すごい作品に出合いました。
ドキュメンタリー映画『チェチェンへようこそ-ゲイの粛清-(以下・チェチェンへようこそ)』です。
タイトルには対比的な、歓迎を表す“ようこそ”と、排除を示す “粛清”という言葉が並びます。映像もまた、記録映像とデジタル加工という、相反する二つが巧みに織り重なるもの。
本作で応用されたのが、ディープフェイク(Deepfake)というデジタル技術です。ディープフェイクとは、AIを使って本物そっくりなフェイク映像や音声をつくり出す技術のこと。
ドキュメンタリー映画としては、初の試みです。
ディープフェイクとは?
参考までに、ディープフェイクの有名な例を挙げましょう。
「トランプ大統領は完全なマヌケ」と罵るオバマ大統領のフェイク映像。
こちらは2018年にYouTubeで公開された、米国のオバマ元大統領のディープフェイク動画。24秒あたりを注目ください。
「トランプ大統領はまったくのマヌケだ(President Trump is a total and complete dipshit)」とトランプ元大統領の悪口を言っているように見えますね。
これはディープフェイクで加工されたフェイク動画。オバマ元大統領が実際に発言しているわけではありません。38秒あたりで種明かしされますが、彼の顔と他の人の声を合成して、あたかもそう言っているようにつくられた動画なのです。
ディープフェイクでは、他人の顔を合成することもできます。広く共有されている例は、女優エイミー・アダムスの顔がニコラス・ケイジと差し替えられている動画です。
IT大手はディープフェイク対策を急ぐ。
FacebookやInstagramでは禁止。
本人がそう行動しているようにも見える、ホンモノそっくりな加工動画。そんなものがつくれるとなると悪用する動きも現れ、問題になっています。
詐欺の手法は、先のような動画で世論に揺さぶりをかけて情報操作するのがひとつ。他にも芸能人の顔などを加工した合成ポルノ動画が出現し、2020年10月には日本でも摘発されています。
このような問題を受け、EU(欧州連合)はディープフェイクを含むAIに関する規制案を2021年4月に発表。日本ではディープフェイクの法規制は議論には至っていませんが(※)、IT大手は対策に動いています。
(※)2021年7月に策定された経済産業省の指針では、ディープフェイクは議論に至らず。日本経済新聞2022年2月20日付け朝刊より
たとえば米マイクロソフトは、「Microsoft Video Authenticator」という、加工された動画や写真をAIで自動検出できるソフトを開発(※)。つまり、私たちが生きるのは、AIでつくった不正を、AIが不正検知するという時代なのです。
(※)加工された動画(画像)とする確率(信頼度)を検出。動画再生中にリアルタイムで、信頼度のパーセント表示を見ることができる。Microsoft 2020/9/1付ブログより
また、嘘やニセ情報もたやすく拡散できるのがSNS。そこで、米フェイスブック社(現:メタ)は、2020年1月6日に同社ブログで、FacebookとInstagramでのディープフェイク動画の利用を禁止しています。
デジタル技術を、真実と向き合うきっかけに。
そんな“ちょっと危なっかしい”技術を逆手に取ったのが、『チェチェンへようこそ』の監督デイヴィッド・フランス氏。
彼は、この顔や声のデジタル加工技術を、身の危険のために沈黙せざるを得なかった人たちが真実を語るために活用したのです。事実を捏造するためではなく、性的マイノリティだと知られると、殺されたり虐待されたりしてしまう人たちの現実を、ドキュメンタリー映画としてありありと届けるために。
なお、本作関係者はこの技術をディープフェイクとは呼びません。
嘘ではない真実を取り扱うため、またディープフェイクを超える技術を利用するためだと、「フェイスダブル」(顔のデジタル合成処理)や「ヴォイスダブル」(声のデジタル合成処理)という言葉で呼んでいます。
AIでつくられたこの新しい仮面は、驚くほど自然です。そこで映画の冒頭では誤解がないように、顔や声にデジタル技術が施されていることが明記されています。
作品の始まりでは、デジタル加工された、生声そっくりな被害者の“肉”声が聞こえます。LGBTQを支援する活動家に、性的マイノリティの女性から一本の電話がかかってくるのです。
おじが私の性的指向を知って、自分と寝なければ父にバラすというんです。
もし父にバレたら、父は決してゲイを認めないわ。チェチェン政府の高官なの。きっと私は父に殺される…。
音声からは、彼女の不安な心の動きが生々しく伝わってきます。しかし、これは本人の声ではありません。と同時に、無機質な機械音ともまったく別物なんです。
顔も、自然な別人の顔に変わっています。作品に登場する22人の犠牲者の顔として使用されたのは、主にニューヨークを拠点にする活動家の顔。
凝視すると、ぼやけているようにも見えます。けれども会話中に表情が変わっても十分自然で、そんな顔の人なんだと思える仕上がりなのです。身元を隠すためによく用いられる、モザイクや暗がりの映像とはまるで印象が違います。苦悩や喜びの表情も見てとれ、胸に迫るものがあります。
私は鑑賞しながら、映画の後半部になるまで「ずいぶん甘い修正だな」と誤解していたぐらいです。ようやくそれが別人の顔や声の加工だと理解したのは、登場人物である被害者男性が記者会見に臨み、本名を明かした瞬間です。
そこでハリウッドのVFX効果が駆使され、デジタルでできた精巧な仮面がはがされていくのです。
肌の質感はより生々しく、鼻先は尖り、ブラウンだった彼の瞳は鮮やかなブルーへと変わっていきます。瞳の色が、彼が着ていた青いセーターによく映えるようになったのが印象的でした。
この場面は、ぜひ実際に観ていただきたいです。本当にすごいですから。
ゲイである限り、一生隠れて暮らすことになる。
映画のなかの言葉です。それが象徴される、美しくも悲しいシーンでした。
加工された映像は、ドキュメンタリーといえるか?
このような加工された映像は真の記録映像とはいえない、との意見もあるでしょう。
では、なぜドキュメンタリー映画にデジタル加工を施す必要があったのか。その理由となるチェチェンで起きる恐ろしい事実について触れたいと思います。
なじみがないチェチェン共和国。どんな国?
カスピ海と黒海にはさまれたチェチェン共和国は、四国ほどの広さです。
チェチェンはロシアからの独立を求め、2度の戦争を経て武力弾圧されました。そのため、共和国といってもロシア連邦の支配下にある83(ロシアは85と主張)の構成主体のひとつです。
ミニプーチンな暴君、ラムザン・カディロフが独裁。
トップは、ラムザン・カディロフ首長です。
彼は、2007年にチェチェン共和国第3代大統領(その後、首長と名称変更)に就任。
親プーチン派として、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領の強力な後ろ盾を得て、権力を振るっています。彼が治めるチェチェンは表向きには世俗国家(※)です。しかし実際のところは、イスラム教の教えを曲解して国策に利用する、カディロフの独裁国家といえます。(※)宗教的信念によって人を差別したり、支持したりしない国家のこと
そして、その見た目はというと、豊かなヒゲをたくわえるマッチョマン。SNSでは、ウェートリフティング姿、高らかに機関銃を打つ様子、ボクシングで相手を殴り負かす姿などを公開し、テストステロンの塊のような人物だと自己演出していることがわかります。
そして彼がSNSなどで拡散する国家像とは、
壮健で信心深くあれ
そして戦場では獰猛に
チェチェンでの彼の支持率は、圧倒的です。
2007年2月より現職につきますが、2021年の首長選挙でも投票率94.91%、得票率99.7%で再選しています(※)。
ゲイやレズビアンがさらわれ、殺される本当の理由。
ではカディロフが治めるチェチェンで、なぜLGBTQの人たちが標的にされるのでしょうか。一言でいえば、「違うこと」を理由につくった悪者は、政治的に利用しやすいから。
チェチェン人の約95%は、イスラム教を信仰しているといわれています(※)。
イスラム教の聖典コーランでは、同性愛者(男色)は非難され(※1)、イスラーム法でも男色は許されない禁止行為とされています(※)。
(※)1. 『コーラン・上』井筒俊彦訳(岩波文庫)より
それを曲解し、国家ぐるみのゲイ粛清(一体性や純粋性を保つために、異分子とみなされた人々を追放したり殺したりして排除すること)を国策として利用しているのです。
性的趣向の違いがある少数者を共通の悪者とすれば、そうではない民衆の心をコントロールしやすくなります。政府に不満があっても、同じ敵がいれば、彼らの疑念やうっぷんを逸らす効果もあります。
心理学でも、対立すると感じる人や集団に敵意を持つほど、反対に所属すると思う集団には忠誠心を持つようになるともいわれます。これは、(ユダヤ人を根絶しようとした)ナチス・ドイツのヒトラーの国策と同じ。
そこでチェチェンでは、性的趣向の違いだけで政府や親族から虐待されたり、命が奪われるという、激しい弾圧が起きているのです。
本作とノーベル平和賞との深い関係。
この事実をいち早く報道したのが、ロシアの独立系新聞「ノーヴァヤ・ガゼータ」。発刊編集長のドミトリー・ムラトフ氏は、言論の自由や人権の擁護に広く尽力したと、2021年のノーベル平和賞を受賞しています。
ロシアの人権団体『メモリアル』の支持を表明する編集長。novayagazeta© 2022 Instagram from Meta
「ノーヴァヤ・ガゼータ」では、これまで6人の記者が暗殺されています。その1人のアンナ・ポリトコフスカヤ評論員。彼女は、ゲイ粛清の1年前にチェチェン人暗殺者によって銃殺されました。彼女が生前に執筆した記事では、カディロフにも脅迫されていたことがみてとれます。
同新聞は再三の圧力にも屈せず、2017年4月1日、チェチェンでのLGBTQの人たち100人以上の逮捕と3人の死亡を発表。ヒューマン・ライツ・ウォッチの報告では、これは2月末に始まった出来事です。
ところが、ロシア当局が記事を削除。その事実を知ったアメリカ人記者が7月、米ザ・ニューヨーカー誌に寄稿します。そして、その記事を読んだフランス監督は衝撃を受け、本作の製作に踏み切りました。
真実を語るという勇気のリレーがつながれたのです。
資源と金の問題。
「チェチェン人にゲイはいない」とする政府。
メディア報道を受けたカディロフは、「チェチェン人に同性愛者は、存在しない」と宣言。「チェチェンで LGBTQの権利が侵害されているなどと言われることは、名誉侵害で侮辱だ」との公式見解を出しています。
ロシアのプーチン大統領は? というと、意に介しません。
というのもチェチェンでは石油が産出するうえ、ロシアにとって重要な油田の石油を運ぶためのパイプラインも通っています。資源ビジネスはロシア最大の産業。原油で世界3位、天然ガスで世界2位の資源大国を誇ります(※)。(※)日本経済新聞2022年1月29日付朝刊より
つまりチェチェンは、現在ロシアによる武力侵攻が現実味を増すウクライナと同様、ロシアにとってなんとも治めておきたい場所。同性愛者への迫害を訴えたところで、プーチン政権への忠誠やロシアへの愛国心を強調するカディロフの暴政に目をつぶるのでしょう。
命をかけても守りたいもの。
明らかな犯罪行為でも政府は目を向けないという厳しい現実。
トップダウンで変えられないなら、世論によるボトムアップで揺るがそう。そんなひたむきな思いで、社会活動家や被害者、記者や本作の製作者など、たくさんの人たちが命をかけてきました。
殺されない限り、私たちの勝利だ。
ロシアのLGBTQ活動家、デイヴィッド・イスティーフ氏は言います。
撮影のために1年半の間、彼らと過ごしたフランス監督は、こう語ります。
撮影も終わり、地下活動パイプラインのメンバーと別れるとき、この作品を発表し私が撮影したことが公になれば、もう二度とここへ戻れないとわかっていた。
彼らの活動の尊さに感謝の涙があふれた。彼らの無私無欲で人道的な行動、あらゆる困難に立ち向かう実直で勇敢な活動を目撃する機会を与えてもらった。
そのことに感謝している。
公開後、社会に与えた影響。
本作の上映後は、この問題に世界中の関心が集まりました。カディロフに対し、国際的な制裁や政治的圧力を求める動きも広がっています。
たとえば2020年7月、米国務省はカディロフに対して、3年前に始まった拷問や殺害などの人権侵害、特にチェチェンのLGBTQに対する犯罪行為に制裁措置を発動。カディロフとその家族は、アメリカ入国禁止となっています(※)。
さらに12月には、英国外務省と米国財務省もカディロフに対する制裁措置に賛同。EUも、2021年3月22日に制裁措置を発動しています。
国際的な調査も開始されました。LGBTQ問題を専門とする国連独立専門家であるビクター・マドリガル・ボルトス氏が犠牲者からの証言を集めています。そして『チェチェンへようこそ』の内容も証拠として挙げられたとか。
これらの社会的な影響に対しカディロフは、明らかに本作に触れ、「人権団体、メディア、映画製作者」の抗議を全面否定。国営テレビ局の15分のニュースでも作品が取り上げられましたが、「わいせつで不道徳な挑発」と攻撃されました。
つまり、この問題は、残念ながら解決には至っていません。
しかし、大きな波紋を投げたことは確実。
この記事をお読みくださっている、あなたの心にもつながっていたらと願います。
AIの父は、ゲイとして迫害され自殺。
2021年にはイギリスの新紙幣に。
ディープフェイクをはじめとする先端AI技術は、アラン・チューリング(イギリスの数学者で現代コンピューター科学の父)の存在なしに語ることはできません。
皮肉な偶然にも、彼もまた同性愛者として迫害されて社会的に抹殺された人物のひとり。
今から約70年前のことです。ゲイ裁判で有罪となったチューリングのキャリアは破滅しました。刑務所への収監を逃れるために、彼は化学的去勢と呼ばれる女性ホルモン療法を受けることに同意。失意のチューリングは、最終的に青酸入りのリンゴを食べて自殺しました(※)。
そして2021年6月23日、性的マイノリティの彼の肖像はイギリスの新50ポンド紙幣になりました。
(※)ジェローム・ポーレン著、北丸雄二訳 『LGBTヒストリーブック 絶対に諦めなかった人々の100年の闘い』(サウザンブックス社)より
しかし今なおチェチェンでは、同じような悲劇が繰り返されています。
「自分だけは普通」という考えは、そもそも誤解。
そしてこの問題を「私はゲイじゃない」「チェチェン人じゃない」から関係ないとは言い切れません。
というのも私たちは全員、姿形や感じ方が違う唯一無二の存在だから。
そこで極論に聞こえるかもしれませんが、違いを不当な形で悪とする世界を見過ごせば、なにか別の理由では、自分がマイノリティだと迫害されることもありえるからです。
たとえばこれは、私がアメリカ生活中に実際に経験したことです。この国では一般的な日本人から、マイノリティのアジア系女性になったんですね。そしてトランプ政権に変わったタイミングでのこと。中国嫌悪が広まったために、アジア系だからと知らない人から「Go back to China!(中国へ帰れ!)」と怒鳴られて丸めたちり紙を投げつけられ、やりきれない悲しい思いをしたんです。
この体験からも、興味関心の幅を広げて世界や物事を多角的にとらえる目を養うことは、相手だけでなく、自分を守ることにもつながるのだと思います。
先端技術は私たちが守りたい価値をえぐる。
ディープフェイクをはじめ、どんなテクノロジーも使う目的が明確であってこそ生きるものです。本作でも命を守るために事実を伝えるという目的があり、デジタル加工されたドキュメンタリーの世界が輝きました。
映画の世界のみならず近未来の実生活でも、私たちは「メタバース」と呼ばれるインターネット上の仮想空間の中で、アバター(分身)で働き、買い物し、授業や介護を受け、ゲームやイベントに参加しようとしています。
リアルな映像や音声だけでなく、「ハプティクス」という「触れた」感覚を錯覚させる技術の開発も相次いでいるとか。
そこで私たちの心や体の実感はどこに向かうのか。
世の中のルールや前提が大きく変わっても、先端技術は人の心をつなげ、夢や希望のために使いたい。それが小さな一本の記事だとしても。
そんな思いを強くしました。
– INFORMATION –
2月26日(土)よりユーロスペース、シネ・ヌーヴォ、MOVIX堺、元町映画館ほか全国公開
監督:デイヴィッド・フランス
編集:タイラー・H・ウォーク
製作総指揮:ジョイ・トムチン
撮影:アスコル ド・クーロフ
出演:マキシム・ラプノフ、デイヴィッド・イスティーフ、オリガ・バラノバ、ゼリム・バカエフ
107分/2020年/アメリカ
原題:Welcome to Chechnya(The Gay Purge)
配給:MadeGood Films