広島駅から呉線とバスに揺られて約2時間。大崎下島の「久比(くび)」という人口約430人の小さな村に到着したのは夜の20時頃。
都会の景色に慣れきった私の目にあまりにも暗く感じるその村に、ポツンと温かな光が灯る場所。それが今回の訪問先「一般社団法人まめな」です。
かつて病院だったその空き家は、改装を経て2018年に宿泊できるコミュニティスペースとして息を吹き返しました。
いまでは、地域の人がお昼ご飯を食べに来たり、広島本島の学生がフィールドワークとして訪れたり、都心で定年退職した大人たちが部活動をはじめたり。久比に移住する20〜30代の人たちも増え、限界集落の村に年間500人以上が訪問するという奇跡が起こっています。
この度、「まめな」や久比に関わる人たちを紹介していく連載「“まめな”なひと」がグリーンズで始動。初回は、プロローグとしてライターが5日間宿泊した様子をレポートします。
ちなみに「まめな」とは「元気な」という意味。久比という場所で、自分が心からやりたいことに挑戦し、自分の頭で考え自分の言葉で語る、活力のある人たち。彼・彼女たちの言葉の中には、課題だらけのこの社会を生き生きとサバイブするヒントが隠れているかもしれません。
「いる」からはじめる、安心できるくらしの探求
私が初めて訪れたのは、2022年4月。「まめな」の代表理事・三宅紘一郎(みやけ・こういちろう)さんとご縁があり、1泊2日滞在させていただきました。
普段は東京でくらし、フリーランスで仕事をしている私は「常に自分がどんな人間なのかを示していかない限り、仕事もお金もなくなってしまう」そんな漠然とした不安を抱えていました。
誰かの力を借りることに対しても、罪悪感と億劫さの間のような感覚。生活の行き届かない部分は、お金を払って商品やサービスに頼る生活を送っていました。
いまはこのやり方で暮らせていても、子育てや介護がやってくる将来、自分の力だけで乗り切れるとは到底思えないし、商品やサービスに頼るにしてもどれだけのお金を貯めればいいことやら…。
いまのくらし方では限界が来るとわかってはいるけど、どうやって頼りあえる仲間を見つけていけばいいのか、どんな場所でどんな環境であれば安心してくらしていけるのか、その糸口を探している最中でした(その探求は継続中。)
そんなときにたまたま訪れた「まめな」。初日にかけてもらった温かい言葉が印象的でした。
お金がないならご飯の支度を手伝ったり、部屋の掃除をしたり、施設や久比に対して何かしらのお返しをしてくれればいい。
この言葉を聞いて、「私はここにいていいんだ」とほっとしたことをよく覚えています。
大切なのは肩書きや役割に沿って「する」ことではなく、まずは「いる」から始めること。ただ居てみて、自然と湧いてきた自分の内なる声に向き合ってみる。そんな余白のある「まめな」の価値観と、さりげなく支え合う久比の人たちの姿に、私の心はぐっとひきつけられました。
将来への不安を和らげてくれるくらしのあり方は、この場所から見つけていけるかもしれない。そんな期待を持って、いまでは定期的に訪れたい大切な場所となっています。
お金でも、お金以外でも。「まめな」で回る“感謝経済”
「まめな」は、村の中にいくつか拠点を構えています。ひとつは「まめな食堂」という暖簾がかかり、訪問者を出迎える母家。
旧梶原病院という、かつて村の人たちに愛された病院をリノベーションしたこの場所は、「まめな」の想いに共感した持ち主から寄贈された建物です。地域の人が食事をしたり、日中は宿泊者がリモートワークをしたり。何気なく人が集まって、何気なく交流がはじまる。訪問者同士のセレンディピティが生まれる場です。
私が宿泊した5日間は、学生さんや白馬で教育分野に携わる先生、私と同様に取材で訪れた方、親子など、数日間を共にする方が何人かいらっしゃいました。
とある高校生は、たまたま滞在期間を共にした先生と会話が広がり、「自分が本当にやりたいことが見つかった」と目を輝かせて、将来の夢を語ってくれました。滞在者がたまたま母校の後輩だったと嬉しそうに話す「まめな」のメンバーの姿も印象に残っています。
私自身は、これまで経験してきた取材の話やライター業の面白さを学生さんにシェアしたり、逆に学生さんのプレゼンテーションから刺激をもらったり、縁側で一緒にラジオ体操したり。普段はなかなか関わることのできない方たちと、楽しい時間を共有させてもらいました。
同じ母家内にある「まめな食堂」では、500円でお昼ご飯、700円で夕飯を食べることができます。久比の訪問介護の拠点となる「Nurse and Craft合同会社」の本社がすぐ近くにあるため、ご飯を食べに来るお年寄りの健康相談を受けたり、様子を見てアドバイスをしたり、地域の方のウェルビーイングをサポートしています。
「まめな」では、実は宿泊費が決まっておらず、自分でその額を決めて寄付する形をとっています。
しかも、そのお返しは必ずしもお金である必要はありません。宿の掃除をしたり、洗い物をしたり、料理を手伝ったり。自分が受け取ったもののお礼を何かしらの形で「まめな」や久比に還元していく。「ありがとう」という感謝の気持ちが、地域の人、まめなのメンバー、移住者、滞在者の間をぐるぐると回り続けています。
正直、最初の数日は「何かを返さなくちゃ」と躍起になったり、逆に忙しそうにリモートワークをしてみたり、「する」ことを無理やり探してしまっている自分がいました。しかし、滞在3日目くらいから肩の力が抜けてきて、ただその場所に「いる」ことができるようになってくる。久比の景色をぼーっと眺めたり、縁側でだらだらしてみたり。「いる」ことで初めて、ちょっとした関わり白が見えてくるように感じました。
どうせコーヒーを淹れるなら多めにつくれば他にほしい人がいるかもしれないし、部屋をきれいにできたら何より自分が気持ちいい。誰かのプレゼンテーションを聞いて自分の感じたことを伝えてみれば、本人は少し違った視点が得られるかもしれないし、走り回る子どもたちを見守る目が一つでも増えれば、ちょっと助かる人がいるかもしれない。それくらい取るに足らない「いる」を通じて、私も感謝の循環の中にちょっと足を踏み入れられた感覚を持つことができました。
常識は一旦脇に置いて、自分の頭で考えてみる
宿のある旧梶原病院から歩いて2分ほどの場所に、生涯学習のための施設「あいだす」があります。
「あるものからはじまる」をテーマにした「あいだす」では、地域の人から集まった使わなくなった遊び道具や端材、お祭りの道具など、たくさんのモノが置かれています。何か新しいものを買いに行くのではなく、あるものから何かをつくり出す創造の場となっており、子どもたちや地域の方々が気軽に遊びに来れる場所です。
「あいだす」で共有される価値観は、正解を押し付けず自分の頭で考えること。
そして、大人も子どもも対等であること。
私が滞在している期間も、遊びに来た子どもたちと一緒に畑づくりをしていましたが、飽きてしまった子がある大人を目がけて追いかけっこを始めました。最初は穏やかな追いかけっこだったのですが、熱が上がってくると鬼である大人を叩き始める子どもたち。ここで私が「やめなさい」と止めに入ることもできたけれど、その気持ちをぐっと抑えて、とりあえず見守ることに。
叩かれた側が「もうやめよう」と伝えたことで次第に熱は冷め、怪我もなくことは収まったのですが、この時に私の中にひとつの問いが芽生えました。
「人を叩くのは悪いこと」だという、“正解らしきもの”を第三者の私がこの子たちに押し付けていいものだろうか。
この記事を読んでいただいているみなさんにもさまざまな考えがあると思いますが、この問いが私に芽生えたのは「あいだす」の価値観を共有されていたからだったのではないかと感じました。
人の成長や学びに関わるってどういうことなんだろう。
そんな哲学的な問いを子どもたちが帰宅したあと、残ったメンバーで少し話しました。
遊んだあとに問いを持ち帰り、対話する。この繰り返しが大人にとっても学びのプロセスになっていることを強く実感した出来事でした。
「あいだす」のメインスペースの隣には、2022年7月にオープンしたばかりのバー「邂逅(かいこう)」があります。壁は船板でつくられ、たくさんのお酒が置かれ、料金はお客さんが決めるペイフォワード制。お支払いしたお金は全て新しいお酒の買い足しに使われているそうです。
次の人がより楽しめる場所をみんなでつくっていく、そんな想いが込められています。
他の滞在者の方と共にお酒を数杯いただきました。久比からフェリーで20分ほどの場所にある畑のレモンを使った「ナオライ株式会社」の「浄酎」というお酒をいただきながら、久比の歴史や文化について、いろんな話を聞かせてもらいました。
ざっと紹介しただけでも、盛りだくさんな「まめな」ですが、まだリノベーションが間に合っていない建物がいくつもあり、今後も拠点が増えていく予定だそう。「まめな」の施設を巡ることで、自然と久比の町を周回し訪問者と地域の人が交流できる。そんな村づくりが進んでいます。
取り戻していく“くらしの感覚”
「まめな」で共有されている価値観、それは「くらしを自分たちの手に取り戻す」というもの。畑で採れた野菜、バー「邂逅」の木の壁、「あいだす」にある大小さまざまな椅子、井戸から汲んできた水、子どもたちがつくり出したアート、自分たちで塗った壁など、「まめな」には至るところに「自らの手でつくり出したもの」があります。
昔の生活では私たちが自らの手でつくり出していたものも、現在の一般的な都市生活ではお金で買うことが当たり前になりました。災害や食糧危機などさまざまな不安を乗り越えていくためには、くらしの中の営みをもう一度自分たちの手に取り戻すことが必要だと「まめな」は伝えています。自分の労働力を商品にして売ってお金で解決するやり方ではなく、くらしをつくっていく1人の人間としてくらしを編み直していくのです。
「くらしを自分たちの手に取り戻す」。そのやり方も、何から始めるかも、「まめな」には何一つ教科書がありません。滞在者がそれぞれにその言葉を解釈して、行動をはじめています。
自分の食べ物を自分で調達するために農をはじめる人もいれば、余った廃材から椅子をつくり出す人もいる。かつての航海がそうであったように、エンジンを使わず風だけでヨットを動かそうと試みる人もいる。
一つ、私が肝に感じることは、「自分の手に取り戻す」ではなく「自分”たち”の手に取り戻す」という主語が複数形であることです。
久比の人びとの家には、庭で野菜や果物を自分で育てて、物々交換をする文化がいまもなお残っているそう。自分が食べる分だけを賄おうとするのではなく、得意なものを得意な人がつくり、それを交換する。「まめな」にも地域の人たちから、食べ物や本、家具、木材などさまざまなモノが届き、それが地域の人たちへ還元されていきます。いろんな場面でお金以外での交換が起こるのが「まめな」という場所です。
「社会の不適合者」ほど未来を変える力がある
「まめな」に集まるメンバーは、一度社会や大学に出たけれど馴染めなかったり、面白みを感じられなくて久比にやってきた人や定年退職して新しい生き方を久比ではじめようとする人など、思わずその背景を深掘りしたくなるユニークな人ばかり。
「まめな」の代表理事の更科安春(さらしな・やすはる)さんは、そういった人たちのことを「社会の不適合者」と呼びます。しかし、それはネガティブな表現ではありません。社会への違和感を我慢したり、誤魔化したりせず、正面からぶつかっていく「不適合者」であるほど未来を変える力があると考えているのです。
私たちが将来への不安を感じることは当たり前で、いまの社会のほうが間違っている。その感覚を見て見ぬふりしていてはその不安はもっと膨らむばかり。将来への不安を抱える「社会の不適合者」が少しずつでもくらしを変えていくきっかけの場として「まめな」は存在しています。
と更科さんは伝えてくれました。
違和感や不安に向き合い、自分と社会を変えていくことには大変な部分もあるけれど、「不適合者」である仲間たちが集まる「まめな」に関わり続けることで、自分自身やくらしのあり方を少しずつ変化させ、想像していた未来とは全然違った景色にたどり着くことができるかもしれません。
この連載では、そんな「まめな」で自分のやりたいことに向き合い、実践している人たちを紹介していきます。
たとえば、東京の会社で働くことへの違和感を感じ移住してきた「あいだす」のメンバー。
フィールドワークで久比へ訪れたことをきっかけに新たな農の形を生み出そうとしている大学生。
移住はせずとも定期的に訪問し教育に関するワークショップをしようとしている方など。
「まめな」と関わるなかで得た気づきや価値観の十人十色な変化を伺っていく予定です。
また、私個人としては、連載を通じて「まめな」を訪れる人が出てきたり、記事の内容が会話の種になったり、「まめな」へのお返しの一つになってくれたらいいなという願いを込めてお届けしていきます。
(撮影:福崎陸央)
(編集:スズキコウタ)
※連載「“まめな”なひと」、第2回はこちら。
“経済中心”から“人と自然中心”の地方創生へ。「一般社団法人まめな」の自己実現からはじまる、地域貢献のカタチ
– INFORMATION –
「まめな」では現在クラウドファンディングを開催しています。オープンから3年が経ち、地域の方々からも「まめながなくなったら困る」という声がかかりはじめたと言います。
自分たちだけのものではなく、久比に関わるすべての人たちへ開かれた「まめなコモンズ」へと変化を遂げている真っ只中。リターンの中には宿泊プランもいくつか用意されているので、ぜひこれを機に「まめな」でのくらしを体感されてみてはいかがでしょうか?