。
長沼さん 私のモチベーションは、おいしいお菓子をつくること。ただそれだけなんです。おいしいお菓子づくりを突き詰めようしていたら、後から「放牧ってこんなに世の中にいいんだ、環境にいいんだ」ということがわかった、という順番ですね。
長沼さんのルーツは、北海道・札幌で1983年に創業した洋菓子メーカー「きのとや」にあります。創業者の長男として生まれた長沼さんは、北海道産の原材料を使ったお菓子を食べて育ちました。
長沼さん 私の家業である「きのとや」は、創業当初から「おいしいお菓子の三原則」をずっと大事にしている会社です。この三原則が、まずは「どこよりもフレッシュなお菓子」であること。お菓子は新鮮であればあるほどおいしくなります。次に、「どこよりも手間をかける」。一見非効率な一手間が、お菓子を何倍もおいしくするんです。そして最後が、「どこよりも良い原材料を使うこと」。当たり前のことですが、いい材料を使えば、その分お菓子はおいしくなるわけです。
子どもの頃から「いずれは自分もお菓子づくりに携わりたい」と考えていた長沼さんは、大学を卒業し商社勤務を経て家業に入った後、2013年にはチーズタルト専門店のBAKEを創業します。BAKEは大ヒットし、人気ブランドに成長しました。しかし、長沼さんの中には「もっとできることがあるのではないか」というモヤモヤした感情が生まれていました。
長沼さん 「おいしいお菓子の三原則」のうち、はじめの二つは、BAKE時代にやり込んで突き詰めることができました。しかし、「どこよりも良い原材料を使うこと」には限界を感じていたんです。
安定した品質・数量の原材料を仕入れるためには、どうしても大手牛乳メーカーを利用する必要があります。そのため、他社メーカーと差別化することはどうしても難しくなるのです。
BAKE在籍時から、より良い原材料を使ってよりおいしいお菓子をつくるため、各地の生産者を訪ねて周り、直接材料を仕入れることも行っていたという長沼さん。しかし、次第に「これだけでは理想のお菓子作りができない」というもどかしさを感じるようになったと振り返ります。
長沼さん 私としては、一番重要なのはお客様にいかに「お菓子の本気度」を伝えられるかだと思っています。言ってしまえば、お菓子はレシピさえあれば誰もがつくれる。さらにその先の、生産の裏側を含めた本物のストーリーをお客様に届けるためには、自分たちの手で、餌や環境一つひとつにこだわった原材料からつくるべきなのではないかと思うんです。
「酪農=悪」なのか?事業の方向性を探るために渡ったシリコンバレーで感じた使命感
BAKE時代から長沼さんとタッグを組んできたプロデューサーの阿座上さんは、事業構想の段階から、長沼さんとディスカッションを重ねてきました。
阿座上さん 僕たちがBAKEを卒業してから、真太郎さんは約2年かけて国内外の牧場を視察して周り、よりよいお菓子づくりのあり方を探っていました。隔週で新しい事業の方向性についてディスカッションを続ける中で、「やっぱり次は自分たちの手で原材料をつくる段階からやりたいね」と。でも、当時の仮説はむしろテクノロジー寄りだったんですよ。
各地の生産現場を視察する中で見えてきたのは、酪農は収益化が難しいという課題でした。一番のネックとなるのは人件費。そこで長沼さんたちは、人の手を入れなくても、ドローンやGPSなどのテクノロジーを活用し、効率的な酪農事業を実現する方法はないかと考えるようになりました。
最先端のアグリテックやフードテックを学ぶため、長沼さんはアメリカ・シリコンバレーに渡り、スタンフォード大学の客員研究員として1年ほどシリコンバレーに滞在します。しかし、そこで目の当たりにしたのは「酪農は環境破壊につながる」「脱酪農」という風潮でした。
長沼さん シリコンバレーでは、「酪農を卒業しよう」という流れが大きくなっていて。「テクノロジー」×「酪農」の動きよりも、むしろ培養肉や植物由来の食品をつくるスタートアップばっかりだったんです。「リアルの牛を育てるなんて非効率、今から牧場をやるなんて前時代的過ぎる」と言われたくらい。
しかし、そこで長沼さんは「では、乳製品や卵を使わないお菓子をつくろう」と考え方を変えることはなかったと言います。むしろ、お菓子屋である自分たちだからこそ目指せる方向性が見えてきたのです。
長沼さん 私はずっとお菓子屋をやってきました。お菓子というのは、大切な人に気持ちを込めてギフトとして贈る用途がほとんどなんです。やっぱり、本物の気持ちを伝えるお菓子は、「フェイクじゃない、本物の材料を使った本当においしいもの」であることに価値があるなと。
毎日飲む牛乳が豆乳になってもいいし、日々の食事は植物由来のタンパク質になってもいい。今後日本でもその流れは大きくなっていくでしょう。だからこそ、本物の乳製品でつくったお菓子は、ハレの日のための嗜好品として今より一層特別なものになると感じました。
本物の材料を使ったお菓子を届けたい。しかし、従来のやり方では未来へ続かない。
そもそも、酪農の何が問題視されているのでしょうか。まず一つは、効率的に生乳をとるために、牛をつないだまま干し草を与える工業的酪農のあり方に対する動物福祉の問題。さらに、牛のげっぷやおならに含まれているメタンガスの量が大きな課題でした。ほかの動物に比べ、牛はメタンガスの排出量が多く、地球環境に悪影響を及ぼすと考えられているのです。しかし長沼さんは、本当に「牛=悪」なのか?という疑問を感じていました。
長沼さん たしかに、牛の排出するメタンガスの排出量はすごい。でも、かつて牛は広い牧草地で放牧されていたわけですから、牛が排出したメタンガスを土壌が吸収し、うまく循環していたのではないかと。人間の都合で工業的畜産をするようになったから、メタンガスが吸収されなくなった。つまり、牛が悪いのではなく、飼い方次第で状況は良くなるはずだと考えたんです。
そうした中で長沼さんが辿り着いたのが、「リジェネラティブ・アグリカルチャー(環境再生型農業)」の考え方でした。
長沼さん 各地の生産現場を周っていた頃から、放牧によってストレスが軽減された牛の牛乳は、風味が豊かでおいしいと感じていました。さらに、放牧で牛を飼えば、牛のふん尿が自然と牧草が育つ養分となり、土壌が豊かになりますし、牛が歩くことで土壌が混ざり、牧草が食べられることで再成長が促されます。それにより、森が牛の呼吸やゲップによる温室効果ガスの吸収源となるのではないかと考えたんです。
突飛な発想を最後までやり切るから面白い
こうした仮説により動き出した、お菓子屋が放牧に挑戦するという壮大なプロジェクト。側で伴走してきた阿座上さんはどう感じていたのでしょうか。
阿座上さん 真太郎さんから現地の状況を聞いて、30年後、50年後の未来で、「乳製品を食べる=悪いこと」という世の中になってしまうのは嫌だなと。「せめて、自分たちお菓子屋くらいは、環境にいい育て方をした牛の牛乳を使ったものを提供したい」という、真太郎さんの目指すお菓子づくりのあり方を支持していこうと感じました。
そして、これまでずっと「自分たちで牧場をやれたらいいね」とは話していたものの、長沼さんの目指すスケールの大きさには驚かされたと言います。
阿座上さん お菓子屋が放牧の段階からやろうとするなんて、突飛なアイデアじゃないですか。でも、真太郎さんは全部やり切ろうとするんですよ。いざ方向性を決めたら、どれだけ時間や投資が必要だろうとやり切る。ただやるだけなら、お金と時間を使うだけになってしまうんですが、真太郎さんはちゃんと成功させて、新しい価値をつくり出すところまでやるんです。だから一緒にやっていて面白いですよね。
阿座上さんの言葉に対し、「いやいや、やり切るのは当たり前でしょ」と返す長沼さん。「そんなことないですよ!」と笑いながら、阿座上さんは続けます。
阿座上さん たとえばBAKEの頃から、「こんなお菓子をつくろう」というテーマが決まって、「この素材との組み合わせなら、この方向性しかないね」とだんだん選択肢が狭まってくる。普通の人だったらある程度のところで「これで大丈夫」と思うんですが、真太郎さんは本当にギリギリまで「もっと何かできることはないかな?」「これでいいのかな?」と微調整を重ねるんです。その姿勢が、今の「放牧の実験」というミッションにも合っているんじゃないかと。
はじめは、牛乳や卵、ヨーグルトなど、素材そのもので勝負する事業の案も出ていたそう。しかし、二人でディスカッションを重ねる中で、「自分たちの強みはあくまでおいしいお菓子にある」「おいしさを体験をする人を増やし、社会にインパクトを生み出そう」という方向性にまとまっていきました。
阿座上さん 「おいしそうなお菓子があったから買ってみよう」「おいしい!」「どうやってつくっているんだろう?」という順番で、僕たちの取り組みや、放牧によるリジェネラティブ・アグリカルチャーのあり方を知ってもらった方が、より大きなインパクトを生み出せるはずだと考えたんです。
長沼さん 僕たちはお菓子屋だからこそ、生産性よりもおいしさを追究できるんです。お菓子屋自らが放牧の実験をして、しっかり環境を循環させた上でお菓子をつくる。それが事業として成り立つのか、どんなおいしい原材料ができるのかを見つけていこう。それが私たちのミッションになると信じ、2020年にユートピアアグリカルチャーの代表取締役として再始動しました。
「お菓子屋」である自分たちだからこそできる挑戦
それにしても、馬が山地を整えるまでに2年の歳月を要するなど、長い時間とお金を必要とするユートピアアグリカルチャーの事業。長沼さんたちが、この果てしない実験を「やり切る」と決めて実践できるのはどうしてなのでしょうか。
長沼さん それはもう明確に、我々の本業がお菓子屋だからです。実際、ユートピアアグリカルチャーはまだまだ大赤字ですよ。酪農や農業を本業にされている方には、こんなお金や時間のかけ方はできないでしょう。だからこそ、我々がやる意義があると思っています。我々は本業のお菓子の事業で利益を出せるので、この実験で利益を上げる必要はないですし、むしろお菓子づくりにかける本気度をお客様に伝えられる投資だと思っているので。
長沼さんが放牧を追究するのは、あくまで自分たちにとっての「おいしい」を突き詰めるため。従来の酪農のあり方を変えたいわけではないと言います。
長沼さん 放牧が100%いいかというと実はそんなこともなくて。あくまで、私は放牧の牛乳は風味が豊かでおいしいと思っているので、このやり方に辿り着いたんです。でも、工業的畜産によってつくられたものにもそれぞれのおいしさがありますし、当然品質やとれる量も安定する。私としては、放牧や平飼いを押し付けるつもりはなくて、いろんなやり方があって、それぞれに魅力があるので、それをちゃんと適正にお客様に伝えて、あとはお客様が判断すればいいと思っています。
実際に、ユートピアアグリカルチャーとしてお菓子づくりを始めてからの手応えや反響を聞くと、「事業としてはやはり難しい」という正直な声が返ってきました。
長沼さん 生きた動物を相手にしている以上、365日向き合い続けないといけないという大変さ、畜産物で利益を出すということのシビアさをひしひしと感じています。
その一方で、自分たちがどれだけこだわってお菓子づくりをしているかは、しっかりお客さんに届いているという実感があるといいます。
長沼さん 「放牧」というキーワードも、事業を始めた当初よりは一般的に浸透してきた手応えがあります。しっかりストーリーをつくり込んで伝えてきたことで、その普及に貢献できたという感触がありますね。
「おいしさ」を体験するファンを増やす。その先に酪農や畜産の未来があると信じて
今後のことを尋ねると、長沼さんは「実験の成果を出した上で、自分たちの取り組みについてもっとたくさんの人に知ってもらいたい」と教えてくれました。
長沼さん とにかく今は、ちゃんと成果を出して実験を完結させたいですね。自分たちの牧場を100拠点つくりたいと思っていたこともありましたが、今はあまり酪農や畜産での大きなビジョンは描いてなくて。むしろ、今ある日高町や盤渓の拠点をもっと磨いて研究成果を出していきたい。ご覧いただいたように、盤渓の山の環境はここ数年でどんどん変わってきているんです。ここを一つのモデルファームとして完成させたいですし、今後もしっかりブランディングをして知名度を上げて、より多くの方に私たちのことや放牧を知ってもらえるようにしたい。
阿座上さん どれだけいいことをしていたとしても、結局は多くの人に「おいしい」と思ってもらえないといけないし、その前の段階としてまずは多くの人に知ってもらって、届かないといけない。ちゃんと売り切りたいですね。「売れる」というのは、ちょっと言い換えると「僕らの目指すものを体験してくれるファンが増える」ということ。やりすぎなくらいやりきらないとなかなか印象に残るものはつくれないと思うので、クリエイティブもストーリーもおいしさも、今後もやり切っていきたいです。
長沼さんたちは、自分たちの実験から得た成果やノウハウを隠すつもりはないと言います。むしろ、それをいろんな人たちに伝えて、放牧や平飼い、リジェネラティブ・アグリカルチャーの考え方が広がっていけばいいと考えているそうです。
長沼さん 結局、我々にできることは「おいしいお菓子をつくって売る」ことだけなんです。だから地道にお菓子をつくり続けていけば、何十年か後、酪農業界や世の中に何らかの形で貢献できる気がします。まだまだこれからですけどね。
生き物や環境と向き合う取り組みは、5年、10年、20年というスパンでやっていくことなので、まだ始まったばかりです。ちゃんと実験し続けることが今描いている未来ですし、それよりもっとやりたいことは、ちゃんとおいしいお菓子をつくり続けることですね。それしかないです。
すべてはおいしいお菓子をつくるために。そして、おいしいものを「おいしい」と当たり前に食べられる未来のために。長沼さんたちの挑戦は、これからも一歩ずつ続いていきます。
(撮影:山本悠介)
(編集:村崎恭子、増村江利子)