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地域に積み重なる時間をアーカイブする。「石見銀山資料館」館長・仲野義文さんに聞く、町の資料館が果たす役割

2007年に世界遺産に登録された石見銀山。大正時代に閉山して銀山としての役目は終えましたが、かつて世界の銀の3分の1を日本銀が占めていた時代には、その大部分を担うほどでした。その石見銀山を統括していた代官所の跡地にあるのが、1976年に開館した石見銀山資料館です。

開設に向けて動いたのは、地元の有志によって設立された大森観光開発協会でした。解体される予定だった大森幼稚園の建物を大田市から譲り受け、補修改造工事をして、資料館としてオープンさせたのです。建物は、邇摩(にま)郡役所として、1902(明治35)年につくられたもので、今も明治時代の雰囲気を色濃く残しています。

石見銀山地区で初めてつくられた博物館だったため、開館すると資料の寄贈や調査の依頼が相次ぎ、地元の貴重な文物が散逸するのを防ぐ役割を果たしました。2018年8月からはNPO法人石見銀山資料館によって運営されています。

この石見銀山資料館が果たしている役割とはどのようなものなのでしょう。そして、未来に向けて担っていく役割とは。館長の仲野義文さんにお話をうかがいました。

仲野義文(なかの・よしふみ)
1965年、広島県生まれ。別府大学文学部史学科卒業。中学校・高等学校の教員を経て、石見銀山資料館館長に就任。日本近世史について研究し、主として石見銀山の支配や経営に関する研究を専門としている。

「銀山の暮らしがわからなかった」という一本の電話

石見銀山が世界遺産に登録されて間もない2007年の夏、仲野さんのもとに、一本の電話がありました。

今でもよく覚えているのですが、鎌倉在住の方からの電話でした。「石見銀山に観光に行ったけれど、人の姿が見えなかった」というのです。当時の人々がそこでどんなふうに暮らし、坑道でどのように働いていたか、まったく見えなかったという内容でした。

石見銀山は鉱山の遺構が残る「銀山地区」と、代官所を中心として栄えた陣屋町である「大森地区」に分かれます。

銀山地区の坑道跡である龍源寺間歩

大森地区の町並み

石見銀山が世界遺産に登録された当時、たくさんの観光客が石見銀山に押し寄せました。登録前年には40万人だった観光客数が、登録された2007年には70万人に。さらに翌年には80万人に急増したのです。

観光客の多くは大型の観光バスで世界遺産センターの駐車場まで来て、そこから路線バスに乗り換えて、銀山地区にある龍源寺間歩へ向かいます。坑道を歩き、「涼しかったね」などという感想を抱きつつ、もう歩き疲れたからと、大森地区を散策することなく石見銀山をあとにする。そんなコースで観光をする人が多かったそうです。

銀山地区にある遺跡に行くことで、ここは坑道だとか、製錬所の跡だとか知ることはできたかもしれません。しかし、そこでどういう人たちが働いていて、どれくらいの給料をもらって、どんな暮らしをしていたのか、家族をどう養っていたのかということを思い描くことはできなかったということでした。

この電話をきっかけに、仲野さんは気づかされたといいます。

歴史を面白いと感じるのは、当時の人々を身近に感じ、共感できたときです。石見銀山を訪れた人が、往時の人々の暮らしを思い描き、共感できることが大切なんです。

史料と現地が一体となっている町

実は、大森地区を散策したあとに、銀山地区へ向かうというルートで観光すれば、江戸時代の人々の暮らしがイメージしやすくなります。

飛行機で出雲空港に降り立ち、そこから電車やバスに揺られて1時間半。大森町に入った途端、月並みな表現であるのを承知で言うなら、タイムスリップしたような気分になります。

仲野さんは大森地区のことを「史料と現地が一体になっている町だ」と言います。

江戸時代に描かれた代官所の絵図と照らし合わせてみると、門はそのまま残っていますし、役人の官舎である「中間長屋」も残っています。絵図にあるものがそのまま実在しているんです。

橋の向こう側に見えるのが中間長屋

この大森地区の町並みを散策したり、「石見銀山資料館」となっている代官所跡を訪れたりすれば、江戸時代の人々の暮らしのイメージが頭の中にできていきます。そのあとに銀山地区の遺跡へ行けば、往時の人々がどのように働いていたのか、思いを馳せることもできるはずです。

石見銀山資料館は、江戸時代の人々の暮らしや銀山での働き方へつながる入り口の役割を果たしているとも言えるかもしれません。

石見銀山に観光にきた人には「歴史の知識を詰め込むのではなく、自分の感性で自由に魅力を感じてほしい」というのが仲野さんのスタンスです。

石見銀山のガイドさんたちには、石見銀山の”価値”を伝えようとするのではなく、”魅力”を感じる手助けをしてほしいということをお話しします。

その一方で、観光に携わり、石見銀山のことを発信する立場にある人たちに対して、警鐘を鳴らします。

幾層にも積み重なった歴史の一部分だけを切り出すような伝え方は危険です。

仲野さんが危惧しているのは、一体どういうことなのでしょうか。

変遷も含めて”魅力”を伝える

石見銀山の町並みを歩いているとき、私たちの多くがイメージするのは”江戸時代の”人々の暮らしです。

博物館などの展示を観るのであれば、それでよいかもしれません。しかし、石見銀山の町には、現在に至るまでに積み重ねられてきた、時間の蓄積があります。

特定の時代だけに目を向けて、「この建物は武家屋敷である」と解説するのは、観光という面では説明がしやすいし、やりがちなことです。しかし、それでは本質的ではないというのです。

たとえば、大森地区には「渡辺家住宅」という武家屋敷があります。この家は、確かに江戸時代には武家屋敷でした。でも、明治時代以降はいろんな人が住んできました。特定の時代だけで、その家の性格づけをするのは危険です。町の成り立ちや変遷が理解できなくなってしまうからです。

渡辺家住宅

また、同じように武家屋敷と言っても、現在の姿が必ずしも江戸時代の姿であるとは限りません。一口に「武家屋敷」といっても、塀があって、庭があって、母屋があるという、江戸時代の武家屋敷の体裁をそのまま残している家がある一方で、明治時代になって利便性を重視して母屋を道路に面した位置に移動させた家もあります。

江戸時代の武士のやり方を守っている家と、時代に対応しながら形を変えて受け継いでいる家。どちらがよくてどちらが悪いというわけでもなく、時代による変遷も含めて、魅力を感じてもらいたいですね。

江戸時代の日記から明らかになる人々の暮らし

大森地区の町並みは、その存在自体が訪れた人にインスピレーションを与えてくれますが、最近では地元に残されている日記の研究が進み、当時の人々のありふれた毎日の暮らしが次々と明らかになってきています。

山師(*)の日記を読んでいたら、戌の日に湖陵町の安子神社へ安産祈願に行ったという記述がありました。うちも実際に戌の日にその神社へ安産祈願に行ったんです。「うちと同じだ!」 と思いました。できごとがシンクロすると、時間を超えて共感できるようになります。
(*)山を歩き回り鉱脈を見つけたり、立木の売買をしたりすることを生業にしている人のこと

確かに、史料の中のできごとが自分の経験と重なると、江戸時代の人々の存在が一気に身近なものになります。また、町の実態も明らかになってきました。

石見銀山の最盛期は江戸時代の初期で、後期になると、もうほとんど銀は産出されていません。それにもかかわらず、江戸時代後期に書かれた日記には「狩野探幽の絵画を買った」とか「朝鮮の斗々屋茶碗を買った」とか「茶会を開いた」とかいった記述が出てきます。

ここは鉱山町ですが、当時の日記を読んでいると、銀が出なくなったからといって、ゴーストタウン化したわけではなかったことがわかります。ちゃんと経済が回っていて、人々の暮らしがあったということです。数字だけでは、まちを評価することはできないんです。


第35回天領さん大盛行列の様子。代官・役人・山師の扮装をした人たちが町を練り歩く。瓦版売りも登場し、歴史がわかる号外を配った

銀山の”今”を未来に伝えるための「コミュニティ・アーカイブ」

仲野さんは、江戸時代の日記の研究によって人々の暮らしをよみがえらせるのと同時に、「コミュニティ・アーカイブ」にも力を入れていこうとしています。仲野さんのいう「コミュニティ・アーカイブ」とは、地域の記録をもれなく保存し、だれでもアクセスできるように整える取り組みです。

石見銀山では「パーク・アンド・ライド」を実施しています。自家用車で石見銀山に来た人は、世界遺産センターの駐車場に車を停め、路線バスに乗り換え、銀山地区の遺跡へ向かいます。

パーク・アンド・ライドは、世界遺産に登録されることで大勢の観光客が車でやって来て渋滞が起き、地元の人の暮らしが脅かされることのないようにと、町の人たちが集まって決めたことです。

ただ、あと50年も経てば、システムだけが維持されて、どのような経緯で決められたことなのかを誰も知らないということが起こりうる。そうならないために、ここでどんな議論があって、その結果どんな取り組みをしたのかがわかるよう、町民集会の議事録や配付物、帳簿などを集めて残しておき、誰でもアクセスできるようにしておきたいんです。

記録といっても、調査の報告書などのように誰かの主観が入る余地のあるものではなく、その場であったことをそのまま記録した一次資料であることが大切だと仲野さんはいいます。

古文書の調査でも、ちぎれた紙に書かれたようなものまで、すべて保存します。それと同じように、町民集会の議事録や配付物、帳簿などを、ふるいにかけることなく、できるかぎり収集したいと思っています。

石見銀山から何を発信していくか

大森町の人々の手でつくられ、過去と現在、そして未来をつなぐ資料館。ここで館長を務める仲野さんは、広島市出身です。広島には、石見銀山と同じく世界遺産に登録されている原爆ドームがあります。

子どもの頃は8月6日になると学校で原爆のビデオを観るのが恒例でしたし、大人から原爆の話を聞くこともありました。広島を離れた今でも、毎年8月6日の8時15分には黙祷をします。原爆ドームは、核兵器の恐ろしさと平和の大切さを考える場所になっています。

同じように、世界遺産である石見銀山から、私たちは何を発信していくのか、考えなければいけないと思います。

かつて、世界中に銀を輸出し、石見銀が世界を駆けめぐった時代がありました。その頃に構築された銀のネットワークは世界各地をつなぎ、その後の日本史や世界史に影響を与えました。

今、世界には自国のことを一番に考えて利益を守ろうとする「反グローバル化」の流れもあります。そんな時代だからこそ、石見銀山が「真のグローバル化とは何か」を考える場であってもいいと思うんです。

“かつて銀山とともに栄えた山間の鉱山町”というイメージで石見銀山を訪れると、いい意味でその先入観は覆されます。

確かに、かつて鉱山町ではあったけれど、ここにはさまざまな生業も持つ人がいて、経済が回っていました。

そして、今、この町には、日本全国に石見銀山のスタイルを発信している群言堂のような会社があり、義肢装具を世界中へ送り出している中村ブレイスのような会社があり、全国のパン好きを唸らせるパン職人がいます。

地域に根づいた資料館として、町の”今”を未来につなぎつつ、世界遺産の町としてどんなことを発信していくのか。その答えは、すでに出ているのかもしれません。