みなさんは、自分の年収を他人と比べたことはありますか? 恐らく多くの働く人は「ある」と答えるのではないでしょうか。そして比べれば比べるほど、上にはキリがなく、どんどん自分がやせ細っていく…そんな気持ちになったことがある方もいらっしゃるかもしれません。
物質的にはこれ以上ないというぐらい豊かになった日本で、「本当の豊かさって何?」と自問する若者は少なくないはずです。
今日ご紹介する苅部美乃里さんは、6年間勤めた大手広告代理店をすっぱりと辞め、紀伊半島のほぼ南端にある和歌山県古座川町に移住しました。そこは東京から約7時間もかかる陸の孤島。コンビニもなければ、大きな総合病院もありません。しかし苅部さんは言います。「それまでは、社会的なステータスはあったのに、心のどこかでいつも何か満たされなかった。ここに来て、はじめて “心が豊かな状態”になれたんです」。
苅部さんの心を豊かにしたものは、一体何だったのでしょう。そしていま新たに挑戦する新しい仕事と見据えている未来について聞きました。
川も海も、星も。タダなのに自然はこんなに美しい
苅部さんが暮らす和歌山県古座川町は、本州のほぼ最南端に位置します。町面積の9割を森林が占めているため、一次産業といえば稲作よりも備長炭の生産やゆずの栽培など、森林資源を活用した産業が優勢といったところ。山深いところではありますが、1年中を通して温暖で河も透明。数キロ下れば太平洋に出会うという美しい自然に包まれた場所です。
苅部さんは友人に連れられて訪れたこの小さな町に、まるで一目惚れをしたかのように吸い寄せられました。
大阪に勤務していた頃、友人に「おもしろい場所があるから」と連れて来てもらったんです。でも当時は「なんで和歌山なの?」というぐらいピンときてなかった(笑) それなのに帰りの車の中で「私、いつかここに移住する」と宣言していたんですよね。
苅部さんの心をとらえたのは、他でもない自然でした。命うごめく濃密な森や透明な河、天を満たす星がさざめく空。
さっきの宣言から3年たった今、“豊か”という言葉では描ききれない、自然溢れるこの地で苅部さんが取り組もうとしているのは、地球にも人間にも持続可能な農業や生き方の実現。
苅部さんは、まずは農業をベースに持続可能な生き方をつくっていこうとしています。その農業とは耕作放棄地を再び耕し、農薬や化学肥料を一切使わず、一般的スーパーなどで売られている野菜とは違って自家採種ができる固定種の野菜を育てるというもの。目指すのは、自然と人、人と人が持続的につながっていくことだそう。
就農にはいくつかの方法がありますが、苅部さんは古座川町にある株式会社「あがらと」の農場「Agarato Farm」(以下、Agarato)で農業を始めることにしました。「Agarato」にはすでに同じような志を持つ若者2人が農業に従事しています。苅部さんはこの4月から彼らとジョインして、農業をはじめました。
株式会社「あがらと」は大阪にある「ときまたぎグループ」に参画しています。株式会社というと、一般的には利益追求の拡張経済路線を走る企業のイメージがあります。もし農業で利益を追求すると化学肥料や農薬を使って効率的な生産を目指すことになるのでは? 苅部さんたちが思い描く株式会社「あがらと」のあり方は、こうしたイメージとは少し違います。
会社の形態が株式会社なのは、ビジネスとして持続できる形態を目指すものです。人間にも自然にも負荷をかけない農業の“想い”の部分は達成されたとしても、価値や利益を生んでいない状態にするつもりはなんです。でも株式会社だからといってすごく大きな利益を生む必要はなくて、持続していくに足るお金の流れがでていれば十分です。
株式会社「あがらと」は「ときまたぎグループ」の一員で、「あがらと」以外にもいくつかの株式会社が傘下に入っています。その場合、1社が何かの余波を受けても他の会社で補填ができて、全体としては持続できる、という土井新悟会長の考えによるものです。
農業が持続可能であるための作戦
志がなければ、持続可能な農業は目指さないものです。けれど、志だけで続けることもできないのが農業。「Agarato」の畑の面積は、20年間耕作が放棄されていた畑3.5反(0.35ha)。4月からお米も栽培するので、面積は増えて合計で5.5反(0.55ha)。しかし農家一戸あたりの耕地面積の全国平均が2.32haですから、作付け面積は決して広い方ではありません。
加えて化学肥料を与えず、植物性由来の自家製有機肥料で作物を育てるとなると、作物の成長のスピードはゆっくり。そこから会社が持続する利益を出していくためには販売する作物に付加価値をつけて販売単価を上げねばなりません。
そこで苅部さんたちが目をつけたのが、関西ではまだまだ流通が少ない珍しい西洋野菜を栽培すること。
私たちは専業農家ほどの敷地があるわけではない。さらに無農薬で化学肥料も使わないので自ずと野菜の単価は高くなってしまいます。同じ手間ひまをかけるなら付加価値がある野菜を育てようとなりました。特に西洋野菜は関西ではまだ市場がちゃんとできてなかったので、コールラビやビーツなど、ちょっと珍しい野菜たちも育てています。
「Agarato」の野菜は個人宅配やマルシェの出店、地元の宿泊施設での販売、カフェやレストランへの卸しなど、少しずつ販路を広げている途中です。
その一方で頭を悩ませているのが、シカやサル、イノシシなどの獣害。和歌山県全体では28年度で約54,000頭いるとされ、中でも県の中部から南部にかけてはこうした獣害が多い地域とされています。古座川は山と河との間の平地が少なく、山を降りてきた動物たちが畑を荒らすことはしばしば。こうした環境で露地栽培は難しいもの。そこで「Agarato」は、野菜やバラをハウス栽培で育てています。
ハウス栽培といっても、ビニールハウスとは違います。苅部さんらがつくっているのは、竹を骨組みとした竹ハウス。覆っているのは、ビニールではなくメッシュシートと呼ばれる白い細かい網目のシート。現在すでに敷地内に竹ハウスは6棟が建っており、いずれも自分たちで設計したもの。中には大雨で倒壊したものもあるそう。
竹を使う理由は、その生育が非常に早いこと。あっと言う間に他の植生を凌駕し、生育面積を増やしていきます。しかし広葉樹などにくらべると根っこが浅く、放置すると地滑りの一因にもなりかねません。山の持ち主が高齢化したことで、うまく活用されていないのが現状です。
活用するほどに良い循環を成す、この竹ハウス。苅部さんらは今年の夏に着手する8棟目の竹ハウス製作に必要な資金を得るために、クラウドファンディングを立ち上げました。
使用する竹は、台風にも飛ばされないように実験を重ねた結果、直径15cmほどのまっすぐな竹。それが400本必要です。現在は竹を1本2000円で近隣の県から購入していて、製作には100万円を見込んでいます。
100万と聞いて高いと思われるかもしれませんが、ビニールハウスの新設と比べると。実は費用は約1/10に抑えられているのだとか!
苅部さんたちがクラウドファンディングを立ち上げたのは、費用面のサポートを得るためだけではなく、こんな思いがありました。
実は竹ハウスを建てることだけがメインではなく、自然や人が持続的につながっていったらいいなと思っているけど、広い意味での仲間として一緒に思いをひとつにして動きたいと思う人がどれくらいいるのだろうと問うてみたかったんです。クラウドファンディングをやれば、共感した人とつながりができて、そこで新しい関係性がうまれて、この活動が広がることの出発点になるのでは?とも思ったんです。
その心は、社名の「あがらと」にも表れています。「あがら」は、和歌山の方言で「私たち」という意味。そこには「私たちと一緒に、広い意味でコミュニティとして未来をつくっていこうよ」という意味が込められているのです。
苅部さんたちは、持続可能な農業の他にも古民家をリノベーションした宿泊体験、そして水車を活用し、畑が所在する古座川町三尾川エリアの電力をまかなうエネルギー事業の立ち上げも計画しています。
「あがらと」は、農業だけではなく、食べ物もエネルギーといった暮らしにまつわるあらゆることを持続可能にしていくことにチャレンジしているのです。
農業や第一次産業は、人間が自然に手を加えることでその恵みをいただく行為ですし、現代社会で人が自然と触れられる一番身近な生業のひとつです。でも近年は野菜やお肉も工場生産されているものもあって、こうした効率を重視したやりで方は、かたちが均一で流通の面ではいいかもしれないけど、均質的なものだけでは、やがて歪みがでてくるだろうし、自然とのつながりがなくなって、果たして人間は幸せに生きられるのだろうか、と危機感を持っているんです。
インタビューのあいだ、口から何度も出てくる“自然とのつながり”。都会にしか住んだことがなかった苅部さんが、もっと多くの人とシェアしたいと思っている不思議な感覚について聞きました。
これまでの私はすごく理性的に生きていたんです。大学院ではバイオの研究をしていたのもあってか、科学的に証明されていることがすべてだったし、効率がすべてだった。年収も気にしていて、世間一般では物理的にも金銭的にも豊かと言われるものを築けたのに、その中にいて私は苦しかったんです。
古座川にはじめて遊びに来た時、カヌーのインストラクターの方から「都会にあるおいしいものなんて、みんな流通費をはらっているようなもので、鮮度が落ちていて、それより現場でとれたてのものをやすくたべたら十分幸せだ」といわれたのが衝撃的だったんです。
それまでは流通にお金を払っていると思ったこともなかったけど、そう言われたら、その通りなんだと。都会に住むことにステータスを感じていたけど、そのために犠牲にしているものがあるとか、払っているお金がどれくらいあるだろうとか、そこにはじめて気がついたんです。そして、それじゃない自分がいいって思ったんですよね。
世間の価値基準上での豊かさは担保していたのに、「何か違う、何か足りない」と、その正体がわからずもがいていた苅部さん。その話を伺って私は“幸せ”の漢字を思い出していました。
あたまに土があって、“幸せ”。それがなければ“辛い”という文字になってしまいます。農耕の起源には諸説あるものの、1万年前には中国では稲作が行われたとされています。つまり、人間にとって農はなくてはならない営み。土と離れてしまったら、私たちの暮らしはたとえ物にあふれていたとしても、心もとない思いをするのでしょう。
「自然との距離を短くしたかった」と苅部さんは言いました。あなたと私の暮らしと自然はどれだけ距離が離れていますか? 都会に住んでいるから土がないわけではありません。苅部さんが所属する「あがらと」は、現在竹ハウスのクラウドファンディングを実施中です。ファンディングを応援することで、あなたと自然がゆるやかに結びついていく。それはもしかすると土とつながりをつくる21世紀的な約束の方法なのかもしれません。
– INFORMATION –
https://readyfor.jp/projects/agarato-takehouse