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理解できることって、自然じゃないなって。介護付き多世代型シェアハウス「はっぴーの家ろっけん」 #場づくりという冒険

みなさん、こんにちは。はじめまして。

ぼくは、兵庫県尼崎市を中心に、さまざまなローカルプロジェクトの立ち上げやプロデュース、「場づくり」などを行っている「株式会社ここにある尼崎ENGAWA化計画」の藤本遼です。

昨年、ご縁がありまして『場づくりという冒険 いかしあうつながりを編み直す(グリーンズ出版)』を出版させていただきました。

それに関連しまして、連載企画として、書籍内に収めているいくつかのインタビュー事例を編集なしでそのまま掲載させていただきます。ぜひ、記事を読んで関心を寄せてくださった方は、書籍をお手に取ってくださいますとうれしいです。

介護付き多世代型シェアハウス「はっぴーの家ろっけん」

JR新長田駅を降り、鉄人28号を横に見ながら南に10分ほど。アーケードが途切れた商店街のはずれに「はっぴーの家ろっけん」はある。

緑と白で塗られた6階建てのその施設は、外に看板らしきものはなく、一見するだけではなんの施設かわからない。聞くと、サービス付き高齢者住宅という機能を持つ施設らしい。しかし一度中に入ってみると、地域の子どもたちが走り回っていたり、そのお母さんと入居している高齢者の方が談話していたり、行政職員が仕事の打ち合わせをしていたり、若者がパソコンで仕事をしていたり、とても賑やかな場であることに気づく。

同時に、きっと一朝一夕でこんな場をつくることはできないだろう、と思わされる。首藤さんと出会った頃のことはもう忘れてしまった。だけど、茶髪でいつも色味の強い服を着ているマイルドヤンキーのような彼が、この空間をつくっている張本人であるらしかった。

名前:首藤義敬(しゅとう・よしひろ)
生年月日:1985年6月18日
職業:株式会社Happy代表取締役
自己紹介:暮らしの中にあるアタリマエをリノベーションする会社・株式会社Happy代表取締役。23才で遊休不動産の活用事業や神戸市長田区を中心に空き家再生事業を始め、27才で法人化。「多世代でシェアで暮らす昔の長屋のようなライフスタイルをつくることは、少子高齢化問題や子育てと介護のダブルケアを担う自分たち世代の正解ではないが選択肢の一つになるかもしれない」との仮説を検証するため、5年前よりハッピーの家プロジェクトを始動。みんなのためや社会のために事業化する事に興味がなく、目の前の関係性がある人のためになることに絞って行動している。

震災で崩れた関係。気づいた「わかりあうことの難しさ」

藤本 改めて、首藤さんの経歴を教えてください。

首藤さん ぼくのおじいちゃんとおばあちゃんが、淡路島から駆け落ちして神戸まで来てるんよね。当時、彼らは駒ヶ林というエリアで闇市をやっていた。実際にそれは世の中に求められていた仕事で、警察の目もあったんやけどうまくやっていたらしい。

じいちゃんは会社を10個くらいつくった変わった人で、事業がうまく回るとその会社を人にあげていた。そんなこともあって自分が幼稚園くらいの頃は、めちゃくちゃ裕福な生活をしてた。新長田のまち自体にもたくさん人がいたし、自分たちも暑苦しいくらいの長屋コミュニティで和気あいあいと暮らしてた。

藤本 なんかええ感じの子ども時代ですね(笑)

首藤さん 小学校3年生のときに阪神淡路大震災があった。それ以降、地域コミュニティが崩壊した。

今振り返ると、そのことが自分のアイデンティティになっているんやなと思う。実際に友人が亡くなったということもあるんやけど、一番大きかったのはまちが戦後の焼け野原みたいになってたことかな。

当時10歳くらい。信じるものがなくなってしまって、心の支えがほしかったんやと思う。その後、実際に復興していくなかで建物は建つんやけど人は戻ってこなかった。そりゃ、建物だけつくってもあかんよね。そこに違和感というか、気持ち悪さがあった。

藤本 それは大きな体験ですね。

首藤さん ウチは一家全員自営業をしていたから、だれも昼間家にいなくて。祖父が社宅を運営していたので、自分はそこに住んでいた。家のど真ん中にでっかいリビングがあって、その周りに部屋がいくつもあって。そこでみんな暮らしてた。

じいちゃんが自分と似てるんよ。仲良くなった人をどんどん家に連れてきちゃう人で。ほんまに誰でも連れてくる。どうしようもないおっさんとかね(笑)

自分は子どもやったけど、そういう人たちと一緒に遊んでた。だけど、建物が焼けてしまって人がいなくなった。おじいちゃんの会社も長田という小さなエリアで事業を回してたから成り立たなくなってしまって。

藤本 震災以降、暮らしが大きく変わった。

首藤さん そんななかで、家督争いのようなことが起こった。被害を受けず残ったものをどう分配するかとか。震災以降、親と親戚がずっと喧嘩していて。そういうこともあってだんだんと家に帰るのが嫌になっていったんよね。中2くらいからはほとんど家に帰らんようになってた。あれは今思うと、家族に対する当てつけやったなって。

藤本 中2からなんですね。早いなあ。

首藤さん 高校は1年で退学した。やることがなくなったし、一生家に帰らんと思ってたね。

藤本 キツかったんですね。

首藤さん 狭いまちやからいろんなことを言われてた。会社がなくなったとか、家族がもめてるとか。だから地元を歩きたいと思わんかった。元々の実家が六間道にあるんやけど。

藤本 では、長田や六間道とはしばらく関わらず?

首藤さん 中2くらいから10年くらい長田と距離をとっていたかな。自分はいろんな人の間で育ってきたから、コミュニケーションは好きやったし、自分の近しい人同士が仲良くなっていくのは好きやった。でも戻ろうとは思わんかったね。

藤本 当時はどんな暮らしをしていたんですか?

首藤さん ヒモ生活みたいな感じよね。20歳くらいのとき、バイト先のバーで「店長をやってみるか?」と言われて。当時、奥さん(みゆきさん)とも結婚しようかという話をしていたし、そこで働き続けるのもありかなと思ってた。

でも、親から連絡があって「一緒に暮らさへんか?」って。正直、清算しきれてない部分もあったんやけど、帰ったんよね。最後の機会かなとも思ったし。あとは、自分の奥さんと子どもだけで暮らすのも、それはそれでしんどいやろなと思ってた。やから、妹の夫婦や叔父、友達も一緒に住もうと思って。

まあ、実際にやってみると、嫁姑問題とかいろいろと大変やったね。でも、ある瞬間から暮らしやすくなったんよね。おじいちゃんも子どもがいたから認知症が和らいだし。自分自身も、親と直接向き合ってたらダメになってたと思うけど、いろんな人がいたからそれも軽減されたというか。家族関係の修復はできひんかもしれんけど、一緒に暮らせたんよね。

藤本 暮らしやすくなった瞬間について、もう少し詳しく聞きたいです。

首藤さん みんな不完全やったんよ。

自分も仕事をほとんどしていない時期やったけど、みんなでいたからこそ生きていけた。不完全な状態だからこそ一緒に暮らすことができた。そんな感じ。だから不完全なものを完全にするんじゃなくて、不完全なまま回してみる、不完全なままやってみるということもありなんじゃないかと思うようになった。それは大きな体験やったと思うな。

藤本 生活するなかで危うさのようなものはありましたか?

首藤さん 危うさというか、普通に生活したいという憧れのようなものはずっとあった。こんなことはずっと続かないなって。でも、この状況が変わったらどうなるんやろうってこともわからへんし。だけど関係性は日々変化していくものやなと思った。同じ状態が続くこと、安定しているように見えることにこそ、危うさが潜んでいるのかもしれへんなと気づいたね。

藤本 なるほど。

首藤さん 関係が崩れてしまうときは、自分中心というか自分だけになるときやと思ってる。お互いに対して目を向けている限りは大丈夫なんかなと。

そんなこともあって、自分はバランスっていうのを大事にしてるんよ。なんか違和感があるなと思ったら、そこにエネルギーを入れるようにしているし、今の「はっぴーの家」でもそのことを意識している。お互いのベクトルの合わせ方とか、パズルのかみ合い方を考えるという感じかな。

藤本 お互いに対して目を向けていることが重要。

首藤さん でも正直、諦めもあった。自分自身に目を向けてほしいとか、もっとこうしたらいいのにとか、そういう想いもあった。

やけど、それをやってもぶつかるだけ。わかりあうということは、難しいなって。でも、一緒に暮らしていかないと生きていけない。共感し合う必要はないけど、共存し合うことは大事で。わからなくても一緒にいるということやね。

首藤さんがつくる場の意義、本質がそこにあるように思った。得てして「まちづくり」や「コミュニティ」は、閉じたものになりやすい。

もちろん、すべての人に対して開かれている場というものはありえないし、参加しているメンバーの安全性を担保する意味でも、一定の閉鎖性や同質性は重要な要素である。でも「わかり合えないけれど共にいる、そしてそのことを承認し合える」という場は、全国を見渡してもそれほど多くないと感じる。開かれた精神。この哲学が、「はっぴーの家ろっけん」を根底で支えていると思うし、多くの人の深い部分に刺さっているのだろうと思う。

藤本 「同感」という意味で「共感」が最近使われているのが、ぼくもちょっと気になっていて。「それ、わかる」というのが同感で、「それはわからないけれど、あなたがそう感じていることに対して寄り添います」というのが共感やと思っていて。

首藤さん 子どもの頃からわかり合えないという経験をたくさん積んできたんよね。

おじいちゃんの社宅に住んでいたときも、外国人がいっぱいいたし。おじいちゃんが「他の国の人とも仲良くしないといけない」とか言って、外国人を雇っていた。

しかも「どうせ雇うなら地球の反対側の人だ」とか言いだして、ブラジル人が来ていたり(笑) 彼らの子どもや家族とも社宅で一緒に住んでたんやけど、はじめはほんまに腹が立ってた。夜中まで騒いでるし、休みの日は道端で肉を焼き出すし(笑)

でも、しばらく一緒にいると、言っても仕方ないなと思うようになるんよね。文化の違いとか綺麗な言葉じゃないんやけど。

藤本 おもしろいですね。「はっぴーの家」に至るまでに、仕事もいろいろされたと聞いています。

首藤さん そうやね。20業種くらいかな。

藤本 多いですね。

首藤さん いろんな人が暮らしている場所で育ったから、基本的にグループやコミュニティをつくるのが得意やった。取りまとめるというか。

そうしたなかで、いろんな人の相談を受けて対応することが好きになっていって。そこで自信をつけたんよね。なにをやったらいいかはわからんかったけど、好きなことをやればいいなって。バイト時代も時給で働くっていう発想はなかった。どうせ働くなら満席にしたいなとか。それはインセンティブがほしいということではなくて、自分が楽しむためやったんよね。

で、最終的にどんな仕事に落ち着くんやろうと悩んでいたときに、困っている不動産屋さんに出会った。それがターニングポイントやったな。要は、相談を受けたのがたまたま不動産の仕事やったという感じ。結局、常に自分の関心は、モノを売るとかサービスを生み出すとかいうのじゃなくて、目の前の人の困りごとをどう解決するかということやった。

「はっぴーの家」が形になっていくまで

藤本 「はっぴーの家」をはじめたきっかけは?

首藤さん 不動産屋さんの仕事をしているとき、家賃の回収なんかもしてて。古い家があったんやけど、そこに酒癖の悪いおっちゃんが住んでてね。最初はあんまり好きじゃなかってんけど、いつのまにか友達みたいになってしまって。で、そのおっちゃんが身体を壊して入院して。治療を終えて出てきたんやけど、その頃には車椅子生活になってたんよ。

藤本 それは生活も大変ですね。

首藤さん おっちゃんは今の家に住み続けたいって言うんやけど、身体の機能が落ちていて今の家の設備やと難しい。でもリフォームするにはお金がかかるから、家賃も上がる。そしたらおっちゃんは住めなくなる。結局、おっちゃんは最終的に施設に行くことになったんよね。その時に初めて目の前の人の困りごとに対してなんにもできひんかったって思った。

藤本 無力感のような。

首藤さん そのとき、週に4、5回ヘルパーの人が来てて。お金がないのになんで来れるんかなと思って聞いたら、介護保険というものがあるらしいと。なるほど、自分がサービスと住まいの両方の提供ができたら、あのおっちゃんは住めたんじゃないかって。そう思ったんが大きなきっかけのひとつかな。あとは、自分の家庭環境やね。いろんな人が寄り添って暮らすことの価値に確信があった。

藤本 まさにそういう暮らしを体現してきたんですね。

首藤さん よりそれを強化したのが、自分の子どもやね。奥さんには恥ずかしくてあまり言わんけど、子どもには父親としてなにか伝えたいと思っていて。やけど、術がないと思ってしまう。

自分は学校に行ってないっていう劣等感のようなものがあるんかな。子どもを指導することは自分にはできひんって思ってしまう。

だから、自分をアップデートしようと思って、育児書なんかを読み漁るんやけど、なんか違うなと思って。自分は自分の腑に落ちたことしかできひんなと。思い返せば、人に会って人と関わることで成長してきた。だから、そういう場をつくろうと思った。それは結局、子どものためになるし、みんなのためにもなるやろうと。

藤本 なるほど。「はっぴーの家」は、いつオープンしたんですか?

首藤さん 2016年11月には建物が使えるようになってた。でも本当のオープンは2017年の3月。遅れたのは、自分が納得いってなかったからなんよ。

実際にいろんな人に関わってもらってどんな場所にしたいかっていうワークショップをたくさん開いた。ちゃんとコミュニティとして機能する場にしたかったんよね。だからオープンを遅らせた。銀行にはめっちゃ怒られたけど(笑) オープニングパーティーには400人くらいの人が来てくれたよ。

藤本 場所はどうやって決めたんですか?

首藤さん 候補地はたくさんあったね。だけど、自分が生まれた地域でやりたいなとは思ってた。

自分が思う新長田のまちはいいまちやったし。見せ方によっては変わるなって。古き良き部分も残ってる。あと外国人もたくさんいる。やけど、悪いイメージがある場所でもあったから、自分がなにかすることで今までの歴史や過去が救われるかもとも思ってたね。

藤本 救いという言葉がおもしろい。

首藤さん そういうこと、思ってるんかなあ。自分が長田に救われた気がするからかなあ。

藤本 逆に地域や歴史に対しての恨みみたいなものはあるんですか?

首藤さん 昔はあった。でも今はないかな。お金がほしいとか、評価されたいとか、誰かを見返したいとか。最初の段階では、そんな想いが原動力になるのはいいことやと思ってる。だけど、しばらくやってきてそれが満たされたときに、なんのためにやってるんやろうと思った。そういうのじゃないなって。

藤本 とは言え、社会のためではないと(笑)

首藤さん そう(笑) 目の前の人なんよね、結局は。それが広がっていく感じ。

やっていて思うのは、与えるだけの関係は存続しないと思うんよね。与えられてばっかりだとしんどい。与える側も麻痺する。社会保障の難しさはそこにあると思ってるんよ。

自分がお世話になっているなと思ったらお返しするし、したくなるやん。人間としては、対等な関係を続けたい。だけどそうじゃなくて、そこにいるだけで価値があるとも思ってる。

その人がいるからこそ感じられることがある。
入居しているおばあちゃんに「いつもごめんね」って言われることがある。

ぼくはそれを聞いたときに、若者や子どもがここに遊びに来ることができていて、それが事業としても運営できているのは、みなさんのような方がいるからですよって言ってる。そうやって存在自体を承認していくというか。

理解できるから大切にするとか、役割を担っているから価値があるとか。「はっぴーの家ろっけん」にある価値のものさしは、そういうものではない。ただそこにあること、そこにいること自体に眠る価値を丁寧に掘り起こして、みんなで確認していく。そうやって、他者が排除されない場をつくっている。

藤本 「支えあう」と「依存する」のあいだみたいなことをやってるのかもしれませんね。

首藤さん たぶんそうやね。

藤本 一方で居るだけで意味あるんですか? とも思っちゃうこともありますよね。評価を求めてしまうというか。

首藤さん 評価されたいというのもあるけど、ただ受け止められたい、自分がここに居続けていいんだと思いたい。そういうことを実はみんな望んでいる。

コミュニティのなかで目立つ人だけではなく、ただ居る人にこそ美しさを感じる。イベントの参加者と主催者とかのわかりやすい関係性だけしかないと違和感を感じるんよね。

藤本 わかりやすい関係に安心感を覚えますよね。今の社会は。よくわからないことへの恐怖があるというか。

首藤さん そうやね。難しいよなあ。なんで自分はわかりやすい関係に違和感を覚えるのかな。そこにヒントがある気がするね。

藤本 そうですね。

首藤さん それはもしかすると、自分がめっちゃしんどかったときにきっかけがあるのかも。子どもの頃、いろんな人に関わっていたときね。もちろん楽しさもあったんやけど、さみしさもあったんやと思う。親に関われないっていう。わかりやすい家族への憧れはあったのかもしれない。

だけど自分は社宅の暮らしのなかで、自分で安心感を見出していった。そうやって与えてもらったものを自分もつくりたいって思うんかな。子どもの頃はなにも話せないけど、だれかと居たいというときもある。それが許される環境があったし、あるといいなって思う。コミュニケーションができないと居てはいけないわけじゃないやん。

藤本 コミュニケーションができないことは悪いわけじゃないですもんね。

困りごとを解決していく姿勢だけは見失いたくない

首藤さん 最近、「はっぴーの家」ってなんやろうって思っていろいろ考えている。

ひとつ思ったのは、問いを投げかけるってことは大切にしているんやなということ。常に幸せの総量を増やすということは考えている。一人だけにフォーカスすると限界がある。だからその人に関わる人全体にフォーカスする。結果的に回り回ってそれがその人の幸せを生むんじゃないかと考えている。

藤本 ものすごく重要な視点のような気がします。個別アプローチの限界というか。ネットワーキングしながら、狙っていないところも治療するみたいなことをやっているんですね。ホリスティックな支援。

首藤さん 一人で仕事をしていたときはどこか頑張りすぎていた。不得意なことも完結してやらないといけなかったし。でも今は諦めがつくようになった。誰か得意な人にやってもらおうと。ビジネスマン的スキルは下がったような気がするんだけど、与えるものの価値は明らかに上がったように感じる。

藤本 価値が上がった。

首藤さん 人間は自己完結したがる。早くしようと思ったらできるし、間違いなくやることもできる。だけどそれだったらおもしろくない。不確定な要素を入れたい。それが自分の思う価値なんかな。

藤本 だんだんそういう風に変わっていったんですか?

首藤さん 子どものときが一番楽しかったんやと思う。それが一旦どん底に落ちて、今上がっていっている。過去の楽しかった瞬間を今、再現しているような感じ。事業としてやっていくためには数字も大事。ただ、自分がやっている事業はまず暮らしをつくりたいと思ってやっている。

藤本 今まで印象に残っている失敗ってありますか?

首藤さん 資金繰りが危なくなることは結構あって(笑)

ソーシャルなことをやろうとすればするほど、資金的に難しくなることがある。本当は長期的にリターンがあるんやけどね。すぐにマネタイズしようと思ったらできないことはないんやけど、それをやると理想としていることとずれてしまう。なんかそういう性格やからあんまり失敗やと思わんのよね。

もちろん問題は絶対に起こるけど、クイズのようなものやと思ってる。リスクがあるからやめようとは思わないし、最悪なリスクだけ想定しているかな。

あと、クレームを出してくる人はファンになると思っているんよね(笑) 新しいことをやると怒られることも多い。だけど怒っているということはそれだけ関心があるということ。そうやってネガティブをポジティブに転換することがおもしろい(笑)

藤本 トラブル好きなんですか?(笑)

首藤さん 事業計画を組むのもおもしろいんだけど、それが崩れたときにどうやっていくのかが楽しい。

藤本 今後の「はっぴーの家」のイメージはありますか?

首藤さん 自分が忘れちゃいけないと思うのは、関わっている人の困りごとを解決していくという姿勢。それを見失いたくない。

同時にそれだけだと視野が狭くなるとも思う。

新長田のおじいちゃんを助けることが、ブラジルの問題にどうつながっているかという想像力が必要というか。リーダーのキャパシティがめっちゃ大事で、リーダーの器以上に組織は成長しない。そのためにいろんなことを知ったり、いろんな人に会ったりすることは大切。将来的には「グローバル資本主義」ではなく、ローカルな視点で海外に関わっていきたいと思っている。

藤本 自分たちの活動や事業がどこまで他地域・世界に通用するのかということはぼくも考えます。

首藤さん 今ある制度だけで社会を維持するのは難しい。だから物事の尺度を広く取る。でもあまり他の国とかは言いたくないよね。自分自身もある程度若手起業家の部類に入っているので、アジアがどうとか言っちゃうと、やっぱり次はそこを目指しているんですねみたいな話になっちゃうから(笑)

藤本 今、大切にしていることはなんですか?

首藤さん 違和感が3つ以上集まると、どうでもよくなるという説を唱えてる(笑)

社会問題って解決しないといけないと思いがちやけど、解決できないことも多いと思う。だから今どうやってその人たちが楽しく暮らせるか、それでもいいやと思えるかも大事やなと。そのために、違和感を混ぜることが必要なんかなと思ってる。

考えれば考えるほど人生はしんどい。だから理解できないことを認めていくっていう感じかな。自然は理解できひんやん。理解できないものの集まりが自然。だから社会の中に理解できないものを増やすのが自分の仕事。それが自然。これたぶんええこと言ってるよな(笑)?

藤本 ええと思います(笑)

(インタビューここまで)

首藤さんはいつも飾らない。

「これ、あんまり話したことないねんけど」と言いながら、あっけらかんといろんなことを話してくれる。

これまでのわたしたちの社会は、違和感を排除してきた部分があったかもしれない。
気になりながらも気にしないように努めてきた部分があったかもしれない。

しかし彼は、違和感をたくさん集めたいと言う。
違和感を集めることで、個別の違和感が緩和されるんだと。

彼の使う違和感という言葉は生きづらさという言葉に換言できるかもしれない。生きづらさを包み込みながら、それを「はっぴーの家ろっけん」に集まっている多様な他者によって昇華させる。そんなことをしているように見えた。

(Text: 藤本遼)

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