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「幸福な家族」の束縛から自由になるために。「家族をひらく言葉」という日常の革命

子どものころ、ドールハウスに憧れていた。

赤い屋根に白い壁、煙突のついた二階建ての一軒家に、動物を模した人形たち(たぶん家族なんだろう)が暮らす、あれ。CMであのおもちゃをみて、「うわー! いいなぁ!」と思った(けっきょく、買ってもらうことはなかったけれど)。

今思えば、あのときの「いいなぁ!」は、「こんな家族のなかで暮らしたいなぁ」という願いがにじみでたものだった。そしてその願いはたぶん、世の中にある「幸福な家族像」からきていた。

その「幸福な家族像」って、どんなものか。『近代家族の形成』という本を書いたエドワード・ショーターは、「近代家族」には3つの規範があるといっている。

・夫婦間の絆の規範としての「ロマンティックラブ・イデオロギー」
つまり、運命で結ばれた男女が結婚し、子どもをつくり、添い遂げるべきだということ
・母子の絆の規範としての「母性イデオロギー」
つまり、母親は子どもを本能的に、無条件に愛すべきだということ
・家族の集団制の規範としての「家庭イデオロギー」
つまり、家庭は親密であり、このうえなく大切であるべきだということ
(参考:E・ショーター『近代家族の形成』)

ざっくりまとめれば、「家族は、愛で結ばれた男女が結婚して、子どもをつくって、母親は子どもを無条件かつ本能的に愛して、それぞれが親密な関係で結ばれているべきだよね!」という考えが、近代以降はあった。いや、今でもある気がする。

でも、さまざまな家族と出会ってきたいまは思う。そうした「幸福な家族像」によって、僕らはきゅうくつな枠に押し込められてしまっているんじゃないか? と。だとしたらそりゃ、苦しくもなる。僕らは人形じゃないのだ。

だからもうちょっと自由度高く、そう、「レゴ」みたいに、家族を自由につくっていってもいいはずだ。(一応書き加えておくと、今でもあのドールハウスは楽しそうだな、と思う。ここでツッコミを入れたいのはおもちゃではなく、僕らをとりまく家族の規範のほうです。)

今回取材したのは、まさにそんなふうに、「幸福な家族像」にとらわれずに、家族を組み立てている人たちなのだった。

2週間のうち5日間、ともに暮らす家族

取材依頼をもらったとき、うーん…って考えちゃったんですよね。私たち4人って、家族なのかな? って。

取材の冒頭、日比朝子さんは「ははは!」と爽やかな笑顔を見せながらそう言った。うんうん、そうなんですよねぇと、同性パートナーである吉田朋子さんもうなずく。

そうなのだ。もし、「一生に一度の恋に落ちた男女が結婚し、子どもを産み育て、添い遂げる」関係が「家族」なのだとしたら、日比さんや吉田さんたちがつくってきた関係はその定義からはこぼれおちてしまう。

その関係とは、こういったものである。

現在、神奈川県茅ヶ崎市で、日比朝子さんと吉田朋子さんは10歳のお子さん(Sさん)と暮らしている。Sさんは、吉田さんと元夫であるAさんのあいだに生まれた子どもだ。

その家には2週間のうち5日間、Aさんも訪れ、一緒に生活をする。つまり1ヶ月のうち3分の1ほどは、4人での生活となる。

4人で生活をする日は、家事や子育ては大人3人でゆるやかに分担。たとえば子どもの食事はAさんがつくり、お風呂や勉強の見守りは日比さんや吉田さんが担う、といった具合に。

5日間は4人でずっと一緒に過ごす、というわけではなく、Aさんが子どものSさんとふたりで出かけたり、部屋にこもってゲームをしたりしている時間も多い。以前は4人で食卓を囲むことも多かったというが、最近では別々であることがほとんど。けれど関係性がわるくなったということではなく、この生活スタイルを続けるうちに自然とそうなっていったらしい。

吉田さん(左)と日比さん(右)

子どもを中心にした家族

こうした4人の関係に、名前をつけることはむずかしいし、つける必要もないのかもしれない。けれど、あえていうならば「子どもを中心にした家族」という呼び方がしっくりくるのだそうだ。

吉田さん 子どもがいてはじめて、それぞれの役割が成り立ってるので、「子どもを中心とした」って枕詞がつけば家族かもしれないですね。大人3人は、「子どもを見守るチーム」っていう感覚です。

なるほど、チームであれば、子どもを見守る役割を担うのは3人でも4人でも5人でもいいわけだ。

「子育ては、異性カップルのふたりが中心となっておこなうべき。だって、それが子どもにとっての幸せだから」というイメージが、冒頭でも紹介した「幸福な家族像」にはあるように感じる。

けれど、「そんなことなくない?」という気持ちは、僕もずっと持っていた。なにしろ僕自身、親よりも親戚といる時間の方が長い環境で育てられてきて、そのこと自体を不幸せだと感じたことはなかったのだ。

むしろ吉田さんや日比さんたちは、「子どもを見守るチーム」による子育てのいいところも感じているという。それは、関わる人が増えるだけ、子どもの選択肢が増えるということだ。

日比さん たとえば私は映画が好きなので、子どもと一緒に観る機会は提供できます。だけど、虫取りのように外に出て冒険する、みたいな機会は、私も彼女(吉田さん)も気軽に提供できない。だから、Aさんが冒険に連れて行ってくれる役割を担ってくれてますね。

たとえば学校の春休みに、SさんはAさんの出張に連れて行ってもらい、ドローン撮影の現場を朝から晩まで見せてもらった、ということもあったらしい。

まわりにいろんな大人がいる環境には、色とりどりの楽しいことを垣間見せてくれる選択肢がある。しかも同時に、つらいときに助けてくれる依存先もたくさんできるんじゃないだろうか。

日比さん そうですね。依存先を増やすことも、意識していることではあります。お父さんが常に一緒にいるわけじゃないので、寂しさを感じるときはあると思うんですけど…。だからこそ、「いろんな人にたくさん愛されてるな」って感じられるといいなって思ってますね。

その思いを知ってか知らずか、Sさんも「僕のことを好きな人は、ママと、ひびちゃんと、ちちと、◯◯のおじいちゃんとおばあちゃんと、◯◯のおじいちゃんとおばあちゃんと…」と、いろんな人の名前をあげるらしい。

ふと自分をかえりみてみると、僕は自分のことを好きな人の名前を何人挙げることができるだろうか…と考えて、ちょっとSさんがうらやましくもなる。

家族の機能を分解して、組み立て直す

でも、ちょっと疑問も湧いた。「子どもを中心とした家族」は、しかし裏を返せば、子どもを抜きにすればこの関係はちがったものになることも意味するんだろうか?

日比さん そうですね。「子どもを中心とした家族」って言われたら違和感がないんですけど、じゃあ「私にとっての家族は誰か?」って考えたときには、ゆるやかに、家族の境目が変わるというか。

たとえば私が落ち込んだとき、この(パートナーである吉田さんとの)関係のなかでは、感情の揺れを受けとめて、ケアしてもらえる。でも、Aさんとのあいだでケアし合う関係かというと、またちょっと違うと思うんですよね。

これまで家族には、「こどもに教育を与える教育機能」「消費と生産(労働力の提供)を行う経済的機能」「カップル間の絆を醸成する性的機能」「子孫を残す生殖機能」「子どもや病気の人を守る保護機能」などなど、さまざまな機能が持たされてきた。

これらの機能を、ひとつの関係性の中で全て満たすなんて、むりでしょ! と思う。思うのだけど、そんな無理なことを求めてきたのが、冒頭で紹介した「近代家族」の規範だった。たとえるなら、これらの機能をくっつけるための接着剤の役割を果たしていたのが、そんな規範だったんだろう。

日比さんや吉田さんは、そうした規範から自由なように見える。接着剤でくっつけられていた機能たちをいったん分けて、「教育はこの関係性で、ケアはこの関係性で、性や生殖はこの関係性で…」といったように、組み立て直している。

といっても、はじめから本当に自由な発想でこうした家族のかたちをつくってきたわけではなかったらしい。きっかけは、子どもであるSさんのある言葉だったのだ。

「4人のパートナーシップがいい」 きっかけは子どもの言葉

吉田さんが夫だったAさんと離婚した当時から、吉田さんとAさん、日比さんの3人は「子どもを一緒に育てていくチームであろう」という話をしていたこともあり、AさんとSさんが暮らす都内の家にふたりが訪れ、4人で過ごす時間も多かった。Sさんと日比さんも、出会った日から友達のように仲良くなった。ちなみに吉田さんはSさんに、日比さんのことを「同じ会社の日比ちゃん」と伝えていたという。

そんな生活が半年ほど続いたとき、Sさんがどちらの家も行き来しやすいようにと、AさんとSさんが暮らす家の徒歩圏内で、吉田さんと日比さんが暮らす家を探すことになった。

都内の家を契約し、あとはお金を払えば入居できる…というころ。大人3人で、Sさんへの伝え方を話し合った末、「パートナーとして、ふたり(吉田さんと日比さん)で生活していくことにしたい」ということを、Aさん経由でSさんに伝えた。すると、思わぬ言葉が返ってきた。「4人のパートナーシップがいい」というのだ。

吉田さん 子どもらしい自由な発想だなって、びっくりしました(笑)。たぶん、「パートナーシップ」って言葉をそのとき初めて聞いたから、「パートナーは1対1の関係」みたいな固定観念がなかったんですよね。それで急遽、3人で夜にオンラインのミーティングをしたんです。

日比さん 「4人で住む」っていう発想はそれまでなかったけど、私たち3人も「面白いね」と。それで、契約してた家はキャンセルして、4人で住める家を探すことになりました。

新しい家の条件は、4人で暮らせること。親子で遊べるような自然がたくさんあること。そして、Sさんにとって大事なコミュニティであった都内の野球チームに通える距離であること。つまり、Sさんを中心に考えた。最終的に残ったのが神奈川県茅ヶ崎市で、2020年12月に引っ越した。

こうして、「子どもを中心にした家族」での暮らしがはじまったのだった。

家族で縛る言葉、家族をひらく言葉

ところで、僕のにがてな言葉に「家族なんだから」というものがある。

「家族なんだから愛し合うべき」「家族なんだから面倒をみるべき」みたいな言葉に触れると、うっ、と息が詰まる。個人の考えや気持ちはさておき、「家族であること」が行動原理になるべきなのか、と。そしてそこで言われる「家族」とは、冒頭で書いた「近代家族」が前提になっている気がする。「近代家族」の規範をちゃんと守れよ、というニュアンスを感じるのだ。

他にも「子どもなんだから」とか、「いつ結婚するの?」「親に感謝しなさい」みたいな言葉を、たまに目にしたり、耳にすることもある。そうした言葉は、まったく悪気なく投げかけられたものだとしても、触れるとぎゅっとしばられるような苦しさを感じる。これらはいわば、家族の規範で僕たちを束縛する、「家族で縛る言葉」だ。

想像だけれど、吉田さんや日比さんたちは、「家族で縛る言葉」に意識的なんじゃないか。「家族で縛る言葉」ではなくて、むしろ「幸福な家族像」の鎖を一人ひとりから解放する言葉、「家族をひらく言葉」を使っているような気がする。

Sさんの「4人のパートナーシップがいい」という言葉もまさにそう。あとは、吉田さんはSさんに「自分のことは自分で決めていいんだよ」とよく言っているという。

吉田さん 小学校を決めたときも本人の意思。当時住んでた場所が、学区の中で小学校が選べる仕組みだったんですけど、どの学校がいいかも本人が決めました。なるべく、本人がやりたいことを尊重したいっていう思いがあるので。大人たちは選択肢を与えるだけなんです。

吉田さんがSさんに伝えているのは、それだけではない。「ママが幸せであることも大事なんだよ」と、よく言っているという。

吉田さん SはSで幸せを見つけてほしいし、私は私の幸せを見つけたい。お互いの幸せを見つけていこうねって伝えています。子どもが幸せであるためにも、私自身が幸せでなければいけないって思っていて。

たとえば、Sがやってみたい習い事がたくさんあったとき、私が辛い想いをして働いてその費用を捻出するんじゃなくて、私自身も楽しいと思える仕事をたくさんやって、お給料が上がって、息子も習い事ができる…っていうように、私の幸せもSの幸せも叶えるようなかたちにしたいんですよね。

近代家族の規範のひとつに、「母性イデオロギー」がある。それは母親が自己犠牲をもいとわなず、無償の愛で子どもの面倒を見るべき、というもので、たとえばスーパーの売り場で「母親なんだから、ポテトサラダくらいつくったらどうだ」と見知らぬ男性から言われた、というニュースにも見え隠れしている。その「母親なんだから」なんて、まさに「家族で縛る言葉」の典型的なものだ。

家族で縛る言葉は、相手も自分も、そのまわりの人も、「幸福な家族像」で縛っていく。もしかしたら自分の孫も、その子どもも、そのまた子どもも…というふうに、世代を超えて縛っていくかもしれない。幸福を名指していたはずの言葉が、むしろ自分たちの不幸を生み出していく、という、なんとも皮肉な状況になる。

日常の中で「家族をひらく言葉」を使うことは、そうした負の連鎖をたちきる、ささやかだけれど積み重なれば大きな力を持つ実践になるのかもしれない、と吉田さんの話を聞いていて思う。

「家族で縛る言葉」の束縛をほどく

吉田さんと日比さんは、いまの「子どもを中心にした家族」をさらにひらいていきたいと考えているそうだ。

日比さん 3人の大人がコアメンバーとなって、Sがやりたいことをサポートするかたちは変わらないと思うんです。だけど、たとえばよく遊びに来るお兄ちゃんお姉ちゃんみたいな人がいて、Sが私たち3人に話せないことも話せる、みたいな関係性ができたら、すごくいいなと思うんですよ。

実は、吉田さんと日比さんは妊活に取り組んでいる。この家族は、ますますこれまで当たり前とされてきた「家族」のかたちではとらえきれないものになっていくのかもしれない。

ただ、吉田さんたちのような家族のかたちを今の日本の政府は想定していなそうだ。実際、現状では吉田さんと日比さんたちのような家族は、制度的なサポートからこぼれ落ちてしまう。

日比さん 同性婚が認められていないことはもちろん、不妊治療でも、日本では法的な婚姻関係がある夫婦の妻以外には、提供精子を用いた人工授精を行うことが認められていないことや、子どもが生まれても同性カップルでは共同親権が認められない、といった問題に直面しました。

政府や社会が想定する家族のかたちが変わらない限り、なかなか制度の対象が広がることはないと思います。でも、私たちみたいな家族が実際に存在しているわけなので、「もう認めてもいいんじゃない?」って思うんですよね。

家族をレゴのように組み立てる、と冒頭で無邪気に書いたが、誰もが選択肢を自由に選び取れるわけじゃない。ほしい家族をつくるための選択肢は、当事者の経済状況や人とのつながり、政治的に置かれた状況などに左右される(吉田さんや日比さんも、同性カップルであるために子どもを持つという選択肢を選ぶためにずいぶんと苦労した)。

誰もがほしい家族をつくる選択肢を得るためには、制度的なサポートが欠かせない。たとえば同性婚はもちろんの、性別に関係なくカップルに法律婚に近い権利をみとめるフランスの「PACS(連帯市民協約)」や、スウェーデンの「サンボ法」など、多様な家族のあり方を包摂するような法律は各国で生まれている。ブラジルのサンパウロ州では、2012年に一人の男性と二人の女性による届け出が受理され、いわゆる「三人婚」が公認された例もあるらしい。

「同性婚」も「PACS」も「サンボ法」も「三人婚」も、もとをたどれば日常の中でなにげなく誰かが発した、「こんな関係がいいね」という「家族をひらく言葉」だったのかもしれない。その言葉たちがひとつ、またひとつと積み重なっていけば、社会にがっちりと存在している「家族で縛る言葉」をほどくまでになる。

「ほしい家族をつくる」というと、家族のルールをつくったり、コミュニティをつくったりと、おおげさなことをしなければいけない感じがするかもしれない。けれど、実は日々の生活のなかで「家族をひらく言葉」を使うことも、ささやかだけれど大きな力を宿した、日常のなかの革命のような実践だ。

ひとつひとつの声は小さくても、たくさんのそれが集まり、積み重なれば、世の中に存在する「家族で縛る言葉」の束縛はだんだんとほどかれていくはずだ。いや、ほどいていくためにこそ、僕は「家族をひらく言葉」を口にし、文字にしていきたい。

参考文献

E・ショーター『近代家族の成立』昭和堂,1987
千田有紀『日本型近代家族 どこから来てどこへ行くのか』勁草書房,2011

(編集:佐藤伶)

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