みなさんは、毎日通学や通勤で使う道路が突然閉鎖されてしまったらどうしますか?
これは、福島県の沿岸部・浜通り地域を横断する「国道6号線」を使う人たちに実際起きたことです。2011年3月、東日本大震災の東京電力福島第一原発事故によって、約3年半の間、道路の一部が立ち入り禁止となりました。
全面開通した今でも、一部が放射線量の高い「帰還困難地域」となっています。そのため、車やバスを走らせることはできるものの、人は歩けない状況が続いています。
国道6号線が完全に元通りになってはじめて、復興したと言えるのだと思う。
——そう話すのは、生まれも育ちも南相馬の遠藤竜太郎さん。遠藤さんが経営する「東北アクセス」は、福島県南相馬市に本社を置くバス会社です。
今回は、震災を機に道路交通事情が一変した南相馬で、貸切バス事業から高速路線バス・スクールバスに切り替え、「おらが町のバス会社」として歩みはじめた「東北アクセス」のストーリーをご紹介します。
バス路線を確保し、町を孤立させないこと
東京電力福島第一原発事故直後の2011年4月。原発から20キロ圏内が「警戒区域」と指定され、南相馬市もその区域に含まれました。国道6号線も同様に、2014年9月まで3年以上の間、双葉郡楢葉町~南相馬の区間で許可なく立ち入ることができなくなり、通行止めに。
当時は、原発事故による放射線の影響がどのようなものなのか誰も判断がつかず、小さな子どもを持つ多くの市民が市外に避難していきました。一方、避難をしなかったり、町に戻ったりした人のほとんどはお年寄りだったそうです。
地方都市の南相馬市では、都心と違って数少ないバスが重要な市民の足となります。基本はみな自家用車で移動しますが、年配の方や学生は公共交通機関を利用するのです。
しかし、南相馬市に乗り入れていた大手バス会社は、放射能の影響や人員確保ができないなどの状況を受け、運行を取りやめてしまいました。一時は、市内から仙台へ走るバスと仙台方面へ向かうJR常磐線がなくなりかけました。
この話を聞いてピンとこない人もいるかもしれません。私自身も、この福島県浜通りに暮らしていなければ、事の重大さを実感することは難しかったと思います。
国道6号線は、東京都中央区から茨城県水戸市、そして福島県沿岸部の浜通り地域を縦断し、宮城県仙台市へ抜ける国道です。特に仙台へは車で約85分と最短ルートで行くことができるため、通勤などで利用する人たちにとって、日常生活に欠かせない道路なのです。
自分が生まれ育った町を「陸の孤島」にするわけにはいかない。地元バス会社としてできることをと、とにかく動いていきました。
貸切バスから路線バスへの転換
震災前まで東北アクセスのメイン事業は、旅行などの貸切バスとしての運行でした。もちろん震災直後は旅行どころではありません。まずは、国道6号線とほぼ並行に走ることで、原発事故、そして津波の影響で寸断されていたJR常磐線の列車代行の依頼や福島県教育委員会からのスクールバス依頼を受けることから始めました。
その後、ほどなくして南相馬と仙台を結ぶ高速バス路線を開通することに。南相馬市~仙台間は原発からの距離が20キロ圏外で警戒区域に含まれなかったため、通行止めにはならずに済んでいました。普段から通勤や買い物で利用していた近隣の大都市・仙台へのバスを出すことで、南相馬市内に残った市民たちを孤立させないことが大事だと考えたからです。
南相馬の大きな病院は軒並み機能していませんでした。バス路線があることで、仙台の病院に行くことができる、南相馬に暮らしていても日常生活を送ることができる、そういう状況を確保するのが、地元バス会社のやるべきことだと思いました。
しかし事業を立ち上げる一方で、東北アクセスでは人手不足が課題となっていました。小さな子どものいる社員は、県外に避難せざるを得なかった人も多く、60名いた従業員のうち40名が職場を離れてしまっていたのです。
危険な場所には行かせないので、なんとかおらが町のバス路線の運行を手伝ってくれないかと、他営業所の社員に相談しました。その結果、宮城県からの応援社員が合流して、市内の路線バス、隣の相馬市で再開された小・中学校までの送迎を行うスクールバス事業も始めることができました。
こうして東北アクセスは、残された従業員20名と宮城営業所の応援社員、合わせて70名ほどで市民の足としての役割を果たせすべく迅速な対応を続けました。
震災から約9か月後、インフラも徐々に復旧しはじめ、大手バス会社による福島市への高速バス運行が再開されました。そんな折、お客様から「東北アクセスからは福島市に行くバスを出さないのか」と問い合わせがあったといいます。
すでに別の会社で福島線は出ていますのでそちらをご利用ください、とご案内したのですが、「おらが町のバス会社が福島にバス出さなくてどうするんだ」という声をいただいて、それまでやってきたことに対する地元バス会社への期待と信頼を感じました。
住民の期待に応えて、2012年4月には福島線の運行も開始しました。住民が、ほかの会社のバスではなくて、おらが町のバスに乗りたいと思ってくれていることを知り、より使命感が増したと遠藤さんは語ってくれました。
南相馬市のランドマークとして誇りを持てる職場に
東日本大震災以降、東北アクセスは脇目も振らずまっすぐ走り続けてきました。路線を増やす過程では従業員の数も増えました。しかし開業してから14年間、小さなプレハブの事務所で営業を続けてきたため、従業員には長らく大きな負担をかけてきたと遠藤さんは振り返ります。
大変な思いをして働いてくれている社員たちに報いたい、社員の家族にも安心してもらえるような、誇りの持てる職場でありたい。
そんな遠藤さんの思いを込めた社屋が2018年10月に完成しました。広々とした事務所スペースに加え、社員たちが休憩や仮眠をとれる部屋、そして災害時には地域のレスキュー拠点となる設備の用意もあります。さらにコンビニと待合室も備え、始発から終バスの時間まで乗客がゆったり利用できるバスターミナルの機能も兼ねた複合的な施設です。
このバスターミナルは南相馬インターチェンジを降りたときに、あぁ、おらが町に帰ってきたなぁとお客さまに感じていただけるランドマークになってほしいと思っています。
建物の立派さだけがすべてではありませんが、社員の家族や子どもたちが、「僕のお父さん、お母さんはあそこで働いているんだよ」とか「大きくなったらあそこでバスの運転手になりたい」と思ってもらえるような、おらが町のバス会社でありたいと思います。
浜通りが一本につながる日を目指して
遠藤さんは小さいころから乗り物が大好きで、駅に乗り入れる貨物列車などを眺めては楽しんでいました。お気に入りのスポットは、JR常磐線の原ノ町駅。家族で東京に出かけては、帰ってきて降りる駅が、原ノ町駅でした
しかしその常磐線も国道6号線と同じく帰還困難区域を通っており、浪江駅と富岡駅の間は復旧工事中。全面的な開通まではもうひと息といった状況です。
通れなくなってはじめて、福島県沿岸部の浜通り、仙台からいわきまでをつなぐ道がいかに大切なものだったかと気づきました。当たり前に通れていた道が一度通れなくなり、また再び通れるようになった経験をしたからこそですね。常磐線、そして国道6号線が、今まで通りに通れるようになり、浜通りが一本でつながったときが、ようやく復興と呼べるのではないかと思っています。
常磐線は、2020年の開通を目指し急ピッチで工事が進められています。遠藤さんも全線開通の日を心待ちにしてるのだそう。
最後に、今後の方針や挑戦してみたいことを遠藤さんに聞いてみました。
南相馬市といえば相馬野馬追が有名ですが、最近では、ロボットの町として実証実験を行うことのできるロボットテストフィールドや、操縦訓練の場としてのドローンスクールなど、未来へ向けた事業も盛んに行われています。
そういった施設に子どもたちを運ぶためのインフラとして、また、修学旅行などで会津若松市だけでなく、南相馬市からいわき市と、浜通りも回ってもらえるような企画提案も行って、たくさんの人たちにおらが町に足を運んでほしいなと思っています。
また、この地域の復興作業のために、東京からこちらへきている人たちもまだまだたくさんいます。その人たちの足となるため、東京線も検討していきたいですね。
「おらが町」とは、南相馬の方言で私の町、私たちの町、という意味です。お話を聞いている中で、遠藤さんから何度も何度も「おらが町のバス会社」という言葉が出てきました。
南相馬市で生まれ育った遠藤さんは、東日本大震災以降ずっと、おらが町に暮らす皆さんのためにやるしかない、という思いで地元のバス会社としてできることをやってきたのだなと、ひしひしと感じました。
私自身、5年前に神奈川県横浜市から福島県いわき市に移住してきたので、正直運転は得意ではありません。長距離や高速道路を極力運転したくない、という点においては地元の年配の方と同じような立場なので、バスの運行はとてもありがたいのです。だからこそ、東北アクセスの路線バス、高速バス事業の意義をより強く感じています。
浜通りが今まで通りに一本につながること。それは遠藤さんだけでなく、この浜通りに暮らすみんなの願いではないでしょうか。もちろん、国道6号線とJR常磐線の完全復旧だけが復興のすべてではありませんが、目に見える一歩であることは間違いないでしょう。
東北アクセスは、おらが町のバス会社として、これからも浜通りを走り続けます。
(写真:中村幸稚)