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地元の力を引き出して描く飯舘村の未来。飯館電力が「ソーラーシェアリング」 でめざす復興の形とは。

福島県の東端、太平洋沿岸に面した浜通り地方北部に位置する飯舘村。2011年3月11日に起きた東日本大震災関連のニュースで村の名前を知った人も多いかもしれませんね。

震災前の飯舘村は農業が中心の村でした。しかし、福島第一原子力発電所の事故によって、村の全域が計画的避難区域に指定され、住民はやむなく隣の福島市を中心に、他の地域へと避難していきました。

その後、2017年3月31日に避難解除されるまでの6年間、広大な農地は耕作されないまま長らく放置されることとなります。

そして2019年現在。人が戻りはじめた飯舘村の広大な農地のところどころに、ソーラーパネルが設置されるようになりました。そのうちの一部は、飯舘電力による「ソーラーシェアリング」の発電設備です。

ソーラーシェアリングは、田畑の上にソーラーパネルを設置して、発電と農業とで太陽光をシェアする考え方です。飯舘はもともと農業が生業の村ですから、農業の復活に直接貢献できるようなことがしたかったんです。そこで2016年9月に最初のソーラーシェアリング型の発電所をつくりました。

そう語るのは、震災直後から福島各地の復興に取り組み、現在は飯舘電力を手がけている千葉訓道さん。飯舘電力では帰村が始まる約3年前から、飯舘村で太陽光発電事業を始めたそうです。

飯舘電力がソーラーシェアリングで描く飯舘村の未来、また福島の復興に従事してきた千葉さんご自身について、「いいたて村の道の駅までい館」でお話を伺いました。

千葉訓道(ちば・のりみち)
飯舘電力株式会社取締役。「横河ヒューレットパッカード」に入社以降、33年間医用電子部門に従事。2011年福島市内で被災後、福島市土湯温泉町の再エネ発電事業会社「元気アップつちゆ」で復興支援事業に従事。2014年、福島県飯舘村の有志と「飯舘電力」を立上げ 現在に至る。共著に「自然エネルギーのソーシャルデザイン スマートコミュニティの水系モデル」(鹿島出版会、2018年)。

飯舘村に産業をつくる

飯舘電力の設立は2014年9月。太陽光発電事業を通じて、飯舘村の「産業の創造」「村民の自立と再生」「自信と尊厳を取り戻すこと」を目的に立ち上げた小さな電力会社です。村民による民主的な運営も方針とされました。

設立の中心になったのは、福島県会津地方にある喜多方市の酒造会社を営む、大和川酒造の9代目佐藤彌右衛門さん。

佐藤さんは2013年に地元の喜多方市で、再生可能エネルギーによる発電事業を通じて「地域内で資金を循環させ、地域の自立を実現すること」を掲げ、素人ながら会津電力を立ち上げました。

当時、福島県は復興の基本理念を「原子力に依存しない、安全・安心で持続的に発展可能な社会づくり」と定め、エネルギーの自立を目指すことに決めました。

その方針に沿う形で、現在県内には再生可能エネルギーを扱う発電業者が多数参入しています。太陽光や風力、地熱など発電源の種類も違えば、その事業規模もさまざまです。メガソーラーなどがつくられる一方で、会津電力のような小規模な発電業者も生まれてきました。

会津電力を軌道に乗せた佐藤さんは、震災前まで「飯舘」という名の地酒を経営する酒造でつくっていたことから、縁ある飯舘村でも再生可能エネルギーによる発電事業を行おうと検討を始めます。

ちょうどその頃、地熱発電所の立ち上げ経験を持つ千葉さんとの出会いがあり、一緒に飯館電力を興すことになりました。地元の人の手でエネルギーの自立が実現できるようにと、ふたりは村民が出資して経営に参加できる会社をつくると決め、大和川酒造に酒米を卸していた地元農家の小林稔さんを社長に迎えました。

飯舘電力では、耕作放棄地となっていた広大な農地にソーラーパネルを立てて発電し、その売電収入を復興の資金にしようと考えます。

畑があっても、耕す人がいなくて放っておけば農地は荒れてしまいます。だけど僕らがそれを借りて発電をすれば地代も払えるし、農地を管理することもできると考えたんです。

ところが、避難して散り散りになってしまった村民たちに出資や土地提供を個別にお願いすることは難しく、計画は難航しました。そこで、まずは村長に協力を要請して設置が容易な場所に第1号基をつくり、その事実を報道で知ってもらうことから始める方針へ切り替えることに。

こうした中、2015年1月、第1号基の「飯舘村伊丹沢太陽光発電所」が、特別養護老人ホーム「いいたてホーム」内の村の土地に建設されることが決まりました。起工式には報道機関13社が取材に訪れ、ニュースは全国に配信されました。

第1号基の発電所

それ以降、飯舘村の各地に出力50kW未満の低圧太陽光発電所が建設されていき、現在までに、43基(出力総計約2MW)が建設されています。発電した電気は、固定価格買取制度を使って東北電力及び複数の新電力会社に売電し収益を得ています。

飯舘電力の取組みを知った村民からの出資や土地提供も増えました。今では50人以上が出資してくれて、それとは別に65人以上の地権者や5名の役員が経営参画してくれています。人口が6000人の村でそれだけの人が参加してくれているのです。

飯舘電力はこうして飯舘村に産業を生み出しました。

農業を復活させるには?

太陽光発電を開始した飯舘電力が次に目指したのは農業の復活でした。

震災前の飯館村でつくられていた主要生産物は、お米や野菜、穀物などの農作物や、ブランド肉である飯舘牛、そして観賞用に栽培するトルコキキョウなどの花卉(かき)でした。

僕らがやろうとしたのはただ電気をつくって売って、復興のためにお金を寄付することではありませんでした。農業が生業の飯舘村ですから、農業の復活に直接貢献できるようなことがしたかったんです。

村のところどころにソーラーパネルを目にする。

2017年の避難指示の解除まで村の全域が避難していた飯舘村。現在はすでに、米やいちご、豆、花卉、繁殖和牛の営農が再開されています。その他の農作物についても試験栽培を経て放射性物質の測定検査に通ったものについては流通している状況です。

例えば米は、2018年産の玄米すべてが測定下限値の25ベクレル/kg以下でした。(福島県内の米の検査結果についてはこちら)。また、2018年から、政府による飯舘村産の米の出荷制限指示は解除されています。

また、毎月発表される食品などの放射性物質の測定結果を見ると、山菜などを除いてはほとんどが不検出で、検出されたものでも基準値以下を示しています。

このように放射能への不安を払拭するために、きっちりと検査を行いパスしたものを市場に出してはいるのですが、現時点ではほとんど村内の流通に限られているそうです。道の駅では地元産のお米が販売されていました。

そんな状況のなか飯舘電力は、震災前に主要産業のひとつであった飯舘牛の復活に向けて進み始めています。2019年現在、牛舎では14頭の牛が飼われており、そのすぐ隣にあるソーラーシェアリング型の発電所では、ソーラーパネルの下で牧草を育てています。

ソーラーシェアリングと言っても、実は太陽光発電の収入だけで事業は成り立ちます。農地で牧草をつくるのはおまけのようなもの。なので、育てた牧草を畜産家に寄付すればコストが下がり、農業の復活に近づくと考えました。

飯館電力の初代社長である小林さんは、もともとは農家として飯舘村で米づくりとともに、畜産業も営んでいました。震災前には酒米を大和川酒造に卸したり、飯館牛を育ててきました。

被災直後には飼っていた34頭の牛をすぐに宮城へ避難させ、仙台牛として食肉コンテストでグランプリを獲るくらい質のいい牛に育てあげました。そんな小林さんを含め地元の畜産家には、飯舘牛を復活させたいとの強い思いがあったので、僕らはそれをサポートするために牧草をつくることにしたのです。

小林さん宅のソーラーシェアリング発電所。奥に見えるのが牛舎。

今飼育されている14頭の飯舘牛のうち、4頭は飯舘電力の収益を使って購入した子牛です。

復活のためには牛を育てて、安全が保証された食牛を出荷して風評を払拭するしかありません。もう意地みたいなものですね。

風評被害については他の農作物の先行例もあって、飯舘牛の復活の難しさを千葉さんも十分認識していました。消費者の立場からすると、いくら数値を出して安全だと言われても、すぐに安心を感じられるわけではないのが正直なところなのではないでしょうか。

いったん不安を覚えた人の心を安心にを取り戻すには長い時間がかかります。だからこそ、意地を張ってでもやるべきことを着実にやり続けなければいけない、千葉さんの言葉からは、そんな決意が感じられました。

自然エネルギーで土湯温泉を復興

実は千葉さん自身は、飯舘村の出身ではないそうです。ふるさとではないにも関わらず、これほどまでに飯舘村の復興に打ち込むのはなぜなのでしょうか。飯舘電力に関わったきっかけを伺ってみました。

千葉さんは、東日本大震災が発生した3月11日がご自身の誕生日です。お孫さんとケーキを買いに行こうと立ち上がった瞬間に揺れがきました。千葉さんは当時、福島に家族を残し東京で単身赴任をしており、家族と過ごすために前日から福島市内のご自宅に帰っていたのだそう。

45年前に、福島出身の奥さんと付き合い始めた縁から関わりを持った福島が、震災に巻き込まれるのを目の当たりにした千葉さんは、福島の復興に関わりたいと考えるようになります。そのため会社に辞表を出し、そして日本三大こけしのひとつ、土湯こけしの発祥の地である、土湯温泉の復興に関わるようになるのです。

土湯温泉は福島市の南西部にある温泉地で、昔からよく行っていました。その温泉地の旅館の約半分が地震による建物などの被害と、原発事故による「風評被害」で廃業や休業してしまったんです。それで2012年に土湯温泉の復興の世界に飛び込みました。

土湯温泉は原発事故後、第2次避難所として被災者を受け入れていました。しかし、仮設住宅の建設が進んだ8月末に受け入れは終了します。その頃、福島県全域で放射能汚染の恐れから観光客の足が遠のいていました。土湯温泉も空間線量が高くなかったにもかかわらず、観光客はなかなか戻ってこなかったのです。

そんな土湯温泉の復興に向けて、まちの人たちが資金を得るため地熱発電の会社をつくろうとしていました。その趣旨に賛同した千葉さんは、元市議会議員の加藤勝一さんと2人で「元気アップつちゆ」を立ち上げることに。

「元気アップつちゆ」では、温泉熱を利用することによって低コストでの発電が可能な「バイナリー発電」に注目し、2年間に渡り発電所設立に向けて奔走します。

「まちづくりの主役は地元の人であるべき」という理念を持っていたため、地域の人たちだけでやっていける道筋をつけたら、自分は身を引くとはじめから決めていた千葉さん。そこで2014年の発電所の着工を機に土湯温泉での仕事を卒業します。

「元気アップつちゆ」を町の人たちに任せ、自分は別のやることを探そうと考えました。2019年現在、土湯温泉の地熱発電は順調に機能し、売電収入は土湯の復興に役立てられているほか、発電後の熱水を利用したエビの養殖などもはじまっています。

「元気アップつちゆ」を卒業したタイミングで、千葉さんは佐藤彌右衛門さんと出会いました。

彼は僕が土湯でやっていた活動をエネルギー学者の飯田哲也さんから聞いて知って、一緒に出資して飯舘村の人たちの手による電力会社をつくらないかと声をかけてくれたんです。僕も次はもっと被害が大きかった地域の復興に携わりたいと思っていたので、ぜひにとOKしました。

土湯温泉での仕事を2年で卒業した千葉さんですが、飯舘村の復興とまちづくりについては、まだまだこれからが正念場。飯舘電力では、飯舘村の未来をどう描いているのでしょうか。

村の人たちと飯舘村の未来をつくりたい

飯館電力は、昨年10月ようやく黒字に転換し、いよいよこれからがセカンドステージです。 いよいよ会社設立理念である「社会的企業」に踏み出せます。

最終的な目標は都市公社をつくること。これはドイツを中心に発展しているもので、村人が抱えている地域の問題を、行政と民間でつくる公社で解決するアイデアです。

僕が見に行ったフライブルグでは市長が都市公社の社長を務めて、運営する発電所の売電収入で市内の路面電車の赤字を補填していました。そのまちは観光がメインなので、路面電車を維持することで観光客を呼び、地域の経済が回るようにしていました。

飯舘村でも、村の発電所から得た利益で村が抱える課題を解決していきたいんですよ。必要なサポートを村の外に求めることがあっても、コミュニティが最低限生きていくのに必要なものは自分たちの手でつくる仕組みをつくっていきたいと思っています。

都市公社は日本でも福岡県みやま市や宮城県東松島市ですでに導入されていて、これからの地域を考える上で重要なアイデアになっています。千葉さんは都市公社の仕組みに、地域の人々のニーズを地域で解決する独立したありようを見出しているようです。

小規模な自然エネルギーの導入も地域の独立に必要な要素のひとつだと考えると、飯館電力は飯舘村が独立したコミュニティとして自立していく中心になろうとしているのかもしれません。

飯館村への帰村が始まってから約2年が経ちました。飯館村は帰還者たちの暮らしを支えるため、新たに小中学校や、復興住宅、道の駅、公民館などを建設しました。

それでもなかなか帰還は進まず、なかでも子どもたちはほとんど帰ってきていません。復興庁、福島県、飯舘村による聞き取り調査では、18歳未満がいる世帯では約半数(50.6%)が「戻らないと決めている」と答えていて、急速に帰還が進むことは考えにくい状況です。

飯館電力は、飯舘村の「産業の創造」「村民の自立と再生」「自信と尊厳を取り戻すこと」を掲げていますが、この状況を千葉さんはどう見ているのでしょう?

このままでは小さい子どもを持つ家族が帰ってくるとは思えません。実際、2018年3月のデータでは村にいる20歳未満は3人。新たに建てた小中一貫校には61人の生徒がいますが、その多くが村外から毎日バスで通っているようです。このままでは現役世代はほとんど帰ってこないのではないでしょうか。

山に囲まれた美しい村でしたが、今も除染土が一時保管されている場所も。

2019年4月1日現在で飯舘村の避難者は4358人。村内居住者は1258人(内、帰還者は1118人)、帰還者は村の人口の20%ほどにとどまっています。戻らない理由については、避難から7年以上が経ち、生活基盤が他でできてしまっていることも大きいかと私は思います。

ただ、村外から通ってくる子どもがいると千葉さんから聞いて、飯舘村を故郷だと思っている子どもたちや親たちは少なくないのだと知りました。

2004年の中越地震で同じように全村避難が行われた山古志村も、避難が長引いたことで現役世代は周辺の土地で生活基盤を築いてしまったため、ほとんど帰ってきていません。

一方、お年寄りは帰ってきていて、金魚を育てたりお米を育てたりしながら、祭りやイベントをやって、そこに子どもや孫たちが遊びに来るというスタイルになっているそうです。飯舘村もこれからそうなっていくのではないでしょうか。

千葉さんは「帰村はまだ始まったばかりなので、若い人たちや子どもたちが帰ってきたくなる方法がこれから見つかる可能性もある」とも言っていました。飯舘村の未来のためには、子どもや若い世代が村との結びつきを持ち続けるための方法を探ることがもっと必要になってくるのでしょう。

それにしても、福島に縁があるとはいえ復興にここまで力を注ぐのか。その疑問に答えるかのように、千葉さんは最後に印象的なことを言っていました。

事故が起きるまで僕は原発を安全だと信じていました。僕らの世代の多くがそう思っていて、政治にも無関心で、それでこの変な社会をつくってきてしまったのです。だから僕らがコツコツ変えていって、若者たちが暮らしやすい社会をつくっていくしかないと思っています。

東日本大震災で起きた福島第一原発事故を機に、価値観の大きな変化を経験した人も多いと思います。あの日を出発点に、社会に対して何ができるのかを真剣に考えた結果、千葉さんは福島の復興に力を注ぐことを決意したのかもしれません。

取材の中で千葉さんが言っていた通り、まちづくりは地元の人たちがやるべきものだと私も思います。でも同時に、千葉さんや佐藤さんのような外部の人たちの力を借りないと、復興という難しいまちづくりは実現できないとも思うのです。

これから、飯舘村をはじめ、福島はそのような想いを持った人たちによって、着実に復興していく。そこには希望が持てるような気がしました。

(撮影: 久光真佑美)